( 203579 ) 2024/08/20 17:13:06 2 00 「日本の仏教」と「釈迦本来の教え」の決定的な違い 日本では「大乗仏教」に形を変えて広まった東洋経済オンライン 8/20(火) 12:02 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/5e869deeeb3003837fbc17b5698bb1efb4256c0f |
( 203582 ) 2024/08/20 17:13:06 0 00 釈迦は「教えが変わるだろう」ではなく「教えが滅びるだろう」と考えていたはずです(写真:SA555ND/PIXTA)
古舘:それなら釈迦はきっと、「大乗仏教」のように形を変えて世界中に広まるなんて思いもよらなかったでしょうね。日本では釈迦の仏教ではなく、神や仏といった絶対的存在を認める大乗仏教が浸透しているわけですから。
そもそも、なぜ日本では大乗仏教が普及したのでしょうか。時代背景も含めて、佐々木先生にうかがいたいです。
■自分の中にある仏性
佐々木:大乗仏教の特徴の1つである「悟りのインスタント化」が大きいでしょう。大乗仏教は釈迦の仏教とは違って、自分の中にある煩悩を自分の力だけで消していこうとするのではなく、なんらかの外的な助けを借りて消そうとします。たとえば、「自分の心の内には、もとから仏が存在している」という仏性思想は大乗仏教の代表的教えの1つですが、これは「自己を見つめる」という行為だけで悟りを開くことができると考える点で、悟りへの道が極端に簡略化されています。この教えを究極にまで推し進めると「いまの状態がそのまま悟りだ」という、釈迦の教えとはまったく異なる現実肯定論に行き着きます。
古舘:自分の中にある仏性に気づき、人として正しく生きていれば誰もがブッダになれるという物語は大乗仏教でよく説かれていますが、ストーリー性のある説法が民衆にとって親しみやすかったのでしょうか。
佐々木:親しみやすいというよりも、救いの道がインスタント化されたために、そのアピール度が釈迦の仏教よりもはるかに高いのです。誰だって「困難な道を時間をかけて歩まねばならない」という教えよりも「誰でも簡単に悟れます」という教えに惹かれるのは当然のことですから。
いまの産業世界の商品でたとえると、最初に出てきたのは釈迦の仏教。そのあと、さまざまな機能をつけ足して出てきたのが大乗仏教です。ベースとなる最初の製品に便利な機能をつけて「こちらのほうが手間を省けますよ」というふうに次々と新製品がつくられる。こうして悟りの領域や道筋がどんどんと簡素化していき、機能性の高い改良されたものが手に入る、という形で大乗仏教は生まれました。
古舘:炊飯器にたとえると、「ワンタッチでご飯が炊けますよ」みたいなことですね。
佐々木:そうです。かまどで炊くのが釈迦の仏教なのですが、それがワンタッチで炊けるようになってくるのです。
ただしここで問題なのは、そうやってインスタント化した教えが、本当に私たちの生きる苦しみを消し去る機能を持っているのかどうかです。インスタントなものにはそれなりの怪しさもつきまといますから。これに関しては、大乗の教えでいいと考える人もいるでしょうし、釈迦の教えのほうが信頼できると感じる人もいるでしょう。そこは選択の問題です。
ともかく、こうして新たに登場したさまざまなスタイルの大乗仏教は皆、「我こそが釈迦の教えである」という看板を掲げてインドに広まっていきました。時系列に沿って釈迦の仏教から種々の大乗仏教へと、仏教は次第に変容してきたと皆わかっているのならば、「最新式のインスタント仏教は便利だけれども、本物は別にあるのでは」という半信半疑な気持ちになりますね。ところが、どの製品も「これこそが釈迦が説いた本物だ」という謳い文句になっているわけです。知らない人が見たら、どの製品を選ぶでしょうか。
古舘:全部に「元祖、本家」とついているなら、最新型を選ぶに決まっていますね。
佐々木:はい、こうして、歴史的には一番新しい教えが、最も良い製品として皆の注目を浴びるようになるのです。
■真理は1つではない、人それぞれ
古舘:失礼な言い方かもしれませんが、大乗仏教は大変便利であると言えますね。だから僕も、生きるうえで重宝しています。
だけど、真理は本来そこまで便利ではないし、やはり薪やかまどで炊く最初のやり方が本物だと思っています。それなのに、実生活では便利な最新式を使ってしまう。このような二重構造で生きていいのでしょうか。
佐々木:どちらを選ぶか、どのように使うかは消費者によります。釈迦の教えでなくても最新式ならいい、という人もいるわけです。自分にとって生きる支えになるのであれば、別に本家でなくていいでしょう。
ですが、私も古舘さんも釈迦の教えが真理だと信じていますから、釈迦の仏教を選びました。それは私たち独自の感性の表れであって、それが唯一の正解だ、などということにはなりません。必要に応じて最新式の大乗仏教を取り入れることも、もちろん間違いではありません。どちらをどのように選んだとしても、その人にとっては真理なのです。
古舘:真理は1つではない、人それぞれ違うということですね。
■何を選んでも自由
佐々木:その人が選び取った真理を、「間違いだから捨てなさい、こちらを真理として選びなさい」とは言えません。宗教は科学ではありませんから、それぞれが何を選んだとしても自由です。私たちが釈迦の教えを素晴らしいと言っても、普遍性のある主張ではない。それぞれの領域のものを選び取って、これこそ釈迦が一番言いたかったこと、釈迦の本意はこれだったと個人的に解釈するわけですから。
古舘:だから大乗仏教の世界では、釈迦の教えをさまざまな形に変えた教義が生まれてくるのですね。
佐々木:その変遷が大乗仏教の多様性を生むわけです。もし大乗仏教が釈迦の教えを曲解しただけの底の浅いものだったら、これほど長きにわたって信仰されていないでしょう。とっくの昔に途絶えてしまっているはずです。
古舘:現在に至るまで日本で信仰されてきたのには、それなりの理由や意味があったわけだ。
佐々木:たとえ釈迦の教えとは教義が違っていたとしても、その多様な世界を知ることによって大乗仏教の存在価値が見えてくるでしょう。
古舘:なるほど。ただ、科学がここまで信仰されるなか、私のように信仰はほしいけどあの世や神、仏といった超越存在を信じ切ることは難しく、「信仰難民」と化している人間には、実践できずとも、釈迦仏教の真理は沁みるのです。
古舘 伊知郎 :フリーアナウンサー/佐々木 閑 :花園大学特別教授
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( 203581 ) 2024/08/20 17:13:06 1 00 仏教の教えや歴史について多角的な視点から様々な意見が述べられています。
(まとめ) | ( 203583 ) 2024/08/20 17:13:06 0 00 =+=+=+=+= 『妙法蓮華経』(植木雅俊和訳)と浄土三部経の『仏説無量寿経』を比べると前者の方が釈迦の教えに近いのかな…。何れにせよ後期高齢者に近づき、喫緊の課題を持たない年齢になったら一度目を通すのもいいのでは。自分は健康管理のために1週間の内の6日間かけて正座で浄土三部経を一回誦読するよう心がけています。会話の機会が少なくなると、優婆塞生活は腹式呼吸につながりリハビリにもなりますよ。
=+=+=+=+= インスタント化というのも、悟りへの到達不可能性への自覚が根底にあったのではないか。 永遠の修行者である諸菩薩の登場もそうだし、 修行者だけではなく一切の衆生を救済するための教えというのも、 縁起を仔細に観察してみたら個人で修行しても関係する周りの要素も改善しないと無理じゃん! という気づきに起因してるような気がする(縁起の観察は上座部の長老たちから連綿と行われていたんだろうけど)。 あんまり遠すぎてアクロバティック涅槃が生まれたりもするんだろうけど、 江戸あたりの妙好人や待定法師のような人の生涯を見れば、 別に信者がみんな安穏に流れていたわけでもないし、 あまり現代の日本仏教の状況に大乗全体を引き付け過ぎなのではないか。
=+=+=+=+= 元々の釈迦はバラモン教からの独立として仏教を立ち上げた。修行して死にかけた為に修行に意味はなく悟りが大事だと。 ところがその悟りの為には釈迦が修行したという苦役を体験しないと得られないのではないかと修行する小乗仏教になり、やがて修行が目的のバラモン教の様な教えに戻った。本家のインドではその後ジャイナ教などに変遷し、仏教もこれを取り入れた。 それが輪廻転生や八葉などの曼荼羅に取り入れられる。 最初仏教はキリスト教の様に異教の神を悪として排除していたがやがて仏教に帰依したとして取り入れた。 阿修羅や弥勒、不動明王など。日本では神仏習合となったが中国では神仙思想として仏教も内包する。日本も道教の影響は意識することなく入っている。9字切りなどは道教から来ている。
このようにそもそも他の神を取り入れて発展した仏教はその本来の教えから変化するのは致し方ない必然でもある。
=+=+=+=+= そもそも、(大乗でも小乗でも)仏教では、生きていくことは必然的に苦悩を抱えていると説く。そうであるならば、生きていくことそのものが、悟りを開くための修行と考えることが出来るのではないか。何も、寺に籠ることだけが修行ではないと思う。昔の貧しい人たちなど、なおのこと、寺にいるよりも、生きていくこと自体がとんでもない苦しみであったはずだ。 我々のような小市民が、何とかして日々を生きていく、その中で仏を拝んだり、神様を拝んだりする。大乗仏教が説く通り、これが悟りの道(成仏)に繋がっていると言ってもいいのではないでしょうか。
=+=+=+=+= 大乗仏教も初期仏教から数百年後にインドで発生したもので、そこに至るまでも仏教の変化はあったし、そこから中国を経て日本に伝わっているのだから、そもそも日本では初期仏教なんてものの正確な内容に触れる機会は無かったのでは?大乗仏教からすると個人の悟りを求めるものに過ぎないと批判的に扱う内容は含まれていたかもしれないけどさ。 ただ大乗仏教というくくりの中では多種多様な宗派に分かれたから、その中では選べただろうけど。
=+=+=+=+= 釈迦の教えが最新科学であることは、多くの人は知らない。 著名な物理学者は皆仏典を学んでおり一例として量子とは釈迦が宇宙を説くときに使った微粒子という表現からきています。 釈迦の言う正法が終わり像法に入って以降の坊主が、釈迦を理解しきれずに題目や念仏にしたりしたことで宗教に堕したということです。
今こそ釈迦の説いた本物の教え、第5の教えを学ぶべきときが来ました。
=+=+=+=+= このあたりは、法華経までにいくと そこそこ理解にたどり着く、というか、釈迦が 仏陀となって衆生に何を願ったのかが明らかに なっている。 「如我等無異」です。 仏陀といっても人間です。ゆえに凡夫にも仏性が内在していると 説くのです。
釈迦の教えは方便が多くてわかりにくく、 さながら階段を登っていって「究極の法」に至るもの。 そのどの段階で修業が止まったかで教えが 変えられたかのように見えるだけで 小乗大乗また迹門本門が「間違っている」という ことではないし、また大乗はインスタント化したという ものでもありません。
哲学という観念の域を超えた悟達の域なので、 自ら仏と開く境地に至るのは難しいです。 釈迦も弟子のうちでも頭のいい舎利弗にでさえ 「あなたにはわからない」と言っています。 また他の弟子には「良き友と縁することは仏道の 半ば、ではなく、仏道そのもの」と教えられています。
=+=+=+=+= 怒らず焦らず暑いなか満員電車に乗り、自分本位な人だらけの中で不平を言わずサラリーマンができるなら、山の中の雰囲気のある寺で優雅に坐禅を組むより遥かに修行としては遥かに難易度が高い。
=+=+=+=+= 単純に根本の仏教と大乗仏教に分けるより人が悟りとして求めているのが真理か救済かの違いでしょうね。後発であっても禅宗と念仏系のように似たような差異があるように思います。
=+=+=+=+= 日本仏教は一応大乗仏教系統ではあるが、日本に渡来する前に、チベット系の密教、中国の道教や儒教などさんざん手垢にまみれた形で入ってきたもの。さらに、仏教到来前の祖霊崇拝や神道系アニミズムも取り入れている。したがって、日本仏教=大乗仏教という議論は空疎な議論でしかない。怖いのは、佐々木氏はそれを十分ご存知なのに、寝ている子を起こさぬよう核心をよけて、きれいに話をまとめていること。これだから。日本仏教は釈尊の教えから離れ、単なる「御霊扱い処」に成り下がったままなのだ。
=+=+=+=+= 生きることは苦しみで永遠に繰り返す輪廻転生から悟りを開いて抜け出そうという釈迦の教えが、中国に渡ったら仏教徒なら死んでも何度もやり直せるの?イイじゃん!と歓迎された。そこに修行を積めば仙人になって永遠に生きられる道教、子孫が供養すれば魂が現世に戻って来れる儒教と合わせてどうあっても永遠に生きられるセット宗教を作り上げた。さらに日本では死んだあとは神様になるという神道まで習合。生きることに貪欲な我々東アジア人らしい仏教だよね。
=+=+=+=+= 学校で歴史を学習するときに、聖徳太子や聖武天皇は仏教の教えで政治を行ったと。最初に習うと???となるんだよな。お経をあげてりゃ政治になるんだ、人が救われるんだと。何とまた簡単な。そういう感じなんで、教師に質問すると、まあ大概はまともな答えは返ってこない。 当時の仏教の教えは、いわば今の「科学」に相当し、自然現象や災害、病などなど人々を苦しめる元を「科学(仏教の教え)」で解説し、その解決方法を人の行動(まあ信仰か)で納めようと。そういや、薬草などは僧侶の専売特許だし薬師観音もいるし。 絶望するな、56億8千万年後には弥勒が現れて人々を救ってくださる、か。その時は地上には全ての起伏がなくなり、気候は年中温暖、作物もよく実り、人々は一切の苦しみから解放されているそうだ。なにしに救いに来るのやら。 ま、キリスト教のように迷える子羊として、すべての罪を赦してもらう方が楽か。マフィアのようにな。
=+=+=+=+= いきなり「それなら」で始まっているけど、何かの続編なのかな。
大乗仏教と小乗仏教、西遊記(だったかな)には、「仏の教えを簡単に紹介するのが小乗仏教、真の教えは大乗仏教」と説明されていた。 で、当時中国に広まっていたのは小乗仏教で、三蔵法師が取りに行くのが大乗仏教(を含むいろんな教え)、それで中国の人たちを真に救うのだ、とされていたように思う。
でも、この記事だと、反対に近いだね、
=+=+=+=+= 私は日本の仏教は全く評価しません。歴史的にも、儒教と一緒になって人々を抑え付けるようなものになっています。そして解脱というよりも、迷いに導き解脱を妨げ、再び無念を抱えた魂が地上に輪廻して戻ってくるような仕掛けになっているのです。そうすると、地上に戻った魂は救いを求めて、また、お寺に来て、檀家さんになってお墓に入ってくれる。そうすると、お寺は益々儲かり太って大きくなっていく。こういう闇組織の元締めの様な感じになっているのです。きちんと魂を救済して上に返し、天に戻って、もう地上に魂が戻らないようにするというところまで行ってないのです。そういう点では、まだキリスト教の方がましな気がします。特に酷いと思うのは、最近の日本の仏教界は魂の存在すら否定しているように見えるところです。これだと死んだら迷ってしまいます。本当に、物質主義に迎合してしまい、葬式仏教に成り下がっています。反省して欲しいです。
=+=+=+=+= 仏教の本来の姿は、宗教というより思想のように感じます。しかし、お金を集めるシステムと結びついて、どんどん都合よく改変されていったように見えます。現代の宗教のほとんどは、集金システムであり、救われる人より、騙される人の方が多い気がします。
=+=+=+=+= 「ドゥッカ」(苦)から解放されるにはどうしたらよいか、釈迦自身が具体的な手法を説かれなかったため、弟子たちがお経や坐禅、修行、戒律など色々考え出した結果、仏教という形になった。多くの人々に広めようと考え出されたものが大乗仏教。それが日本にも伝わった。本場のインドでは仏教は廃れて、ヒンドゥー教が主流。
=+=+=+=+= 初期仏教的考えだと、自分は絶望しか感じない。 大乗仏教系の教えの方が、ちょっとはいい事いい人になろうかな?という気になられる。それで社会が自分が楽によりよくなれるなら、それでいいんじゃないかなと思ってる。
=+=+=+=+= 釈迦は人間はいくら苦行を続けても、欲望を消し去ることはできないと覚ったのでは? 欲望は死ぬと消える。死は平等に訪れる。だから欲望に囚われる争い事などの諸行は無常と教えた。豪華な祇園精舎に住まわれたのは欲ではなく、愚かな金持ちに覚らせるためだった。
=+=+=+=+= >日本では大乗仏教に形を変えて広まった
正確には中国朝鮮経由で入ってきた仏教自体はすでに大乗仏教だった 日本のスゴいところは、平安仏教、更に鎌倉仏教等時代を重ねるたびに、大乗仏教が変容し、発展(なのかどうかがわからないが...)していったことかもしれない
=+=+=+=+= 本来、仏教には先祖を供養する発想はありません。お釈迦様自体、家族を捨てて出家しました。江戸時代以前、地位のある人だけが供養塔を建てて先祖を弔いました。庶民はお墓など作っていません。江戸時代の寺請け制度が始まりです。
=+=+=+=+= 文献学者が読み解いたパーリ仏教とか原始仏教だけが真の仏教だというのは、プロテスタントのキリスト教観を移植した不健全な見方だと思います。
それと大乗はインスタント化してないでしょう。インスタント化したのは一部の日本大乗だけ、特に清沢満之によってプロテスタント化された真宗でしょう。
大乗を明治以降の日本仏教で捉えるのは無理があるでしょう。
なぜか、文献学者の語る仏教より一般人の語る仏教のほうが、仏教に近いような。
=+=+=+=+= 仏教にも釈迦入滅後百年ほどして、釈迦の教えを守っていこうとする上座部と、もっと柔軟に対応しようとする大衆部に分裂してさ これを根源分裂と言われている。 その後、インドで仏教の衰退もあり、紀元一世紀ごろに新たに仏教の大衆化を目指した大乗仏教が成立した。 大衆部仏教に関しては、どうなったかよくわからないが、インドでの仏教衰退と共に消滅していったのだろう そして上座部仏教は東南アジアやスリランカなどに広がり南伝仏教とも言われている 対して大乗仏教は、チベットや中国・日本などに広がり北伝仏教と言われているな 日本仏教は大乗仏教の中でも特殊だと思うが。 いずれにしても日本で大乗仏教が広がっているのはこうしたことからだ それと、上座部仏教のことは、大乗仏教は以前は小乗仏教と蔑む呼び名を使っていたが。 近年は国際的な仏教会議で、お互い釈迦の弟子同士、そういう事は止めましょうという事になっている。
=+=+=+=+= 日本の仏教はどれだけ世界宗教に なれたでしょう? 仏教というまやかしな括りに 日本人は幸せを求めず多神多仏が 楽しいから良いのでは? 昔、ある社会学者が日本人は、 仏壇教信者が大多数と言っていました。 教義など必要としない生き方。
=+=+=+=+= 大乗仏教は伝播過程でその土地土地の習俗・土着信仰を取り込んで変質を繰り返していますからね。 密教なんかはバラモン教(ヒンドゥー)成分山盛りですし、日本に至るまでの大陸ルートを経る間に道教を取り込み、日本に至ったら頭のいい人達が学び必至で考えた結果、本地垂迹思想にいきつき神道とフュージョンさせちゃうし。 だから日本仏教は大乗仏教のトドのつまり「ニッポン教」なんですよ。
=+=+=+=+= 自分は悟っている。
神も仏も人間の妄想で、天国も地獄も魂も無いと理解している。人間は死んだら水蒸気と灰になり魂は消滅する。残された遺族の記憶の中で生き続けるが、次第にその記憶も消滅していく。
そんな簡単な事だ。
=+=+=+=+= 花園大学の教授と話したことあるけど、 なんかちょっとおかしなテンションで 鹿苑寺にいたお坊さんの方が詳しかった記憶。
=+=+=+=+= 日本の仏教は、檀家ありきの葬式仏教であり、お釈迦さんの考えやお経の中身など、基本的に誰も知らない。
ただひたすらにお教を唱えていたら成仏できると考えているだけなので、個人的には不要です。
寺にカネを取られるだけなので、私の代で寺との縁も切りました。
=+=+=+=+= 比叡山でお釈迦様がリタイヤした苦行の様な修行をクリアしたら生き神様になるという時点で、日本の仏教界は、お釈迦様を利用しているだけで、信じていないだろ。
=+=+=+=+= 悟ってることを悟ってないんだよ。そのために修行がある。 悟りが別のどこかにあると思っている。 ここにあるんだ。 みんな毎日感じてるでしょ?それが悟り。 それに好き嫌いをねじ込むから悩む。 悟ってるんだよ。
=+=+=+=+= そもそも木の下で座禅を組んでたオッサンの話を2千年も経って各自が勝手に解釈(歪曲)したのが現在の仏教であり、 大乗だろうが上座部だろうがそれは同じ。
だいたいよー、そんなオッサンが「三途の川があって、四十九日でナントカかんとか」なんて作り話をするわけねーじゃん。
火を燃やして板っぺらを入れて「護摩壇がー」とか作ったはずねーじゃん。
色即是空とか言ったかもしれないけど、本当に伝えたいなら分かりやすく伝えろよ(笑)
仏教も商売色が強すぎだよな(笑)
=+=+=+=+= そもそも木の下で座禅を組んでたオッサンの話を2千年も経って各自が勝手に解釈(歪曲)したのが現在の仏教であり、 大乗だろうが上座部だろうがそれは同じ。
だいたいよー、そんなオッサンが「三途の川があって、四十九日でナントカかんとか」なんて作り話をするわけねーじゃん。
火を燃やして板っぺらを入れて「護摩壇がー」とか作ったはずねーじゃん。
色即是空とか言ったかもしれないけど、本当に伝えたいなら分かりやすく伝えろよ(笑)
仏教も商売色が強すぎだよな(笑)
=+=+=+=+= 葬式には僧侶を3人は呼びなさい。 できるだけ位の高い戒名を付けなさい。 年忌は毎度毎度しっかり行いなさい。 というのが日本の仏教の教えだからね。
=+=+=+=+= まあ、日本人は実際仏教を信じてないからね。 日本人が信じてるのは、仏教等を媒体とした先祖教。
仏壇で、仏様にお祈りをする人なんていないでしょ。みんな先祖にお祈りをするでしょ。 仏壇で一番大事なのは、仏像じゃなくて、先祖の遺影、位牌でしょ。 そういうこと。
=+=+=+=+= 人は簡単な方簡単な方に流れるからね。 浄土真宗は楽だから最大派閥になったし マニ車を回せばお経唱えたのと同じっていうのも怠け者の仏教って感じがする
=+=+=+=+= 「諸行無常」を説いたのは仏教では? なら、仏教もまた変化していくだろうに。
=+=+=+=+= こうやって普及した訳だからね。
=+=+=+=+= せめて、お経を漢文ではなく、日本語訳してくれ!
=+=+=+=+= そりゃ輸入元の中国が大乗仏教だもの
=+=+=+=+= 日本仏教は大乗の大乗
=+=+=+=+= 商業仏教としか思えません。
=+=+=+=+= すごくマイルドな、宗教系ステマ? 気に入らない。
=+=+=+=+= 日本に入って来たのは仏陀の経典ではない。大乗仏教はなんちゃって仏教である。1円の価値も無い。仏陀の教えが仏教である。
=+=+=+=+= 母親が創◯学◯員です。 どのような宗教でも、家族を騙して上限無く献金をさせるのは間違いだと思う
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