( 218491 ) 2024/10/04 15:14:11 0 00 自民党総裁選の決選投票を戦った2人
政治ジャーナリストの田崎史郎氏といえば、特に政権与党に深いパイプを持ち、独自の情報を披露することで知られている。そのわかりやすい語り口もあって、今回の自民党総裁選についても、テレビ局に引っ張りだこの存在だ。
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石破茂新総裁誕生に関連しても、独自の情報や見立てを語っているが、その一つが「高石早苗氏が総務会長ポストを断った」ことに関するものだろう。
巷間伝えられているところによれば、総裁選で決戦を争った高市氏に対して石破氏側が総務会長ポストを打診したところ、高市氏は「幹事長以外は断る」という姿勢を見せたのだという。
総裁選中は、いずれの候補者も「総裁選後はノーサイド」的な物言いをしていたはずなのだが、少なくとも高市氏の考える「ノーサイド」と石破氏のそれとは意味が異なったのかもしれない。
この高市氏の判断に対して、田崎氏は一定の理解を示している。複数のメディアで彼が語っているのは次のようなことだ。
「2012年の総裁選で勝利した安倍元首相は、決戦で争った石破氏を幹事長にした。その意味では高市さんの言うこともわかる」
田崎氏のようなベテラン記者がこのように述べると、事情をよく知らない視聴者やコメンテイターは「そういうものかな」と思うかもしれない。また、こうした見方に対して激しく同意するコメントもSNS上には数多く見られる。それだけ高市氏への期待は高かったのだろう。
しかし実際に自民党総裁選にそのような慣例や暗黙の了解があったのだろうか。
当選者が圧勝したケースはあまり参考にならないので、決選投票にまで進んだケースを見てみよう。
最初に決選投票が行われたのは1956年、第3回総裁選挙。決戦では石橋湛山と岸信介が争い、石橋が勝利。第1回投票では岸が勝っていたというから、今回の総裁選とも似ている。この時、石橋は岸の要望を飲み、外務大臣に就任させている。
次に決戦が行われたのは、1960年。決戦で圧勝した池田勇人は2位の石井光次郎を通産大臣に任じている。
その次は1972年。田中角栄と福田赳夫の争いで、田中が圧勝。福田は無役となる。
それから40年ほどは、決選投票にまで進む事態にはならず、久々に行われたのが2012年の「安倍vs.石破」による決選投票だった。石破氏が幹事長になったのはすでに触れた通り。
さらに2021年、岸田前首相と河野太郎元外務大臣の間でも決戦投票が行われた。この時、第1回投票での両者での票差はわずかに1票だったが、決戦で岸田氏が勝利。その後、河野氏にあてがわれたポストは党の広報本部長だった。かなり軽めのポストと言っていいだろう。
整理すると、第1回投票で決まらなかった5回のうち、2位候補の処遇は「外務大臣」「通産大臣」「無役」「幹事長」「広報本部長」とバラバラ。党の要職に就けたのは「安倍vs.石破」の時のみだ。
石破氏を幹事長にしたことは、現在では安倍氏の度量の広さを示すエピソードとして語られることもあるが、当時の見方はまったく異なる。党員票で石破氏が圧勝していたことに加えて、第1次安倍政権が浴びていた「お友達内閣」という批判をかわすためだ、というものだ。のちの長期政権や業績により忘れられがちだが、当時、安倍氏に向けられる目は極めて厳しかった。
こうした歴史を見ると、今回の高市氏のリクエストはいささか無理筋とも見える。少なくとも過去の総裁選の壮絶さを知る田崎氏ほどのキャリアがある人物が、それを「わかる」というのも少し不自然かもしれない。
「安倍氏が石破氏を幹事長に据えた理由としては、近く予想される選挙の顔として石破氏の人気を頼みとした、悪く言えば利用したという面もあったのです。結果として2012年12月の衆院選に圧勝し、民主党から政権を奪取することにつながりました。まぁ当時の民主党の退潮度合いから石破人気に頼らずとも政権交代を実現できたとは思いますが。ただ、あの頃の安倍氏はまだ体調への不安視もあり、必ずしも人気は高くなかったのです。今回の場合、遅かれ早かれ年内には解散総選挙に打って出ることは確実でしたから、党内基盤が弱い石破氏がさまざまな調整役として森山裕氏を幹事長に据え、選挙の顔として小泉進次郎氏を選挙対策委員長に就けたというのは普通の判断でしょう。その点については、適材適所だと感じました」(政治部デスク)
仮に決戦投票で高市氏が勝利していた場合、石破氏は幹事長や外務大臣のような要職を任されていたのだろうか。そしてそれを高市氏の支持者は許容したのだろうか。このあたりも興味深いところである。
デイリー新潮編集部
新潮社
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