( 204822 )  2024/08/24 16:14:37  
00

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/byryo 

 

学生時代の就職活動で心が折れる経験をした人は多い。コンサルタントの勅使川原真衣さんは「受験とちがって就活は選考基準が不透明。時には履歴書に書いた“プラチナ住所”のパワーで合格する人がいるほど不公平だ。学生側も、嘆いても仕方のない社会の掟として、傷つきつつも涙を飲んで、就活という儀式を通過していく」という――。 

 

【この記事の画像を見る】 

 

 ※本稿は、勅使川原真衣『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)の一部を再編集したものです。 

 

■就活では明らかに「傷ついている」大学生がたくさんいる 

 

 たとえば、就活。この学校から職場への入口は、「傷つき」の宝庫であり、それと同時に「傷ついた」とは言えない事例の宝庫でもあります。 

 

 これは実話をもとに創作しているエピソードですが、うなずく方が少なくないと想像します。 

 

---------- 

就活はゲームだということくらい心得ているつもり。でも、けっこう食らう。この世は実力主義! 自分次第! なんて聞くけど、たかが企業説明会すら、自分次第どころではない。予約サイトに「満席」の表示だけが躍り、予約すら許されないのだ。 

 

社会ってこんなところなの? 恐る恐る、難関大の一つであるW大の友人と実験してみたら、もっと心えぐられた。スタバでPCを並べて、「せーの!」で説明会予約をしようとしたのだ。友達のほうが私より驚いていたかも。目を白黒させながら、 

 

「え! 本気? まってまって、ガチでそっちはオール『満席』じゃん。エグッ」 

 

私も「マジ世知辛いんだけどー」と笑ったが、カフェでそうする以外の選択肢はなかった。なんか、受験より、つらいかも。受験でテストすら受けられないなんてことなかったのに……。「勉強なんて社会に出たら……」なんていよいよ言えなくなった。ヤバい。 

---------- 

 

■Fラン大学はそもそも企業説明会で「満席、お断り」の現実 

 

 「まじか~」と、そこまで応えていないふりをしようとも、これはふつうに痺れます。 

 

 かつて、「ふぞろいの林檎たち」という、山田太一脚本の名ドラマがあったのをご存知でしょうか。1980年代~90年代の「学歴社会」のヒエラルキーをリアルに描写したものだと称されたのですが、そこでの就活の一場面は、当時の「学歴社会あるある」とされていました。 

 

 もちろんアナログ就活時代ですから、予約受付を裏でコントロールはできません。だからこんな場面が出てきます――。「今から申し上げる大学の方は別室に移動してください。東京大学、一橋大学、慶応経済、早稲田政経……」と企業の人事風の人がアナウンスするのです。これは現代の感覚からして、エグい。主人公たちはいわゆる「Fラン」大学の若者なのですが、時任三郎演じる岩田が、たじろぐ友人・西寺(柳沢慎吾)にこう諭すのも印象的でした。「胸張ってりゃいい」と。 

 

 何事もなければ、わざわざ「胸を張る」必要すらないわけで、裏を返せば、胸を張っていないと身体が縮こまってしまうような事態が、就活という学校から労働へのイニシエーションと言えます。虚勢を張らないと切り抜けられないほどの虚しさ、悲壮感が漂っていたことは推察にたやすいわけです。 

 

 

■そもそも過去の話である学歴が未来の就職の決定権があるのか? 

 

 さてここで考えたい(問題提起しておきたい)そもそも論が、2つあります。 

 

 ① そもそもなんで学歴(学校歴を含む)は、過去の話なのに、仕事という未来の話の決定権があるのか? 

② そもそもどう見ても理不尽なのに、学生はなぜ「就活で傷ついた……社会は狂っている!」と言えないのでしょうか? 

 

 という点です。 

 

 これは、壮大な社会的構造の問題があります。 

 

 ①は、企業も「職業的レリバンス」と呼ばれる研究(大学の難易度と、仕事を滞りなく遂行することとは、どう関連しているのか? を明らかにする研究)をする学問側も双方で、ある事情から、問題を指摘しきれていないことが大きく関係していると私は見ています。言ってしまえば、「仕事の遂行を完全に予見するために、本当はどの情報が必要なのか?」が、よくわからないままなのです。 

 

 また、②については、メンバーシップ型雇用前提の新卒一括採用というシステムの影響が多大と考えます。その波を逃すと、正規雇用に乗れない。文句を言ったり、泣いたりしている暇があれば、就活で「勝てば」いいだけ。そんなことで戦ったらそれこそ「負け」、という話に合理性の軍配が上がるのです。 

 

■就活は「社会の厳しさ」を見せつける通過儀礼になっている 

 

 そうして、学歴が未来の仕事のパフォーマンスを予見する意味では、雑音か定かではないまま、今日も元気に企業や就活サイトは、「学歴フィルター」機能を裏で活用しつつ、学生に「社会の厳しさ」を見せつけています。また学生側も、嘆いても仕方のない、社会の掟として、傷つこうが涙を飲んで、就活という「儀式」を通過していく――問うてはいけない「通過儀礼」としての就活が見えてきます。 

 

 内実がかなり怪しいものなのに、それを問う暇もなければ、事実上の権利もない。そんなよくわからないものに生殺与奪権を握られる。 

 

 とこれはディストピア(反理想郷、ないしは地獄絵図)そのものです。心を削るのに、そんな弱音の1つも吐くような真似は、「豆腐メンタル」のダメ就活生の烙印が押されるなんて、傷つかないわけがないのです。 

 

 また、別の例もあります。次も採用スクリーニング(選抜)に関する逸話です。 

 

 とある企業の採用をコンサルタントとして支援したときのこと。 

 

 先の学生の話のように、就活サイトの管理画面で、どの大学ランクまでメール配信に入れるかどうかや、そもそも説明会の予約枠をどの範囲まで持たせるか、なども一緒に考え、実際に画面を見て、操作することもあったくらい、入り込んで支援をさせていただいていました。 

 

 そこでこれでもか! というくらいの、「学歴不問」という名のフィクション、学歴/能力主義社会のイニシエーションを見るに至ったわけですが、「傷つき」という文脈で、どうしても振り返りたい事例があります。 

 

 

■就活の不合格をひっくり返す学生の「プラチナ住所」が存在 

 

 日本最高峰の大学の1つの学生2名(ともに理系の院生でした)が、ある超有名企業の選考にきた際の話。もちろん「学歴フィルター」を突破し、面接に臨んだわけですが、ひとりは合格、もうひとりは不合格となりました。 

 

 実は、合格した側も不合格になりそうでした。どういうことかというと、採用責任者であるその会社の部長が、不合格を出す前に再確認のためエントリーシートを眺め直していたところ、 

 

 「プラチナ住所、気づかなかった?」 

 

 と新卒採用業務に携わっていたその場の全員に問いかけたことで、いわば敗者復活したのです。どういうことか? 

 

 プラチナ住所? 白金台? など初耳だと思いますが、この場で使われた「プラチナ住所」とは、都心の超のつく地価の高い一等地にそびえたつタワマンの住所を、「帰省中住所」という欄に書いてあったことを指していました。部長は「成功者の御子息」という言い方で「落としちゃダメだよ~。面接に呼ぼうよ」と皆に触れ込んだのでした。 

 

■コネなしで不合格になった学生の方は「かわいげがない」が理由 

 

 対して、不合格が確定した側はどんな背景があったのでしょうか。ひとり親家庭出身の塾にも行ったことのない猛者(もさ)だったのですが、その部長の、 

 

 「カルチャーフィットが弱い」 

「うちっぽくない」 

「『チャーム』がない」 

「育ててあげたいという気がしない」 

 

 の一声で、あっけなく不合格となりました。 

 

 ちなみに「カルチャーフィット」とは、その組織文化への適合性を指しているようですが、文化への適合性とはつまり、なじみやすさ、親しみやすさであり、好き嫌いを土台にした相性と言い換えてもよいと私は考えます。「うちっぽくない」とほぼ同義です。 

 

 また、「チャーム」とは、ずばり「かわいげ」です……。従順とか、素直とか、要は「扱いやすさ」とも換言できそうですが、かわいいやつなら育ててやる、という非常に乱暴な話を恥ずかしげもなくしている、ということになるわけです。 

 

 これはそう単純に何が正しい・正しくないでは語れません。言語表現を超えた何かを見破り、決定したことかもしれないし、その企業に入ることが人生の誉(ほま)れでもないのだとしたら、なんとも外野が言い様のない事象です。 

 

 

■「成功者の子息を採用すると活躍しやすいのか?」と聞けばよかった 

 

 ただ私は、躊躇(ためら)いもなく、「カルチャーフィット」だの「チャーム」だのというそれっぽといことばで、好き嫌いにも近そうなことが判断され、本人はおろか、採用関係者の中でもそれに異議を示すことが難しかった、という事実に無力感と違和感をいまだに覚えます。 

 

 せめて私も、「プラチナ住所」ということばに圧倒されていないで、「成功者の御子息を採用すると、あとあと活躍しやすいなど、依拠すべきご経験がおありなんですね? 後学のためにお聞かせください」くらい、その部長に尋ねてもよかったでしょう。 

 

 採用で肝要なのは、差別なく、双方にとって相性のよさを見極め合う機会が作れている場か否か、ですから。 

 

 不合格となった、反骨精神のあるタイプの彼とはその後話していないので、どう思ったのかはわかりません。でも、面接である程度の手ごたえもあったから、「育ててもらった人や社会に恩返しがしたい」と熱く語ったのだと思うと、 

 

 「結局こういうことか……」 

 

 とがっかりした、もっと言えば、「傷ついた」のはまず間違いないのではないでしょうか。きっとどこかで活躍していることと想像しますが。 

 

■選抜の基準がわからないまま「合格」「不合格」になるのは傷つく 

 

 就活の「傷つき」の事例を改めて見てみると、「選ばれる(選抜される)」よろこびと、「選ばれない」悲しみと、実に悲喜こもごもの様相だとも言えます。 

 

 将来の大事なことについて、選抜の基準がよくわからないまま、選ばれたり、選ばれなかったり。つまり、解せないことが起きている。そんなことがあれば誰しも、混乱したり、落ち込んだり、心揺らぐものではないでしょうか。 

 

 しかし、いくら「傷ついた」としても、選ばれなかった側に、発言権はありません。仮に発言したところで、「負け犬の遠吠え」「ルサンチマン(ねたみ)」「だからできないやつなんだよ」くらいの返り血を浴びてしまいそうです。 

 

 基準がどうであろうが、選抜の決定権を持つ側に生殺与奪の権は握られているのです。 

 

 となると、傷口はそのままに、とりあえず前を向くしかないという状況なわけですが、これを二重の「傷つき」と呼ばずして、なんと呼びましょう。 

 

 何をどう努力すれば、確実に就職できるのか。神のみぞ知るような状態で、そんな不透明で不公平な社会をも、強く、しなやかに、生きていけと叱咤激励という名の放置が許されてしまう。はっきり言って……、「傷つき」ます。 

 

 

 

---------- 

勅使川原 真衣(てしがわら・まい) 

コンサルタント 

組織開発専門家。1982年横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て、2017年に独立。組織開発を専門とする。二児の母。2020年から乳がん闘病中。著書に『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)、『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社新書)、『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)がある。 

---------- 

 

コンサルタント 勅使川原 真衣 

 

 

 
 

IMAGE