( 207669 )  2024/09/02 01:33:16  
00

=+=+=+=+= 

収入が強調されているが、町奉行としての業務にかかる費用は、奉行職の旗本の収入から賄われる。 

そうなると、年収3億円相当あっても、それで今でいう東京都の半分(北町と半分ずつなので)の行政を担い、費用の負担があるのであれば、余裕のある生活ではなかっただろう。 

少し役割は違うが、治安維持を目的とする火附盗賊改メの長谷川平蔵を主人公とした小説「鬼平犯科帳」では、盗賊追捕の費用を賄うのに、400石の俸禄では足りず私財を売って金を工面する描写がある。 

真面目に町奉行の役目を務めれば、高禄の旗本でも費用が足りないこともあったのではないか。 

 

=+=+=+=+= 

今でもサラリーマンのほとんどは自炊が基本ですし、公務員がみんな女中さんがいるわけないです。それから政府要人の給料が良いのはそんなに不思議な話じゃないと思うんですけど。 

それに江戸時代はたぶん職務上必要な経費(通勤に使う駕籠屋さんや、品位を保つための諸経費、資料の確保、公務員ではない部下への依頼など)もコミコミでしょ? 

お奉行さまは高いなと思うけど、そう言うものではないのかなと言う気はします。 

 

=+=+=+=+= 

我が家の話で恐縮ですが、 

御先祖は最大で220石、江戸末期で120石。 

とは言え、どんな暮らしぶりかまでは想像出来ませんね〜 

 

ただ、御先祖のうちの一人は他家の若党を2人、無礼討ちにしたと記録にあり、本当に無礼討ちなんてのもあったのか、と思いました。 

 

何にせよ、幕末ともなれば、武士よりも商人の方が羽振りは良かっただろうと思えます。 

 

お奉行さま…大岡越前でも遠山の金さんでも、果ては暴れん坊将軍でも良いですが、現代にも蔓延る広瀬議員を始めとするような悪代官ならぬ悪政治屋を成敗して欲しいものです。 

 

=+=+=+=+= 

同心にも三廻りだけでなく多くの職域があった。 

高積見廻り、定橋係、本所方、牢屋見廻り 

門前廻り、例繰方、下馬廻り、とかね。 

町奉行所同心は、三十俵二人扶持だが 

町奉行所配下の牢屋敷同心の鍵役同心だと 

四十四俵三人扶持、鍵役助役三十俵三人扶持 

数え役同心二十五俵三人扶持、打ち役同心も 

同じ。 

牢屋敷下男は、五両一人扶持。 

でも、牢屋の囚人からの買物全て一手に引受けてた。何を買うにも二分(4万円) 

お釣りは全て牢屋下男の取り分となった。 

二十年も務めれば郊外に玄関、二間続き 

風呂、雪隠、台所、庭付きの家を建てて 

地元の下男下女を雇い悠々自適な生活を送れた。 

 

=+=+=+=+= 

奉行所の与力は武士だけど、同心は足軽。武士ではない。禄ではなく扶持米の給付を受けていた。しかしそれ以上に記事にもあるように町人や各大名家からの賄賂を多くとり、〇〇親分のような手下も抱えていた。実入りの多い役職のため表向き世襲ではないが、株により地位の取引がなされて事実上の世襲制だった。 

 

=+=+=+=+= 

江戸時代、農民は苦しめられたとされる。しかし、江戸時代の年貢は収穫されたものから払うので、収穫が少なければ年貢も少なくなった。 

これが明治期の地租改正では、農地の面積で割り振られていて収穫が無くても税金は発生する様になった。 

 

=+=+=+=+= 

200石=6000万円、1石=30万円, 1石=150kg、  

すなわち米1kgあたり2000円ということだろうが栽培も収穫も手作業で運搬は大八車で人間か牛馬が牽くからそれくらいコストがかさむのだろうか。 

武士の中では上澄み層と思われる100石取りの旗本だと四公六民で手取り40石(年収1200万円相当)なら妥当なのだろうか 

 

=+=+=+=+= 

蔵米取と呼ばれる家禄を米の支給で受け取る武士は、実際には直接受け取る例は少なく、幕府から家禄を証明する書類をそのまま米問屋に持ち込んで換金することが多かったとか、さらにその業務を代行する人も出てきてそれが「札差」と呼ばれる人たちだったそうです。 

 

=+=+=+=+= 

炭水化物中心の食生活のため栄養状態が悪く長生きできる人が少なかったのでしょうね。 

特に高齢になると適度な運動とタンパク質の摂取が大事だということがわかります。 

 

=+=+=+=+= 

>俸禄も高く、約1050石 

 

町奉行は勘定奉行と並ぶ重職で3000石級の旗本が選ばれていたはずです。鬼平犯科帳のモデルとされる火付盗賊改方長官の長谷川宣以の在任中の石高は1500石でしたから町奉行のほうが格上ということになりますね。長谷川宣以も町奉行になりたかったようですが望みがかなえられることはありませんでした。劇中でも町奉行を「〇〇様」と呼んでいましたから地位の差がわかります。 

 

 

=+=+=+=+= 

今も昔も、治安維持機関は変わらないみたいですね。 

町に精通していたおかつぴきのように、地べたに這いつくばって頑張っても、やっと捕まえても悪代官の自民党国会議員のように賄賂を食い放題でもおとがめ無し、つまりマネーロンダリングして脱税しても何もないからですね。 

昔の北町奉行・遠山金四郎や南町奉行の大岡越前ならば、今の自民党国会議員にどういう鉄槌を下しますかね? 

 

=+=+=+=+= 

徳川家康の都市作りはノーベル賞(平和賞、経済学賞)受賞に値すると思う。毛細血管の如く町作り、身分制度、職業と流通の確立等巨大にて繊細。成し遂げた要因はやはり、ロンドン、パリを凌ぐ市民の識字率だった。 

 

=+=+=+=+= 

町奉行は配下の者の給料、探索の必要経費、全部自腹だったらしいです。会社みたいなものですよね。年収という考え方は違うと思います。自分で使えるお金はそう多く無かったと思う。 

 

=+=+=+=+= 

徳川幕府はみかじめ料を米で要求する暴力団みたいなもので、米は一次産品なので時代が進んで経済が発展するほど武士が貧しくなってきます。豪農や豪商は米を加工して酒にして(二次)それを大都市で売り(三次)6次産品化して儲けます。 

 

=+=+=+=+= 

>>主に与力や同心など、奉行の下で働く職に就いた 

捕方は早々に家業化したので実質親から子へと世襲、優秀だからとか希望したからとかで就くものではありません 

絶家や旗本へ昇格した時には補充するために新規の与力・同心家が生まれる事が有りますが、まぁレアケースですね 

 

=+=+=+=+= 

あと、旗本が蓄財する機会を得るために渇望したのが代官職やね。 

時代劇に出てくるような悪代官も実在したってとやし、裁量次第で稼ぐこともできたと。 

 

=+=+=+=+= 

下級武士、それの次男坊三男坊は食えずに脱藩し、どこぞの用心棒にもぐりこんだり、新撰組に入ったらしい。 

農民も飢饉が続いたら悲惨。天変地異だから不可抗力。 

 

=+=+=+=+= 

激務と行っても捕物がなければ午後2時には上がってたよ、夜も灯す油代も勿体ないのでご飯食べたらすぐ寝てたし 

 

=+=+=+=+= 

参勤交代は陣所で殿様泊まるけど 

風呂は据え付けられて無いので 

風呂釜を担いで共する人役がいた 

そうです。 

 

=+=+=+=+= 

幕末はともかく武士の仕事の戦がないとなんとも言えない体制だな 

これで良く戊辰戦争起こせたな 

 

 

=+=+=+=+= 

中村主水は30俵2人扶持だったな。 

現代だと年収は400万ぐらいかな? 

 

=+=+=+=+= 

1石って30万くらいなんだ。7万くらいだと勘違いしてたわ。 

 

=+=+=+=+= 

極位極官的には 

尾張・紀州≧一橋・田安>水戸≧清水>加賀前田≧薩摩島津・・・ 

 

=+=+=+=+= 

中村主水はどのくらいもらっていたのだろう? 

 

=+=+=+=+= 

大阪の武士も記事にしてください。 

お願い致します。 

 

=+=+=+=+= 

昔は副業(内職)が盛ん 

 

=+=+=+=+= 

中村主水の職場 

 

=+=+=+=+= 

貧乏旗本の三男坊・徳田新之助=暴れん坊将軍・徳川吉宗 

 

 

 
 

IMAGE