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「まさに昭和の亡霊って感じ」戸塚ヨットスクール設立者「体罰は善」主張に批判続出

女性自身 8/19(月) 15:36 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/b28aa7bf42fbcaafff7bf8caa220a42b341a96f2

 

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83歳の戸塚宏氏は、戸塚ヨットスクールの設立者であり、YouTubeチャンネルを開設して体罰について語り、波紋を呼んでいる。

戸塚氏は自身の体罰に対する見解を展開し、「体罰は進歩を目的とした有形力の行使であり、善である」と主張している。

過去に起こった訓練生の死亡・行方不明事件に関連して、戸塚氏は懲役6年の刑を受け、出所後も同校の校長を務めているが、その見解には賛否両論が巻き起こっている。

(要約)

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戸塚ヨットスクールの設立者である戸塚宏氏(83) 

 

戸塚ヨットスクールの設立者である戸塚宏氏(83)がYouTubeチャンネルを開設し、体罰について語り、波紋を呼んでいる。 

 

【写真あり】「体罰は善」と語る戸塚氏 

 

戸塚氏は76年に「オリンピックで通用するような一流のヨットマンを育てる」という理念の下で戸塚ヨットスクールを開校。その後、戸塚氏の指導が非行や不登校の子どもの更生に効果があると報じられたことで注目されるようになった。 

 

しかし、79年から82年にかけて、過度の訓練や体罰が近因で訓練生が死亡・行方不明となる事件が複数発生し、戸塚氏は傷害致死罪、監禁致死罪で起訴され、02年に懲役6年の刑が確定。06年に出所し、現在も同校の校長を務めている。 

 

今回、開設されたYouTubeチャンネルは戸塚氏を支援する2人の青年が運営しており、戸塚氏の意思を後世に残すために始めたという。同チャンネルでは8月8日に、《【戸塚宏】令和の今、体罰を語る》と題した最初の動画が公開された。 

 

動画内で戸塚氏は体罰について、「日本中が初心者じゃない?誰も体罰を何か知らずに『体罰反対』言うとるわな。こんな非科学的な態度でええの?それが子どもに影響して、子どもは非科学的教育を受けるもんで成果が出ない。体罰は『進歩を目的とした有形力の行使』」と持論を展開。 

 

続けて、「本来なら自分で勝手に進歩すればええのに、その能力がまだなかったり、サボってその能力を身につけなかったりした奴はひっぱたきゃ痛い、痛いのはイヤ、イヤだから頑張る。頑張らんとまた次ひっぱたかれるからや。だから進歩する」と述べ、「これが体罰。良いこと。体罰は善なんよ」と主張した。 

 

また、自身の小学校時代は「体罰が当たり前」で、連帯責任で職員からよく体罰を受けていたと明かしたうえで、「ひっぱたいた先生に向かって『ありがとうございました!』って言ったよ」と、笑顔で当時を回想。その理由を「その前にやられた体罰によって自分が進歩したという実感があるんや。結局、後から考えてみたら俺を進歩させるために、あれ体罰やったなと思えるんや」と明かした。 

 

さらに、体罰と暴力の違いについては「目的」と述べ、「暴力は自分の利益のためにやるやろ。体罰はやられる方の利益のためにやるんだ」と断言した。 

 

戸塚氏の体罰に関する見解を聞いた視聴者からは、Xで《まさに昭和の亡霊って感じでした》といった意見が出ているほか、動画のコメント欄にも批判の声が続出している。 

 

《亡くなった方が居るのに体罰は善って…これは何言っても無駄みたいですね。今の時代子供に強く言うことは大事かもしれないけど、戸塚さんがやったことはどう見たって指導じゃなくて暴行です。犯罪を犯した人が何を偉そうに語ってるのか…体罰はどうこう言うよりも被害者や遺族の方に動画を通して改めて謝るべき》 

《被害者が加害者に成長しちゃうのが、体罰教育の一番の問題点だろ》 

《戸塚の指導法では、生徒が監視する人がいないと頑張れない、自主性や自律性が欠けた人間になると思う。戸塚は生徒の頑張る動機が「殴られるから」となるように仕向けているが、それでは殴られない環境下では頑張る動機がなくなることになる。殴られるという1つの特殊な状況下だけではなく、どんな状況でも頑張れるように指導するのが教育者として正しい姿なのではないのだろうか》 

 

 

( 203321 )  2024/08/20 00:22:12  
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このコンテンツの意見は、昭和時代に体罰を受けた経験がある人からのものから、現代の教育や子育てに対する懸念まで、様々な視点が含まれています。

一部では体罰を肯定的に捉える声もありますが、多くの意見では体罰は否定的な姿勢が見られます。

体罰が一定の効果をもたらすこともあるかもしれないという指摘や、厳しさや叱咤激励の必要性を主張する声など、教育や育児に対する様々な考えが示されています。

 

 

様々な経験や背景に基づく意見が混在しており、体罰に対する否定的な見解や、肯定的な意見、教育の取り組み方などに関する意見が幅広く表現されています。

様々な立場からの意見や議論を通して、教育や育児について考えるきっかけを与えるコンテンツと言えるでしょう。

 

 

(まとめ)

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=+=+=+=+= 

小学5年の時(30数年前)全校集会のため廊下に並んで体育館に向かう準備をしていた時、隣のクラスの男性教師と目があったと思ったらみんなが見てる前で突然「なんだその目つきは!」と怒鳴られいきなり引っ叩かれた。何が起きたか分からないくらいだったがいまだに鮮明に覚えている。その時は痛いとか怖いとかよりみんなに見られて恥ずかしいという気持ちが強かった。子供の頃の体罰は悪い意味で一生消えない嫌な思い出として残るので間違っていると思います。 

 

=+=+=+=+= 

「殴られるのがイヤだから頑張る」 

これはちょっと違うような気がする。 

50代のおっさんです。 

少年時代から就職まで剣道やってました。 

真珠湾攻撃からの戦闘機乗りのバリバリ軍人の方が師匠です。 

結論からいいます。 

体罰はありませんでした。 

怒鳴られる事もありませんでした。 

ただただ、静かに厳しい稽古でした。 

子供の頃は、泣きながら師範に飛びかかってました。 

「なにくそ!」って感じだったと思います。 

フラフラになってからの最後の渾身の一撃を全身で受けてくださってました。 

今でも、師範の「よし!こいっ!」が頭に残ってます。 

 

=+=+=+=+= 

批判はあるだろうが一理ある。グローバルで強い組織は未だに体罰があるし、それがあるから人の身体的な痛みや心の痛みも解る。 

面白半分に人をいじめ、屋上から地面や川に突き落としたりする子どもは、現実の人の痛みが解らない人間。これらは、体罰の経験がないというのも大きいと思う。何を言っても理解しない動物並みの知能の人間に、やってはいけないことを痛みとともに理解させるというのは、ときには必要なことだ。 

 

=+=+=+=+= 

言葉での叱責は理解できます。厳しい指導、注意、教育によって得られるものは、自身のスポーツの体験としても確かにありました。 

しかし、体罰としての殴る、蹴るという行為については肯定できない。それは暴力でしかない。例えそれで更生できたり、何らかの能力や実力が向上した事例があったとしても、他の方法の選択があるはずです。非常に危険な考え方であり、今後また被害者を出しかねないと思います。 

 

=+=+=+=+= 

私も小さい頃は母親からピアノの練習をすれば物差しで手を叩かれ、ご飯をこぼせば布団叩きでお尻を叩かれ、夜なかなか眠れなくて起きてれば頭を何度も叩かれ夜の玄関先に閉め出されたものです。 

当時は母親に叱られないように生きるのが精一杯でした。学校では優等生になり、家の手伝いも言われた通りにこなし、妹達とは絶対に喧嘩をしないように我慢しました。大切にしていたぬいぐるみを妹にハサミで切られた時も我慢して1人でこっそり泣きました。 

そんな私を母は「人の顔色ばかり伺うつまらない子」と言いました。 

なので今でも母親が大嫌いです。いつも庇ってくれて、味方になってくれた、大好きだった父が亡くなったのを機に疎遠になりました。 

今では数年に一度電話で話す位、顔を合わせるなんてまっぴらごめんです。 

体罰は躾や教育ではなく調教です。 

体罰を加えるものだけに従い、他のものには従わない、人間の子供に施すものではないです。 

 

=+=+=+=+= 

体罰の程度にもよるが、このご時世ゲンコツ一つでも体罰になるんだろう? 

だから、体罰がなくて自主的にできる人間はどんどん伸びるかもしれないけど、ケツ叩いて引っ張らないと怠けてしまう人間はますますできなくなるよね。 

そうするとどんどん格差が広がっていく。 

事実格差がどんどん広がってけどもね。 

落ちこぼれてもゲンコツせずに放っておいたほうが大人も楽できる事多いだろうし。 

 

=+=+=+=+= 

確かに、自分が育った時代は、体罰ありきな時代であったが、そんな、教師の褒方もうまかった。いま、自分が育ての立場になり、思うことは、行きすぎた体罰は、絶対に許されないが、叱るところはしっかり叱りつけ、褒めるところは褒めてあげてほしい。最近、出来て当たり前、褒めない大人が多い。うまく、叱って、褒めるところを見つけて褒めてあげてほしい。 

 

=+=+=+=+= 

ちょっと当時のヨットスクールに入れられた人の対象が一般学生ととらえられ誤解を生んでいるように思う。当時の戸塚ヨットスクールに入った人は、 

学校に不登校で家庭内暴力を起こし親ではどうにも対応できない子供がいて、その親が困り果てて頼まれて生徒はヨットスクールに入れられた人たちであったように思う。何も何らの問題もない人が入れられたわけではないと記憶している。でないと誘拐罪とかになると思うしね。親が頼みそれを承諾したという流れがまずあったと。そして家庭内暴力まで起こす子がちょっと説教しただけで治るわけもなくその対象においては体罰も許容範囲なのかなと思う。 

 

=+=+=+=+= 

体罰は善は言い過ぎだが、戸塚ヨットスクールと普通の学校を同じように考えてはいけないとも思う。 

想像するに昔は発達障害というものへの理解がまだなかった。 

家庭内暴力や不登校や非行で手に負えない子の行き先になっていたわけだから、普通のやり方が通用するような現場ではなかったのだと思う。 

きっと言葉で説き伏せる事が出来ない生徒にたまたま体罰で更生させることが出来た成功体験から抜け出せないのだと思う。 

 

=+=+=+=+= 

体罰は劇薬。効き目があるし場合によっては効果的なこともあるが、用法・容量を間違えれば悪影響が出る。いわば毒も少量であれば薬になるようなもので、適当に扱えば毒に分類されるものだ。故に扱いがとても難しい。 

感情に振り回されて加減を誤ってはならない、相手の過失ではなく故意を咎めるものでなければならない、ケガをさせてはならない、トラウマにならぬようアフターケアも必要、体罰の裏に本物の愛情が無ければならない、等々。誰でも彼でも扱おうとしても逆効果だったり、効果が無かったり、最悪怪我をさせたりトラウマを植え付けたりするなど単なるリンチになってしまう。少なくとも昭和の亡霊などと言う印象を与えるような体育会系のノリでやっていいものじゃない。正しい体罰は体の痛みで教えるのではない、心を震わせるために行うものだ。 

 

 

=+=+=+=+= 

体罰被体験者として、体罰は擁護しないが、言葉ではわからない子供も、実際問題、いる。 

現在日本では大人が軟弱になり、子供は大人を怖がらなくなった。というか、学校でも家庭でも、(諦められて)怒られない類いが行き場を失くして無敵になるケースがほとんどだろう。が、諦める大人の気持ちもわからないでもない。個別塾の講師バイトをしていた時に、どうしようもないヤンキー生徒を担当したことがあるが、真面目に教えようとすればするほど、忍耐力が限界に達する。 

ただ、最終的には親がしっかり責任を持ってもらいたい。 

 

=+=+=+=+= 

体罰というより「死ぬかもしれない」という体験が脳幹を強くして精神障害の改善に働くという理論を実践して、実際に改善がみられたケースも多数あったということなのだが、やり方が極端すぎるということでしかなくてそれ以外にもやり方があるのかどうか検討が必要ということだと思う。 

 

=+=+=+=+= 

昔、製油所の定期点検工事に従事した時ですが中年の監督が仕事終わりに「家に帰るのが怖い」と言っていたので理由を聞くと「高校生の息子が家で暴れて大変なことになっている」ということでした。それ以上は聞けませんでしたが家庭の事情は色々です。体罰でも何でも良いから、その息子を更生できるなら戸塚ヨットスクール等はそれなりに頼れる存在なのかもしれません。 

 

=+=+=+=+= 

現役教師です。 

 

私の所属は小学校ですが、もし体罰が認められる状況があったら……楽だなと思います。力ある大人がまだまだ非力な子供に対し言うことを聞かせる。力づくで理解させることが認められるのであれば楽ですね。教えるのではなく言うことを聞かせるのであれば!ですが 

 

ただそこに学びはないと思います。怖いから従う。嫌だから言うことを聞く。それで子供が成長するのかというと多くの子は違うのではないかなと思います。大人が楽しようとしてるだけなのではないかな。 

(まぁ具合が悪い子供に触れるだれでも問題になる時代も大変なのですけども…) 

 

=+=+=+=+= 

体罰は「悪行」をやらないようにする効果はあるそうですが、「善行」を自発的にやるようにする効果はないそうです。 

ゲームばっかりやって勉強しない子供に「ゲームばっかやってねぇで勉強しろ!」とコツンと殴ってもゲームはしなくなりますが、勉強を“自ら進んで”やる事はないそうです。 

一応イヤイヤ勉強やるにしろ、一生涯、殴って軌道修正してくれる賢明な大人が常に側にいてくれるわけでもないので、ひとり立ちしてからは勉強はしなくなります。 

 

相手のためを思っているなら、自立した後も勉強し続けるように促せれば良いですね。どうやって体罰中心の教育方針でそれができるのかは私にはさっぱりわかりませんけど。 

 

=+=+=+=+= 

昭和の時代はそれが普通だった。 

令和の時代は、体罰だけでなく、昭和的な言葉遣いもハラスメントになる。 

和田アキ子もそうだったけど、特に今の中高年は、戸惑うだろうね。 

 

大谷翔平がやっているトレーニングを、若い人に無理やりやれと言えばこれは体罰になる。でも、大谷翔平にあこがれている人は、喜んで取り組む。 

重要なことは、本人の意思。 

 

驚くべきことに、戸塚ヨットスクールはまだ存在している。 

ツボを売っているのならともかく、支持している人もいるという事を考えると、真実って何なのかと考えざるを得ない。 

 

=+=+=+=+= 

先日、保護司をしている親戚がいて色々話をした。 

生まれつきの人もいると言っていたが、環境によるところが多いと言っていた。そうなるしかなかったと、 

そこまでしなくてもとか思ってしまうが、戸塚さんが扱ってきた人は生易しいものではなかったのかなと思う。 

昭和の親を考えると、親も完璧では理不尽だったりする。 

好き嫌い言えば食うなと言われて、門限破ればカギを閉められた。もちろん父が怒れば母が優しかったり母が怒れば父が優しかったり、 

戸塚さんの年齢で現代の考えに沿って柔軟になんていうのは無理なことだと思う。 

 

=+=+=+=+= 

小学2年の担任がとにかく怖い先生で、ちょっとでも授業に集中してないと椅子を思いっきり引かれて、尻もちついたこともあるし、授業参観の時間に図形をハサミで切ったんですか、線からはみ出てると保護者の前で怒られたり、妹がいたのですが、お前妹には威張るんだろ?とみんなの前で言われたり、とにかく学校に行くのが怖かった。でも行きたくないというと無理やり連れて行かれて、よく一年耐えたと思う 

 

=+=+=+=+= 

体罰をする者とされる者との間に信頼関係があればいいと思う。人が亡くなっているというが、体罰それ自体で亡くなるのはそれはもはや暴力と言うべきものだろう。体罰で人が亡くなるようなことは皆無と言ってよい。また、体罰どころか親からのアプローチもなく、ネグレクトによりモンスター化してしまう子どももいる。体罰は決して絶対悪と呼ぶほどのものではなく、関係性と適切な形式によって戸塚氏の言うように善なる教育として機能することもある。 

 

=+=+=+=+= 

家庭ではなかったけど、学校では結構な体罰環境で育ってきたから別に体罰が絶対悪とは思わないかな。 

それでも今自分が職場の部下に体罰しようとは全く思わない。 

今の子達じゃ受けきれないでしょう。(ダメージ的な意味ではなくて) 

体罰はなくなったけど、その分自分自身でいろいろと律する事が出来る様にしなければならない責任は増えたと思えるかが大事かと。 

 

 

=+=+=+=+= 

私は40代ですが、私が子供の頃は学校での体罰は当たり前でした。綺麗な女教師からも小1の時に思いっきり張り手を喰らわされた事もあります。女教師の方が怒ると女の子相手でもエゲツナイ体罰をしていた気がする。竹の定規で殴られるのも日常。 

体罰されるのは、集団生活を乱したり、サボりとか、人として悪いことをした場合。体罰で強制する事は悪い事ではないとは今は思う。単純に勉強が出来ないとか運動が出来ないという理由の体罰はなかったと思う。きちんとした子は体罰はされない。 

戸塚ヨットスクールのニュースは子供の時に映像付きで見たけど、かなり酷い印象だった。普通の学校は体罰と言っても戸塚ヨットスクールに比べると序の口というか比較にならない。 

熱心な先生にはありがちだったが、部活動での試合のミスとかに対しての体罰は他校のチームや他の部活ではあったが、それは良くないと今でも思います。 

 

=+=+=+=+= 

ここまでは行き過ぎてるけど、ゲンコツの一つも生まれてからされたことないとかになってるのは少し異常かな。理不尽な連帯責任で罰を受けたことも叱られたこともあるけど、程度わきまえてるなら多少の理不尽の経験もあったほうがいいと思う。少なくてもいじめに関して注意だけでとかも無理と思うし、程度と加減次第。と言っても、喧嘩も経験もないから難しい選択。怖い先生がいるってのは必要かなとも思うよ。 

 

=+=+=+=+= 

個人的には体罰は善という意見も一定の理解は出来る。 

但し、記事内容の動画で言っている様な一方的な意見ではなく、色々な方法があっての一手段としてなら。 

一定数の人間は、言葉や文章での理解に乏しく、更には相手の感情や状況把握ができない人間もいる。 

その相手にはある程度因果応報的な視点から精神的な反応を期待し、体罰を必要な場合もあるかもしれん。 

ただ、それは一定の成長を鑑みての事であり、それだけでは成長の基礎にはならない。 

 

動画内の意見者が、もし本当にそう思う根拠があるのなら、体罰を受ける者が出た時点で指導者も指導不足ということになり、同じ体罰を受ける必要がある。 

連帯責任なんだろ? 

 

要は、体罰を与えると言うことは、その者も同じ覚悟がなければいけない愛情が無ければ無意味なんだよ。 

 

=+=+=+=+= 

昔ニュースをテレビで見ていたけど、非行少年の更生を促す施設と思って見てました。 

家庭内暴力やその他犯罪を犯すのでもう家庭や施設ではどうしようもなくなって…親がお願いしてそこに来た。って内容でした。 

私は悪い奴らはそのくらいでちょうど良いんだよって思い、当然40年後の今の感覚は持ち合わせていませんでした。 

更に今から40年後の2064年には現在起きていることがとんでもないと思う日が来るかもしれませんね。 

 

=+=+=+=+= 

55年前、大学の空手部員だった。 

稽古は恐ろしく厳しく新入部員45人いたが最後には7人しか残らなかった。 

 

しかし暴力を受けたことは1度もなかった。厳しい稽古が終われば恐ろしかった先輩たちはみんな優しく接してくれた。 

 

素晴らしい青春時代だった。 

 

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体罰は善ではなく悪ですがたしかに一定の効果は認められると思います。 

ただし教師など親以外の第三者が教育の名のもとに体罰を行使することについては反対です。そもそも論として学校は学習指導要領以上の教育まで面倒を見る必要はないと思います。 

教師が体罰を加えなければ言う事を聞かないような子供、いわゆる”不良”は親の躾や幼児教育、家庭環境含めそもそもが失敗していると考えられます。 

教師不足の昨今、嘘をつかないとか人を傷つけないとかそんな幼児レベルの基本的な道理まで先生の仕事にしてしまうのはあまりに酷でしょう。 

親の無責任が原因で子供が将来出来損ないになってもそれは親の製造物責任が問われるだけです。 

 

=+=+=+=+= 

我が子を見てると、教育に厳しさはいると思うよ、正直。 

厳しい先生の言うことは聞く、 

優しい先生の言うことは聞かない。 

それだけでもないし年齢にもよるだろうが、少なくとも小学校あたりだと大筋この極めて単純で原始的な原理が当てはまるのは否めない。 

 

子供にとって「怒られたくないから」、というのは物事を行う、我儘を抑え、自分のなかの優先順位を変更する、非常に大きな動機になる。 

 

まぁ厳しい=体罰では全くないけどね。 

体罰は肯定しないけど、厳しさは必要だと思う。 

 

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体罰はダメだはわかる。ただ体罰にも度合いがあると思う。 

ところで、本当に言っても聞かない、改善しないような者と対峙したとき、どうするのが正解なのだろうか。 

いまの学校でもそうだが、問題児は先生が手を出さないと知っていてわざと煽るようなことをする。これをやってはダメだよと優しく諭して果たして効き目があるのか、時間をかけてまでやる価値があるのかどうか、なんとももやもやする。 

 

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働きアリの法則というものがあります。 

働きアリのうち、よく働くアリが2割いて全体の8割の食料を集め、そして普通に働くアリが6割いて残り2割の食料を集めてきます。 

そして残りの2割のアリはずっとサボっていてまったく食料を集めません 

またよく働くアリを取り除くと、普通のアリとサボりアリの中からよく働くアリが出てきて、その割合は再び2:6:2となるのです。 

そしてこの2:6:2の割合は人間にも当てはまっていて、社会人だと会社をクビにすれば済むことですが、学校ではそう簡単に生徒をクビにはできなく、特に義務教育機関では無理なので、どうしても体罰という行為が必要なのです。 

そもそも家庭で基本的な事をしつけてくれれば、わざわざ教師が体罰を行わなくても済むのですけどね。 

 

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体罰は善ではないけど絶対悪とは思っていない。 

それを誰が誰に行うか、経緯、内容、程度、相手の性格など全て加味して必要な場合も存在するとは思っている。 

ただ実際にはそれら全てを間違わずに自身も相手も不幸にならない体罰を行うことは不可能に近いので悪というよりはやらないのが正解だと自分は思う。 

 

 

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体罰は必要か否か…という問いであれば、私は必要と思います。 

躾のなっていない子供とか猛獣と変わらない。 

しかし、必要な場は少ないと思います。 

まず口頭で諭す。 

2回目も口頭で諭す。 

3回目は少しくらいの体罰でやったらダメ、と身体で覚えさせる。 

1発アウトもありますけどね。 

同級生同士のケンカならまだしも、自分より小さい子を殴ったりした時は最初から殴ります。 

あとはお婆ちゃん(私の義母)が作ったご飯が好きな物がなく、嫌いな物ばかりだったのでお皿をひっくり返した時かな。 

親たちがみんなが過保護にするから学級崩壊とか信じられない事が起こるのでは? 

2人とも一回ずつしか殴ってないですけど。 

今はもう子供たちも大学生と高校生ですが、毎年キャンプ行くし、普通に話したりするし、小遣いせびられるけど仲も良いです。 

しかし、こんなご時世じゃ小中学校の教職の成り手は少ないのも頷けますね。 

 

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私が小中学生の頃は体罰当たり前の時代。竹刀で叩かれたりケツバット、ビンタなんて当たり前でした。ただそれは悪いことしたりしたからで理不尽なことで怒られることはなく、その先生の事が好きでした。卒業してからもその先生に会いに学校に行ったり、時には自宅に招待してくれて当時の悪ガキ皆で同窓会みたいな事もやりました。 

そのおかげで、人の痛みがわかる人間になったし気持ちも強くなれたと思います。 

その時代を過ごしてきた私でも戸塚ヨットスクールは怖かった。悪さするとヨットスクールに入れるぞ!と言われたりしましたね。 

 

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自分も昭和に学生時代を過ごしてきたから、体罰当たり前でした。今、考えても体罰されて良かったなんて思った事など一度もない。たとえ自分が悪い事をしたとしてもです。先生の中には同じ事をしても自分の機嫌次第で体罰をしたり笑って許したり、子供心にも理不尽極まりないと思った記憶がある。体罰なんて暴力と変わりない、暴力は暴力を生むだけ何の解決にもならない。愛の鞭だとお前の事を思って殴るんだと言った先生の目は血走り憎しみに溢れてた目をしていた顔を今でも鮮明に思い出す。その顔に愛のカケラも無かったわ。 

 

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この時代風潮の中で、これだけはっきり言えることに清々しささえ覚える。 

言ってることは理解できるが、もうそんなことをしてはならない。 

 

ただ、他人に強く怒られる機会が減った今の子どもたちは、怒られているときの対処の仕方がわかっていないように思う。諭されて行動を改める人間と改められない人間の二極化が進む。そんな人間がいつか社会人になると言うことを理解した方が良い。 

 

他人事ではなく、自分事にいつかなる。理解を越えた他者に対して冷静に諭せるのか。 

 

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某漫画の「痛くなければ覚えませぬ」という台詞を思い出しました。体罰はその度合いや相手との関係性によってはただの暴力となり、その線引きは非常にあいまいです。仮に体罰を容認するとしても、それはあくまで他にどうしようもないときの最終手段とせねばならないでしょう。 

 

=+=+=+=+= 

昭和の時代に青春を過ごした世代です。あの頃、体罰は当たり前の世の中でした。学校では教師からビンタされたり、少年野球ではケツバットや懲罰的にグランドを何周も走らされたりを体験しました。プラスに作用した事は無かったと思います。むしろ、大人達への反発心を助長した様に感じます。私事ですが、中学に入って間もなく教師の誤解からクラス全員の前で体罰を受けました。あまりに理不尽で度が過ぎた行為だった事もあり、反射的にその教師を殴り怪我を負わせてしまいました。その後は【不良】のレッテルを貼られ面倒でした。私にとって体罰はマイナス、不利益な事でしかないです。言い訳かもしれませんが、あの出来事がなければもう少し、良い学校に進学し大学にも行けたかも。 

 

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色々な意見が出てますが、当時の考え方は「言葉で解らなければ、身体に苦痛を与えて教え込む」と言うのが、まだ教育、指導の範疇として、社会的にも黙認されていたのです。 

その時代に生まれ、同じ様な教育を受けて大人になり、自負を持って指導者として生きてきた人に、令和時代の教育、指導方法について意見を求めること自体が酷であると思います。 

戦前の警察官に「今の取り調べ方法についてどう思いますか?」と聴くのと同じ様なものです。 

過去(その時代)を知らない人からは批判はありきたりで当然ですし、理解を求めたところで無理です。 

この方には年齢からしてもアップデートは無理なので御優退頂いて、後継者が今の考えに即した教育と指導を実施出来れば良いと思います。 

 

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私は色々と問題のある中学校だったから戸塚氏の話はよくわかる。当時は先生や生徒が殴られたぐらいでは警察はこんねん。しかも残念ながら矯正不能な子は毎年ある程度はおんねん。ある同級はは結局10代で人をあやめとるからなぁ…。目を背けてないものとするのは勝手だが、猛烈なパワーで立ち向かうのもまた一考の余地ありやと思うけどな。 

 

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昭和なドラマ「スクールウォーズ」を想起させますね~(苦笑) 

人の成長や行動の改善を促すものの正体は、本人の「気づき」なんだと私は思うんですよ。そして、この方は体罰によって成長や行動の改善を促せると主張なさっている。もちろん叩くことで「気づき」を与えることも有るかもしれませんが、多くの場合「体罰はマイナスに作用する」というのが令和的な考え方です。「気づき」は本人の興味や努力、教育者からの(体罰なしの)指摘によっても得ることは可能だと思います。別に体罰でなくても教育者が生徒に気づきを与えることは十分可能ですし、体罰を与えても気づきを与えられない場合もあるかと思います。 

実際、懲役刑という名の体罰を受けたこの方も、気づきに至らなかったのではないでしょうかね? 

 

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小学校のとき教師に体罰を受けていましたが、今でも復讐したい気持ちにかられます。40年経過したのに。なので絶対に体罰はダメ。 

 

ただ、現在教育現場と関わる仕事をしておりますが、今の子供達は、成長意欲のある子供と、そうでない子供の差が激しいということ。 

 

成長意欲のある子供は、現代には山ほどある色々なツールを利用して貪欲に成長していく。 

逆に昔で言う一般的な子達は、怒られないし強制されないので、びっくりするほどやる気が無いし、ネットを見る事に一所懸命になりすぎ。 

 

かと言って誉めてやる気を出させるのは至難の業。誉めて伸びる子は昔からいますが、子供は基本、誉めれば現状に甘える、楽な方に行きたがる(昔も自分や周りの友人もそうだった)。 

じゃ、どうやって成長させていくのか、、、とても難しい問題だと思います。 

 

 

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動物において体罰とご褒美によるコントロールが有効なのは事実 

 

人間も言葉の理解ができない足らないうちには一定の体罰が有効なことはある。 

ただそれでもできることは「悪いことをしない(させない)」「指示したことを実行する(させる)」のに有効なだけ。 

 

体罰の問題では「自身の考え」は求めてもないしできるわけもない。  

本当に危険な状態のひとをまずは席に着かせるまでのことのために体罰は最も効果的なのかとは思う。ただやれるのはそこまで。 

 

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この方が以前番組で話していた内容は生徒が教師などに胸元を掴みかかってきた時に、それらを力で押さえつけるなどは必要などというので議論があった 

校内暴力など学校全体が荒れていた時代もあり 

そうした中では、一定程度の抑圧は教師も自分を守るためには必要だった時代もあったかと。 

自分は少し後の世代だけど高校は少し荒れていたからか、教師側が暴力などをふるえば犯罪行為となり 

警察などにすぐ通報するみたいに話していた。 

体罰はいけないですし時代も変わりましたがこうした状況にいかにして対処していくかは難しい一面はあるかなとは思います。 

 

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昔働いてた社長の息子が戸塚ヨットにぶち込まれてた。聞けば物凄く横着で社長夫妻では手に負えず警察の世話にもなり親の手で◯すかどうか迷ってた時に無理矢理ぶち込んだとか… 

数年後その息子が帰って来たが、戸塚ヨットにぶち込まれてたと言われないと解らないくらいに普通の兄ちゃんになってて今ではその会社の跡取りとして頑張ってるらしい。 

戸塚ヨットは表面的に見たら当然批判は出るだろうけど助けられてる親御さんも居るのは事実だし根っこからプライドやら何やらをブチ折らないと人って変わらんのかなとも思った。 

そもそも平成初期でも中期でも体罰等は普通の学校でも当たり前に有ったしそれが当たり前だった。 

それこそ近所のオバハンやオッサンが悪さしてる子供をド叱るなんてのも当たり前の光景だった。 

 

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親が最低限を教えて居ないなら、その部分に置いての体罰は必要だと思う。今の世の中、子供に最低限を教えずにそこを教師に求める親が多すぎるから。 

出来ないから体罰を与えるのと、常識に外れてるから体罰を与えるのとは全く違う。教育自体がそこを一緒にしてはいけないと思います。 

 

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昭和生まれで、しかも体罰やら虐待やらに晒された私は、絶対にこんな大人にはなりたくないと思いつづけ、今ではどんな理由であれ体罰は絶対に良くないというスタンスです。 

因みに私の姉は、体罰をする大人に対して、やられようが意地でもやり返すタイプで、部下や弱い者には優しいが、上司の不正は絶対許さない下剋上が趣味みたいな大人になり、 

弟は、体罰がトラウマになり、今でも大声を出す人を見れば萎縮する大人になりました。 

体罰が原因なのか当人の性格なのかは分かりませんが、多感な少年時代は特に、口でも手でも暴力は良くないと思います。 

戸塚さんは、なくなった方もいるのに、反省していないのでしょうね。 

 

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中学生の頃なので20数年前の話ですが、当時スイミングスクールに通っていて、コーチから何かにつけてビート板もしくは素手で頭を叩かれていました。理由は、ストレッチのフォームがおかしい、タイムが遅いなど。ビート板って叩かれると結構痛いし、プール内に音が響くんですよね…あの時はビクビクしながら通ってたなぁ。今ではもう考えられないことですが、当時は「指導」。親も何も言わない時代でした。 

 

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極端なんだと思います。優しく丁寧に指導すれば伸びる子もいます。 

厳しく、怒鳴りつけて指導した方が伸びる子もいます。 

どっちが100パー悪でどっちかが100パー善なんて事はないと思います。 

俺は少数派だと思いますが、厳しく育てられて強くなることができました。 

優しい環境では甘えてダメになるタイプの人間です。 

たまたま厳しい環境だったことに今は感謝しています。 

 

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暴力を使えば子どもは善悪の道理を忘れ、された怒りだけが積み重なっていく。また、暴力での解決にすぐ頼るようにもなる。それは教育の名に値するとは思えない。 

しかし、静かにかに諭し続ける事だけが教育だとも思わない。人には喜怒哀楽があり、それを責任もってしっかりぶつける、それが責任ある大人のすべきことなのではないか。 

 

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昔、このヨットスクールに入れた親のインタビューを聞いた事があったが、両親は戸塚を神様の様に言っていた。また、実際に入所した生徒の話も聞いたがあの体験がなければ今の自分はなかっただろうと、良かったと言っていた。 

人にはそれぞれの人生があるが、親にはどうしようもない子供を立ち直らす不思議な存在の戸塚ヨットスクールがあるのも事実だ。故人の石原慎太郎も協賛者だった。ただ、行方不明者(死人)がでたのも事実だ。賛否両論者がいるのも事実だ。 

 

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言葉の暴力をどう捉えるのか。 

言葉で心身を突き刺すのは体罰と何ら変わらないのでは。 

 

だとすれば、大きな声を出す、恐い顔してジッと見る、あなたは酷いと悲しんでみせるといった行為も体罰と同様に批判されるべき。 

 

親に依存しなければ生きていけない幼児にとっては、親の不機嫌な態度だけでも体罰同然の、苦痛による支配ともいえる。体罰は身近に存在している。 

 

受けとる力も弱い幼児に、すぐにでもやめさせたいことがあったとき、体罰を避けながらどう教えているのか、達人の技を聞いてみたい。 

 

 

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職員も悩んでいた、重度の自閉症の方の行動障害を一瞬で治した方がいるのですが、その方のやり方は、「好ましい行動をしているときに褒める」を徹底することでした。 

 

奇声をやめてほしいならば、黙っているときにひたすら大好きなチョコをあげる。確か10秒黙っていたら細かくしたチョコをあげる。とかだったと思います。 

 

奇声をあげたらもらえないが、黙っていたら1分で6個の小さいチョコをもらえる。知的障害がある自閉症の成人男性が、このやり方ですぐに問題行動をやめたそうです。 

 

何がいいたいかというと、暴力では行動を根本的に変えることはできないということてす。 

 

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昭和世代 

「口で言ってわからないから手が出る」って親によく言われ叩かれていました。兄弟喧嘩すれば2人とも正座で座れ!と怒鳴られ、それこそ1時間じゃ許してもらえませんでした。 

学校の先生には 

「どんどんやって下さい。言うことを聞かないうちの子が悪いので」って今で言う体罰をされましたけど、今思えば‥先生の言う事を聞かずに友達と喋っていた自分が悪いなと思います 

今の時代はアウトですが自分達の時代は普通に先生にひっぱたかれたり、チョークが飛んできました笑 

 

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人間を育てるのに、栄養面で3大栄養素が重要と誰もが理解してるがそのうちの脂質、糖質に過度な制限を掛けると身体の負担も大きい事は最近色んな現象で分かって来た。 

体罰も過度な制限・批判が必ずしも良い影響なのか?疑問を持たれてる時期には有る。 

子供を体罰無しで、立派に育て上げた例も有るだろう。しかし、それを科学的に説明出来なければ旧態の昭和・体罰時代より今がストレスに弱い現状は変わらない。 

 

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戸塚氏の理論は、教育心理学の知見に基づいていると思います。 

 

人の成長過程においては、しばしば自身の成長を動機づけられることが必要になります。生まれつき怠惰な特性を持った人は成長の機会を失うことが多く、生きづらさを自ら強化していく悪循環に陥りやすいです。 

 

動機づけには内発的なものと外発的なものがあり、体罰、あるいは何らかの報酬によって動機づけることを外発的な動機づけと考えます。要するにほめて伸ばすも、体罰で伸ばすも、本人の内なる好奇心のような内発的に動機づけられたものではなく、受動的なものであって、外部から誰かが働きかけるという点で同質なのです。体罰を加えるのも、褒めるという報酬を与えるのも実は効果に差はありません。どちらも与えられなくなれば成長が止まります。体罰が良くないのは教員に刑事訴追されるリスクがあるためです。あくまでも教員保護のために体罰を使わないようにしようということです。 

 

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彼のスクール生はどんな子たちだったか? 

言えばわかる反省して実行できる普通の子良い子は通わない学校だったはず。 

その辺り加味しないとだめかなと。 

それでも体罰は不可と言い現場の教師を縛り付けるならどういう結果になるか? 

疲弊してリタイアする教師だらけになるのではないか?理想は素晴らしいが。 

 

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戸田ヨットスクールは、やり過ぎでしたね。 

私も昭和生まれ昭和育ちでよく親や先生に殴られたものです。でも憎んだり、してません。それがあったからまともな人間でいられると思います。 

人の痛みを知る。殴られたらこんなに痛いんだ。 

だから人に本気でやる事には、ありません。 

本気で殴ったら死んでしまいます。 

殴られた事のない人が怒りに任せて人を殴って死なせてしまう事件がよくありますが、殴られた事がないんだな?と思います。 

暴力、体罰、指導は、紙一重だと思いますが、昭和の人、平成の人、令和の人それぞれの考えがあるでしょう、でも時代なんか関係ないです。その人に最善の指導は、何なのか?人それぞれ違います。 

時には、ゲンコツの1つも必要な気は、します。 

こういう書くと批判もあるでしょうが、仕方ありません。 

でも今の子供は、温過ぎて、この先大丈夫かな?と思ってしまう。 

 

=+=+=+=+= 

経験則だとか特定の人の職人技ならば、やはりデメリットを考えざるを得ない。 

体罰には誰ひとりの命を奪わず、誰にとっても平均的に教育的効果が高いというならば、科学的根拠を示してほしい。 

 

=+=+=+=+= 

敢えて本題と違う話をする。自分は戸塚ヨットスクールの指導方法の「一部」には効果があるのではと考えてもいいと思っている。もちろん「体罰ではなく」ヨットに乗る事だ。大昔だが事件が起きる前にTV番組で指導の一環を見たのだが「一人乗りヨット」でギリギリの状態(と言ってもライフジャケット付き)に追い込むと方法だ。 

これ引きこもりや鬱状態の人間は脳内のドーパミンやノルアドレナリンが弱いという傾向があるのだが、それが改善する可能性があると思う。また男性であれば身体を鍛えること=男性ホルモンを出すことになり、これも鬱的なメンタルのは相当プラスだ。 

大事なことは「体罰が効果的」なのではなく、こういう鍛錬面で自分を追い込むことが精神の回復に効果があるかもという事だ。設立者はそんな事考えもしていないから「オレは体罰で成果を出したんだ、間違っていない」と思い込んでいる「だけ」ではないかと。 

 

=+=+=+=+= 

ある程度の体罰は必要だと思うが、戸塚ヨットスクールの映像を当時観た時は衝撃だった。海上で竹刀で殴り、罵詈雑言を浴びせながらバケツで海水をぶっかけ続ける。舎で横一列に並ばせ端から殴りつける。挺から何度も叩き落として海水をかける… 手のつけられない不良だとしても体罰の範疇をこえてただの暴力と思った。 

 

=+=+=+=+= 

人それぞれに応じた指導、教育方法があると思います。改善、進歩、向上を目的として人体に物理的な苦痛、叱責を与えることで良い結果を出すことに繋がる、これは歴史的、生物的、心理的な科学的な事実です。ただ、万人に適しているわけではありません。悪い最悪の結果になるケースもあります。全否定をする人は過去を調べることをお勧します。 

 

 

=+=+=+=+= 

体罰は本来、どうしようもない不良とか相手にやっていたもので、それは自分もある意味仕方ないと思う 

怖い先生がいないと、いじめっ子がのさばるから 

でもやる気出せない子やできない子ましてや不登校の児を叩くなんて言語道断 

やり返せない子どもを大人が叩くなんてただの暴行であり、将来そういう人間になる可能性もある 

弱いものを叩くのは弱虫であるという教育が今は必要 

社会問題になったのになぜまた指導しようとしているのか理解に苦しむ 

 

=+=+=+=+= 

私が小中だった頃は体罰は当たり前でしたね。 

理科の授業の時に教科書を忘れた女子がいたんですが、その女子を理科の男性教師が思い切り殴りました。小柄な子だったので一番前の席から4番目くらいの席まで吹っ飛びました。勿論、顔も腫れました。 

さすがにやりすぎだと女子が全員で、抗議してPTAも巻き込んで大騒ぎになりました。 

理科教師はその場では謝罪しましたけど、それからも体罰は当たり前で卒業式にお礼参りと称して卒業式を終えた先輩たちから体育館裏で肋骨が折れるくらい殴られました(当時は行内暴力があった時代です。金八先生の2期くらいの時期です) 

今でもあの女子が殴られたことは覚えていて、思い出すと嫌な気持ちになります。体罰は何も生みません、やり返されるだけです。 

 

=+=+=+=+= 

どうしようもないほど荒れた子どものかけ込み寺的な存在だったみたいですね。 

一緒に暮らしていたら、親を殺しかねない、すべを無くした親が子どもを殺して心中しかねないような状況の最後の頼みの綱のような存在です。 

肯定は出来ませんが、一歩的に否定も出来ないような気もします。。 

当事者になったらどう思ったことか。 

助かった家庭も存在します。 

平成、令和の世ではあり得ませんが。 

当時の子どもの環境と今と比べてどちらの方が健全かどうか何とも言えません。 

間違いなく今の方が良いのならねぇ。 

子どもが教師に「暴力振るえんもんならやってみろ」とか言って脅すような昨今ですから。 

難しいですね。 

 

=+=+=+=+= 

これに関しては賛否が分かれるでしょうね。この人が言うように「体罰は善」とは思いませんが「必要悪」ぐらいには思いますよ。必要な時に行使できないから変な大人が増えていく、不必要な時に行使するから事件になる、ってだけで。 

 

体罰は一切必要ないと思う方々は、最近もあった教師に向かって「死ね」と言い放った子がいた事件とかはどう思うんでしょうね。「話せば分かる」と言う人もいるでしょうが、全員が全員「話せば分かる」のであれば、世の中の暴力沙汰の事件なんか、もっと少なくてもいいはずなんですけど。 

 

=+=+=+=+= 

善は流石に違うと思うけど笑、かといって絶対的な悪とまでは言い切れないとも思う。 

 

本当に他人の痛みがわからないで、悪意の有無に関わらず他人に暴力行為をはたらくような子に、どうやってそれがダメなことなのかを理解させようかと真剣に考えれば、体罰と言われるような指導方法もその一つの方法として(かつ最終手段としては)存在し得ると思うし。 

 

まあそこまで真剣に向き合う中での具体的行為であれば、それはもはや「体罰」として一括りにはみなされない可能性もありそうだけれど。 

 

=+=+=+=+= 

そもそも、体罰と暴力は境界線が曖昧ということを理解しないといけない。 

だからと言って体罰=悪と決めるのも短絡的だと思います。 

教育現場での体罰は法によって禁止されているわけだから絶対に許されない。(学校教育法) 

学校教育法の適用外であるのなら体罰について論じるのは問題ないと思います。 

勘違いしてはいけないのは殴る、蹴るは体罰ではない。単なる暴力です。 

 

=+=+=+=+= 

『体罰』自体の善悪より、目的、効果、執行者が感情的になっていないか?等々総合勘案した先の善悪だと思います。 

死人が出る体罰が善の訳ないし、逆に親を殴る蹴るするような子供を親が最後にすがる様な気持ちでスクールに預けた場合、綺麗事だけでそんな子供が矯正される訳がないので、体罰も善とまでは言わないけど必要悪だと思う。 

 

=+=+=+=+= 

体罰は絶対的に悪とまでは思わない。 

 

ただし、それを行使するのは条件が2つあると思う。 

 

ひとつは、対象の子の行為が人間として、やってはいけないことをやった時。 

例えば、集団で弱い子一人をいじめた時にはビンタの一つくらい張ってもいいと思う。 

見て見ぬふりするよりは何倍も立派ですよ。 

 

もう一つは、叩く方に人格的な資格があること。 

 

クソみたいな奴に叩かれても憎しみしか生みませんか、尊敬している人であれば、納得、反省するものです。 

 

=+=+=+=+= 

問題はその体罰の技術が継承されず失われてしまったことだろう。科学的検討も許されず一気に。仮に体罰を与えようとしてもタイミングと効果、方法などどうしていいか全くわからない。自分を信じ本能に任せていいのかな。だから今はただ盲目的に悪にしか位置づけられないだろう。暴力は反対だけど体罰の効果や方法についてどこかで人目に付かないように研究されてればいつか聞いてみたい。体罰は社会の進み方とリンクしている可変的なものかなのもしれない。 

 

=+=+=+=+= 

子供の性格にもよると思いますが子供の時の体罰は萎縮しますよ 

授業中先生から「わかった人は手を挙げて」と言われて手を挙げないとゲンコツで頭を殴られる、殴られた子は次回は殴られるのが怖いから答えがわかっていないのに手を挙げる、自信無げに手を挙げてるからそんな子を先生は敢えて指す、でもわからないからしどろもどろになって何も答えられない、そしてまた殴られる。 

こういう先生いたんですよね。 

怖いから、萎縮する子、質問が怖くなる子、人前で話をすることが苦手になってしまう子、その場をごまかすことを覚える子を作ってしまうんじゃないのかな? 

 

体罰は完全に否定する派ではないんだけど、法を犯すような悪事を働いたわけでもないのに自分の意に従わせるために殴るってのは制圧するだけの暴力です 

自分が教える能力が無いことを殴ることでごまかしているとしか思いません。 

 

 

=+=+=+=+= 

子供の性格にもよると思いますが子供の時の体罰は萎縮しますよ 

授業中先生から「わかった人は手を挙げて」と言われて手を挙げないとゲンコツで頭を殴られる、殴られた子は次回は殴られるのが怖いから答えがわかっていないのに手を挙げる、自信無げに手を挙げてるからそんな子を先生は敢えて指す、でもわからないからしどろもどろになって何も答えられない、そしてまた殴られる。 

こういう先生いたんですよね。 

怖いから、萎縮する子、質問が怖くなる子、人前で話をすることが苦手になってしまう子、その場をごまかすことを覚える子を作ってしまうんじゃないのかな? 

 

体罰は完全に否定する派ではないんだけど、法を犯すような悪事を働いたわけでもないのに自分の意に従わせるために殴るってのは制圧するだけの暴力です 

自分が教える能力が無いことを殴ることでごまかしているとしか思いません。 

 

=+=+=+=+= 

結局は、求められた事案対して求めた側を満たす結果を残せないから、求めた側が言葉の説得でなく、実力行使に出るということ。 

 

ヨットスクールという限られたコミニュティの中では成立するかもしれないが、それはスクールに希望して入学しているから。入る前に選択できるはず。 

 

体罰は善ではないが、躾の中で必要なコンタクトはある。  

一概に否定する人はそこが分っていない。 

 

=+=+=+=+= 

結論としては、自分が受けてためになったと思う教育方法が、その人にとって正しい。あるいは効率優先で教育した場合、過半数に効果があって手間のかからない方法が正しい。職業教育者であればなおさら。 

 

確かに昭和ヤンキーは殴って直すしか方法がなかったというのも実体験として共感できます。この先根性論なしでどう社会が全体的に発展して行くか。たぶん我々の死後の世界だし、確認はできませんが戸塚さん含めて見守ることくらいしかできませんよ。 

 

=+=+=+=+= 

昭和の頃も知っているが、ハチャメチャなことを言っている印象。体罰はやはり「悪」だと思うが、全否定はできない。例えば、命を落としかねない危険な行為や、万引きをした、誰かにに暴力をふるった我が子どもに「今度はしてはだめよ」と言葉での注意で私は終わる自信がない。究極のところで手を挙げざるを得ない、お互い心を痛めるしつけの最終手段というところではないのかと思う。ここで大事なのは感情的だけではなく、なぜ手を挙げたのかを相手を思い筋を通して説明できるかどうかだ。また、(暴)力で来た場合「力」で返すしかない場面も否定できないと思う。一方、頻繁な力の制裁(指導)はまさに暴力でしかない。そんなもので人は成長しない。まして連帯責任で体罰を受けるとは、当事者でないのであればただ暴力を受けるだけのことで、体罰ではないものの平成の時代でも経験したが、理不尽極まりない意味不明な指導だと思っている。 

 

=+=+=+=+= 

「体罰は悪」と言うけれど、刑法では死刑や懲役刑がある 

子供は全て善人と言う訳ではない → 他人をイジメる子供もいる 

子供は、善人からは殴られなくても、 

悪人から殴られたり、刺されたり、殺害される事もある 

 

古来から1970年代頃までは、殆どの子供はそうして育てられた 

そとて、殆どの人は素直な大人になっている 

理不尽な体罰は嫌だが、悪い子供を体罰で減らせるかも知れない 

体罰も教育方法の1つとして容認したら良いかも 

 

=+=+=+=+= 

今から40年以上前、私が小学生の時、ある日、理科の授業で使う教材を授業の1〜2時間前に担任の先生が、教室の先生のデスクのところに置いていました。理科の授業が始まり、先生が教材をチェックすると、紛失している事が分かりました。すると先生の顔がみるみる鬼の様になり、怖い目つきで、私達生徒を見回し、怒鳴り始めました。私は誰がやったんだろう?と思いながらキョロキョロしていると、誰からともなくクラスメート等が、私の名前を言い始めました。「オイ!○○出て来い!」と私の腕を無理やり引っ張って、クラスメート等の前に引きずり出し、胸ぐらをつかんで、「お前の仕業か?お前がやったと皆が言ってるぞ!」と言って何度も私を殴りました。私は「私じゃないです。知りません。」と答えましたが、全然聞く耳を持たず「まだ嘘を言うのか!」と言いながら拳で何度も殴り続けました。今になっても時々思い出す嫌な記憶です。 

 

=+=+=+=+= 

死刑を容認する人が体罰を否定するのはおかしいよね 

親や社会では手に負えなくなってしまった子供や青少年は、しつけでなく調教から始めないと社会に適合できる人間にするのは無理なケースもある 

暴力でしか自分を表現できない子には、痛みを覚えさせないと理解できない子もいる 

人は誰しも何らかの障碍を持って生まれ、成長と共に障碍を克服したり、長所で補うことで社会に適合していく 

肉体の障碍、知能の障碍、精神の障碍、行動の障碍… 

自分と、親や学校や社会の協力と学習によって成長しながら、社会に馴染んでいく 

体罰が必要な子供もいることは否定できない… 

 

=+=+=+=+= 

体罰問題 

倫理観のある人間として素晴らしい方が本当に本人の為にと、行う体罰は意味はあるだろうが、体罰を与える人の人格が大いに問題になると思う 

その中には 

腹が立ったとか 

カッとなったとか 

単に権力者の感情に左右されかねない 

総じて得てして表面化するのは理不尽極まりない体罰事件だから、体罰は一括駄目となる 

これにより明らかにつけ上がる者もいるのは事実だろう 

 

=+=+=+=+= 

暴力はないに越したことはないが、暴力を行使しないと納められないこともある。昭和時代の不良が蔓延していたころは、授業妨害やまじめな生徒に暴力をふるう生徒がおり、ある体育教師が鉄拳を奮っていました。その体育教師は体罰で有名でしたが、話してわかる生徒には決して手を挙げることはしませんでした。話が通じない、放置していては他の生徒が危険な目に合うと見るやすかさず不良を捕まえて、右ストレート、ボディブローでボコボコにしていました。当時の不良は野犬と同じくらい凶暴で、話が通るような相手ではなかったので、致し方なかったと思います。 

 

=+=+=+=+= 

体罰は最後の手段であって積極的に使う手段ではないとは思うのだよね。ワイの小学校の頃の先生がそういう説明をしたのち、平手打ちとかしてたから先生は先生は信頼されていた。 

今ってそういう説明があれば理解する子供の方が圧倒的に多いから結果体罰はほぼ不要なんじゃないかって思う。 

 

ただまぁ、善悪の判断がつかない外国人とか見てると地域や国によっては必要なんだろうなって思う。 

 

 

=+=+=+=+= 

体罰厳禁、体罰は犯罪、現代では当たり前です。ただ、外力に弱い若者が増えた気がします。荒れた中学の自称不良や、そこを卒業した自称暴走族は良い例で根性がありません。就職しても厳しい先輩に叱られすぐにやめて行きます。第一次産業では日本の若者より厳しい環境で育って来た外国人研修生が活躍しています。戸塚校長の主訴は理不尽な仕打ちにも負けじと喰らい付いて行く人を育てると言う事ではないでしょうか。ただし、それが全て良いと肯定するつもりはありません。全部否定するのではなく、考え方の一つとして頭の片隅に置く価値はあると思います。 

 

=+=+=+=+= 

体罰はダメだと思う。 

そして死者を出している戸塚ヨットスクールの考え方は間違っていると思う。 

理解できるように指導するのは必ずしも体罰が必要ではない。 

 

しかし言葉による暴力も精神的に追い込み同じように思う。 

そう考えると実質的な体罰だけでなく精神的な威圧も暴力と言える。 

 

ただ、大相撲や柔道の稽古は相当きつい。 

そうした稽古では「かわいがり」があるがこれは体罰ではない。 

まぁ大相撲ではかわいがりならぬ体罰で問題になった事件を思い出すが、それではなく本来のかわいがりが人を強くさせることは事実だと思う。 

 

つまり間違った指導者はこの「かわいがり」と「体罰」を履き違えている指導者が多いと言う事ではないかと思う。 

 

=+=+=+=+= 

金八先生もスクールウォーズの山下真司も体罰してました。体罰を許容する表現なので今じゃ放送すらできないだろうが。 

戸塚氏のいた頃の時代背景と戸塚ヨットスクール中身を知る人なら全否定は出来ないだろう。あの頃の報道からは親が見放した子供問題も同時に問題視されていた。彼なりの正義があるんだと思うけど、やはり許されないとは思う。また受けた体罰に愛情を感じるのは時が過ぎないとされた側は理解出来ないとも思う。教育ってほんとに難しい。 

 

=+=+=+=+= 

その本人の意に添わない内容を、人に聞かせるための方法として、 

暴力、怒り、威厳、権威、合理性、などなどあると思うが、暴力が一番原始的な方法なことは間違いない。 

 

体罰は言語能力や理解力の低い対象でも伝わるものであり、痛みという不快な行為や恐怖などに基づく指導と言えるだろう。 

 

痛みや恐怖は同時にその人の人格や肉体的にもネガティブな影響は大いにある。このデメリットを超えてでも行う意味がどこまであるか。 

これを厳密に捉えていないと、単なる人に言うことを聞かせるための一番単純な方法を取ったに過ぎない。 

 

体罰は方法として一番行いやすく、一番とりあえず言うことを聞かせることができる方法である。 

つまり、教える側が無能であればあるほど、まず最初に、優先的に取る方法が体罰なのである。 

 

体罰を肯定するということは他の難しい方法を使って教えるできないという言い訳に過ぎないのではないか 

 

=+=+=+=+= 

昔、校内暴力が盛んな頃に家庭に置いておけなくなった子らの最後の預け先になっていたのがこのスクール。当時は発達障害という概念もなく、おそらくそういう子らを恐怖で改造しようとしたものだと思うが、精神医学的に本当に効果があるのか検証されていないのでは。確かご本人の説はそうした子らは脳幹に問題があって、死の恐怖を与えることで治るというものだったような・・ 

 

=+=+=+=+= 

当時小学生でしたが連日の過激な報道合戦を覚えています。 

 

自分を含めていまここでコメントしてる方々はあの異常な事件について殆ど何も知らないので単に体罰の是非を議論しても始まらないと思います。 

どういう環境の子たちが集められたのか、当時いくらくらいの入学金だったのか、職員はじめ賛同者はどのくらい居たのか、分からない事ばかりで。 

 

個人的にはあれを体罰と呼んではいけないと思います。 

殺人に当たらないの判断にせよ刑も短か過ぎました。 

 

宗教家のようなカリスマ性が有るので、よく分かっていない人が飲み込まれてしまうのも理解できます。 

 

=+=+=+=+= 

体罰が絶対に悪ならよくある漫画やアニメの修行シーンはなぜ描かれるのだろう?人間を超えるためには体罰も一つの方法かも知れない。 

ただ、漫画はフィクションであることを加味して考えるとヨットスクールでは死んでいる人もいる。それは正しい方法じゃないからではないだろうか? 

体罰は教える側に絶対的な能力と計算と正しさが必要だと思う。 

 

=+=+=+=+= 

体罰しても愛される教師はいたが、それは愛情に溢れていたからだ。ただ、その教師に感化された生徒が教師になった時に「あの先生がやっていたように俺もやろう」なんて言って、好き勝手に暴力同然の体罰を行う危険性もある。そういうリスクもあるから、やはり体罰は行うべきではないのだ。 

 

=+=+=+=+= 

自分も昭和生まれだけどこの人はやり過ぎた。行き過ぎた体罰はダメだが、ゲンコツくらいは許されていい。今は大人が手を出さない(出せない)事を分かった上で行動する子供もいるようだ。子供にとって大人は畏怖の念を持つ対象でなければならない。 

 

=+=+=+=+= 

当時と今を同列に論ずるのは愚かです。 

そして、「体罰」と「暴力」を混同してはいけない。 

私の子供が小さかった頃、先生に対して 

家の子が悪い事をしたら体罰をしても 

正しい事を教えて欲しいとお願いしていました。 

暴力は反対ですが体罰は容認していると。 

 

ただ、体罰の範囲が明確でなく 

怪我を負わせてしまう事例を考えると 

全てを暴力に認定してひとまとめにして規制を掛ける方が楽でしょう。 

しかし、人の痛みを知らないまま大きくなった子供が 

大人顔負けの犯罪を犯すのではないでしょうか? 

 

イジメから殺人を犯す様な凶悪な10代が増えているの 

一つは教育制度のせいもあるのではないかと考えます。 

 

確かに、戸塚氏は逮捕されましたが 

事実として、戸塚ヨットスクールで救われた人がいるのも事実です。 

 

 

 
 

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