( 208925 ) 2024/09/05 16:44:27 2 00 周瑜、諸葛亮、荀彧…三国志で最強の軍師、一番賢いヤツは一体だれか?JBpress 9/5(木) 11:06 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/2fa7259dad854fb3ed3180fe3a97cb12ba3eb4e0 |
( 208928 ) 2024/09/05 16:44:27 0 00 武侯祠の諸葛亮像 写真=フォトライブラリー
約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
【写真】後漢末期の208年、赤壁において、劉備と孫権の連合軍が曹操の軍を破った戦い。劉備は諸葛亮を使者として派遣し、孫権と同盟を結んだ
■ 知恵者たちが火花を散らした三国志時代、最強の軍師はだれか?
どのような武力も、駆け引きや知恵ある計略があってこそ実力を発揮できる。三国志の時代でも、この原則は同じ。戦闘マシーンのような猛将の呂布も曹操の軍勢に敗れ、初期最大勢力の袁紹軍団も、最終的に軍師と謀略家の知恵の差で曹操軍に殲滅されます。
流浪を繰り返していた劉備は、神のような英知を持つとのちにいわれた諸葛孔明と出会い、一つの帝国を創り上げるまで成功を重ねます。劉備と同盟して赤壁の戦いで曹操軍を打ち破った呉にも、周瑜や魯粛など戦略立案に長けた名軍師が活躍していました。
魏・呉・蜀の三国で、さまざまな軍師が入り乱れて知恵の限りを尽くして戦った三国志時代。
この時代に、一体だれが最強の軍師だったのでしょうか。今回の記事では、三国志時代最強の軍師を考察していこうと思います。
■ 三国志時代、最強軍師の候補者としてのリスト
入り口として、書籍『三国志最強は誰だ? (一水社)』と、『「三国志」最高のリーダーは誰か(ダイヤモンド社)』をまず参照してみます。前者では、知力が抜きん出た人物として以下を挙げています。
(魏)荀彧、郭嘉、司馬懿
(呉)周瑜、魯粛、張昭、陸遜
(蜀)法正、諸葛亮、馬謖
軍師というカテゴリーでは違うと思われるのは、呉の張昭、蜀の馬謖の2人でしょうか。『三国志最強は誰だ?』では、知力という要素のみで測られているため、指標のズレからも「張昭、馬謖」は除外します。
『「三国志」最高のリーダーは誰か(ダイヤモンド社)』では、軍師を7つのカテゴリーに分けています。「股肱」「軍略家」「名望家」「謀臣」「諫臣」「忠臣」「叛臣」の7つの分類に選ばれているのは、以下の人物です。
(魏)鮑信、荀彧、程昱、蔡瑁、孔融、司馬懿、司馬炎
(呉)魯粛、張昭、周瑜
(蜀)麋竺、諸葛亮
蔡瑁はもと劉表の配下であり、劉表の死後に息子の劉琮が曹操に降伏したために、曹操配下となった人物ですが、軍事にはあまり関与していません。同じく孔融、麋竺も軍事に関与していないため除外すべきでしょう。
司馬炎(魏を滅ぼして西晋を建てた)も、三国志時代の軍師とするにはやや時代が異なるため、除外します。
ここでもう1つの除外フィルターとして、「戦闘で負けて死亡したか否か」を提示したいと思います。このフィルターで除外されるのは魏の鮑信となります。
■ 魏の賈詡、蜀の龐統を検討リストに加えて選別を進める
除外したのちのリストを見ると、明らかな候補が2名欠けていると思われます。魏の賈詡と、蜀の龐統です。賈詡は謀略家として極めて優秀で、張繍の部下だった時に、曹操にいったんは降伏したのちに奇襲を行い、曹操の息子を戦死させるほど曹操を追い詰めました。
龐統は210年から214年の短い期間に劉備に仕えた人物で、益州攻略に功績がありながらも、敵の城を包囲する戦いで流れ矢に当たって36歳で戦死。劉備軍はこの戦いで敗走したわけではなく、「戦闘に負けて死亡」には当てはまらないのですが、若くして死去し、活躍の時期が短いため龐統も除外します。
(魏)荀彧、程昱、郭嘉、賈詡、司馬懿
(呉)周瑜、魯粛、陸遜
(蜀)法正、諸葛亮
さらに、早く病没した人物を抜き出してみます。魏の郭嘉、呉の周瑜、蜀の法正の三人が、優れた能力を発揮した軍師でかつ将来を嘱望されながらも病没しています。郭嘉は207年に38歳で死去、周瑜は210年に36歳で、法正は45歳で220年に病死しています。
郭嘉は袁紹との大戦争で曹操を勝利に導いた軍師ながら、赤壁の戦いの前に病没。周瑜は赤壁の戦いを指揮した軍師で、赤壁で曹操軍に勝利したのち、北上して天下を狙う計画中に病没。法正は劉備が漢中地域を制覇して漢中王を名乗ったまさにこれからというタイミングで病死しています。
この3名は活躍した時代がすこしずれていますが、軍功を考慮すると以下のように順位付けできるのではないでしょうか。
郭嘉(魏)>周瑜(呉)>法正(蜀)
いずれも本当に惜しい時期に病を得て死去した人物で、彼らが天寿をまっとうする人生を送れば、三国志は相当に変化していたと思わせるほどの軍師でした。また、曹操配下の程昱は、赤壁の敗戦以降に引退を表明して引きこもったため、程昱も除外します。
■ グランドデザインを描く大軍略家と、戦闘指揮官の2つの区分けをする
早くに病没した三人を除くと、以下のようになります。
(魏)荀彧、賈詡、司馬懿
(呉)魯粛、陸遜
(蜀)諸葛亮
ここで、軍師を2つの区分に分けて考察します。1つ目は、グランドデザインを描く大軍略家、2つ目は現場指揮が多い戦闘指揮官です。
大軍略家の分類に当てはまるのは以下の人物でしょう
「荀彧、魯粛、諸葛亮」
戦闘指揮官の分類は以下の人物になると思われます。
「司馬懿、陸遜」
荀彧、魯粛、諸葛亮にはそれぞれ戦闘指揮官としての活躍もありましたが、全体としてはグランドデザインを描いた大戦略家の要素が強いと判断しました。
ここで、最終の2つのフィルターを設定したいと思います。
(1) どれほど献策を実現させたか(あるいは戦闘に勝利したか)
(2) 事態の変化にどれほど上手く対処できたか(当初の計画と違う事態に)
2つのフィルターを元に、それぞれの人物を考察しています。
大軍略家のグループの荀彧は、曹操勢力を最強の軍団に押し上げています。しかし、赤壁の戦い前後で曹操と方針がすれ違い、漢王朝の復興を目指した荀彧の考えと曹操の野望が両立しなくなり、自害をすることに。その意味で、(1)の献策の実現は高得点でも、(2)においては失敗したと考えられます。
魯粛は孫権に皇帝になることを進言しており、天下三分の計という意味では、三国それぞれの鼎立を目標としました。赤壁の戦いでも降伏ではなく抗戦することを選び勝利し、荊州を劉備に貸し与えて防波堤としながら、劉備陣営が約束を破った(事態の変化)ときには、劉備陣営を軍事的に追い詰めて、荊州の一部を返還させることに成功しています。
魯粛は(1)で高得点、(2)においても平均点を上回る結果を残したといえます。
諸葛亮は、劉備に天下三分の計を進め、最終的に蜀による漢の復興を目指しました。赤壁の戦い以降は根拠地を得て、劉備を皇帝にさせることに成功。彼の計画には荊州の領有が欠かせなかったものの、龐統や法正の死去と関羽の敗死で荊州が失われたとき(事態の変化)、劉備死後も蜀を破綻させずに維持した意味では、事態の変化に対応したとも言えます。
諸葛亮は、(1)で高得点、(2)においても高得点といえます。
ただし、少しだけ長いスパンで観ると、蜀は魏を打倒する北伐を繰り返したことで疲弊し、264年に滅亡しています。一方の呉は280年に滅亡しており、諸葛亮のグランドデザインは、魯粛に比較して無理があったと推測されます。魯粛の描いた大戦略は、より現実的だったのです。
これらのことをすべて総合すると、大戦略家としての軍師の順位は
魯粛(呉)>諸葛亮(蜀)>荀彧(魏)
となります。
一方の戦闘指揮官としての司馬懿、陸遜ですが、共に戦場での功績は、欠点がないほど素晴らしいもので、司馬懿が諸葛亮の北伐でやや苦戦したことを除くと、両者は完璧に近い戦闘指揮官でした。しかし、司馬懿が曹丕の死去のあとの曹叡時代になってのち、待遇や扱いが異なってきた(事態の変化)に対処してクーデターまで成功させたのに、陸遜は孫権の跡継ぎを決めるお家騒動に巻き込まれて(事態の変化)、最後は憤死していることを考えると、総合的な優秀さは、圧倒的に司馬懿の勝利となります。
司馬懿>陸遜
最強軍師を決める結論として、2つのカテゴリーそれぞれの結論は、
◎大戦略家 =魯粛(呉)>諸葛亮(蜀)>荀彧(魏)
◎戦闘指揮官 =司馬懿(魏)>陸遜(呉)
となりました。ただし、それぞれの人物の生まれた時期が違うため、情勢の変化にどこまで対応できたと判断すべきかは、斟酌する必要があると思われます。
■ 別枠としての「賈詡」という謀略家の魅力
お気づきだと思いますが、最後の検討部分で「賈詡」という軍師・謀略家のことを議論しませんでした。それは賈詡という人物が、他の人物とは別の指針で動いていたことが理由です。
董卓が暴れていた頃は、各軍閥の調整役として機能し、董卓死後は李傕・郭汜に長安を奪回させる策を授けて成功させています。さらに張繡という武将の配下にあったとき、一度は曹操に降伏するも、張繡が曹操から受けた屈辱のために反旗を翻すと、奇襲の策を授けて曹操が九死に一生を得るような敗北寸前にまで追い込み、曹操の息子(曹昂)を戦死させました。
賈詡は、張繡が軍事的才覚で曹操にはるかに劣ることを見抜いており、自分のことだけを考えるなら、張繡の屈辱など無視して、さっさと曹操に仕えればよかった。しかし一度は自分を信任してくれた人を助けるために、圧倒的な不利を跳ね返す奇策を生み出してそれを成功させてしまうのです。
李傕・郭汜の件も同じで、漢王朝や社会騒乱の平定を考えるなら、この二人に助力をせずに、衰退するのを放置すればよかった。しかし、自分を信任してくれる上司を助けてしまう情が賈詡にはあったのでしょう。天才的な謀略家なのに、情を断ち切れない不思議な人間味が、この人物にはありました。
この情により、賈詡は曹操陣営に下ったときには、上司の息子を敗死させた者、二代目社長の兄を殺した人物として存在しなければなりませんでした。このとんでもない苦境でも活躍しながら天寿をまっとうしたのは、賈詡という謀略家の面目躍如というところ。そのため、他の軍師とは別のカテゴリーとして比較をせずにおいた次第です。
ここで議論した三国志の人物は、いずれも偉大な軍師であり、後世の私たちに叡智の凄さと、人生を生きる意味や大切なことを教えてくれる貴重な存在だといえるでしょう。
鈴木 博毅
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( 208929 ) 2024/09/05 16:44:27 0 00 =+=+=+=+= 諸葛亮の功績って劉備を飛躍させたことも勿論だけど、個人的に一番だと思うのは夷陵の敗戦で壊滅状態になった蜀漢の国力を6年で回復させ北伐まで持っていったことだと思う。当時の魏の指揮官は無能の夏侯楙だったとはいえあの北伐は奇襲として街亭の敗戦以外は素晴らしい戦果を挙げたのでまさに蜀漢の最初にして最大のチャンスを作り上げたのは見事な手腕だと思う。
=+=+=+=+= 面白い記事でした。特に戦略評価の緻密さは良いです。演義ではそれほど出番の無い荀彧が魏躍進の仕掛け人とするのは熱いですね。
戦略なら初期に最大勢力を擁した袁紹の評価もぜひお願いしたいところです。臣下も田豊、沮授といった有名どころが浮かびますね。董卓討伐後の躍進は名声頼りの偶然なのか、それとも外交手腕の賜物なのか、官渡での戦略構想と補給戦術の成否など、時々による賛否が多彩にありそうです。
=+=+=+=+= 大変興味深い記事でした。 日本の三国志の武将の評価はコーエーテクモのゲームの影響が大きいので新鮮に思いました。 他の方もコメントしていますが赤壁の大戦から劉備の荊州領有までの功績は魯粛というよりは諸葛亮の外交手腕の方が大きいと思います。 孔明は北伐で兵を減らさない、不敗を旨としていたので戦略よりも戦術家、宰相としての行政手腕の人であったと思います。 賈詡は情というよりも一貫して強者の側に付き続けたのではないかと思います。漢王朝(董卓、李傕、郭汜政権、曹丞相)、魏王朝、その立場は明確でありました。 戦場で総大将の側で献策をする様な純粋な軍師となると袁紹軍の田豊や赤壁の戦い前後の孔明、漢中争奪戦の法正あたりかもしれません。 司馬懿や周瑜は軍師というよりは総大将、将軍というイメージがあります。
=+=+=+=+= そもそも三国志とは言っても、当時、中華と言われた中心的な所は魏の曹操が支配しており、南方の沿岸部の肥沃な土地を呉の孫権が支配、蜀の劉備は本当に残りの山間部を支配していたに過ぎない。
演義などでは司馬懿が諸葛亮に苦戦したイメージがあるが、司馬懿は防衛に徹していれば負けないという戦略を徹底。魏の国力を温存し、最終的には魏を乗っ取って孫が天下統一した所まで評価すれば、戦略、政治力、策略で司馬懿が一歩抜きん出ていたと思うのだが。
=+=+=+=+= >賈詡は曹操陣営に下ったときには、上司の息子を敗死させた者、二代目社長の兄を殺した人物として存在しなければなりませんでした
曹操は賈詡の策により、息子と典韋だけでなく当時の正妻も実質失った形ですし、長安における西涼軍の乱暴狼藉の「首謀者」という一点は漢王朝の復興を謳っていた当時の曹操陣営では大きなマイナス点。にもかかわらずその智謀だけで馬超撃破の立役者になり、後継者決めの相談を受けるほど曹操に信頼された。曹操はともかく、張繍も曹丕も賈詡のアドバイスを聞いた時は成功して無視すると失敗している。 曹丕にすれば、賈詡のお陰で嫡嗣に成れ、曹植との後継者争いでも最高のアシストしてもらったんだから賈詡には頭が上がらないのでは?それにも関わらず自身は交友関係や姻戚関係で目立つことを一切せず、天寿を全うして一族も安泰だった点は確かに他の謀臣たちと一線を画しますね
=+=+=+=+= こういう話題で蜀の人材というと諸葛亮、龐統、法正というのが必ず挙がりますけど、不思議と黄権が挙がらないのですよね。 曹操が漢中を攻略しているときに魏に渡してはならないと提言して軍を率いて出陣したり(この時は到着前に張魯が降伏してしまっていた)、その後の漢中攻略の戦略を立てたのは黄権なんですよね。 夷陵の戦いで魏に投降することになったものの、その才幹は龐統、法正と遜色ないのですけど評価されないのがちょっと残念です。 そのまま蜀に残っていたら北伐の指揮を執っていた可能性がかなり高いと思うのですよ。
本題の正直誰が一番の軍師かと言われると比べるのが非常に難しいですが、功績で考えると魏を大国に育て上げた荀彧と、劉備の軍を三国鼎立の一角にまで押し上げて、繰り返して北伐をしていたものの国力が劣る蜀という国で魏に長く対抗させていた諸葛亮が二強で甲乙つけられないと思います。
=+=+=+=+= 魯粛は関羽と会談しても恫喝にも屈せずに逆に関羽を説き伏せたから胆力は相当のもの。ただ、孫策や周瑜のようなカリスマ性がなかったのは惜しかった。 諸葛亮は実質上の蜀の建国者。夷陵の敗戦で外交的にも内政的にも崩壊寸前だった蜀を再建させ、更に5度にわたる大規模な北伐を行っても破綻しなかった。どっちかと言うと彼の死後、無茶な北伐を繰り返した自称後継者の姜維の責任が大きい。政治的、戦略的には完璧ち近いけど、人を見る目のなさと戦術的な機動力にやや欠けていた。法政が生きていたらと諸葛亮自身も何回も思ったのでは。 荀彧は曹操から「我が子房」とまで言わしめた。一般的には許昌の留守が多かったが、曹操が赤壁以前はほぼ許昌を空けて各地を転戦していたのは彼が荀彧を政治的だけではなく軍事的にも評価していた証拠。 そういえば鍾会が入っていないけど、時代的な問題?三国志で初めて三方向からの分進合撃を成功させていますが。
=+=+=+=+= 正史も演義も考慮した上で言いますけども、江夏で劉琦を頼って滅亡寸前だった劉備を蜀の皇帝まで出世させた諸葛亮の手腕は評価して良いと思う。
龐統は生きていればそれなりに活躍したかと思いますが戦場で戦死する軍師なんてあまり聞いた事ないし、蜀攻略の際も劉璋暗殺を劉備に提案するなど、あまり劉備の価値観とは合って無かったと思います。どちらかと言えば非情な策もとる曹操の参謀向き。
北伐も雲泥の差の国力がありながら、ほぼ司馬懿と互角に渡り合った諸葛亮の手腕は評価して良いかと。
個人的に一番評価してるのは同じ様な状況で劉邦に天下を獲らせた張良ですが。
=+=+=+=+= 強さもそうですけど、三国志とされている時代は意外に長いし、ピーク時を比較できないから中々難しいですね。結果ならば「三国悉く司馬懿に帰す」で、司馬懿でしょうけど。
実は諸葛亮の場合にも、年数で言うのであれば、その死後の蜀軍部をずっとまとめていた姜維の方が凄かったのではないかとも思います。
=+=+=+=+= 姜維伯約は現場指揮官の智将としてはかなりのものだろうな 北伐の時も、その場その場で的確な作戦を立てて魏軍相手に何度も勝利して数万人を討ち取る功績も立ててるし(その後に鄧艾に数万人を討ち取られてるけど) 蜀滅亡後も鍾会をそそのかして鄧艾と共に巻き込んで果てているところにもその執念の深さが解るし
しかも姜維はただの戦争オタクというだけでなく 関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超の五人を列侯に奉じる献策をしたので 見方によっては五虎将の起源とも呼べる事績を残したりとか 他にも史家としての一面もあり『神刀』という刀を造った名鍛冶師『蒲元』という人物の伝記を書いたりと文化面での活躍もあるし
姜維は間違いなく季漢の最後の英雄であろう!
=+=+=+=+= 三国志はファンが多いからねぇ。 誰が最強だの、最優の軍師は誰だのと面白いよね。マニアックな人はそれこそ「誰やねん?」ってような人物を推してたりするし。 また作家によっても描き方もさまざま。吉川英治読んだ人と宮城谷昌光読んだ人と北方謙三読んだ人と…それぞれ感想も違うだろうし、さらに漫画も横山光輝版もあれば蒼天航路もあるし、コーエーのゲームの影響もある。正史を翻訳して読んだなんて猛者もいるかもしれない。
まぁ結局この時代の最後は「司馬昭之心、路人所知也」よろしく司馬一族がね…。もし虎視眈々と司馬炎までの図面を引いていたのなら、司馬懿という人は恐ろしい人だと思う。
=+=+=+=+= 戦術家と言うなら司馬懿、陸遜、郭嘉、法正かな。周瑜は戦闘指揮官。 荀彧は官渡の戦いでも許都に残り支援した、前漢の蕭何のイメージ。 オールマイティなのは丞相になり大将軍にもなった諸葛亮。 外交が上手いのは魯粛。彼は好人物だったのでしょう。
=+=+=+=+= 誰かが、諸葛亮に関しては、三国志への理解が進むにつれ、 初心者→天候も操れるすごい軍師 中級者→実は軍事は大したことない 上級者→魏との圧倒的な国力差でも互角を維持したやっぱり超人 と評価が変わる、って言ってて、 自分の理解もその通り変化してて、なるほどなーと思った。
=+=+=+=+= 今回の選出における『賢さ』の定義を決めたい。
①それを我々現代人がイメージする賢さと近いものする。 ②今回は文官に限る ③人を紹介した、とか戦歴は省き、あくまで『献策』のみで判断する。
の場合にワシの中では郭嘉、荀彧、孔明の3人に絞られる。 個人的に大好きな呉の重鎮方は、この中に入るとやや厳しいかもしれない。
本当は選びきれないのだが、品行方正などの付加価値を持たず、あくまで知略のみで結果に繋げた郭嘉を一番に推したい。
=+=+=+=+= 曹操を華北の雄にのし上げた、荀彧・郭嘉コンビが最強だと思います。 郭嘉は対外勢力の動向を読む点での情報量や未来予想が完璧だが、 荀彧の内政と補給能力の高さ無くして曹操は華北を統一出来ていない。 さらに言えば戦術の天才・荀攸なくしても濮陽・陳留の安定や呂布討伐、 袁紹との攻防における奇跡的な戦術的勝利はない。 諸葛孔明はどちらかといえば政治家であり、 史実では赤壁のメインはあくまでも周瑜であって、 蜀建国後に夷陵で失った蜀の主力打線の穴や、経済的困窮から回復させた 政治手腕こそが真骨頂だと思います。 あと呉は軍師と役職があったでしょうか。 周瑜もそうですが都督は軍師ではないと言われてますよね。 確かに軍師的立場を取る事もありますけど。
=+=+=+=+= 諸葛亮も法正もものすごく優秀だだった。 ただ優秀すぎて周りに仕事を任せられず過労死してしまっている事を考えると、人を集めた曹操の方針というのはやっぱり凄いのだと思います。
=+=+=+=+= 戦略や策謀は、情報の量と分析力で決まると思う。最強の軍師は、個人の能力だけでなく、その時の情報収集機関の規模や情報量、その情報を分析する幕僚の質や人数を纏めていた人物になると思う。
=+=+=+=+= 三国志というと三国志演義よりも吉川英治の方のイメージが強く、諸葛孔明の万能感が強調されますが、現実には勝った者が強いということでしょう。個人的には饅頭の発明が有り難いです。 陳宮もかなりの知恵者でしたが、実際はどうなんでしょう?
=+=+=+=+= 周瑜 荀・彧攸諶 張昭 あたりは超名門の名士(貴族階級)ですよね。彼らは知略に長けますが彼らには政財界の有力者一族がいて各軍閥や領主層に重用されたわけですよね。彼らは袁紹の一族と遜色ない名門です董卓の部下は荀攸を取り込もうとして失敗して求心力落としましたよね。袁術が失敗したのもあまりこのクラスの名士層を側近に出来なかった事だと思います。 その次が陸遜や麋竺、諸葛瑾、諸葛亮、陳登、郭図、辛評あたりの地域の名士(地方財閥層)ですね。地元の金持ちで、諸葛亮は本流じゃなかったから呉からも魏からも相手にされなくて奥さんの家の地元軍閥の蔡瑁(張温の娘婿で張温はやはり周瑜クラスの超名門層で曹操の祖父と親しい人)の縁者のところに潜り込んでいてそこの娘と結婚している関係です。 ですので賈詡や魯粛あたりは実力でのし上がった人なんじゃないかと思います。
=+=+=+=+= 「龍狼伝」のイメージだと龐統って結構なおっさんっぽかったけど、本当はかなり若かったんですね。 好きな軍師は「蒼天航路」の賈詡ですかね。有能なのにいい感じに曹操に振り回されてる感じは愛嬌がありました。
=+=+=+=+= 最弱勢力の劉備に仕えて三国鼎立まで持っていった手腕は尋常ではない。 武廟十哲にも選出されている孔明の評価は後代の王朝にも高く評価されており、得た名声は他の追随を許さないところではある。
=+=+=+=+= 諸葛亮の最大のミスは劉備に仕えたところかな。 他の勢力なら天下統一ができたかもしれない。 劉備では荊州取れなかった時点で詰んでしまったからね。 司馬懿はそれを知ってるから消耗戦をやって相手が疲弊するのを待ってれば良いだけだったし、孫権も荊州取り返される力は蜀には残っていないのを分かっていたと思う。
=+=+=+=+= 仕える相手と活躍期間、自身の死後の差配まで全部ひっくるめて評価するなら、自分の代で当時最強の勢力で専横体制をほぼ完成させ、孫の代で統一を為した司馬懿が総合的に三国志最強ということになるかな(孫自体はイマイチだったが)。 本人がいくら賢くても志半ばで倒れたり、後継で躓いて一瞬で歴史から消えた勢力は洋の東西を問わず枚挙に暇なし。
=+=+=+=+= 規模の小さい弱小チーム対巨大最強チームで闘っていて、僅差で弱小チームが負けたら、弱小チームの指揮官の方が優秀ですよね。
司馬懿は秀才ですが圧倒的な戦力と地の利があります。
=+=+=+=+= 軍師は諸葛亮が1番だと思います。自軍の戦力や後継不足の為に北伐をせざるを得なかった状況だった。劉備3兄弟や趙雲が揃っていた時期は無双状態でした。
でも結局、三国志最強が曹操だと思いますので(軍師力も含めて)知力勝負でも大差はなかったのでは。
=+=+=+=+= 三国志の登場人物達の中で、戦術で最も賢い人物は、 1.周瑜 2.曹操 3.郭嘉
戦略で最も賢い人物は、 1.曹操 2.周瑜 3.諸葛亮
政治で最も賢い人物は、 1.諸葛亮 2.曹操 3.陳羣
この様になると、考えます。
=+=+=+=+= どれも甲乙つけがたい。 戦略家なら諸葛亮、魯粛。 戦術家なら司馬懿、法正、郭嘉、陸遜。 両方なら賈詡 後方なら荀彧 現場なら周瑜、姜維。
袁紹に仕えた田豊、祖授も軍師の枠に入るか。
逆に最悪の軍師も挙げてみる。 郭図、直ぐに挙がるが
=+=+=+=+= この令和の時代でさえ人の評価に難儀しているんだから、アナログのデータベースと恐ろしく時間のかかる情報伝達スピードと又聞き中心のエビデンスで劣る情報信頼性を顧みると、この時代の人事評価は相当大変だと思う。
=+=+=+=+= 正史なのか小説の方なのかで全然違ってくるので難しいですよね。 バランスで言えば蜀の黄権ではと思うのですが劉備敗退後に撤退できていればその後の歴史がどうなったのか考えてしまいますよね。
=+=+=+=+= これ読んで軍師って何なのかが分からんくなった。 諸葛亮に周瑜や司馬懿、陸遜は軍勢を率いた将軍的な立場なのに対して郭嘉、法正、荀攸は立ち位置は主君の幕下にあって献策する参謀的立場だし。
=+=+=+=+= 荀彧です。 曹操が苦しい時に支え、魏の盤石の基盤を作っていて、それが結局ひっくり返ることがなかった。多くの智将を推挙し魏というが統一できたのは、荀彧の遺産があってこそ。
=+=+=+=+= 司馬懿・周瑜でしょうかね? 軍師をどいう風に取るかですけど。諸葛亮は戦場よりも内政で力を発揮したと思いますので、どうでしょう?戦場で策略を練ったなら曹操も入ってきてしまうけど・・・。個人的には荀彧・郭嘉が好きなのですが。生き様とか特に。
=+=+=+=+= 劉備に軍師の必要性を感じさせたのは徐庶だったと思うんだけど、 なぜか名前が出てこない。登場時の軍師としての才能は凄かった。 横光作品だと龐統より凄い人に見えた。
=+=+=+=+= 伏龍・孔明と並び称される、鳳雛こと龐統子元が好きです。 醜いおっさんに描かれがちな龐統ですが、「蒼天航路」ではかっこいいイケおじに描かれていて嬉しかった。
=+=+=+=+= 諸葛亮孔明はスーパー軍師でなくスーパー政治家ですね。三国志演義では軍師になってますが、正史では違うので。三国志演義を、「七分の史実に、三分の虚構」と言われているので。三国志正史では劉備は演義での張飛のような感じだったみたいですね。関羽は影が薄く張飛より知れてなかったみたいですね。
=+=+=+=+= これ三國志のゲームが諸葛亮知力100司馬懿が98だったような。そんなノリだな。三國志演義の中ではやはり蜀の劉備が義の人として物語の中心になるわけだから諸葛亮が一番、晋の興国で物語が終わるわけだから仲達が二番かな。ちなみに諸葛亮(伏龍)と並び称される鳳雛が書かれてないな。義の国蜀、簒奪者曹操の魏の対比がメインだから。呉の魯粛や陸遜は演義では脇役だよ。史実では三國志の人物評価なんてできないわけだから演義で考えるならやっぱり最強は諸葛亮。司馬懿は運の良かった人かな。
=+=+=+=+= 大本命の周瑜他を早死で除外と恣意的。一方スルーされがちな賈詡の高評価はよい。 早々に滅んでしまったので、記事に限らず袁紹配下の田豊・沮授等も軽視されている。当初は最大勢力で一番天下に近かったので、その功績は認めるべき。袁紹や息子達の器量が不足していたのに、大勢力にしたのだからね。 北伐を一度も成功していない諸葛亮は軍師ではなく丞相。関羽北征・戦死から白帝城で劉備が死ぬ迄も何もしていない。孟獲退治の南征もフィクション。南征に参加した事は無い。 粛清を結構やりながら内政は成功した。だが北伐時に呉との連携を、模索すらしておらず外交も駄目。 天才軍師孔明は『演義』で作られたフィクション。天下三分の計なぞ何処が天才の計略なのか笑える。所謂地政学的な戦略ですぐ分かる事だからね。 そんな事も分からない様な劉備では群雄失格で、とっくに死んていただろう。
=+=+=+=+= 演義基準で言えば、ダントツで諸葛亮。賢いというだけではなく、幻術、仙術、あらゆる術を極めており、風向きを変えるとか余裕で、あまりにもチートでもはや神と言っても良い。
史実基準で言えば、2,000年前の人間のランキングなんて、記録も色々あやふやすぎて、できるはずもない。
=+=+=+=+= 軍師というくくりからは外れますが、自分の命を失いかけ、息子の命を奪った賈詡という人物を、縦横無尽に使いこなしす曹操という人物もリーダー像として輝きます。
=+=+=+=+= 私は周瑜!! やはり、戦略的には天下三分の計より、天下二分の計の方が大局的です(周瑜にとって劉備側は小さくてあてにしていなかった)。 家柄良く、男前で、教養あり、人間的な魅力あり、周瑜に会えば皆が魅了された、正に男の敵。
=+=+=+=+= 「兵は神速を尊ぶ」の郭嘉だと思う。若くして亡くなっていなければ赤壁の戦いはなかったと思うし孔明や司馬懿や周瑜を凌ぐ大軍師大政治家になっていた。曹操もいずれは郭嘉にすべてを委ねたいと言っていたぐらい郭嘉の夭折を悔やんだ。
=+=+=+=+= 「軍師」って何だという定義から明らかにしないといけないと思うが。 軍事に関するトップの助言役という理解でいいのか?
演義の孔明がやってたような、前線で用兵を決めるのは「将軍」とか「前線参謀」の役割だ。 戦闘指揮をするのが軍師なら、関羽や張飛とかだって「軍師」とも言える。
それがないままただ「最強軍師」「一番賢い」というお題目を考えようとしても、訳が分からなくなるぞとしか。
=+=+=+=+= 頭の使いどころの違いでもあるので そりゃ物差しで計るようにはいかないだろう。
幾つかのエピソードだけみると 魯粛さんは武人よね、結構イケイケの。 エピソードの特殊さでは 呉陣営が一番人間臭くて好きではある
=+=+=+=+= 正史に「算段に失策無く、権変に達すること張良・陳平に次ぐ」と記された 荀攸・賈詡でしょう。中でも曹操の筆頭軍師である荀攸は、後代の張賓、崔浩にも比す名参謀だと思います。演義では荀彧、郭嘉に功績を奪われていますがね。
=+=+=+=+= 孔明は司馬懿の戦略に進出を阻まれて病死、荀彧は用済みとなり曹操に粛清された。周瑜は曹操の南征大軍を単独で迎え撃ち勝利した後病死。曹操(魏)を打ち破ったという意味では周瑜が一番賢いヤツだと思う。
=+=+=+=+= なぜか諸葛亮を政治家と断ずる人が多いがそれはなぜなんだろうか? 北伐にしても南征にしても軍を率いて赴いて現場指揮を執っているではないですか? であれば単なる政治家とするのではなく軍略家としての面も評価すべきではないのですか?
=+=+=+=+= 曹操は単に優秀な人材を見抜く目だけじゃなく使いこなす器量があった。袁紹は、人材を集めるには当時もっとも都合がいい土地を手にしながら、家臣を使いこなす器量に欠けた。
=+=+=+=+= 三国志の軍師やら武将や日本の戦国武将など、多々偉人として取り上げられるが、A級戦犯とされる人達や、ウクライナと争っている某国の大統領など、散々批判される人達と何が違うのか? 自分からしたら(いくら時代が違うとはいえど)ほぼ全員『争いによって覇権を争った』連中でしかないのだが…?
=+=+=+=+= 三国志正史と三国志演義があります。世に広まったのは演義のほうで創作部分がけっこうあります。この記事は演義を元にして検証していますね。
=+=+=+=+= 蜀なら諸葛亮、龐統、黄権、法正。魏なら荀彧、荀攸、程昱、郭嘉、司馬懿、司馬師、司馬昭。呉なら周瑜、諸葛瑾、魯粛、張昭、張紘、陸遜、諸葛恪。それ以外なら禰衡、蒯越、蒯良。あと消された田豊かな。結局、ナンバー1を見るならと言いますが、それぞれにエピソードがあり、甲乙付け難いです。ゲームのステパラで見るなら諸葛亮ですけどね(-。-;
=+=+=+=+= ・・いくら才能あっても上司がバカだと意味がない。上司が唯我独尊系でも意味がない。 諸葛孔明が才能発揮しまくったのは劉備玄徳が無能かつ、自分の無能を自覚してたから。 司馬仲達は曹操のときはそこそこに能力発揮したけど全力じゃなかった。曹丕のときも文官に引き下がって目立たないようにしてた。 曹叡の時代から本性発揮。
=+=+=+=+= 軍師の基準も曖昧というかタイプが違うので単純な比較は難しい 周瑜や陸遜は大将軍というべきだし荀彧や張昭みたいな宰相タイプ、賈詡や陳宮のような参謀タイプもいる
=+=+=+=+= 計略家としては、賈詡は孔明より上だと思ってます。 鎌倉殿の平六みたいに、裏切りもウソも辞さない処世術の天才だと思ってたけど、言われてみれば自分から上司を裏切ったことは無いのね。
=+=+=+=+= 蜀に姜維を入れてください 彼は蜀が滅ぶまで一人で頑張った 軍事面においても特出した才能を持っていました。
=+=+=+=+= 魯粛はイメージ的に、孔明に良いように振り回される、お人好しのイメージがありますが。孔明より上と評価されているのには驚きました。
=+=+=+=+= 諸葛亮かな
なんたって軍師としての才能は言わずもがな劉備亡きの蜀の内政をしつつ国力が乏しい中北伐を行う手腕は凄いとしか言いようが…
=+=+=+=+= 分野によって分かれる。個人的見解だが政治なら孔明、戦略なら買く、戦術なら周瑜とかかなまぁあといろいろいるから面白いのだが
=+=+=+=+= 魏は郭嘉、呉は周瑜、蜀はホウトウ みんな早死にだったけどもう少し生きていたら、また評価も変わっていたと思う
=+=+=+=+= 魯粛いいですよね。好き。 豪族が分立し異民族が勢力を伸ばす中華で統一国家は無理だとわかっていた。向こう200年先まで見通してたかのように。
=+=+=+=+= 中国史を三国志でしか知らねえ日本人多すぎ問題
幕末や戦国だけで日本史知った気になってる奴が爆笑モノと同じ
中国史の小説書いてるけど、「軍師」なんて単語恥ずくて使えねえ (中国人も好きだけどな...「軍師」。隋唐モノだと李勣が孔明のコスプレしてるし)
=+=+=+=+= 圧倒的な戦力を持っていた袁紹が負けたのは、一番の知恵者である軍師の田豊の意見を聞かなかったからだと思います。 曹操との器の差です。
=+=+=+=+= 日本での軍師としての有能、有名さは諸葛亮孔明さんが群を抜いて高い評価だとされてると思います
=+=+=+=+= 三国志についてはみんな一家言あるからなあ。 誰が最強だったとか 個人的には一番ダメダメだった武将とかそういうのもやってほしい 劉禅を筆頭に、いっぱい出るんだろうなあw
=+=+=+=+= 伏龍、鳳雛どっちか配下にできれば天下獲れると評された、諸葛亮、龐統。両方配下にして天下獲れなかった劉備って…
=+=+=+=+= 軍師にもいろいろタイプがあるので比較はできない 戦略に長けたもの 戦術に長けたもの 策謀に長けたもの 用兵に長けたもの その他いろいろ 繰り返すが誰が1番とか飲み会の席でやるような話
=+=+=+=+= 荀彧と賈詡は楚漢戦争の張良と陳平に例えられ、日本でも竹中重治と黒田孝高も張良と陳平に例えられれいる。
=+=+=+=+= 上司に恵まれなかった「田豊」、訳あって献策を封印した「徐庶」が自由に活躍する世界を見てみたかったです。
=+=+=+=+= 結局戦乱の世なら仲達、陸遜の戦略が重要になってくる。 そう言う意味では陸遜じゃないのかな。孔明は陸遜を避けた時点で論外。
=+=+=+=+= 賈詡はその生き方のせいで、陳寿には高く評価されたけど、裴松之には嫌われて最低ランクの評価をされているから、別枠にするしかない。
=+=+=+=+= 昔、他のヤフコメで、これだなと思うのを見たわ。 それは孔明は軍師でなく政治家だよ、と。 その方が功績や行動に全て腑に落ちる。 他の人等の方が優劣あれど軍師だと思う。
=+=+=+=+= 素朴な疑問だけど45歳で死んだ法正は除外されて 46歳で死んだ魯粛が残る理由がよくわからん。
=+=+=+=+= 三国志ってなぜこうも熱く語る人が多いんだろう。 コメント見ながらあ〜でもないこーでもないと晩酌できるくらいの熱気だ。
=+=+=+=+= 陳寿が王以外を単独の伝にしたのは諸葛亮と陸遜だけだからこの二人と考えるのが妥当
=+=+=+=+= タイトルの話だけど、この手の記事で司馬懿や郭嘉、賈詡ではなく荀彧を並べてくる辺り、分かってる感を出してる。
=+=+=+=+= 荀攸がいない。官渡の戦いで具体的な戦術を立案して勝利に導いた立役者なのに。
=+=+=+=+= 諸葛亮は北伐あまりにも執念 燃やしすぎだからやっぱり司馬懿 浅はかな考えの私だとこのくらいしか浮かばん
=+=+=+=+= 白眉って言葉が残ってるくらいだから生きてりゃ馬良も候補に上がったんだろうな。
=+=+=+=+= 軍師というと軍監のような地位の人だと思うけど、政治家要素が入りすぎじゃないの?
=+=+=+=+= これは正史の話を基準にしてるのか?演技であれば作り話なのでそもそも意味がない。
=+=+=+=+= 個人的に言えば 曹操こそ最強の軍師であり、政治家であり、司令官だったと思う^_^
=+=+=+=+= 最強の軍師の定義が小出しの後出しでイライラするし納得感を減ずる。ご高説を気持ちよく打ってご満悦だね。
=+=+=+=+= 自分の中で三国志の登場人物の能力値はKOEIの三国志3のパラメータ値からアップデートされていない
=+=+=+=+= 昔、三国志マニアの友人から、カ行変格活用みたいに暗記するといいと教わりました
賈華 賈逵 華歆 賈詡 郭嘉 霍峻 郝昭 楽進
試験に出るわけでも無いのに 笑
=+=+=+=+= 荀彧が最も優秀だと思う、一切自分を曲げず誰も騙していない。
=+=+=+=+= 軍師とは言えない将軍が多数混じってるけど。単に智謀に長けていれば軍師なのか?
=+=+=+=+= 持論を進めるために恣意的なフィルターかけまくる展開は笑ってしまった
=+=+=+=+= 諸葛亮は100、荀彧は98、周瑜は97だから諸葛亮だね!
=+=+=+=+= 周瑜は呉の最高司令官、軍師とは違う気がする。
=+=+=+=+= 最初の候補に馬謖が入ってて吹いた!明らかに格落ちだろうに。
=+=+=+=+= 私は荀彧、郭嘉がコンビで好き。
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