( 207668 )  2024/09/02 01:33:16  
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江戸時代の町奉行は行政面だけでなく、金融政策まで担う激務だったという(写真:koro/PIXTA) 

 

昨今、「政治と金」をめぐる話題がメディアにのぼらない日はありませんが、江戸時代の為政者である武士階級の金銭事情がどのようなものだったのかは意外と知られていません。 

国政の統治者である江戸幕府の財政事情から、時代劇でお馴染みの町奉行や与力・同心、はては単身で江戸勤番にあたった下層節まで、武士階級のリアルな懐具合を解説します。 

※本稿は、磯田氏の監修書『新版 江戸の家計簿』から、一部を抜粋・編集してお届けします。 

 

【イラストで見る】時代劇でお馴染み、町奉行所の面々の懐具合 

 

■江戸幕府の財政収入は最大で約1兆3890億円 

 

 江戸幕府の誕生以来265年余り続いた江戸時代。人口が100万人を超える大都市へと発展した江戸は、その半数が武士である。支配階級である武士の生活を支えるためにさまざまな商人や職人たちが江戸に集まった結果、同時代のヨーロッパ最大の都市ロンドン(約70万人)やパリ(約50万人)を凌駕する巨大都市へと変貌した。 

 

 武家を中心とする統治機構によって日本全国を支配した江戸幕府の財政収入は、金に換算して約401万1766両に及ぶ(天保9〈1838〉年頃)。内訳は主に年貢収入や直轄鉱山からの収益である。徳川将軍家がおよそ800万石を所有していたと一般に知られる。 

 

 しかし、これは家臣の旗本の領地を合算した値である。実際には400万石ほどが天領で、江戸幕府中興の祖であり、享保の改革を実施した8代将軍・吉宗の頃に、新田開発と年貢徴収の強化で最大463万石に達したという。 

 

 現在の価格に換算すると、1兆3890億円となる。むろん、すべてが将軍個人の収入になったわけではないが、莫大な金額が幕府の財源となっていた。 

 

 江戸時代の武家社会は身分や格式が厳格に定められ、それに応じて、収入額も異なった。将軍の直臣のうち、1万石以上の知行を持つ者が、いわゆる「大名」である。 

 

 なかでも尾張、紀州、後に水戸の三藩は「御三家」と呼ばれ、最も格式の高い大名だった。将軍家に継嗣がない場合、この三家のうちから将軍が選出された。 

 

 江戸幕府に直属した1万石未満の武士を直参と呼ぶ。江戸時代には、将軍に謁見できる御目見得以上を旗本、謁見できない御目見得以下の武士を御家人としていた。 

 

■高収入の加賀藩を圧迫した「規格外」の参勤交代 

 

 大名の収入は、「加賀百万石」で有名な加賀藩の場合(102万5000石とする)、「現代感覚」で算出すると約3075億円にものぼる。しかし、江戸時代の大名は「参勤交代」の制度によって、江戸と領地を行き来することが義務付けられているなど、出費も多かった。 

 

 

 参勤交代における大名行列は、3万石クラスの大名で、150人から300人規模の供の者を従えた。しかし、加賀藩の場合、5代藩主・前田綱紀は、4000人もの大行列を組んだとも伝わる。 

 

 行列の費用や江戸の滞在費など、大人数の移動は大名にとって相当な負担となった。それは、藩財の約6割も占めたという。 

 

 将軍直臣のうち、1万石未満の直参は、旗本と御家人に大別される。武士の給与は「家禄」といい、個人にではなく家を基準としたものだった。 

 

 禄は米で支払われるのが通例で、「知行取」と「蔵米取」がある。知行取とは領地をもらうこと。たとえば知行500石は、500石の米が収穫できる土地を領地とすることを意味した。 

 

 年貢率は4割ほどで残り6割ほどが農民のものとなったから、旗本の実収入は200石となる。また、蔵米取とは、幕府から支給される蔵米によって収入を得ることをいう。 

 

 旗本は100石から1万石未満と大小さまざまだったが、200石から600石程度の中堅層が多数を占めた。役職としては主に管理職に就いたが、大別して戦時に備える「番方」と、行政等の組織運営を行う「役方」に分かれる。 

 

 書院番から奉行職になり大名にまで上り詰めたのが大岡忠相だが、江戸時代を通じて極めて稀有な例である。 

 

 御家人は、将軍直参のなかでも「御目見得」以下である。将軍に謁見する権利はなく、俸禄の多くが蔵米取だった。収入も旗本に比べ少なく、宝永年間(1704-1711年)の蔵米高によれば、50俵未満、10俵以上の御家人が9割を超していたとされる。主に与力や同心など、奉行の下で働く職に就いた。旗本が務めた奉行、御家人が務めた与力、同心は時代劇でもお馴染みの役職である。 

 

■高給取りの半面、激務だった町奉行 

 

 旗本は役職に応じて、役料を得たが、そのすべてが役職に就けたわけではない。全旗本のうち半数にも及ぶ2300家は無役だった。 

 

 こうした無役の旗本であっても、江戸城の石垣や屋根の修復といった普請(工事)には人夫を派遣する役目があった。無役のため役料は入らず、ただ出費だけがかさむ。旗本の半数が経済的に逼迫していたと言える。 

 

 そうした旗本の役職のなかでも江戸の町奉行は、南町奉行と北町奉行に1人ずつと、わずか定員2名。実務能力が高い旗本が選ばれた。俸禄も高く、約1050石、現在の価格にすれば、年収3億1500万円にものぼる。 

 

 

 むろん、家来の世話など出費もかさむためすべてが収入となったわけではない。しかも町奉行は激務だったことで知られていた。 

 

 江戸の行政・司法・治安維持・防災といった行政面だけでなく、経済・金融政策なども担う。そのため、在職期間は平均5、6年に過ぎなかったという。そのなかでも大岡忠相は20年間も奉行職を務めたというから、その優秀さが推して知れる。 

 

 南北町奉行にはそれぞれ、与力25騎、同心120人が勤務していた。奉行を補佐し、財政や人事から市中の治安維持まで、職務は多岐にわたる。 

 

 御家人身分で、禄高は150~200石ほどが平均。現在の価格にすると年収4500万~6000万円ほど。幕臣内では下級の部類とされるが、このほかに諸大名からの付け届けなど副収入も多く、裕福な暮らしだったという。 

 

 与力の下で実務を行った同心は、主に市中見廻りを担う、江戸時代の警察である。私費で岡っ引き(目明かしともいう)を雇い、捜査活動に従事した。市中の風聞を調べる隠密廻り、定期的な巡回を行う定廻り、臨時の巡回にあたった臨時廻りの3つを総称した三廻りが主な任務だ。 

 

 同心の家禄は30俵程度の小禄であったが、諸大名からの付け届けもあったという。 

 

 付け届けとは、一種の賄賂のようなもの。参勤交代のため、大名は江戸屋敷に多くの家臣を置いた。彼らが江戸市中で騒ぎを起こした際、穏便に済ませるために特定の与力や同心に付け届けをしたのである。 

 

 また、御家人は幕府から組単位で屋敷を拝領した。与力、同心の場合、八丁堀に組屋敷があったことで知られる。与力は約250~350坪、同心は100坪ほどの屋敷が与えられたが、学者や医師、絵師などに貸し付け、地代を取って収入にする者も多かったという。 

 

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■武士の給料の実態と、つましい日々の暮らし 

 

 米が貨幣の単位となった江戸時代では、武士の給料(禄)もまた、米で支給されるのが通例だった。金銭で支払われるのは稀で、食用にする分以外を換金して用いた。 

 

 上級の武士は主に知行地という領地を与えられ、その土地の年貢から支払われる。これを知行取と呼ぶ。下級の場合には、直接、米が支給される蔵米取(切米取ともいう)が一般的だった。 

 

 

 知行取の武士の収入は、親から子へと引き継がれる「家」に対する禄であるため、「家禄」と呼ばれた。この家禄に応じて役職に就くことができ、米で支給される役料や、金銭で支給される手当などをもらうことができた。 

 

 一方で武士は戦に備えるため、家禄の石高に対応して家臣を常時、雇わなければならなかった。家禄200石で約5人、1000石で21人ほど、1万石になると200人にまでなる。家禄が多いほどその分出費もかさみ、家計を圧迫した。 

 

 その他、下層の御家人や諸藩の下級武士のなかには「50俵3人扶持」と表記される者がいる。この「扶持」とは家来を雇うための手当であり、人数に応じて支給額が決まった。「50俵3人扶持」の場合、蔵米50俵は現在の価格にして約525万円。扶持は1日1人玄米5合支給とし、年間(360日で計算)すると1石8斗となる。 

 

 3人だと約5.4石。現在の価格にすると約162万円だが、家来の食事にも充てるので、すべて換金できたわけではない。 

 

 家族や家来を養い、その他、行事や仕事での出費もかさむため、武士は内職も余儀なくされた。傘張り、提灯作りから、金魚やコオロギ、鈴虫などを飼育し売り出すなど、さまざまな内職をし、家計の足しにしていた。 

 

■自炊が基本だった「単身赴任」の下級武士 

 

 人口100万人超の大都市・江戸は、その約半数が武士階級の人間たちで、その多くが江戸勤番として地方からやってきた武士だった。 

 

 そうした地方武士の江戸暮らしの実際を今日に伝えるのが、紀州藩士・酒井伴四郎の記した日記である。 

 

 禄高25石の下級武士であった伴四郎は、故郷・和歌山に妻子と両親を残して約1年7カ月にわたって江戸勤番を務めた。現代で言えば、単身赴任のサラリーマンといったところだろうか。 

 

 単身赴任の男性となると外食が常と考えがちだが、勤番侍が屋敷の外を出歩くのを、藩側は快くは思っていなかったため、基本は同僚の藩士と共同生活を送る長屋で、自炊をするのが日常だった。 

 

 朝に米を炊き味噌汁と一緒に食べ、昼はだいたい冷や飯で済ませるか、おかずに野菜、魚などを添えた。夕食は冷や飯を茶漬けにして香の物を添える程度である。 

 

 特に伴四郎が好んだのは、豆腐だったようだ。そのまま冷奴で食べたり、温めて湯豆腐で食べたり、串に刺して焼いた焼き豆腐なども買ったりしている。 

 

磯田 道史 :歴史学者 

 

 

 
 

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