( 211068 )  2024/09/12 16:33:28  
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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yuuji 

 

幸せな老後を過ごすにはどうすればいいのか。ファイナンシャルプランナーの山中伸枝さんは「『第2の人生』を充実させようと飲食店をはじめる人がいるが、やめたほうがいい。59歳の元営業マンは、夢だった手打ちそば店を開業したが、退職金だけでなく家族も、家も失った」という――。 

 

【画像】そば教室に通って「そば打ちの技」を磨いてきたが… 

 

■定年後の“思い切ったキャリアチェンジ”は危険 

 

 まもなく定年退職を迎えるという方の中には、“第2の人生を充実させたい”と夢が膨らんでいる方が多いかもしれません。 

 

 新しい趣味を始めたい、田舎へ移住したい、クルーズ船で海外を見て回りたい……。中には、夢だった飲食店を開きたいと思われている方もいらっしゃるでしょうか。 

 

 ただ、ファイナンシャルプランナーとして多くのお客様のケースを見聞きしていると、定年後に思い切り過ぎたキャリアチェンジをしたことで、人生を狂わせてしまう方も少なくありません。 

 

 定年後の人生を充実させるには、ライフプランをたてたり老後資金を準備したりと、長期的な視点が求められます。さもないと、老後資金が早々に枯渇してしまうだけでなく、時には家族との関係にも大きなヒビが入ることがあります。 

 

 今回は、37年間営業マンとして勤め、妻と社会人2年目の息子のいる59歳の坂口さん(仮名)が、退職金などの約1250万円を元手に開いた「そば屋」がきっかけで苦難に陥ってしまったケースをご紹介します。 

 

 他山の石として、定年後の人生を改めて考える機会になっていただければと思います。 

 

■“そば好き営業マン”が秘めていた夢 

 

 勤続37年、毎日営業マンとして忙しく働いていた坂口さんの楽しみは、お昼ご飯でした。外回りも多いので普段からランチは外食が多くなりますが、それでもお気に入りの店に出かけることが仕事のモチベーションにもなっていました。 

 

 そんな坂口さんが特に好きなのがそばでした。時間がないときは、立ち食いそばで済ませることもありますが、たまには奮発して有名な手打ちそばの店まで足を伸ばしていました。 

 

 出張に行く際も調査は念入りに、必ず評判のよいそば店に立ち寄ったそうで、趣味だというそば店の分析ノートにはこれまで食したそばの細かい食レポがびっしりと記載されていました。 

 

 そんな坂口さんですが、定年が近づいていました。 

 

 坂口さんの会社には継続雇用制度があり、65歳までは減額されるとはいえ給料が保証されているので、同期のほとんどはこのまま会社員を継続すると言っています。 

 

 しかし野心家でもある坂口さんにとって、継続雇用に甘んじるのはちょっと納得いかないという思いがありました。仕事のやりがい、収入面、また元部下たちに指示を仰ぎながら業務をこなすことは、プライドが許さなかったのです。 

 

 実はこっそりと、定年後は起業するつもりでいました。 

 

 

■開業に向けて「そば教室」に通い始めた 

 

 「息子も就職したし、年金ももらえるから老後はなんとかなるだろう。蓄えだってそれなりの金額にはなっているだろうから、きっとお金には困らないだろう。これまで家族のためにと必死に働いてきたんだ、退職金を、夢を叶えるための軍資金にしたって誰も文句はいわないだろう」 

 

 そう考えた坂口さんは、定年までの日々を起業準備のために費やすことにしたそうです。 

 

 起業といってもいろいろありますが、坂口さんが目指したものは「そば屋開業」でした。いくらそば好きとはいえ突拍子のないことのようにも思えますが、坂口さんは本気でした。 

 

 そして、会社帰りにこっそりと「そば打ち教室」に通い始めたのです。 

 

 そば打ち教室には多くの男性が集まっていたそうで、クラスメートのほとんどは坂口さんと同年代、毎回の学びの後はもちろんそば店で酒を酌み交わし、そば談義に花を咲かせるのを心待ちにするようになりました。 

 

 そば友ができた坂口さんはクラスメートに「定年後はそば屋を開業するんだ」と夢を語ると、みんなが心から応援してくれたそうです。 

 

 店はどこにする、内装はどうする、メニューはどうする、店の名前は、集客はなどなど素人の集まりとはいえアイディアがどんどん膨らみ「もう成功しかない!」と確信するほどだったと言います。 

 

■「確定拠出年金」の運用を怠っていた 

 

 しかし、坂口さんの夢もにわかに雲行きが怪しくなります。 

 

 まず出店に備え、クラスメートが「経営コンサルタント」を紹介してくれました。店舗を構えるにあたり必要なヒト・モノ・カネの算段を具体的に知るにつれ、資金面が不安になってきました。 

 

 ちょうどその頃会社で退職を控えたシニア社員向けのセミナーが催され、退職金などについての説明が行われました。坂口さんは、退職金はざっくり1500万円くらいだろうと見込んでいましたが、実際は一時金が1000万円で、あとは確定拠出年金であることを知りました。 

 

 確定拠出年金は自らが運用責任を負う退職金だという案内があった記憶はありますが、その後はまったく関心を持たず放置していたので、実際どのくらいの金額になっているのか分らなかったそうです。 

 

 ようやく確認してみると、残高が250万円ほどでした。うわさでは、確定拠出年金を株で運用してものすごく増えた人がいると聞いていましたが、坂口さんは定期預金のまま放置していたので、全く増えていなかったのです。 

 

 とはいえ、下手な運用で目減りさせなかった分ましだとポジティブに考えた坂口さんは、なんとか退職金で開業できそうなプランを立てました。 

 

 結局、いくぶん当初の希望より店の内装などはグレードを落としましたが、そば好きとして味は落としたくないということで、仕入れ先は吟味に吟味を重ね、納得のいく業者も紹介してもらう段取りをしたそうです。 

 

 

■妻にとっては寝耳に水だった 

 

 坂口さんには、一緒に暮らす妻の久美子さん(仮名)と、社会人2年目で同居する一人息子の涼さん(仮名)がいました。 

 

 久美子さんはこの時期、イヤに熱心にパソコンに向かう坂口さんに不信感を抱いていたそうです。他人を疑うことを知らない無防備な坂口さんのスマホを操り、やがてラインのやりとりから夫の野望を知ることになりました。 

 

 もちろん、そば店の開業の話は久美子さんにとっては寝耳に水です。一体何を考えているのか、退職金を全部自分の好き勝手に使おうなんてどういうことなのか、素人がそば店を開くなんてなどとかなりの口論になったそうです。 

 

 家計を管理していた久美子さんは、退職金を住宅ローンの完済にあてることを考えていました。当初は繰り上げ返済を考えていたようですが、実際には子どもの教育費の工面で手が回らず、家計はギリギリだったようです。 

 

 追い詰められた坂口さんは、いよいよ久美子さんにこう言ってしまったそうです。 

 

 「俺だって長い間働いてきたんだ。退職金はそのご褒美なんだから、自分が好きに使ってなにが悪い。蓄えだってあるだろう、それでなんとかするのがおまえの役目だ。」 

 

 この言葉に切れた久美子さんは、年金は65歳までもらえない、年金だけでは生活できないなどと反論しましたが、聞く耳を持ってもらえなかったそうです。これを機に「離婚」をほのめかすようになりました。 

 

 一方、バレてしまったのだからもう良いだろうと開き直った坂口さんは、開業に関わる資料をリビングに広げ毎日眺めては一人悦に浸っていました。 

 

■社会人の息子が父親に警告していたこと 

 

 そんな両親を横目で見ていた息子の涼さんからも「客でしか行ったことがないのに、経営しようなんて正気とは思えない。そんなの失敗するに決まってる。目を覚ませよ」などと諭されたことがあったそうです。 

 

 入社2年目とはいえ、営業の最前線で鍛えられている涼さんの方が、お父さんよりも世の中を見る目はありそうです。そしてなかなかもっともな案も提案していました。 

 

 「そば屋の開業って言うけど、実際そば打ちも教室で習っただけなんでしょ。もし本気でそば屋をしたいのなら、定年後は修行をすればいい。アルバイトでもなんでも良いから、そば屋のリアルを経験してみたら」 

 

 涼さんからは他にも、自宅通勤をしている間は家にお金を入れることや、母親にパートに出てもらえれば生活はなんとかなること、将来設計はちゃんとプロに相談したほうがいいなどと提案されていたそうです。 

 

 とりあえずここで一件落着と思いきや、残念ながら坂口さんは、妻の久美子さんや息子の涼さんの言葉に耳を貸すことはありませんでした。最終的には強行突破でお店を開いてしまったのです。 

 

 もしかしたら、昭和の企業戦士でもあった坂口さんにとって、息子からの提言はなかなか受け入れ難いものだったのかも知れません。あるいは父親の威厳を保つためにも引っ込みがつかなかったのかも知れません。 

 

 

■“夢のそば屋”は悲惨な状況だった 

 

 坂口さんが開店したそば店は、一体どうなったのでしょうか? 

 

 自分がこだわりにこだわったそばをお客様に食べて欲しい、おいしいと言っていただきたいという一心で始めたそば店でしたが、残念ながらそんな簡単にうまくいくわけがありません。 

 

 そもそも坂口さんの提供するそばは個性的であるがゆえに、一般受けという意味では失敗でした。 

 

 主に一人で調理を受け持ちましたが、段取りに余裕がなく、少し客足が多くなるとすぐにテンパってしまって、“接客が悪い”と口コミサイトに書かれたりもしました。全くの畑違いからのキャリアチェンジですから、仕方がないとはいえあまりにも準備が足りなすぎました。 

 

 また、読みが甘かった固定費の支払がじわりじわりと重くのしかかりました。客足を予想しながらの仕入れも経験不足があだとなり、食材の廃棄量も増え、その支払だけが残りました。 

 

 結局1年半頑張りましたが、とうとう赤字に耐えられなくなり店をたたむことになってしまったのでした。坂口さんは、夢を失っただけでなく、退職金も失ってしまいました。 

 

 さらに久美子さんからは離婚を突きつけられ、年金も、家を売って作ったお金も分割され、現在の坂口さんの日々の暮らしはギリギリです。今はやっと見つけた警備員の仕事をしていますが、何歳まで続けられるのかと不安な毎日を送っています。 

 

■退職金は“ご褒美”ではない 

 

 では、坂口さんは、いったいどこで間違えてしまったのでしょうか。ファイナンシャルプランナーの観点から今回の失敗を分析します。 

 

 まず、最もいけなかった点は、退職金を「自分ひとりのご褒美」だと考え、自由に使えると思ってしまった点です。 

 

 昭和のサラリーマンにありがちですが、男が働き家族を養ってやっているんだという思い込みでわがままになっているケースが、今も少なからずあります。坂口さんは、それがひとつの引き金となって突っ走り、結果的に家族から孤立してしまいました。 

 

 もちろん、第二の人生を謳歌しようと考えた点はすばらしいと思います。定年後の人生を深く考えて計画を立てている方は意外に少なく、65歳まではなんとなく継続雇用で……その後は年金暮らしで……と思っている方よりかはよいのかもしれません。ただ、それはあくまで姿勢だけの評価です。 

 

 実際に、飲食店の経営は非常に厳しいと言われています。開店するハードルは低いものの、設備投資に結構な額がかかります。また、商品そのものの利益率が低く、しっかりした経営視点がないとつぶれてしまうリスクの大きい業種なのです。 

 

 特に飲食店は水ものだけに、お客次第で売り上げや収入が変わってしまいます。仕入れの調整に思った以上のコストがかさむとの話もあります。 

 

 

 
 

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