( 216017 )  2024/09/27 16:59:14  
00

不登校にまつわるフェイクについて考えてみます(写真:beauty-box/PIXTA) 

 

「青少年の刑法犯罪は増加の一途」 

「生活保護費の不正受給が蔓延し財政が逼迫」 

もっともらしく聞こえますが、これらはフェイクです。気がつけば、日本の政治や社会を考えるための基本認識に、大中小のフェイクとデマがあふれかえっています。 

「『世界は狂っている』という大雑把で切り分けの足りないペシミズムに陥らないことが大切」と述べるのは、政治学者の岡田憲治氏。大中小のフェイクについて考えることをスイッチにして、この世界を1ミリでも改善するための言葉を共有する道を探そうと企んで執筆したのが『半径5メートルのフェイク論「これ、全部フェイクです」』。今回は、不登校にまつわるフェイクについて考えてみます。 

 

■少なくない親御さんたちが悩んでいる 

 

 不登校の子どもの数が大変なスピードで増えています。 

 

 文科省の発表によれば、全国の小中学生の不登校の子どもは約30万人(2023年)だそうです(高校生も含めると約36万人)。 

 

 言い換えれば、「学校に行かない」と意思表明し、それを貫いた子どもが30万人いて、なおも「言えてない」から「無理して行っている子ども」が推定でその何倍もいるだろうということです。 

 

 子どもの不登校の現場は、なかなか切ないものです。私の家は、窓から小学校がすぐ近くに見えるところにあるのですが、小学校の敷地の角では、鬼の形相で子どもの腕を引っ張るママと、全身でそれに抵抗する子どもの「人間綱引き」のようなものが散見されます。胸が苦しくなる風景です。少なくない親御さんが我が子の不登校に悩んでいると言います。 

 

 昔は話が簡単でした。今とはまた次元の違う格差社会だったため、学校に「行きたくても行けない」子どもたちも大量にいました。「勉強なんてしたって家計の足しになりゃしねぇ。家の手伝いをしろ」と言われた子どもの悲しみは、時代を経て「学校に行ける幸せ噛み締めて、行けるんだから行け」となって回収され、その後は「どんなに勉強できなくてもいいから、学校に行くだけは行け」となりました。 

 

■「学び」の場ではなく無理ゲーの訓練場 

 

 

 それでも学校に行くのが嫌な子どもは「登校拒否児童」とされ、その原因は「親のしつけ」と「子どものワガママ」だと教員や親に断定され、文部省の調査も「先生になされるアンケート」によるもので、子どもの声の聞き取りなど、この調査には含まれていませんでした。子どもは「教育(成形)の対象」であり、「行くのが前提」の時代です。 

 

 しかし、6歳から18歳までの未成熟な人間を、彼らの希望も聞かずに勝手に40人ぐらいの教室に放り込み、同じことを同じ工程で同じ時間で身につけさせるという、養豚場のようなことを150年やって来て、もう「それは学びじゃなくて無理ゲーの訓練だよ」とされつつあります。 

 

 そして、殖産興業と富国強兵、国威発揚と大陸進出と敗戦国家と高度成長とその終焉を経て、「サンセット・ジャパン」となりつつある今、次のようなことが、多くの人たちの認識となってしまいました。 

 

 「こんなやり方をいつまで続けるのですか?」 

 

 私は、これこそが数十万もの「学校に行かない」とした子どもたち、そしてそれでも耐えながら無理をして行っている「苦」登校の子どもたちのメッセージだと確信しています。 

 

■学力とは「苦行への耐性」への評価?  

 

 1960年代末に学校に入って、もう半世紀以上を学校で生きてきた私には、そうとしか思えないのです。 

 

 もうこのシステムでは、子どもたちはどんどん「学び」が嫌いになっていきます。もはや学力というものに含まれるのは、相当量の「苦行への耐性」です。名門大学に入学した者は「その程度の耐性があるのだな」と評価されているのかもしれません。 

 

 そして、「効率的情報処理」と「社会権力をもつ者への忖度」の技術を習得することに関心がない「学びたい」者たちは、「ドキドキしながら、時間を気にせず、好きなことを、好きなようにトライして確かめて、何かを発見する」ステージと時間を用意されない限り、楽しく生活するエリアも時間帯も見出せません。 

 

 

 学校に行って校庭で同じ体操服を着せられて、真冬にジャケットを羽織ることも禁じられて、「前にナラえ!」と言われる理由がもはやわからないのです。 

 

 そもそもが、老若男女が共通してもつ大きな社会目標、時代的苦難や、国民的希望などがない時代に、人は「国家社会の発展のために技術と知識を効率的に短期間に身につけさせる訓練」をさせられ続けることなどできないのです。 

 

 頑張らないと西欧列強に植民地にされる、資源のない島国が生き延びるためにはアジア隣国を活用する、焦土と化した国土を復興させるなど、大きな共通目標がないのが21世紀のニッポンです。 

 

■educateとは「外に引き出す」が原義 

 

 グローバル経済が、20世紀型の生産業と洪水のような輸出貿易と為替の差額で稼ぐモデルを無効にさせた後、明治以来「自分たちはどのような役割を果たして世界に貢献できるのだろう?」と、ただの一度もちゃんと議論をしたことがない私たちの国の人間は、同時に「40人が教室に放り込まれて同じことを覚えさせられる」理由もわからないのです。 

 

 もちろん私は、「座学などすべて廃止して、興味のおもむくままに好きなことを子どもたちにやらせるべきだ」などという極端なことを言いたいのではありません。 

 

 教育とは、〝educate〞、すなわち「〝e(x)〞外に〝ducatus〞引き出す(ラテン語)」という意味ですから、すべてにおいて個体が異なる未成熟な人間の何かを引き出すには各々固有のやり方と場が必要であり、それらを豊かに提供することこそが最も必要なことです。 

 

 現実には、100人の子どもに100通りのやり方で対応するような教育システムは、数十年の時間をかけねば提供できないとしても、少なくとも大人でも気の合わない他人数人と同じオフィスで過ごすストレスに耐えられないのに、40人と何百時間も一緒にさせられて、毎日定時に同じ教室に行かされるようなことを避ける「学びの場」を複数種類は用意できるはずです。 

 

 

■かつて「学級が嫌い」になった大学教員の私 

 

 最初の一歩レベルのことですらできることはたくさんあります。 

 

 学びや心にストンと落ちる速度も契機も異なる多様な子どもたちに対して、どうして「同じ量、同じ課題、同じやり方」を強要するような宿題を出すのでしょうか?  

 

 自分の学びにおける「気づき」を知らせたい先生がどうしてこんなに少ないのでしょうか?  

 

 少子化になれば「夢の20人学級実現」と思っていたのに、どうして今「教員不足」によって、ハードワークに追い込まれた多くの教員のうつ病が発生しているのでしょうか?  

 

 私は、ある意味で学校の終着点である大学の教員ですが、中学校くらいから「学び」がしたくて「学級が嫌い」になった者として、大学は学びの場と時間を選択できる、相対的にストレスの低減された場所でした。「そこに到達するまでは耐えよ」と言われて、ギリギリで生きてきました。 

 

 しかし、それを21世紀の「1人1台ポケットにコンピューター(スマホ)をもって、大量の情報の選択とコミュニケーションを強いられる」ティーンズたちに要求するのは、大人の怠慢だと思うのです。 

 

 かつて「学校に行かないと惨めな人生が待っている」と脅された私は、そういう追い詰められたティーンズの最中、人間としての自然体を維持できるものと空間を自分で発見せざるを得ず、音楽と楽器に没頭しました。 

 

■文科省も認める「不登校の責任」とは 

 

 しかし、それはひたすら僥倖であったのです。それを可能とさせる諸条件がたまたまあったからです。親と生まれる地域と時代は選べません。 

 

 学校に行かない子どもが家の中でゲームばかりをやっている姿を見る保護者のストレスも想像できます。かつて「学校だけは行け。行かないなら家を出ていけ」と生存の危機を通じて追い詰められたことのある私には、「行かない子ども」の気持ちも、「行かない子どもを見守る不安」もわかります。どうするのよ?  これから?  

 

 

 
 

IMAGE