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「息子が突然正座になって泣きながら…」夏休みに露呈した「体験格差」の厳しい実態

現代ビジネス 8/19(月) 6:19 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/813c6a47629006e27903c4fe3f9159e69ccf14c3

 

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「体験格差」が社会で問題になっている。

例えば、低所得家庭の子どもの約3人に1人が体験ゼロであり、水泳や音楽などでの格差が生じている。

日本社会では、子どもたちに体験機会を提供することが十分に考えられておらず、「必需品」とはどういうものかの考え方に格差がある。

親からのサポートを受けられない子どもたちは、より困難な状況に置かれている。

だが、社会全体が全ての子どもたちに体験を提供しようと取り組むことが重要である。

(要約)

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〔PHOTO〕iStock 

 

習い事や家族旅行は贅沢?子どもたちから何が奪われているのか? 

 

低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」、人気の水泳と音楽で生じる格差、近所のお祭りにすら格差がある……いまの日本社会にはどのような「体験格差」の現実があり、解消するために何ができるのか。 

 

【写真】子ども時代に「ディズニーランド」に行ったかどうか「意外すぎる格差」 

 

発売即5刷が決まった話題書『体験格差』では、日本初の全国調査からこの社会で連鎖する「もうひとつの貧困」の実態に迫る。 

 

*本記事は今井悠介『体験格差』から抜粋・再編集したものです。 

 

昨年の夏、あるシングルマザーの方から、こんなお話を聞いた。 

 

息子が突然正座になって、泣きながら「サッカーがしたいです」と言ったんです。 

 

それは、まだ小学生の一人息子が、幼いなりに自分の家庭の状況を理解し、ようやく口にできた願いだった。たった一人で悩んだ末、正座をして、涙を流しながら。私が本書で考えたい「体験格差」というテーマが、この場面に凝縮しているように思える。 

 

私たちが暮らす日本社会には、様々なスポーツや文化的な活動、休日の旅行や楽しいアクティビティなど、子どもの成長に大きな影響を与え得る多種多様な「体験」を、「したいと思えば自由にできる(させてもらえる)子どもたち」と、「したいと思ってもできない(させてもらえない)子どもたち」がいる。そこには明らかに大きな「格差」がある。 

 

その格差は、直接的には「生まれ」に、特に親の経済的な状況に関係している。年齢を重ねるにつれ、大人に近づくにつれ、低所得家庭の子どもたちは、してみたいと思ったこと、やってみたいと思ったことを、そのまままっすぐには言えなくなっていく。 

 

私たちは、数多くの子どもたちが直面してきたこうした「体験」の格差について、どれほど真剣に考えてきただろうか。「サッカーがしたいです」と声をしぼり出す子どもたちの姿を、どれくらい想像し、理解し、対策を考え、実行してきただろうか。 

 

 

〔PHOTO〕iStock 

 

社会政策学者の阿部彩氏は、2008年の著書『子どもの貧困』の中で、日本の一般市民においては、イギリスやオーストラリアといったほかの社会に比べて、「子どもが最低限にこれだけは享受するべきであるという生活の期待値が低い」と述べている。 

 

阿部氏が紹介するイギリスの調査では、「趣味やレジャー活動」(90%)、「水泳(1ヵ月に1回)」(78%)、「1週間以上の旅行(1年に1回)」(71%)など、子どもたちの様々な「体験」に関わる項目について、大多数の大人が、子どもたちにとって必要なものであると回答している。 

 

その一方、阿部氏自身が2015年に日本の大人を対象に行った調査では、「1年に1回の家族旅行(最低1泊)」(30.5%)や「スポーツ・チーム(野球、サッカー等)や音楽活動への参加」(22.0%)などの項目について、必要であり、すべての子どもが持つことができるべきであるとする回答が、相対的にかなり低い割合にとどまっていた。 

 

ここからわかるのは、子どもにとって何が「必需品」であるのか?という問い、つまり、「たまたま恵まれた家庭に生まれた一部の子ども」だけではなく、「その社会に生まれたすべての子ども」が享受できて然るべきものは何か?という問いに対する答えや考え方が、それぞれの社会によってかなり違うということだ。ある社会にとっての当たり前が、別の社会にとっても同じであるわけではない。 

 

私たち、日本社会で生きる大人たちの多くは、子どもたちにとっての「体験」の機会を、いまだ「必需品」だとは見なしていないのだろう。阿部氏の調査では、泊まりの旅行、スポーツ、音楽活動への参加などについて、「あったほうがよいが、持てなくても、いたしかたがない」、「必要ではない」という回答が大多数を占めている。 

 

もちろん日本でも、自分自身の子どもに対して様々な「体験」を与えたいと願い、実際にその機会を与える親は数多く存在する。だが、それがあくまで個々の家庭ごとの話にとどまっている限り、裕福な家庭に生まれた子どもたちはともかく、低所得家庭の子どもたち、あるいはその他のハンディキャップを抱えている家庭の子どもたちは、誰からのサポートも得られずに置き去りにされるだろう。そして、実際に置き去りにされてきたのだ。 

 

重要な分岐点は、この社会で生きる大人たちが、「私の子ども」だけではなく、「すべての子ども」に対して、「体験」の機会を届けようとするかどうかにある。「体験格差」をなくそうという意思を、社会全体として持つかどうかにある。 

 

そもそも、日本社会が「子どもの貧困」という課題に向き合い始めたこと自体、それほど昔の話ではない。「子どもの貧困対策法」が施行されたのは、ようやく2014年になってからのことだ。そこから今年でちょうど10年が経つが、社会の課題認識という意味でも、必要な対策が十分に立てられているかという意味でも、まだまだ道なかばだろう。 

 

その中でも、「体験格差」への関心や取り組みは、特に不十分だと言える。 

 

つづく「習い事や家族旅行は「贅沢品」ですか? 低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」の衝撃」では、「子どもの貧困」という問題の中でも「体験格差」が見過ごされてきた現実や十分な現状把握自体がまだなされていなかったことなどについて語る。 

 

本書の引用元『体験格差』では、「低所得家庭の子どもの約3人に1人が体験ゼロ」「人気の水泳と音楽で生じる格差」といったデータや10人の当事者インタビューなどから、体験格差の問題の構造を明かし、解消の打ち手を探る。 

 

今井 悠介(公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事) 

 

 

( 203241 )  2024/08/19 16:04:32  
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(まとめ) 

多くのコメントから、子どもの体験格差についてのさまざまな視点や考え方が見られました。

親の経済力や工夫、親の教育姿勢、地域の環境、自己肯定感や余裕、そして社会全体の問題など、様々な要素が子どもの体験に影響を与えていることが示唆されています。

また、過去と現在の時代背景や社会構造の変化も考慮しながら、持っているものや経験に感謝する姿勢や創造力、我慢や地道な努力の重要性も強調されていました。

身近な体験や家庭環境に焦点を当てることで、多様な形で子どもたちが成長し豊かな人生を築くことが大切であるとする声も多かったです。

核家族や情報社会の中で、親や社会が子どもたちに与える影響が、これからもさらに重要な課題であるとされています。

( 203243 )  2024/08/19 16:04:32  
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=+=+=+=+= 

そりゃ、多くの子どもにいろんな体験をしてもらいたいけど 

現実問題親の経済力に差はあるから・・ 

私も子供の頃、春休みと夏休みと冬休みの毎に海外旅行に行ってる同級生Aくんがいて、今年の夏はサイパンに行くんだとか、冬はカナダにスキーに行くんだとか無邪気に楽しく話してた 

自分の親も別に貧困ではなかったし親に感謝してるけど、子どもなりに「Aくんの親と自分の親は持ってるお金が桁違いに違うんだな」ということは悟った 

そんなもんだと思う 

 

=+=+=+=+= 

収入が低いから体験が少ないというのは確かにあるとは思いますが、子どもが満足できるかは親の工夫も必要になると思います。 

シングルマザーの話が出ていますが、父親からの養育費がきちんと支払わるよう制度も見直したほうがいいかもしれません。他界されている場合は国や自治体が支える…離婚していても一緒に住んで、手当をもらっているとこもあるので、このあたりは厳しくしてもらいたいですけどね。 

 

=+=+=+=+= 

昔から格差はあるけど、それは当たり前では? 

子どもに我慢させといて車頻繁に変えたり最新i-phone持ってる親もいる 

お金あっても付き添いが嫌で野球サッカーやらせない親もいる 

お金だけの問題ではないしそこは親の考えるところだと思う 

 

=+=+=+=+= 

昭和末期に採用された小学校教員です。 

「大型連休または夏休み=家族旅行」という図式は児童全員にあてはまりません。夏休みの思い出を始業式に学級の児童全員に発表させる担任が今でもいますが、どこにも行けなかった児童の気持ちを考えると酷な話です。 

駆け出しの頃に管理職や大先輩から 

「児童が自ら話すのは仕方ないが、各自に尋ねたり、発表させたりするのはしないように。」 

と指導・助言されました。 

かなり以前と違って、保護者の就労体系も様々です。子供が休みの時と保護者が休みの時が重ならない家庭も増えてきました。経済的に余裕のある家庭でも仕事の関係や介護などの家庭内の事情で子どもとお出かけできないこともあります。 

「体験格差」などという言葉を目にすると、「改善してやりたい」と思う教員は多いでしょうが、それは保護者や家庭のすべきこと。各家庭にはそれぞれの事情がありますから、深入りすべきことではないです。 

 

=+=+=+=+= 

市町主催の激安なコンサートや観劇など子供は特別価格のイベントのチラシをしょっちゅう貰って来るし、一般公開の文化祭とか大学での子供向け体験会とか、自治体一体となって頑張ってくれてると思うけどね。体験=旅行やディズニーの遊びを言うなら仕事頑張るしかないじゃん。皆無条件にお金が湧いて来てるわけじゃない、遊びにもお金を使いたいからワンオペだろうが仕事に食らいついて収入を得ている。 

 

=+=+=+=+= 

サッカーやりたいなら、ボールがあればいい等のコメントがたくさん見られるけれど。 

多分そういう事だけじゃないと思う。 

ボール、ユニフォーム、シューズなどの購入(大きくなれば買い直し)。 

それ以上に大変なのは、チームへの貢献だと思う。 

子供の送迎、それも土日には他の子含めた車出し。 

遠征費、ちょっとした差し入れ、役員仕事。 

うちは他のスポーツだったし、それほどお金がかからないように頑張った。 

でも、最低限のお金はかかった。 

その、お金と時間を割くことも大変なのじゃないかな。 

 

あと、本当はできるのにやらない事と、できないからやれないは大きく違う。 

例えば、ディズニーへ行けるのに行かないのと、行かれないから余計に行きたいし、行ってみたいとなるのが違うみたいな。 

 

お金がないって、思考の余裕もなくなるよね。もちろん、全ての夢を叶えられる人なんていない。何を取って、何を諦めるかを覚悟するのは大事。 

 

=+=+=+=+= 

経済力があっても子供の体験のために何にもしてあげない親もいるし、お金をかけなくても最大限に経験を増やしてあげようと努力してる親がいると思う。幼い頃に公園に連れて行くか行かないか、でもだいぶ違う。赤ちゃんの時のお散歩もとても大切。時間があっても子供のためにさかない親は意外と多い。 

 

=+=+=+=+= 

体験格差って言うけど、低所得の家庭でも親の工夫次第で楽しい体験をすることが出来ると思いますよ。 

旅行とか、ディズニーはアルバイト出来る年齢になってから行っても良いわけですし、そんなにお金掛けずに科学館とか行ったり、海が近ければ磯遊びしながら生き物観察しても楽しいですし。一緒に夏休みの宿題について深堀りしてみたりしても勉強になると思います。 

結局は親の工夫と、親が子供に時間を割いてあげるかですね。 

 

=+=+=+=+= 

昭和の頃は公園や校庭でサッカーボール1つあれば、勝手に遊んでいたと思う。 

南米の国がサッカーが強いのも、ボール1つあれば出来るからと聞いたことがある。 

日本は公園や広場が無くなり、周りの住民からうるさいとかクレームが入り、子ども達が迫害されていると感じる。 

変な大人も出没するし、アメリカみたいにフェンスがあるそこではボール遊びが出来る場所を作って、バスケットやサッカー等を自由に出来るように工夫して上げれば良いのでは? 職員のいる子供用施設もあるのだから、その一角に身体を思いっきり使える場所を確保してあげてと思う。 

 

=+=+=+=+= 

子供の体験格差って親の経済力だけで無く意識の問題も有ると思います。 

私の父親は芸術家で昭和30年代にはそこそこ売れていて家も裕福な部類でしたけど、子供の頃に親に何処かへ連れて行って貰ったのは後にも先にも祖母の納骨で茨城県へという辛気臭いイベントだけで、同級生が親と何処そこへ行ったというのを聞かされる度に羨ましくて仕方がなかったです。 

そして蓄財もせず散財して来た父親が昭和40年代初頭に逝った後は未成年の子供2人を抱え水商売までやって養ってくれている母親に何処かへ連れて行って欲しいとか何かしたい等とは子供心にも絶対に言えませんでしたね。 

まあ還暦を過ぎた今は自力で普通には暮らせているので良いのですが、お盆休みで旅行をする家族連れをニュースで見ると羨ましいと今でも思います。 

 

 

=+=+=+=+= 

うちの子供は、習い事は何もさせてないけど、海の近くに住んでるので、毎週末海の生きものを観察しに行ってはその絵を描いて、とても楽しんでいます。泳ぎもかなり上手い。 

私も山育ちだったから子供の頃は毎日山に入って生き物探しに没頭してた。 

お金をかけなくても贅沢な体験はできる。 

習い事や旅行にいくことだけが贅沢じゃないと思っています。 

本人が泣くほどやりたい習い事があるのなら、そこは惜しまずに出してあげたいとは思います。 

 

=+=+=+=+= 

私も周りに比べたら貧乏なほうだったかもしれません。今でも覚えているのは吹奏楽部にいた時です。 

公立中にも関わらず強豪校だったので、他の子は30万円の新品の推奨ブランドの楽器を買ってもらっている中、私だけ学校のプラスチック管の楽器を使っていたため、よくトイレで先輩から「全国を目指す気がないのか!」など詰められました。さすがに家で「買ってください…」と泣きました。 

でも当時祖父母から8万円の中古品を買ってもらったおかげで、大切な友人とたくさんの思い出を残せたことは今でも宝物です。 

大人になって思うのは、もし自分が親だったらそこまでしてあげられるかな、ということですね…。 

 

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体験格差を減らすために修学旅行や部活動を学校が担ってきたのではなかったのか。 

教員の負担軽減のためこれらを学校から切り離せとなるとますます体験格差が広がる。教員の負担軽減というなら外部委託でも学校の管轄でやらないと、経済的に厳しい家庭はやりたくてもやらせてもらえない。旅行もスポーツ・文化活動も学校以外でやろうとするとめちゃくちゃ金かかる。 

 

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子供の頃、市営団地に住んで両親共働きでした。多分、豊かではない暮らでした。学童のお迎えに間に合わないからと学童にも行けず、家にいましたが、テレビを見たり、図書館に涼みに行ったりそれなりに楽しかった思い出があります。格差は、あって当たり前。自分の身の丈で楽しみを見つける事って大切じゃないかな? 

 

=+=+=+=+= 

これは今に始まった話じゃない。 

 

自分は昭和育ちだが、地域や家の事情によって相当な格差があった。 

「うちは貧乏であの家はお金持ちだから」で普通に過ごすしかできなかった。 

 

格差は自由主義経済、資本主義経済では当たり前のことで、今の日本で問題なのは下層から這い上がる道がドンドン狭められている事にある。 

 

この手の記事で不思議なのは格差が全て悪のような書きぶりな事であるが、現実は現実として受け入れ、チャンスを平等にする社会を実現する事がメインじゃないかと思う。 

 

全ての格差が悪と言ったら、自由主義経済は成り立たない。 

 

=+=+=+=+= 

この手の記事、「上を見ればきりがないから意味ないよ」ってことを教える内容にできないのかね。なんでも「平等に」とか「社会の協力が」っていうけど、個々の家庭のことであり、それぞれに事情が異なる。そりゃ素晴らしい体験を聞かされて「羨ましいよね?」って聞かれた「羨ましい」って答えるでしょ。だけど、そうじゃなくて、「君には君にしかできない経験」とか「現状をどうやって楽しむか」みたいなことが大事じゃないのかな。望めば何でも手に入るわけじゃない。こんな記事やSNSが老若男女、生きづらい社会を醸成している気がするけどな。 

 

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経済力よりも、親を教育するのが先決じゃないの?って気がします 

そもそも体験格差なんて考えもしない人はいるでしょうし、こどもに必要な体験なんて考えない人もいるでしょう 

お金があるならそれなりの体験をさせてあげたら良いし 

無いなりに本を読ませるとか海や山あるいはせめて公園に連れて行くとか、近隣の安い動物園やアスレチックや何かしらあると思う 

そんな中から子どもの興味を引き出すことが、本来あるべき『体験』の意義じゃないかと思います 

お金も時間もなくても、今できる範囲内で最大限の楽しみ、あるいは有意義さを見出す、そういう発想を養うことが大切ではないかと 

 

=+=+=+=+= 

お金をかけなくても好奇心と冒険心があればいくらでも楽しい夏休みを過ごせます。裏山を探検したり自転車で遠出したり市民プールや夏祭りに行ったり夜は天体望遠鏡持ってる友達と天体観測。親に経験させてもらうより自分で見つけて自分で楽しむ力培うよい機会だと思う。大人になって振り返るとなんて貴重で豊かな時間だったのかと思う。 

 

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うちの子だって、周囲は海外旅行や留学ばかりだよ。羨ましいとは思う。 

 

それでも、うちはうちで、市がやってるイベントや行事に連れて行ったり色々体験させたよ。山や川でも遊んだよ。 

 

なんなら、塾にも行かずに、親子で戦略を立てて、(成績優秀者となって)全額支給の留学プランを勝ち取ったよ。そこでも、大きな体験を得たよ。 

 

親も親で、子供が可愛いならお金をかけなくても子供を楽しませるプランを計画しなきゃ、と思う。ネットでとことん調べたら色々情報があるよ。そこは、良い時代になったと思う。 

 

自分が子供の頃は、調べる手段すらなかった。 

 

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兄夫婦はすごく頑張って毎年キャンプに連れて行ったり、サッカー、スイミング、英会話、などなど習い事をさせたり、帰省してきてはこちらのレジャー施設に連れて行ったり、私と兄が子供の頃にしてもらった以上に甥っ子姪っ子に、「体験」させている。感心する。 

でも当の本人たちは、帰省してくるとゲーム三昧、YouTube三昧で、出かけている時よりいい顔をしている。 

結局親のエゴで色々させたところで子どもたちに刺さるものがなければ活きないのかな。私の知らないところで本人たちの糧になっていることを願うばかりです。 

 

 

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子供が何で自分で遊べなくなったのか。そこが気になる。うちの子供もたまに暇ーとかぼやいてるけども、自分自身は、子供の頃は自分で暇を潰してたのでね。竹ひごで作るグライダーキット、どこに売ってるんだろう今。あんな難しいこと、小学生で大人の力なんか借りずにやってたの、それなりにすごいことだったと思う。子供の地力をそいでるのは、金じゃなくて大人の都合と想像力。 

 

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私は四国の山村で育ちましたから、どのおうちも農家で、作物の世話があるから泊りがけで出かけるなんてほぼない人たちが多かったです。今もそうだと思います。 

毎日何でもないことをしていました。用水路の水を眺めに行ったり、アメンボをつついたり、学校のプールに行ったり。夕方には両親が帰ってくるのが楽しみでした。 

格差の正体は他の子を羨むことだと思います。 

輝く体験はそこかしこにあり、人を羨まなくても良いと教えるのも良いように思います。ディズニーランドに行けば人並みもないですし、みんなハワイに行くから行くのもどうかと思います。 

もっとお金や時間をかけた体験はいくらでもあり、際限がありません。 

毎日お父さんやお母さんが帰ってくるのが楽しみになる過ごし方の方が満足感があるように思います。 

 

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体験したことも大事かもしれないが、何かをやった気になるだけでは意味がない。反対に、何かを得させるためという限られた目的のためだけに、親が子に何かをさせるのも間違い。体験する主体は当の子ども。その子がいつどこでどのような体験をするのか分からないが、分からないなりに準備をさせたり心構えを説くのが親の役割だと考える。 

 

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昭和平成時代の子供と比べ令和の子供は色々な体験を失ってるとは思う。 

外で遊ぶにも中で遊ぶにも様々な制約があり友達もまともに作れない。遊べない。昭和時代に小学生だった自身としては子供が可哀そう・・・ 

そりゃ親の言い分もわかる。けど、子供の言い分も聞いてあげてほしい。 

自由に遊んでいいじゃん。自由に体験させていいじゃん。 

その行為が本当に危険ならちゃんとダメと教えてあげて自ら自主的に行う様々な事を体験させてあげてほしい。じゃないと一人で何もできない何も考えれない想像力もなく応用力もない人間になるよ。言われないとできないそんな人たちがどんどん増え始めてる。やばいよ。 

 

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例えば今それなりに現代的で理想的な生活をしている子供の家も、多くは昔から恵まれた特別な一家とかではなく曽祖父母や祖父母の代は中卒高卒で田舎から出てきて自分は貧しくても子供に良い生活をさせるために働いて、ようやく子を大学に行かせられる世代になって、その世代が大卒で親になってからの子供はいわゆるいろんな体験に恵まれた子で…って世代をかけての先人の努力の末の子孫の豊かさなんだよね。 

今は情報が溢れているから本来なら分不相応な事も何でも身近に感じて誰もが同じように生きられるみたいな勘違いをしがちだけど、自分の世代が貧しくて無理なら次世代の為に自分が頑張るのが本来のあり方。 

格差があるのが可哀想だとか平等にしたいだとかなんて無理な話だと思う。それに体験の過多は経済力だけではなく豊かであろうが親に時間のゆとりがないとどうにもならないから一概に貧困だけが原因ではないよね。 

 

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大人になっても予想外のところで興味が湧く物事を見つけたり、こんないい所だったのかと知る事がある。あるいは興味のなかった事に強制参加させられて、やってみたら面白かったなんて事もある。どこでどういう様に感じるかは行ってみたりしてみたりしないと誰にもわからない。だから何も知らいない子どもに色んなことを体験させるのは大事だと思うし、なるべく色んなことを体験させてあげてほしい。 

ただ、子ども(〜小学生)のうちに海外へ行ったことがある方、どれくらいのことを憶えてますか?何を感じましたか?食べ物や体験したアトラクション、自然環境のことを覚えている程度だと思います。大人になってから同じ場所で同じ体験をしたら、もっといろんな視点で見てより多くのことを感じられるので、自分はどうせ海外行くならある程度成長してからの方が良いと思います。 

 

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この本を読みました。体験が大切であることは言うまでもありません。 

ただ、現状では体験が商業化されたり親や指導者の競争心が激化したりしてお金のかかるものとなり、無用なたたき合いが生まれていることです。 

子どもに必要な体験はお金をかければよいというものでも高名な指導者につけばよいというものでもないと思うのです。 

地域によって何をどのようにすればよいか異なるので、地域で子育てを話し合うことが必要です。 

そのような話し合いができなくなっているケースが多いところに問題がかくれているのではと思います。 

 

=+=+=+=+= 

産まれる家も、産んでくれる親も違うのだから、違いがあって当然。 

どうして、何でもかんでも平等でないといけないのか。 

子どもは言うよ。「〇〇くんは持っている」「〇〇さんはやっている」 

それを当たり前のようにさせてやれないなら、親は必死で働いて稼ぐしかない。それでも無理なら「無理だ」と我が家の経済事情を伝えて納得させるしかない。 

自分も妻も朝から晩まで必死で働いてきたから、子供たちもそのあたりは理解している(と思う)。我が家なりのというルールに従って子どもたちも自分の中で折り合いつけている。 

そんなものではないだろうか。 

 

格差が良いとは思わないが、親も子もそれを克服する工夫をしてみても良いのではないか。 

時にはあきらめることも、経験の一つとして必要。それを克服して成長することも良い経験だと思う。 

 

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自分がスポーツを何もやってこなくて子供がミニバスを始めて分かった事は、やはりお金がかかると言う事。他の野球やサッカーなどに比べたら部費自体は安いけれど、それでもやはりバッシュやボール、スポーツウェアなど消耗品にお金は掛かります。小学生だと送迎も必要になってくるので、子供への時間を割くと言う事も必要。お金持ちのお家の子はその消耗品にかけているお金も違うのが、高いブランドだったりして見て分かる…。 

 

=+=+=+=+= 

格差の厳しい実態と言っても、昔に比べれば格差なんてないに等しいようなもんじゃないの。 

 

自分が子供の頃(昭和40年台)は家の事情で家業を学校終わったら手伝わなければいけない子や、お金がないので高校にさえ進学できない子供は珍しくなかった。 

そりゃまあ、スネ夫みたいな裕福な子供もいたが周りの子供はそれはそれと割り切ってたと思う。 

 

家のために働かなくてはいけない子供なんて激減というかもはや探すこともできないような現代において、少なくとも子供は自由なのだからそこはいい時代だなぁと思う。 

 

 

=+=+=+=+= 

私は望んでも与えられなかった子どもで、結果どうなったかというと、親から愛されていないとずっと感じていて、他人に依存してしまう。 

親はきっと愛してくれていたんだけど、忙しさと貧困で私の望むものを与えられなかったんだと思う。 

まさに余裕がなかった。今思えば、親も苦しかっただろうし、可哀想だと思う。 

自分で家庭を持ち子をもうけて、いろいろ連れていったりしたけど、うちの子はあまり出かけたがらないということ。何時間もかけて辿り着いても、30分くらいで飽きて帰ると言う。 

欲しいものもさほどなくて、聞いても買わなくていいと言う。買ってほしいとダダをこねたことは一度もない。私が得た答えは「安心感」です。 

望めば与えられる環境にあると子が理解していればそれだけで満たされるのかもしれません。 

 

=+=+=+=+= 

生まれた時にすでに遺伝として受け継いだ体格や身体能力、外見、知能、そして家庭環境といったスタートラインは大きく違うし、大体小学校低学年ぐらいまでには人格もおおよそ決まってきてしまうので、親ガチャという言葉は残酷だけど避けられないようのない現実だと思う。 

例えお金がなくても自己肯定感を高めるよう育ててくれるなら、その逆のケースよりもはるかに恵まれている。 

 

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子供の頃は両親の仕事が忙しく、旅行どころか近所の食堂にさえ家族揃って行った事がありません。経済的余裕があっても「遊ぶ」事は許されない自分の家庭と、お友達の家庭は違うのだと思って特に不満を口にしたことはありません。 社会人になって自分のお金で体験する事もできます。人生に於いては、無い中から見出す物や見出す力の方が大切だと思います。子供達に伝えるのはそういう事の方が大切ではないでしょうか。 人と比べる考え方は結局は負を招くのでは? 

 

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欧米は、日が長いから9時でも路上でバスケットボールが出来るが、日本は6時には日が暮れる。まずこの差が大きい。次に部活の無い学校の場合、ドイツなどは、地域のスポーツクラブへの加入が必須になっている。地域の民間スポーツクラブに入る事で、コミュニティの結束が強くなる副産物も有る。だから、欧米は太陽が出ている時間が長いから、無料で、仕事の終わりにスポーツが楽しめる。ところが日本は、日が短いから、夜に帰す無料のクラブは子供の責任を負えない。要するに、欧米は貧富の差に関係無く無料でやりたいスポーツは出来るが、日本ではお金で解決しないと子供はスポーツも出来ない。根本的な原因は親達の「責任要求主義」が日本の子供のスポーツ振興をダメにしている。日本は無料で引き受けてくれるクラブに対して「何か有ったら責任とれんのか?」頭の悪い親のこの一言が、諸悪の元凶である。これでは日本のサッカーが世界一になる日は絶対に無い 

 

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教育熱心な親御さんが割合多い学校に行くと家庭の体験格差は本当に身を持って感じるんですよね。長期休暇で海外旅行や国内テーマパークは当たり前、習い事は毎日。そういう環境に子供の頃から身を置いて稼げる大人になり世代が変わっても連鎖するんだろうな、と。 

ただ、核家族で子育てをしていると経済的な格差由来のものだけじゃなくて、昔ながらの行事や自然環境や人付き合いなどの豊かさの経験格差も広がっていくように感じています。自分が子供の頃経験した祖父母同居での手仕事など、見せてあげられないので。 

 

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単純にまずは 公園などで気軽にサッカーや野球ができなくなったことが大きいのでは。 

 

ドラエモンに出てくる、みんなが集まって野球をする空き地は今は夢物語。 

 

都会なら特にちゃんとネットがある場所か 特定のチームに入れないといけないとなる。 

そうすると、やれ共通ウェアだスパイクや ボールも定期的に買い換えないとねとなってくる。気軽にできない。 

 

じゃあ みんな同じ条件になればいいかと言うと社会主義国ですらあり得ない。 

だって親の個性の差があるんだから スポーツが得意な親はスポーツを教えやすいし、料理や インドア系が好きな人はそっちになるし。 

子はもちろん親の 個性によっても差が出るのは当然。 

他力本願で何でも平等って厚かましい。それこそ親が頭ひねらすところでしょ。皆さん、違った形で頭ぐるぐるしてますよ。 

 

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体験格差で大きいのは子供の頃からやっているスポーツや音楽かな。 

子供の教育にある程度のお金と時間を掛けられる家庭の子は小学生低学年くらいの頃からどちらか(orどちらも)やってる印象ですね。 

 

海外旅行とかの経験なら自分が大人になってから自身で稼いだお金で取り戻す事が出来るけど、スポーツや音楽は大人になってからある程度本格的にやるのはなかなか難しいんだよね。 

 

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残酷かもしれないけど、今に始まったことではない。他人と比べても意味がない事を教えるのも、教育と思う。記事にあるサッカーだって、どこかに所属したりせずとも、友達同士で遊ぶのだってサッカーに違いない。 

人と同じ事ではなく、違うことでの体験だって、立派な体験だと思う。 

 

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それはどの様に問題なのか。 

うちもみんなテレビゲームやおもちゃを持っていたが、クリスマスや誕生日にも何ももらえず、お年玉も貯金させられていた。 

辛く悔しく嫌な思い出だ。 

とはいえ、それがあるのも大切なんだ。だからお金に困らない生活を送ろうと頑張る。 

そう思うと、体験格差があるのは子供にとって可哀想なのか?夏休みにどこにも行かず家にいたことはそんなにダメなのか?図書館で本を読む毎日だったとしてもその子の将来には必ずプラスになる。 

何でも思うがままに体験できるのが一見幸せそうに思えるが、その子の将来を考えた時どうなのか? 

貧困すぎて食べるものにも困る様では問題だが、やりたくてもできないことがあることが実は人間形成にとって大切なことだと思う。 

世の中で起きてる事件やゴシップを考えれば、社会で成功するには今の時代は我慢が一番大切であり、身につけることが大切。その次にハングリー精神だと思う。 

 

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こういった「子育ての必需品」が増えれば増えるほど 

子育てのコストが増して、それが少子化の原因に繋がってると思う 

 

そうした「子育ての必需品」を「普通の家庭」=「平均より1つ下程度の収入」 

でも全部用意できないようなら 

それは本当に「子育ての必需品」と言えるのだろうな? 

 

子供にとって必要か必要でないか、で考えるのも間違っていないとは思うが 

「平均より1つ下程度の収入」でも全部揃えるのが困難なものを「必需品」と呼んで本当にいいのだろうか?と思う。 

 

 

=+=+=+=+= 

日本にはサッカーチームのない土地や進学先の選択肢がない土地があり、そちらのほうがずっとハードルは高い。 

その子供の体験格差は親の経済状況によらない。 

経済状況を改善しても格差は埋まらない。 

 

この筆者はどこの生まれなんだろう。 

兵庫県出身。小学生のときに阪神・淡路大震災を経験とあるので、大都会の生まれだ。 

兵庫の海側に生まれ育ったのなら、環境としてはサッカーもキャンプも留学も親の経済状況に左右されるだろうさ。 

でもそれは親の責任だ。家庭の事情ってやつで、誰しもがみんな持ってるものだ。 

 

それはまるで2と3の公倍数が6だけと言うようなもの。 

12も18も24も30も36も42も公倍数なのに見えていない。 

自分の視界にうつったもので自分が手を動かすのは勝手だ。 

しかし、それで社会を定義しはじめたら社会倫理に害をなすだけだよ。 

でもそうすることが彼の正義でビジネスなんだろう。 

 

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昔は親がお中元お歳暮で良い食べ物をたくさんもらっていて、子供の頃には美味しい経験を結構しました。今あれ美味しかったなーと思っても高くてとても買えない。お中元お歳暮の習慣も廃れて子供たちに同じものを経験させる機会は激減。経済力も親の世代と自分の世代で違うので私と私の子供たちとで習い事の量が全然違います。大人のやる気も影響大。 

格差なんて言うけど皆が同じなんて勿論無いわけで何を訴えたいのか分からない。長期休みが取れる親と自営業、農家などで休みが取れない親とか、都会住まいと田舎住まいなど環境の差はどこにでもあるじゃないか。 

 

イギリスの調査でスポーツ等させるべきとの考えが多いと書いてあるけど、その代わりに日本では体育の授業でいろいろなスポーツ(体育だけでなく音楽や図工も)を経験させてる、親もそれを分かっているという事はないでしょうか?どうなんだろう。 

 

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サッカーがしたいならさせればよい。 

 だけど、家庭でお金がないなら、その分のお金を他の支出から減らさなければならない。 

 まず、サッカーを何故したいのかを親が子供の立場に立って理解することが必要と思う。 

 次にサッカーするのにどれくらいのお金がかかるのかを調べ、それが続けられるか、他の支出を減らすことによるマイナスが耐えられるか、またサッカーより大切なものを失うことにならないかを検討して判断する必要がある。 

 それで、無理ならあきらめるしかない。 

 サッカーは通常の考え方では趣味、遊びであり、優先順位は高くないと思う。どうしてもやりたいなら、他の趣味や遊びを犠牲にする必要がある。勉強や栄養など本人のため二必要なことがらを犠牲にするようなことがあってはならない。 

 

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地方と都市部に住んでいるかどうかですらおおいに差がありますからね 

関東の比較的都市部から地方に転校した経験からすると本当に体験という点では凄まじい差があります 

電車、バス、映画、テレビのチャンネル数、プロスポーツ観戦、様々なイベント、人の数、公園の数、図書館、美術館、などなどきりがありません 

気軽に見に行く、寄ってみるが地方ではかなりハードルが高いです 

自然は地方のほうが体験できそうですが現実は「厳しすぎる自然」を遠くからみるだけです 

自然に触れ合いやすい公園自体が殆どないです 

大人と一緒でなければ近づくことすら危険なレベルです 

移動手段は徒歩、自転車、車の送り迎えが殆どなので修学旅行で初めてバスや電車に乗る子も少なくないです 

都市部の子どもの日常の通学でさえ相当なハードルに聞こえるかもしれませんね 

 

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子供にそこまで悩ませている親が問題じゃないの? うちはお金が無いからとか 過剰に子供に見せ過ぎれば 子供心にサッカーは難しいかな?って思わせてしまうんじゃないの? 

体験格差なんて 普通にあるでしょ。親が歯科医の友人は小学生の頃から 夏休みはハワイだ グアムだと海外旅行三昧だし うちはせいぜい海水浴に一回行ければいい方。塾にも通い 野球チームでも常に高いグローブとか 

使っていましたよ。そりゃ全ての子供達に平等に体験の機会や やりたい事をやらせてあげられればいいけど 現実的には無理でしょう。サッカーやりたいなら 親が頑張ってやらせてあげたら? 

 

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昔から、子どもが学校なんかで情報を得て「みんなが持ってる」「みんなが行ってる」「みんながやってる」と親に訴えることはよくあった。 

親の側は不憫に思いながらも経済的事情が許さず、「“みんな”って誰?」と応戦してたことでしょう…。 

そういう体験があるからか、自分が親になって、借金してまで生活レベルを周囲に合わせようとして、(そこそこ給与はあるのに)ちょっとしたきっかけで困窮に陥る家庭も多い印象です。 

 

ただ昔は、地域でのお祭りや盆踊り大会、(学校や地域が関わった)スポーツ少年団なんかの行事っていうのもあって、長期休みに、それなりに普段とは違った体験ができたけど、いつからか(他人様に合わせるのが面倒になったのか)個々の家庭の事情が最優先されて地域が崩壊し、そういうことを家庭で抱えざるを得なくなった感が強い。 

この点からは、ひとり親家庭なんかだと大変だろうなぁ…とは思う。 

 

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収入は衣食住に割り当てられその余剰分で旅行や贅沢品の購入、という図式は昔から変わっていないと思う。が、贅沢品の定義は人によって違うし贅沢品と認識していないから衣食住へ影響が出る場合もあると思う。根本はお金がないからもあるが、一億総中流の意識だけはのこっている部分も大きい。日本は貧しい国になりつつあるという意識を持ち、身の丈にあった生活を送るべき。あと10年もすれば体感格差なんて言う言葉も当たり前すぎで誰も言わなくなる。 

 

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案外子供にとっての体験なんて親や家族が一緒に何かしてくれるってのが一番だったりして。うちは比較的裕福だったと思うけど親父が仕事人間で遊んでもらったり一緒に出かけた思い出がない。その反動か今は自分の子供と一緒にいる時間を大切にしようと思って行動してる。 

 

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子供の頃、本当はバレエを習いたかったが親に言うことすらできなかった。 

そんな大人もいっぱい居ると思う。 

子供用品、もっとお下がりを認めて欲しい。 

体格にあった新しい用品を定価で購入できないことが、ハードルを上げている一端だと思う。 

 

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社会には格差があるのだから、子供もそれを知った方がよい。 

誰もが平等、という発想の方がおかしいぐらいだ。 

 

仮に体験格差を埋めようとしたら、どのくらい国民の税金負担が増えるのか? 

同じ体験しかしていない金太郎飴の若者を産出するのか? 

 

無理なことは無理なのだから、諦めた方がよいのでは? 

 

そもそもそんなに貧困なら、子供を産まないという発想を持つのが先だろうと思う。 

 

離婚しているのなら、もう一方の親がきちんと養育費を払って、子供を育てるべきだろうし。 

 

 

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結局のところ、日本は他の先進国に比べて貧しいということだと思う。一見、貧困の数が少なく見えるけれど、本当にご飯も食べられないほどの貧困は少なくても、それより少しだけマシな家庭が多いのだと思う。例えばコンビニのバイトを見ても、日本の場合、レジ打ち、品出し、調理、公共料金の支払い、宅配便の受付など万能にできなければならないのに、時給はほぼ最低賃金。他の先進国なら3倍の働きだろう。何かが間違っているのだと思う。 

 

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確かに所得の格差は親の問題だけど努力と工夫でなんとかなると思うけどね うちはお金がなかったときは公園にお弁当をみんなで作ってもって1日遊んだし少し所得が良くなったらテント買ってみんなでキャンプして過ごしましたよ なるべく家族全体で協力しながらやるんだってやってきたから今では大きくなったけどいい想い出になってると言われて私はそれでよかったなと思ってますよ 

 

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子供時代の様々な体験は子供を成長させる一因であるとは思う。 

けれど、みんながみんな平等に与えなければならないものなのでしょうか? 

衣食住は生きていくのに必要だと思いますが、体験はそうではないですよね。 

どんどん貧しくなる日本に全ての子供に等しく体験をさせてやる余裕はないですよ。 

衣食住を与えるのに精一杯。 

そこは各家庭でできる範囲で工夫するしかないと思います。 

子供に体験させるためにまた税金が上がるなんてことになったら困ります。 

 

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子供にとって生まれた環境は本人にはどうしようもなく、経済的に恵まれない場合には 

大きな制限が有ることは否定できません。 

また、解決方法は子供にはありません。 

体験ももちろんですが、貧困家庭に生まれたがために才能が生かされない子も多いと思います。 

豊かで発展する国を作りたいなら、政府は小中高の授業料無料は当然とし、大学も成績の良い人は無料にするべきだと思います。 

ただし、大学に行っているだけの人からは高い授業料を取ることも必要とも思いますが。 

貧困家庭には子供の数に合わせて給付金も必要でしょう。 

 

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新自由主義的な考え方が浸透し、公助を期待するな、自分で何とかしろ、貧困になったのは自己責任でしょ、みたいに考える人が増えた。子どもは社会の宝だから、社会で育てようという考えを持つ人よりは、結婚も子育ても本人の自由、離婚するのも自由なんだから、シングルマザーになって貧困に陥ったのは自己責任、体験格差があるのは仕方ないと考える人が多いだろう。生活保護を叩く人が多いのも根っこは同じ。日本人全体に色々な所で分断や格差が広がり、それは仕方ないことと考える国民が増えた。多分皆んな余裕が無くなっている。 

 

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うちは毎月のお給料では習い事に費やす余裕なかったから、子ども手当を習い事に使ってた。周りは2つ3つやってたけど、うちのコは1つだけ。 

月々500円くらいでやれるサッカークラブだってあるし、母子家庭を優遇してくれる学習塾もある。 

探せばなんとかなるかも知れないんだから、親の価値観の問題でもあるんじゃないかな。 

 

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今も昔も親は生活するので精一杯。子どもはその中で、ちょっとでも親が自分の方を向いてくれれば満足できるもの。体験よりも、そっちの方が大事なんじゃないかな?と思います。親は、どこにも連れて行けなくても、「今日はみんなで花火しよう」とか、小さな非日常を演出してあげるだけで十分なのでは?ましてや、文化の違う欧米と比べる必要などないでしょう。 

 

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今に始まった事じゃなく、昔から格差なんてあったし、親の農家手伝ったり、お店手伝って夏休みどこも行かない子もいれば、家族で避暑地や、海外旅行行く子もいる、スポーツ合宿行く子もいれば、家でゲームしてる子もいるし、近くの神社や公園で毎日虫とってきて遊ぶ子もいる。 

それが嫌だという子もいれば楽しいという子もいるだろう、 

それは昔も今も変わらないし、親が怠けてるパターンもあれば、親が必死に仕事してるパターンもある、実態も何もみんな知ってる、わかってることを何故記事にするのかな? 

 

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ウチもあまり裕福と言える家ではなかった。 

泊まりの旅行も行かなかったし、親戚のお下がりで机とか本とかもよくもらったし。 

でも、父はお金がないなりに日帰りでいろんなところに連れてってくれた。 

大工仕事や農作業、動物園や博物館、釣りや草野球、スキー。 

海水浴なんて毎年複数回行った。私が結婚して子供ができても一緒に行った。 

自分がいろいろしたいタイプの人ではあったが、とにかく子供と遊びたかったらしい。 

日頃は怖かったし、最終的には酒とタバコで体を壊して亡くなった父だったが、決して嫌いではなかったのは、そういうところだと思う。 

海外旅行やディズニーなどを子供の頃に体験するのを否定する必要などない。 

でも、お金を掛けずに遊ぶなんていくらでもできる。 

親が動く気があるか、なにより、ささやかなイベントだろうと楽しむ気があるかどうかだと思う。 

 

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シングルマザーなら、存命の父親から養育費をもらうこと。子供のためにも、夫婦の子供、離婚しても父親です。子供がサッカーをやりたいと言うなら、離婚した父親からお金をもらい、テームの月謝やユニオォームなどは必要な物を購入する。体験格差は仕方のかないことです。子には惨めな思いをさせたくない。親も朝夜働いたり、収入を上げる努力もしないと。家庭の無駄な出費あるはず。親の道楽費を節約する。親も子のために我慢する。国の子育て支援が足りない。国の支援で習い事や家族旅行をできるようになんて、間違ってます。 

 

 

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南米でもアフリカでも子供はサッカーをしている。だからサッカーが世界中で人気がある。ボール一個あればできる。いや、ボールがなくともぼろ布を巻いて球を作ってでもできる。この人が言っているのは「金を掛けた遊び」を誰にでも体験させろということなのか、それとも金を掛けないと体験したことにならないということなのか。あるいは日本の社会では素朴な遊びや体験では自慢にならないという格差があるということを糾弾しようとしているのか。失礼ながら私にはうまく読み解けない。ジジイであるが子供の頃は缶蹴り、メンコ、ベーゴマ。マンガが読みたければ貸本屋で一週間で10円払えば古い雑誌が貸してもらえた。ボールがあれば枯れ枝のバットで野球ができたし、夏休みは自転車で虫取りに行った(東京都内だが)。今はスマホでゲームにSNS、スポーツも人気のユニフォームや専用のシューズを見せびらかさないといけないのか。心が狭くなっている。 

 

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都市に住んでるシングルマザーです。普段は普通に習い事や塾は行かせてますし、アニメのイベントなどには付き合います。 

でも、もし、事故にあったりあわせたりしたら、即貧困家庭に陥るため、車は持たない、乗らないと決めています。 

だから車がなく、体験になかなか行かせられません。子どもだけの体験も行かせてみましたが、親と一緒が良いようです。また、親がジェットコースターなどが苦手で一緒に乗ってあげられません。 

体験格差は、親の所得ではなく、陽キャな外遊び大好き親かどうかだと思います。 

 

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いや、そんなの当たり前だしな…うちは貧困ではなかったけど旅行とかは親がものぐさで行ったことなかった、絵日記に毎日昨日と同じって書いてた。せいぜい近所の盆踊りと無料プールくらいだった 

でも、モノより思い出ってのはよくわかる、子供の頃あんなことしたなぁってのは本当に忘れない、遊び方がわからないまま大人になるのは少々寂しいし、周りについていけなくて困ることはある 

 

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記事の内容とは全く関係なくて申し訳ないけど 

 

「サッカーがしたいです」のくだりで、スラダンの三井を思い出してしまいました 

 

この記事の子も、悩んで悩んで、色んな葛藤があって、それでも溢れ出した、心の声だったんでしょうね 

 

無責任に頑張って、とは言えませんが、出来るだけ良い方向へ向かうようにと、心から願っています 

 

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格差なんて大なり小なり当たり前にある。 

 

子供の頃は習い事もできず、いわゆる体験格差。ゲームも漫画も買ってもらえなかったので、貧乏だと思ってた。だから欲しいものは工夫したり、社会に出てから叶えた。 

今となってはしっかり稼いでる。 

 

なんでも与えてもらうのが、子供の将来につながるわけではない。 

 

=+=+=+=+= 

小学校低学年の頃、夏休み明けに友達に何処かへ連れていって貰ったか聞かれ、何処にも連れて行って貰えなかった私は誰かが言っていた言葉を思い出し咄嗟に「フジゴコ」へ行ったと答えてしまった、フジゴコが富士五湖だとも知らずに。それが回り回って母親の耳に入り、何故噓をついたと咎められ何処にも連れて行ってくれなかったからだと親に泣きながら答えた嫌な思い出。 

 

=+=+=+=+= 

この話を格差として表現するのは好きじゃない。 

当たり前の話として生まれ持って人は不平等だし、それを完全に無くすことはできない。 

 

なんでもかんでも(無くすべきものというニュアンスを持つ)格差と表現してしまうと、本当に是正すべき基本的な教育の格差や最低限の医療の格差も丸め込まれて是正しにくくなってしまうんじゃないだろうか 

 

=+=+=+=+= 

個々に家庭により格差があるのは当然で、平等になどならないのは当たり前のことです。それぞれの職業によって賃金格差が生じるのは当たり前でこれが「差別」というはやりの言葉によって共産主義国家になってしまいます。一昔前は、金はないけど食卓を囲んで一家団欒で過ごし、「勉強しなさい」といわれいやいやしていたのが進学につながり苦労はしても大学を出してもらい今日がある。親も努力することをあきらめ、現状に甘んじ、子供に教育もせず放置していれば厳しい世界からの脱出はますます不可能になります。社会の制度よりも先ず、自分が努力しなければ何も変わりません。 

 

=+=+=+=+= 

今時はいいよね。 

昭和に生まれ育った自分は格差なんてあって当然だったから。 

 

田舎の貧乏農家の倅だった自分は、日の出前から日没まで田畑で働き夜は寝る間際まで内職していた両親の背中を見てとても我儘なんて言えんかったわ。 

鶏や豚まで飼育していたから旅行なんていけなかったし、外食でラーメン食うくらいが最高の贅沢だった。 

 

=+=+=+=+= 

海外の国と比べて低いという統計でしたが、まず前提が違うと思う。 

 

>その一方、阿部氏自身が2015年に日本の大人を対象に行った調査では、「1年に1回の家族旅行(最低1泊)」(30.5%)や「スポーツ・チーム(野球、サッカー等)や音楽活動への参加」(22.0%)などの項目について、必要であり、すべての子どもが持つことができるべきであるとする回答が、相対的にかなり低い割合にとどまっていた。 

 

経済格差以前に(金銭に余裕があっても)、大人が「自分自身子供の頃していない」&「大人になった今もしていない」ことなので、「やったほうがいいだろうけど、必須ではない」と考えるのは当然かと。 

 

 

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海外の国と比べて低いという統計でしたが、まず前提が違うと思う。 

 

>その一方、阿部氏自身が2015年に日本の大人を対象に行った調査では、「1年に1回の家族旅行(最低1泊)」(30.5%)や「スポーツ・チーム(野球、サッカー等)や音楽活動への参加」(22.0%)などの項目について、必要であり、すべての子どもが持つことができるべきであるとする回答が、相対的にかなり低い割合にとどまっていた。 

 

経済格差以前に(金銭に余裕があっても)、大人が「自分自身子供の頃していない」&「大人になった今もしていない」ことなので、「やったほうがいいだろうけど、必須ではない」と考えるのは当然かと。 

 

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体験格差なんて存在しないしあったとしてもそんなもの考慮するに値しない。体験はお金がかかるものだけではない。卑しい子育て世帯が十分なお金をもらっているのにもっとクレクレ言う口実に使っているだけだ。子供と一緒にディズニーランドや旅行に行きたかったらもっと働けよ。こういう卑しい奴らを出さないためには児童手当の廃止、子育て支援の全廃をすべきだ。むしろ住民税の均等割りは、子どもであろうが低所得であろうが均一に徴収するようにしなければならない。今の日本にとって一番大事なのは子育て世帯や低所得者の保護ではなく、普通に働いている、働いてきた人が普通に暮らせることだ。 

 

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経済格差なんて子供のころから何となくでも理解できる。それをほとんどの子は受け入れる。どうしようもないことだから。 

みんな平等なんて資本主義ではありえない。 

多かれ少なかれ皆体験してること。 

それを含めてもちゃんと教育を受けさせてくれた親には感謝している。 

 

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うちの親はほぼ教育、娯楽に関してネグレクトだったのですが、自分の性質がインドア派で図書館の本をひたすら読むのが好き+小遣いもすべて小説と漫画につぎ込むタイプだったので、どこにも行楽にいかない夏休み、は全く不満はなかったし、運動も大嫌いなので習い後をするという発想もでなかった。 

思い返せば、末の妹は社交的だったので、親に頼み込んでそれなりにあちこち行ってたな(頼み込まれば連れて行く程度の放任主義だった)。それでも不満は残るらしい。 

子どもの性質(外交的か内向的か)に大きく関係するのかもね。 

 

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体験格差の向こうには日本社会の貧しさが透けて見えるということですね。子供にはスポーツを楽しむこと、芸術に触れること、音楽を奏でること、旅に出ることが必要なんだ。それを共通認識にしない限り今の状況は変わらない。欧米と日本の意識の差を見てよくわかりました。 

私見ですが一朝一夕に日本が変わることはないけれどそうした活動に積極的な自治体を選んで住居を移すのも手ですね。 

 

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体験格差…上を見ればキリがないかもしれませんが、工夫次第で低予算でもできる事はたくさんあります。 

工夫=努力 

大変かもしれませんが、こんな風に我が子に努力できる時間って、長い人生で今だけかもしれません。 

視野を広げて頑張ってみてほしいです。 

 

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格差は昔からあるし、なくなることはないのだろうけど、中間層が少なくなって上下がより濃くなっている気がする。 

昭和生まれの私はクラスの中でもかなり貧乏な方で、友達が当たり前に持ってるモノ、やっている事ができなくて、子どもなりにとても辛かった。息子に同じ想いはさせたくないなとは思う。 

 

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昔は部活に入れない・習い事で体験できない子どもは、広場だの公園だので子どもたちだけでサッカーしたり野球したり、市民プールで泳いだり…という、体験学習のマネごとみたいな遊びが可能だったんだが。 

ジャイアンが「野球しようぜ」と言っていた時代。 

 

今、公園は球技禁止だし、群れて遊んでるだけで苦情きたりするし。 

市民プールが財政難でなくなってる所も多いし。 

「わざわざ親がお金を出してやらせようとしないとできない」が増えている。 

 

「そんなものは自己責任だ」というのも分からなくはないが。 

「だったら工夫して自分たちでお金かけずにやろう」という機会を奪っている世間が「自己責任」で切り捨てるのは、かなり残酷。 

 

自己責任というなら、世間が寛容でいられるような、場の整備ぐらいは公的支援があっていいと思う。 

 

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私らが小さい頃は(昭和30年代)そんな言葉が無かった。夏休みは近所のガキ大将が小学校1年生から6年生までをまとめ上げ、ラジオ体操が終わるや「今日は三角ベース」「今日はメンコ」「今日はベーゴマ」等々遊ぶことを決めていた。「神社に〇〇時集合!」とか指示を出す。雨の日は神社の軒下で探検ごっこやアリジゴクの研究等々して遊び、みんなが真っ黒に日焼けして無邪気に過ごしていたもんだ。どこの家にも車はなかったし、テレビすら無い。旅行なんて言葉も知らなかった。「旅に出る」なんて言葉時代劇くらいしか聞かなかったなぁ。宿題も無く、9月1日には先生が「みんな真っ黒で先生は安心しました」という挨拶が恒例の2学期だった。そう思うと今の子は「体験格差」なんてつまらないものにもこだわり大変だ。いつからこんなに小学生のうちから悩みを持つ子が増えたんだろう。真っ黒になるまで遊んだらいいのになぁ。 

 

=+=+=+=+= 

なぜ、塾に行く必要がある?自分は1度も塾には行かず、学校の授業と参考書のみで、6年生大学には入れた。授業よりも塾が高品質と思っている親は、子供の努力不足を経済格差に責任転嫁してませんか?その程度の努力もしない子供は大学進学する資格はない。大学は勉強という努力をする場なのですから。 

自分はデイズニーどころか遊園地も行ったことはない。大学生になってバイトして初めて行った。子供の頃は、昆虫採取・探検・おにごっこと粘土・ブロック遊び・紙工作だけだった。でも、毎日友達と楽しく遊んだ記憶でいっぱい。自分の子供とも良好に過ごせている。手先も器用になった。 

サッカーはユニフォームとスパイク高いし、遠征費かかるから、あきらめて毎日走ってた。社会に出れば越えられない格差はあるのだから、それを受け止め、対応する能力をつけさせるのが親の責務では? 

 

 

=+=+=+=+= 

体験格差という言葉に惑わされ、悲観的にならないでほしい。 

 

私は北海道の貧しい家庭で産まれ、夫は関東で裕福な育ち。 

 

私は、自然に囲まれて、海での素潜り、海でキャンプ、山に魚釣りなど、 

海外旅行にバンバン行っていた夫とは全く違う体験をしてきたけど、格差とは思わない。 

 

体験の種類が違うだけ。 

特に引け目も感じない。 

 

うちの子供達の体験は、夜に公園に出かけて、蝉が蛹から最中になるところを見に行くのも大はしゃぎ。 

 

私はお金をかけたレジャーを親にしてきてもらっていないけど、とても楽しかったから、子供にもお金をかけなくても楽しい経験をさせてあげる自信がある。 

 

むしろお金をかけないと楽しめないという価値観を持って欲しくないから、お金をかけなくても楽しい経験ができるという実体験をさせてあげたい。 

 

=+=+=+=+= 

ネットが普及する前に小学生だった私はクラスの数人がやってる事はみんながやってる事で数人が持ってるものはみんなが持ってるものだった 

父にはみんなって誰だ?何人だ?とよく詰められた記憶があるけど、今は何百、何千の人の体験や出来事を知る時代だから、仮に周りにいなくても金があればできる体験や手に入れたくなる物が見つかるでしょう 

それが叶わないと思いながら育った子供ががんばって勉強すればいいけど、きっと親を恨んだり見下したりする子供が増えるんだろうなぁ 

 

金がない、稼げないなら子供を持つな 

そんな風潮が今もたまに聞くけど、この先もっとたくさん聞く事になりそうだと思っている 

 

=+=+=+=+= 

今も昔も、各家庭でそれごときの違いはあって当たり前なのに 

「体験格差」などというネガティブな言葉を作って次なる公金チューチューを狙ってるのだろう。最近やたらと体験格差を訴えているのはこの記事を書いてるNPO法人の代表。 

体験なんぞタダでいろんなことができる。今の時代ネットさえ見ることができればあらゆることを自分で調べてトライできる。うらやましすぎる時代。 

金が必要だなんて発想が貧困すぎて逆に教育に悪い。 

 

=+=+=+=+= 

体験格差の最低ラインの保証が公教育でしょ。 

遠足や修学旅行、林間学校とかさ。 

教科書の支給や給食とか。 

 

収入状態が上の方の人の行動を制限するの? 

収入状態が下の人の体験を上に合わせて無償化するの? 

すでに生活保護や税金などで下にはかなりの補助をしているし、各市区町村で無料や格安のイベントもしている。 

 

生活習慣や習い事は親の収入に影響を受けるのは当たり前。 

だからこそ、自分の子にはお金で不自由させたくないと頑張る人だっていますよ。 

全ての子どもが同じ環境、というのであれば、生まれた子どもは親許から離して国の管理、とかにしないと無理です。 

親の個性(資質)による差だって収入以上に大きな差を生んでますよ。 

下をすくい上げて数年はありがたいと感じるけど、それが当たり前になった世代からはさらに上を見て不公平と感じる、それが人間です…。 

 

=+=+=+=+= 

したいことができないなんて、どこにでもある。 

泣こうがわめこうが、無い袖は振れない。 

 

このケースも架空なんだろうけど、もシリアルだとしても、しょうがないね、ってだけでしょ。 

 

体験格差なんて言葉は、最近できたもの。 

耳目を集めるパワーワード。 

 

子どもの習い事や、ディズニーなんて、親の夢の見方でしかない。 

こんな子になって欲しい、だから習わせる。 

子どもと一緒に楽しみたい、だからディズニーにレッツゴー。 

 

そんなのは虚像だと教えてあげなよ。 

 

=+=+=+=+= 

親がしたいさせたいだけで、必ずしも子が望んでいるとは限らない。 

それを自分が田舎でしたようなあれこれをさせないのはかわいそうだ、と 

大都会のど真ん中から金掛けて普段は忌み嫌う田舎に出て子と遊んでる。 

つまり自分に都合がいいようにうそぶいて罪滅ぼししているだけで、 

「何々格差」という誰かが考えた釣り餌に引っ掛かって言い訳してる。 

子が大人になってからすればいいことなどたくさんあるし、 

五輪見てもわかるようにスポーツなどどれもその風土に根差したもの。 

みな例外なく住まいの近所で遊びがてら始めてる。無理なさんな。 

 

=+=+=+=+= 

それらの体験自体は別にどっちでもいいと思う。ただ、体験の格差が大きすぎると周囲の子どもとの共通の話題が持てなくなる。 

子供の頃に友達と話が合わなくて仲間に入れてもらえなかったという原体験はその子の社会性に大きく影響する。 

子供の頃に輪に入れてもらえなかった子供はいつも「自分には資格がない」と感じて人と壁を作るようになる。自分がそうだった。 

 

大人になってから話題なんてのは人付き合いのきっかけの一つに過ぎないし、資格なんていらないという事が分かったが、無意識に自分だけが浮いてるんじゃないかと不安になる癖は今でも治っていない。 

 

その分人に影響されない自分の考えを持てるようになったり、人に依存しなかったりと別の強みを持てたと思ってるから今となっては不満ないが、人格形成に影響はあると思う。 

 

じゃあ子供に体験をさせれられない人は子供を作っちゃいけないかと言うと、そうではないから難しいんだけどね。 

 

=+=+=+=+= 

格差は当然である。世界の理を見れば誰にだってわかる。 

だから昔からそうだ、当たり前だ、という指摘は少しズレている。 

この記事のいい所は「「すべての子ども」に対して、「体験」の機会を届けようとするかどうかにある。「体験格差」をなくそうという意思を、社会全体として持つかどうかにある。」 

この部分にある。 

格差を無くすことはできないけれど、そこを埋めようとする動きには必ず意義がある。 

 

=+=+=+=+= 

体験格差、お金の問題もあるかも知れないけど、 

私の父親は大型連休や土日祝に忙しくなるレジャー産業勤務だったから、夏休みや冬休みに家族でどこか旅行に行くとかアクティビティで遊ぶとかした事ないけどそれを格差と思った事もないし、あれしたこれした、どこそこに行ったって友達の報告聞いてそれを羨ましいと思ったこともないや。 

そもそもうちはうちよそはよそ、子供になにかしてやりたいって気持ちは理解出来るけど格差格差って周囲と比較してもしゃーなし。 

どうしても幼少期に体験しておかなければならない!って事柄なんてそんなにないよ。 

 

=+=+=+=+= 

確かに格差はあるし、あって当たり前だけど 

同じ収入の家庭でも、どこにお金を使うかの価値観にもよると思う 

子どもの大学費用、一人暮らし費用まで親が全て支払うつもりなのか、大学は奨学金で行かせるつもりなのか、そもそも高卒で働くのが当たり前と考えている家庭なのか、、それでだいぶかわってくると思う 

もちろん子どもの人数にもよるし、様々な違いがあって当たり前 

 

 

 
 

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