( 220318 )  2024/10/09 15:08:30  
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「多様性社会が生きづらい…」「今の時代、何が許されないか分からない」“老害”になりたくなくて発言することをやめた中年男性の悲哀。専門家からのアドバイスは…

集英社オンライン 10/9(水) 11:57 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/cd0b50efa622cae5ccd297631a9abbf3edf6c0c4

 

( 220319 )  2024/10/09 15:08:30  
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Xで53歳の父親の悩みが話題になっている。

昭和時代の価値観で育った彼は、今の多様性社会に適応できず、沈黙を選び、自由な発言権を失っていると感じている。

同様の経験を共有する声もあれば、時代の変化に適応する必要性を主張する声もある。

大衆文化もこの課題を取り上げており、コンプライアンス研修や認知行動療法などが解決策として提案されている。

(要約)

( 220321 )  2024/10/09 15:08:30  
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多様性社会に苦しむ人も… 

 

Xで、53歳の父親の悩みを綴った女性の投稿が大きな波紋を呼んでいる。「多様性社会が生きづらい」と感じる父親は、老害扱いを受けたくないと沈黙を選択するが、思っていることもいえなくなってしまい、次第に笑顔を忘れていく…。 

 

「一人で抱え込んだ方が楽」突き刺さる言葉の多かった阿部サダヲのドラマ 

 

Xで53歳の父親の悩みを綴った女性の投稿が大きな波紋を呼んでいる。曰く、彼女の父親は、 

 

「自分は人生のほとんどを理不尽・罵声が当然の昭和(的価値観の中で)で過ごしてしまったから、今の時代で許されないことを本当の意味で理解できていない だけど老害になりたくないので沈黙を選択していて、結果的に社会での自由な発言権を失っているため生きづらい」 

 

と嘆いていたそうだ。当該ポストは瞬く間に拡散され、2000万の表示数を超えた。 

 

この投稿に対しては、同じ50代以上の中高年層から似たような経験をしたと同意する声もあれば、若い世代、あるいは同世代からも、時代に合わせた価値観のアップデートは当然だとする声もあった。 

 

令和となった今では、理不尽や罵声はおろか、何気ない日常会話やコミュニケーションの中にも、受け手次第でパワハラ、セクハラ、マタハラといったハラスメントに該当する言動と見なされることもある。 

 

男性たちはそうした現状に対し、ハラスメントは許されることではないと理解した上で、 “自分の価値観が社会から大きく外れている”と感じつつも、“今更修正不可能”であると絶望し、黙ることを選択しているようだ。 

 

コンプライアンス研修やハラスメント研修を導入する企業も多いが、長年植え付けられた価値観を急速に理解し適応することは容易ではないのだろう。 

 

今年1月期に放送され社会現象ともなった阿部サダヲ主演の『不適切にもほどがある!』(TBS系)は、体罰もいとわない昭和のスパルタ体育教師・小川市郎が、コンプライアンスに厳しい令和にタイムスリップしてしまう物語だった。 

 

市郎はその価値観の変貌ぶりに驚き、令和の人たちに違和感を覚えたり、異議を唱えたりする。 

 

例えば、「叱られて励まされて頑張って、そうやって関わり合って強くなっていくのが人間じゃねえの」、「たった1回踏み外した人間がさ、もといた場所に戻ることすら許されない社会なんて、おかしいだろ絶対。あれだよ、寛容じゃないよそんなの」といった具合だ。 

 

しかし、これはドラマだ。現実社会で昭和からタイムスリップしたかのような振る舞いをしたら、処分を下される可能性もある。 

 

では、冒頭のXでの投稿にあるような、昭和と令和の価値観の板挟みになっている人々は、どのように対処すれば良いのだろうか。心理士でオンラインカウンセリング「ココシェル」を運営する「ゆう」氏に話を聞いた。 

 

 

――なぜ、中高年の男性は多様性社会で「生きづらい」と感じるようになったのでしょうか。 

 

ゆう氏(以下同)昭和的な価値観の中では、家父長的な考えのもと、父親が絶対的な権力・地位を持っていました。父親の言動がいくら理不尽であっても妻や子供は黙って従うしかなかったのです。 

 

また、学校や会社でも、先生や上司から理不尽なことで怒鳴られても黙って耐えて従うのが当然でした。こうした価値観がどの世代でも共有されていたため、多くの人が疑問を抱くこともなく、年長優位や男性優位を当たり前のものとして生活することができていました。 

 

その後、平成を経て令和になる中で、男女平等の考え方、パワハラの概念、暴力や暴言に対する否定的な価値観、多様性の尊重といったものが浸透していき、家父長的な考え方は一定の年代以上の人だけに残された古い価値観となりました。 

 

特に、女性の社会進出が進むとともに、国際社会からの影響を受けて『人権』を尊重することの必要性が高まる中、誰であっても尊厳ある一人の人間として扱うことが求められるようになりつつあります。 

 

こうした価値観は若い人にとっては当たり前になっている一方、50代前後の人にとっては、良いことであると頭では理解しつつも、自分の価値観との大きな隔たりを感じて戸惑いや不安を覚えてしまいます。 

 

だからこそ、自分の考えや価値観に合わないことに対して、納得できないことがあったとしても、“老害”と思われたくないと考え、沈黙という選択肢を取り、結果的に生きづらいと感じてしまうのでしょう。 

 

――どのような解決方法がありますか。 

 

価値観の変容を行なうことが有効と考えられます。そのためには、認知行動療法に基づいた治療が効果的です。 

 

認知行動療法では、人が何かの行動を起こすときに、出来事→認知(価値観を含む)→感情→行動といった流れがあると考えます。 

 

例えば、昭和的な価値観の人が会社の上司だったとします。出社した若手社員が上司に挨拶をしなかったとき(出来事)、「上司には挨拶すべき」と考え(認知)、怒りやいら立ちが高まり(感情)、「おい、お前、上司に挨拶するのは常識だろう!」と怒鳴ってしまいます(行動)。 

 

このように昭和的な価値観が根底にあると、若手社員が挨拶をしなかっただけで、怒りやいら立ちが生じて、怒鳴るという行動につながってしまいます。 

 

そこで、「上司には挨拶すべき」という認知(価値観)を変容させることで、怒りや苛立ちを抑え、怒鳴ることを防げます。 

 

投稿者の父親は、このような“怒鳴る”といった行動をとることはいけないと認識しているため、昭和的な価値観から生じる認知や怒りやいら立ちの感情をグッと抑えて沈黙という行動を選択していると推察されます。 

 

「上司には挨拶すべき」という認知と、「沈黙する」という行動がずれているために、生きづらさを感じているわけです。 

 

もし「怒鳴る」という時代に合わないことを防ぎ、かつ生きづらさを解消したいのであれば、認知を変容させることが、最も適切な解決策となります。 

 

ただし、価値観を変容させるというのは、自分自身のこれまでの生き方を否定することにもつながるため、誰でも行なうべきこととは限りません。ただ、自分の考えが古くて変える必要があるなと前向きに捉えている人であれば、認知行動療法のワークなどを用いて変容してみるのは良いでしょう。 

 

一方で、自分の価値観は大切にしたいという人であれば、同じ価値観を共有することのできる仲間との付き合いを優先することによって「生きづらい」という気持ちを解消できるかもしれません。 

 

心理士「ゆう」氏:オンラインカウンセリング「ココシェル」を運営している。問題行動を起こす子どもの心理を専門としているが、その他家族関係や子育てなどについても悩みの解決につながるアドバイスを多数発信している。 

 

取材・文/集英社オンラインニュース編集部 

 

集英社オンライン編集部ニュース班 

 

 

( 220320 )  2024/10/09 15:08:30  
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この会話から、中年男性たちの中には、多様性社会や価値観の変化に対する違和感や苦悩を感じている人がいることがわかります。

一部の方は、昔の考え方や価値観を守ろうとする一方で、多様性を受け入れるべきだと考える声もあります。

また、社会の変化に対して柔軟な対応を心がけることの重要性や、自分の考え方を振り返り、適切にアップデートしていくことが必要であるとの意見も見られました。

 

 

全体的には、昔の固定観念や行動様式にこだわる人、現代の変化に対応するために自己変革を図る人、多様性社会を否定する人、多様性を受け入れる人、さまざまな考え方が交錯していることが分かりました。

多様性を尊重しつつも、相互理解や適切なコミュニケーションが求められるという声が多かったです。

 

 

(まとめ)

( 220322 )  2024/10/09 15:08:30  
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=+=+=+=+= 

中年男性ですが私はむしろ生きやすくなりましたね。特にコロナ禍以降。 

 

飲み会が消えたのはもちろん、年賀状文化や出張土産、ホワイトデーなどの社内文化も消えましたし先日もパワハラ執行役が男性職員へのセクハラ発言が問題となって更迭されました。 

新社会人時代が滅茶苦茶だった事もありますが環境はだいぶホワイト化してます。 

 

営業所長やってた頃は特に女性の部下との距離感に苦慮しましたが、割り切ってしまえば楽でした。日頃から粛々とフィードバックしてればマイナス評価付けてもパワハラとはなりませんし。 

 

ホワイト文化が物足りないと辞める人もいるそうですが、底辺を経験すればロクなもんじゃないと気づくと思います。ウチも実際出戻りが多いですし。 

 

=+=+=+=+= 

50歳代前半です。生きやすいですよ。仕事では仕事の話、プライベートでは気が合う人としか付き合わなければ気楽なもんです。 

大人数で群れるなんて論外です。先日、某観光地でかみさんと遊覧船に乗りましたが、中年男女の群れがくだらない話で盛り上がってうるさかった。楽しんでるのは親分だけで、後は引立て役でしんどそうだった。 

僕はボッチ大好き人間なので、空間とスペースさえあれば最高に楽しい日々を送れてます。 

生きづらい原因は冷静に考えれば自分で作っているもんです。 

 

=+=+=+=+= 

若い人と絡みづらくはなりましたね。仕事の話はもちろんするけど、プライベートな話をする時は話してはいけない事、聞いてはいけない事を考えるようになりました。若者としてはプライベートな事を中年とは話したくないので都合のいい形になっているかもしれませんが、彼らも数年すれば同じ境遇になり、同じように感じるでしょう。若者が年上に気を使って話す構図が正しいとも思わないのでしょうがない事ですが、我々は若い頃は年上に気を使い、今は若者に気を使い、息苦しさを感じることはありますね。 

 

=+=+=+=+= 

多様性という言葉が、都合良すぎて危険と思うことは、私も時々あります。 

 

私は昭和に生まれ、母が父に気を遣って、自分を抑えて生きているのを見て、何かがおかしいと思い続けて来ました。 

そういう時代であって、両親が悪いわけではないのは分かるのですが、私は自分が女に生まれたことや出産を屈辱と考えるようになってしまいました。 

それでも、学校や職場でそんな考えは理解されないと、長いこと本当の自分を出さずに、表向きごまかして生きるしかなかった。 

 

だから、令和になって、多様性を認めつつある(認めているとは言えない)社会になって、無理しなくてもいいのだと思えるようになった反面、前述したような危険性もはらんでいると思っています。 

悩む男性の気持ちも分からなくはない気がします。 

 

50代になって実感しています。生き抜くのって、大変です。 

 

=+=+=+=+= 

昔の価値観で生きてる者ですが、今の時代でも違和感なく生きてます。 

言葉にすることはめっきり減りましたが、言葉以外では伝える事が出来るかと思います。 

ただ間違ってる事は今も昔も変わらないので、それは変える必要無いでしょう。 

それ以外の事を発言しないようにすれば問題無いでしょう。 

可哀そうなのは若者たちです。 

だからここまでしか言えないので、それ以降は自分で考えてと言うしかないのです。 

その場は楽に通ってもあとで苦労するのは目に見えているので、色んなケースを話して自分で考えるように言ってます。 

元々そんな指導をしてましたので、今の時代でも違和感はないです。 

 

=+=+=+=+= 

会社は、気の合った者が集まる仲良し同好会ではない。業務上必要な仕事上のコミュニケーションはきちんととるし、挨拶などは交わすが、それ以上のコミュニケーションは極力取らない。 

 

プライベートな飲み会や遊興などもってのほか。これでいいのではないでしょうか?若い世代も、こういった間合いがちょうどいいと思う人が多いと聞きますし。 

 

「沈黙をすることにする」というのは、少し大袈裟だと思いますが、沈黙+αぐらいのコミュニケーションにとどめるといったスタンスがいいように思います。私はこれでうまくやっています。 

 

=+=+=+=+= 

いわゆる平社員の人たちは生きやすくなったかもしれませんが管理職や上に立つ人は苦労をしているかもしれませんね。 

いろんな人を認めようという考えは正しいと思います。ただし、その人たち全てを等しく同じように扱うかどうかは別だと思います。特に仕事の場においては。 

「自分は発達障害です」と自分から言う部下がいるがどうしたらいいのか?という発信をSNSで見たことがあります。 

私が思うに、そうであれば任せられる仕事と任せられない仕事があり、その能力に応じて評価は異なるでしょうから、お給料はそうではない人と差が出てきます。それは当たり前だと思うのです。 

それでも自らそう発言することのほうがご本人にとっては生きやすいのでしょう。 

いろんな生き方が認められるようにはなりましたが、等しく同じ扱いになったとは思いませんし、なるべきとも思いません。 

 

=+=+=+=+= 

多様性はいいが、理由もなく何もかもを否定するのは違うと思う。今回の記事のように上司に挨拶はなくしてもいいと思うが、会社に出社したら顔を合した人には挨拶することで職場の雰囲気や仕事のやり方が大きく変わるため挨拶自体は必要だと思う。 

昨今大きく取り上げられている問題でLGBTがあるが、受け入れるのも、受け入れられないのも自由でそれも多様性なはずなのに、受け入れるべきが当たり前になっている。 

自分は持病があり、仕事で迷惑をかけることが多く、それを理解してくれる人、気にしない人、否定する人、多くの人と接してきたが理解してくれる人、気にしない人だけと楽しく仕事をする、否定する人とは業務的な話しかしない。それも多様性だと思う為、すべての人が理解する必要はないと思う。 

 

=+=+=+=+= 

逆もありますね。社会で色んなハラスメント受け 

続けてそれがストレスとなり生きづらいと 

感じる方もいると思う。 

そう考えた時、受け身側の方がより深刻な 

状況なのかなと。 

与える側が時代の流れに対応していくことが、 

重要な気がします。 

 

=+=+=+=+= 

価値観というものは時代とともに変わるもの。現行の価値観も10年先も一緒かというとわからない。 

最近まで中年男性等に何言っても良いといった風潮が有ったが、それも風向きが変わってきた。また働き方改革も働き甲斐という視点は当初薄かった。 

重要なのは自分の概念がその時代に合っているか常に棚卸しすることかな。ただメディア由来情報は公正とは限らないので、情報を鵜呑みにせず自分で判断すること。 

 

 

=+=+=+=+= 

自分は昭和生まれですが、今は多様性を認めない社会に変わっていってる事に窮屈さを感じてますよ。 

昭和の方が規制も緩くて、コンプライアンスとかもあまりなかったし、ある程度自由だったので、昭和の方が多様性を受け入れられてたと感じてます。 

 

コロナ前は多様性を受け入れましょうという方向性ではありましたが、コロナ禍をきっかけに、みんなが同じ事をやらないといけない、みんなが同じ考えを持たないといけないというふうに、偏ったモノだけが正しいという方向に導かれるようになったので、多様性とは真逆な方向に進んでると感じます。 

 

=+=+=+=+= 

自分が正しいと思うことを変える必要はないと思う。 

 他人の意見を聴いてその理由も聴いて、なお自分の方が正しいと思えば、堂々とその理由を表明して自分を通せばよい。 

 ただし、他人の意見を無理に変えることはできない。 

 例えば挨拶しない部下に対しては、理由を付して自分の意見を伝え、それでも聞かない場合は、その部下の評価を下げることもやむを得ないと思う。 

 もし、部下とかではなく何の関係もない人であれば、そのような人との接触を避ければ良いと思う。 

 

=+=+=+=+= 

大正末生まれの祖父は教育勅語で育った軍国少年であり、天皇陛下万歳の神風特攻ソルジャーなりかけからの戦後民主主義を生き抜いた日本男児。生前に戦後は価値観180度変わって辛かった?と聞いたら戦時中よりまし、家族友人の戦死とか空襲とか無いし飯も酒も今の方が美味いと笑っていた。世の中なんて変わるもんだから、今の生きづらさを探すより今の楽しいところを探せと言われた。つらいことは耐えるより受け入れるんだと、その方が楽とも言っていたな。 

 

=+=+=+=+= 

残念ながら、日本に多様性が浸透した結果「何でも被害者になりたがる」「些細なことでも我慢ができない」人が増えただけでしたね。それが窮屈さを増大させていると思います。ただ、自分の価値観の変容なんて、それなりに年齢を重ねた人が出来ることではない。だから萎縮せずに開き直って、自分のやりたいようにすればいいと思います。もちろん他人に迷惑をかけない範囲で。それもまた多様性でしょう。 

 

=+=+=+=+= 

ええと、上司に限らず、挨拶を交わし合うのは一つの円滑なコミュニケーションを育む良いもの、もしくは、他者に対する儀礼だという前提で、それをしない相手に強い口調をもってそれを求め、または注意をすることが、今の価値に合わない、ということですよね?自分も古い人間ですが、自分の至らない部分をわざわざ注意して下さる方には感謝しかないけれど…今は違うのですね。色々な方に気にかけていただいて叱ってもらったから気付いたことがある、という価値観の方が好みです。声かけの仕方は、オブラートに包むよりも、多少のインパクトがあった方が、本人も忘れないと思いますが、それが、駄目なんでしょうね…。さじ加減が難しい……… 

 

=+=+=+=+= 

40代後半です。 

アップデートしてと言われても、プログラムじゃないので一気に切り替えることなんてできません。 

だから私も同世代とは遠慮なく楽しんだり指摘し合ったりしますが、若い人には何も言えません。 

間違ってるなとか、もっといいやり方があるんだけどなと思いながらも、直接質問してきてくれる人以外には「いいんじゃないの」と済ませています。 

積極的に質問してくれる人とアクションがない人との差が開いていくのは日々実感しますが、アクションしてこない人ほどちょっとしたことでハラスメントだと騒ぐので放置しています。 

それも自己嫌悪にはつながるのでモヤモヤしますけどね。 

 

=+=+=+=+= 

「価値観」というより、その個人の価値観を構築する社会が変わっている。 

 

これまでも世代間でのギャップやズレは多々あったし議論になった。現在のギャップは過去のギャップと根底的に異なる気もするが、ギャップそのものはそう変わっていない気もする。ひょっとしたら、世論形成の仕方の変化によってとてつもなく変化しているかのように感ぜられるだけ、なのかもしれない。 

 

この文脈に関してだけ変わった、というのではなく、至るところで同時に速やかに変わっていて(認知し変容する前の)把握が難しくなっているようにも思う。他者に対してお節介しない踏み込まないから、諭されることもなく見て盗むことも難しく、けれど理解して弁えていなければならない、というのは厄介である。生きづらい。 

 

=+=+=+=+= 

多様性社会だからこそ己の考え方の発言はいくらですればいい。中年男性も多様性を構成する確かな一要素。安易に他者を批難しなければ問題ない。 

 

方や記事中の昭和的〜挨拶が〜のくだりは、「自分の常識を前提としてそれに従わない他者を一方的に批判する」という点において現在のSNS上のやり取りや政治家、活動家の言動も変わらないと思うが。 

 

むしろ昭和的や中年男性を結びつけた否定的事例として論じるこの記事自体に無意識の差別、多様性の否定を感じる。 

 

=+=+=+=+= 

もっと多様性を極める必要がある。人それぞれ何が嫌か違うので、個々人が「それは嫌です」と言える社会が必要。上司も部下も嫌なことは嫌と言い合って、仕事上の問題については最後は上司が決定を下す。セクハラやパワハラも大問題になる前に小さい火種の段階で当人同士で解決することが大切だと思う。 

 

「多様性」と「空気を読む」ことは両立しえないと思う。 

 

=+=+=+=+= 

そもそも真の意味での多様性が全く推進されていないんですよね。結局現状為されているのは『誰かの価値観の押し付け合い』でしかなく、最終的に『他の誰かの価値観に従う』という結果しか出なくて。それって本当に元々目指していた『多様性』なの?といつも思います。 

別に多様性そのものに異議を唱えたい訳ではありません。むしろ推進してもらって構いませんが、ただし「無限の自由」を与える事には反対です。基本となるベースが揺らぐと秩序が働かなくなるからです。その上でですが、「これまでの時代が築き上げてきたものを正とする認識」もしっかり認めないと、本当の意味での多様性にはならないはずですよね。でも何故か「古い価値観」とされて、多様性という言葉は一瞬で形骸化し『ダメな価値観』とされる。あれ、多様性って何だっけ?とここでいつも思います。結局特定の考え方を否定しているじゃないかと。 

 

改めて、多様性とは何か考えるべきでは。 

 

 

=+=+=+=+= 

上司から怒鳴られて当たり前という時代から上司が気を遣う時代に変化していますが、こういうのはある日急に変わるのではなく、徐々に社会に浸透していくものです。「現代の風潮についていけない」という人は、いろいろな要因があると思います。時代は変わるということを認識していない(1980年ころの新入社員だって新人類と呼ばれていました)、日々のアップデートを疎かにしている、本心では過去の風潮を好んでいて現代の風潮に抵抗している、人間関係の幅が狭く自分の見える世界がすべてだと思っているなど。 

最近の著名人を見ていると60を超えたくらいの人にこういった人が散見され、失言がニュースになっています。かつては知性派とされたポジションにいる人でもそうなっているので、本当に気をつけないといけないなと思います。 

 

=+=+=+=+= 

おしゃべりが大好きな人には今の時代は生きづらいよね。 

何が地雷か分からないし気を遣って喋るのも疲れるし。 

喋りたくないなら沈黙でいいと思うし、おしゃべりしたいならアップデートが必要だから、会社以外の場所で会話慣れするしかない。 

何個か数点気を付ける事項ってものを頭に常に入れておけばいい。 

自慢話はしない、昔の話はしない、説教はしないとか。 

趣味の話とかペットの話とか、平和な話を選べばよい。 

高田純二をお手本にすると良いと思われます。 

 

=+=+=+=+= 

えっと、多様性の尊重である以上、職場の中で多様な価値観、頑固な人も居ていいと思うのだけれども。 

 

昭和の価値観とかが今の価値観を危うくするもので無い範囲で自信を失わせるものでは無いし、最もボリュームゾーンを構成する価値観を阻害しない範囲なら別に共存できるのでは無いかな。 

 

=+=+=+=+= 

生きづらいのは今も昔も変わっていないと思います。昭和の時代は、上位下達で根性最優先、社員は家族で、社長が親。学校では体罰上等、部活は先輩が絶対。昭和なりの生きづらさがありました。 

「虎に翼」をみたら、寅子の生きた時代も大変だったのに、よく「はて?lと異議申し立てできてたなと思います。 

バブル期以降は「勝ち組、負け組」みたいならべるを貼られました。 

それぞれの時代の中で生きづらさに向かい合うしかないのかもしれません。 

 

=+=+=+=+= 

多分昔から「多様」だったのを無理やり「一様」にしてきたのだと思います。 

なので一様に息苦しさを感じていた人や多様に許容・寛容な人は大丈夫。 

急に変わって困惑する人も「こうだった、自分はこう思う」は持ちながら相手(自分以外)のことも考えることができれば。 

自分への迷惑や自己犠牲までする必要もないけど、他人に自分(今まで)の価値観を押し付けるのも良くない。 

 

=+=+=+=+= 

まあ確かに長い人生の中で突然のように何でもかんでも「ハラスメント」になりましたからね、仕事を失敗して落ち込んでいる若手に「頑張れよ」と声をかけても受け取る方の感情で「ハラスメント」になるのですからね、何も言わず仕事だけしていれば良い世の中になったようです。 

 

=+=+=+=+= 

自分が老害にならないか不安に感じてる人はそうはなりにくいと思うし、安易に他人を老害認定する人のほうが認知がズレてることのほうが多いとは思う。 

もちろん真に老害と呼ばれる存在も当然ながら存在するけど、中にはどんなに正しく時代に合った価値観で発言や行動しても『おじさん』という属性というだけで老害扱いされている風潮だと感じられる風潮の多様性は危うい気はする。 

 

=+=+=+=+= 

時代が変わったから、昔は正しかったものが今は間違ってることになった 

のではなく 

昔から今までずっと間違ってたことが、今ようやく間違っているということに気付かれた 

ということに過ぎないと思う。 

 

だから、本当は自分が正しいのに時代が間違ってるけど我慢しなきゃならないんだ 

とふてくされるのをやめて、 

自分が間違ってるとしたらそれはなぜなのだろうということを謙虚に考えて直すべきところを直すようにすれば、 

今の時代でだって生きていけるし発言だってできる。 

 

そして同じ理由で、今の時代で言われてることにだって間違ってるのに気付かれてないことはあるはずだし、 

昔の習慣で本当は間違ってないことだってあるはず。 

時代がこうだから、なんて基準自体がそもそもクソだと思うし、 

そんな考えに流されることを少なくとも自分はしたくない。 

 

=+=+=+=+= 

多様性があるから理不尽なことや罵倒も受け入れられていいじゃないか!でもそれはそれで老害!と責められるから私は黙るしかない…ということかな? 

 

老害という言葉を言う人間がいるから、広がってしまったけど、前から怖い男の人いましたよね…。 

それは変わらないわけで怖がられるのは今も同じ。 

 

そういう人間でありたいならそのまま通せばいいと思うし、嫌らなら丸くなればいいと思う。 

でも良くないことを放置するのはまた良くないよね。 

 

 

 

 

やたら上に挨拶って言う人いるよね。 

返ってこない挨拶を誰がするかって話。 

開業医がそれでしたが、当然看護師からは嫌われてましたよ(笑) 

そして挨拶をしなくなると、わざわざカンファレンスで挨拶の話題を出す。 

ゾッとしました。 

 

逆に大きな病院の看護師に聞いた話だと、立場関係なく挨拶出来てるそうです(笑) 

 

=+=+=+=+= 

多様性社会になって、苦痛な人付き合いを避けられるようになった反面、今までも存在していたのに曖昧にしてきた「他者との違い」が明確になったと感じる。 

今までは、あの人ちょっと変わってるよね、付き合いづらいよね、と思いつつ、必要であればちゃんと最低限の付き合いはしていたものが、「多様性」を盾にして明確に区別し、自分とは違う他者を忌み嫌う人が出てきたように感じる。 

 

 

=+=+=+=+= 

自分も昭和世代ですが、元々LGBTに関しても「まあ、そういう人もいるなぁ、それも個性か」と思っていたので、特に多様性に関して生きづらいと思うこともほとんど無い。 

価値観の変容というより、少しだけ相手を思いやればそれほど大変なことではないのでは?、とも思う。 

挨拶をしない部下等も、個人的には挨拶をすることはマナーであり礼儀だとも思うが、するしないは強制することでもなくその人の自由ではあるが、怒るのではなく「挨拶しないのは自由だが、それがマナーが出来ていないと思う人もいて自分の印象が悪くなったり、仕事上不利になることもあり得るので、心に留めておいたほうがいいかもしれないよ」くらいの助言はするかもしれない。 

そんなことで怒っても疲れて自分の気分が余計悪くなるだけですし。 

 

=+=+=+=+= 

コロナ禍の影響もあると思うが、上司に誘われる飲み会が減って生きやすいと感じる50代も決して少なくはない。 

全ての人が生きにくくなったわけではないと思う。そのあたりは、自分の価値観が全てではない、と思うことにするのが一番だと思う。 

 

=+=+=+=+= 

どちらかと言えば生きやすくなったかな。 

昔と違い熱心に部下や後輩の指導をする必要は無くなったし、飲み会等のアルコールを伴う集まりも少なくなりました。 

コミュニケーションはランチでと言う感じに変わって来てますね。 

今の指導や教育は問題点や教育内容を箇条書きにしてメールで送って終わりです。 

出来なければ淡々とマイナス評価を付けるだけです。 

少し寂しいですし冷たいとも思いますが、感情の入った指導は即パワハラと言われる時代ですからね。 

 

=+=+=+=+= 

いや、多様性社会が生きづらいのではなく、「老害」という言葉を偏った意味で蔓延させている社会は多様性社会とはいえないと思うのです。自らの生きやすさが誰かの生きにくさになっていないか。そのことを誰しもが省みるようになったとき、多様性社会が実現するのだと思います。 

 

=+=+=+=+= 

誰かの不快感を取り除いた環境が、別の誰かにとっては新たなストレスの元になりうる。あちらを立てれば、こちらが立たない。この記事にあるように「黙ってしまう人」の気持ちが私はよくわかる。黙っている人は何も考えていないわけではない。ただ、往々にして「声のデカい人」の意見ばかりが罷り通ってしまうのが世の常。黙っている人をシカトし続けていれば、いずれその歪みが大爆発を招くだろう。 

 

=+=+=+=+= 

どんどんと移り変わる時代に合わせて常識や考え方は変化していきますが、今の多様性と言いながら古い価値観は認めないって風潮があまり好きではありません。 

それはただの排他的な考え方であって、多様な考え方ではないと思っています。 

 

=+=+=+=+= 

最低限守った方が良い万人共通やコモンセンスのようなものはあると思いますがね。 

多様性はその上に成り立つものだと思います。 

共通の規格の弁当箱はみんな持っていて、そこに幕の内にするのか、ミックスフライにするのか、カレーを入れちゃうのか、全部おにぎりにするのかみたいな。 

 

=+=+=+=+= 

いつの時代でも長く生きていればこういうことはあるでしょ。 

私の母は戦前生まれ。戦前の幼少期、戦争中の少女期、戦後の青春期~高齢期まで時代の変化はそれはそれはめまぐるしかったと思う。 

価値観もガラッと変わったし、核家族化で家族のあり方も変わった。 

 

自分はこの記事の人と同年代。 

第二次ベビーブーム期に生まれ、高校生で昭和が終わり、就職は平成~令和。 

学校の先生は威圧的で名前は呼び捨てだったし、入社しても女性社員のお茶くみからはじまった。 

30年も会社員してると自分の若い頃と比べるといろいろ違いますよね。でも楽になったと思います。 

今の20,30代だってあと30年生きたら今の価値感からまたガラッと変わってると思いますよ。 

そこは臨機応変にしつつもほどよくスルーするスキルをつけていくのがいいと思ってます。 

 

=+=+=+=+= 

>家父長的な考え方は一定の年代以上の人だけに残された古い価値観となりました。 

これを成立させるためには、その生活上の基盤になる「共同体」が必要で、元々あった「村落共同体(ムラ社会)」が経済成長で縮小・消失した際にそれが「企業」に置き換えられた(昭和・平成前半までの新規学卒一括採用・終身雇用制度はそれの現出)という論文を読んだ事がありますが、 

企業に代わる新しい基盤がないまま価値観だけ変容を迫ったら、余計混乱を招くだけではないかという気がします。 

純粋に自分の実力だけで充分な報酬を得て独立独歩で生きていける人間なんてほんの少数で、大半は何かしら他者に依存する部分が無ければ生きていけないのではないか、そのためにどんな「共同体」が必要とされるのか、その議論が欠落している様に思えてなりません。 

「闇バイト」に代表される無規範そのものの犯罪行為も、そこに一因があるのではないか、と思えています。 

 

=+=+=+=+= 

経験則で本来なら人生経験が豊かな年配の人の方が、TPOをわきまえた言動なり行動ができるはずなのに、社会がそれ以上に急速に変化しているので、ある分野では、若者の方が年配者よりも遥かに整合性のとれた行動ができるようになっていて、逆に年配者が若者に教えを乞うような事態になっている 

戸惑う年配者を尻目に、若者がスムーズに行動を起こしていくので、自分の考えが正しいことなのかどうか、正確な判断力が鈍っていく 

やがて、自分の殻の中に閉じこもって、価値観の擦り合わせをすることをやめ、限定されたコミニュティでのみ、自我を解き放とうとするけれど、そもそも女性と違って男性はコミニュティを築くことが苦手で、それすら出来なくて、絶望する 

もっと自然体で生きて、老いを許容した方がいいと思います 

そうすることで、余裕も出てくる。余裕が出てくれば、自然と行動にゆとりが出て、価値観の擦り合わせも自然に出来てくると思います 

 

 

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年齢は関係ないね。生きてきた環境と個人の資質の問題。 

自分は50代だけど、当然学校での体罰は普通な時代だった。でも現在は若い人とも違和感なく接する事も出来るし、生きづらいとも感じない。 

常に幅広い人と接していれば時代の変化は気にならない。 

生きづらいと感じてる人はいつに時代でも歳関係なく生きづらいんじゃないかな。 

 

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何も難しくありません。人が傷つくかもしれないことを言わない、しない、至ってシンプルです。人種や性などが多様化したところで、基本的な思いやりのルールは変わらないんですから。たぶん「何を言っていいかわからない」など言っている人は対男性、女性、どちらでもない性、ふくよかな人、スマートな人、背が高い人、引く人、ゲイ、ストレート、外国人、障害者、健常者、目下、目上の人などなどに関係なく、何かしらデリカシーないことを発言しているのでは?日本には敬語があり、本音と建前や忖度社会なわけで。本来であれば、他人を尊重し、敬うのが得意なはずです。だから対象が誰であれ、悪口言わないを徹底すればハラスメントとは無縁なはずです。 

 

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・痛めつけられても耐えて、それをバネに成長する。みたいな根性論を捨てる 

・やられて嫌だったこと、やられたら嫌だと思うことは他人にしない 

 (自分の行動・言動が他人からどう見えるか考えるようにする) 

・ありがとうとごめんなさいはその場で言葉に出す 

 

老害になり下がるなんて嫌だという気持ちをご自身でお持ちの方なら 

これらを気を付けるだけでも結構問題なくなるように思います。 

 

=+=+=+=+= 

開き直るよりはいいんじゃない? 

 

このままではマズいと気付いているんだから、何とでも改善出来るでしょ 

YouTubeで会話マナー的なのをチェックしてみたり、ドラマなんかをコミュニケーション部分に注目しながら見たら参考になるんじゃないかなー。 

 

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いいんじゃないですか? 

関わって、一緒にやろうとするから軋轢が生じるだけのことです。 

発言やめたのなら、行すまして、黙ってりゃいいだけのことです。心の中で、それは違う、俺だってまだまだ、なんて闘争心の炎を燃やしてるから不満が溜まるんですよ。 

私なんかもう、スーパーや道を歩いてても、肩で風を切って歩いてる人がいたら避けます。お子様連れ、アベック、若いお兄さんの集団、キャリア風のお姉さん、あたりに睨みを効かせながらオレに近寄るんじゃねぇ、と肩に力の入ってる風な買い物中のおじさん。近寄らないことが一番です。それが心の平和っていうもんです。争うなかれ。年寄りの知恵ってもんです。 

 

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古希の世代だが、令和は健全な時代になったと思う。数年前、近所に数年年上の老夫婦が越してきた。こちらから挨拶すれば挨拶を返すが、相手から挨拶されたことがないため、こちらから挨拶するのをやめた。すると向こうから近づいてきて黙ってこちらの顔を凝視する。負けずに睨み返し、結果的に双方挨拶しない関係になった。年長者は後から越して来ても、年下から挨拶するのは当然と思っているようだ。こちらの論理は、年下だが先住民族だから後から来たものが先に挨拶しろと思う。昭和どうしだとこんなもの。 

 

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現時点で53歳なら昭和は17歳で終わって、それから平成の30年を過ごしている。人格形成期は昭和だったとしても、人生の大半を過ごしたのは平成でしょ。 

18歳以降にこそ形成される価値観もあるし、アップデートできずにいるのは時代のせいではないような気がする。 

 

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53歳でそんな事言ってたら職場の若い方やお子さんと会話難しいんじゃないですかね。 

大事なのは何が正しいかではなく、相手に不愉快な思いをさせないかどうか。 

昭和40年以降の生まれでも男性は女性や子供を労わらなくても、今まで生きて来れちゃったんだなと感じて、あまり同情出来ない。 

私は52歳。子供がまだ学生だから年下ママに囲まれてるし、子供たちと価値観を合わせるには、勉強も自分の価値観を変えることもしてきました。 

イジメや暴力嫌いだから昔より今のが好きですね。 

 

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>時代に合わせた価値観のアップデート 

 

文化大革命やポルポト時代、ナチス時代などが思い浮かぶ。 

ナチスドイツとの三国同盟に向かった際の日本では「バスに乗り遅れるな」が良く使われたフレーズだったが、同じ匂いがする。 

 

価値観のアップデートという言葉に騙されてはいけない。信じた道を突き進むことが大切。 

 

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昭和の生き方でお金を稼いでいた人はちょっとつらいく厳しいですよね。 

なにか個人的に秀でた能力を持っていてそれを認め合わないと成立しないのが現代の価値観です。 

 

でもこれって別に昭和世代だけじゃなくて若年世代でも同じ。昭和世代はかつての生き方を知っているだけに落差に困惑している。いっぽう若年世代はどの生き方も知らない。だから生きづらいという感覚そのものがないのかも知れないですね。彼らも平凡な自分たちの価値に疑問を持ち出すのも時間の問題です。 

 

 

=+=+=+=+= 

サザエさんを見ていての違和感がなんとなくわかった気がする。 

「ばっかもーん!」「カツオ!」っていう波平の怒声や「立っておれ」「罰として~」っていうのが今の時代に合わないってことなのかな。 

 

食卓では画面中央に鎮座し「お父さんからも何か言ってくださいよ!」というフネやサザエの声。 

それに対して「うむ」って返事。 

物語がお父さんお父さんと、お父さんの判断基準で成り立っている家族であるということ。 

サザエさんのアニメの中では携帯電話を出さないなどの縛りがあるらしいけれど、家族の在り方も今の時代とはやっぱり違うな。 

 

=+=+=+=+= 

基本的に「自分がされて嫌なこと、傷つくことは相手(あるいは属性)にもやってはいけない」と考えると随分違うと思います。難しいのは「自分は辛抱してきたのだからとか、属性という括りだと、男だって大変なことや不利なことが有るから、女だって辛抱すべきだ」的な考えから抜け出せない人たちでしょうね。 

 

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「多様性」で昭和のすべてを否定するのは違うけど、一般的に老害と言われる中高年男性の意識のアップデートが出来ていないのも事実かと。 

 

学ぼうとしない人はどの年代にも一定数いるから、自分なら「あー、この人はそういう人ね」と認定して、極力関わらないようにするな。 

昭和な感覚も別に否定はしないよ。自分も昭和の人だし。 

でも、自分と価値観が合わない人は基本的に避けるというだけの話。年齢関係無く合わない人は合わないし、合う人は合う。 

 

=+=+=+=+= 

多様性が認められるべき場合とそうでない場合がある。パリ五輪の時にボクシング女子で性別騒動があったが、いくら多様性の時代とはいえ、生物学的根拠があるのなら、それに基づいた措置をするべきだった。性別や国籍、立場など人によって様々な違いがある。それらが関係のない理由で不当な扱いを受けることがあってはもちろんならないが、何でもかんでも多様性を受け入れればいいわけでもない。的外れな左翼やノイジーマイノリティの声を真に受ける必要はない。 

 

=+=+=+=+= 

53歳で今の時代の価値観にマッチ出来ないってのも何だかなあ。 

私も学生時代は理不尽な想いをしましたけど、時代が変わるにつれ「あの時代が異常だったんだ」とどこかのタイミングで割り切って、脳内をアップデートできましたけどね。 

 

「老害扱いされたくない」ということは老害認定されるような言動がこれまであったということですよね?例えば自分がされてきた理不尽なことをそのまま後輩や部下に行っていたとか?そうでなければ何も悩む必要が無いと思うのですが。 

 

=+=+=+=+= 

この「時代についていけない」違和感、間違いなく、あと40年もしたら、平成・令和生まれの諸君たちも実感することになると思うよ。 

 

古代エジプトの遺跡から未解読の文字が見つかったが、解読したら「最近の若い者は、なっとらん!」だったらしい。 

 

数千年前から、変わらないという話。 

 

=+=+=+=+= 

ダブルスタンダードなんだよ。都合が悪くなると多様性と言い出す。日本の長く培われてきた先人の知恵を僅か10年そこそこで破壊している。アップデートが必要と言うなら、清水寺や金閣寺も災害が多いんだからRCで全部作り直さないと筋が通らんのとちゃいますかね。 

 

=+=+=+=+= 

多様性社会で生きづらくなった人は、若いうちに色んな事柄の・・正解はいくつもあるし正解なんて無いのに正解を1つだけ決めてそれに沿って生きてきた人が多いんじゃないかと思います。 

マジョリティたる「普通」「常識」「当たり前」に飛びついて身に着けてないと怖くて生きてられないんですよ。そうなることが昔は強者だったのだから。 

それを初老になって崩されたもんだからパニックになってんのかな。とはいえ、彼らが悪いわけじゃありません。国の色んな政策やメディアに翻弄されてきた結果だからです。 

一方、昔に生きづらかった弱者たちは今ではかなり生きやすくなったのではないでしょうか。虐げられてきたマイノリティも実は考えの1つとして市民権を得、取り返しはつかないものの納得はできてると思います。 

価値観を押し付けず、解り合うのは無理ですがお互いに不可侵で生きればいいと思います。 

 

=+=+=+=+= 

>だけど老害になりたくないので沈黙を選択していて、結果的に社会での自由な発言権を失っている 

 

誰に対しての老害なんでしょうか。 

 

会社で若い人に対してだったらそんな事言ってたら仕事にならないので、黙る前にどう言えば伝わるのかを勉強して考えるべきだし、家族に対してだったら気にすることないでしょう。 

友人に対してだったら価値観が合う人といっしょにいれば済む話。 

 

買い物で店員にとかなら黙っていても自由な発言権が失われたとまでは言えない。 

 

そもそも言いたいことを言いたいときに言いたい相手に言うってのはほとんどの人ができない。 

 

なんとなくわからなくもないけれど、ちょっと抽象的すぎる悩みだと思います。 

 

=+=+=+=+= 

価値観は変えたくない。でも老害にはなりたくない。 

ただの我儘。それが老害であり、既になっています。 

わたしも同年代でありパワハラ当たり前で育ち自分もまた同じ様にしてきました。 

しかし多くの人が間違いに気付き、学び、変わろうとしています。我々世代の問題の一つが、教わるのは先輩年配が当たり前だと思い込んでいるところです。自然と若輩に耳を傾けず見下す部分があるのです。子は親を見て成長しますが、親もまた子を見て成長します。社会においても若者たちから学ぶ事だって沢山あります。昭和が終わる頃から目まぐるしい勢いで時代が変化しています。ついていくのがやっとかも知れません。初めから理解はできなくとも、何気に見様見真似から始めたとしても途中から理解を得ることだってあると思います。 

価値観は自身の為であり、老害にはなりたくない気持ちは他者の為です。他人に迷惑をかけたくないのであれば努力が必要だと思います。 

 

 

=+=+=+=+= 

価値観は変えたくない。でも老害にはなりたくない。 

ただの我儘。それが老害であり、既になっています。 

わたしも同年代でありパワハラ当たり前で育ち自分もまた同じ様にしてきました。 

しかし多くの人が間違いに気付き、学び、変わろうとしています。我々世代の問題の一つが、教わるのは先輩年配が当たり前だと思い込んでいるところです。自然と若輩に耳を傾けず見下す部分があるのです。子は親を見て成長しますが、親もまた子を見て成長します。社会においても若者たちから学ぶ事だって沢山あります。昭和が終わる頃から目まぐるしい勢いで時代が変化しています。ついていくのがやっとかも知れません。初めから理解はできなくとも、何気に見様見真似から始めたとしても途中から理解を得ることだってあると思います。 

価値観は自身の為であり、老害にはなりたくない気持ちは他者の為です。他人に迷惑をかけたくないのであれば努力が必要だと思います。 

 

=+=+=+=+= 

>国際社会からの影響を受けて『人権』を尊重することの必要性が高まる中、誰であっても尊厳ある一人の人間として扱うことが求められるようになりつつあります。 

 

年配者を老害なんて言っている輩こそ人権分かってないということですよ。 

「誰でも尊厳ある一人の人間として扱うこと」とは言えないでしょうに。 

 

少なくとも実務や経験で上回っているのであれば、教える立場になるため必然的に上からの言葉になる。 

特に危険な業務の場合には荒っぽい言葉で怒鳴ることもある。 

それをパワハラっていうならどうぞって開き直ってますが、言われたことないなぁ。 

逆に懐いてくるなと思ってます。 

ちゃんと分かっていると思いますけど。 

 

=+=+=+=+= 

オッサンだけど昔よりも優しい時代になったので楽だと思う 

野犬とかもいないし、立ち小便するヤツもいないし、ヤバいヤツに絡まれることもほとんどないし、衣食住は整ってるし・・・枚挙に暇がない 

自分が10代20代のころに感じて行動していたことが、今の時代になって一般化してきたので、時代が後から付いてきている印象がある 

 

=+=+=+=+= 

多様性を大切と考える者です。 

また、セクハラとか痴漢を許せないと考える、 

その意味では、令和の風向きは歓迎したいです。 

でも、それだけでいいのかな? 

やっぱり疑問が残るんです。 

何が?って、 

人間、機械のようにアプデができる訳じゃないし、 

昭和から生きてきた人が 

今の令和の価値観に対応できていなくても、 

それはそれで寛容であるべきじゃない? 

って思うんです。 

 

昭和・平成の、セクハラが当たり前、 

つべこべ言うな!みたいな風潮、 

私は絶対に嫌です。全否定したい。 

でもそれ、個人のせいじゃありません。 

それは、そういう時代だっただけ。 

 

だから、少なくとも多様性を重んじるなら、 

そういう時代に育った人たちが 

多少アプデできていなくても、 

それって否定するんじゃなくて 

私たちにも寛容さ、必要なんじゃないかな。 

多様性って、人を活かすための考えであって 

人を否定するためじゃないはずなので。 

 

=+=+=+=+= 

私は女性なんだけど、男女平等な学校生活から、男性優位な社会に出て、20代から価値観の変容を求められてきたよ。 

氷河期もあって、様々な価値観を書き換えてきたよ。 

泣いた日もあるし、うつ病一歩手前になりながらも生きてきたよ。 

 

=+=+=+=+= 

54歳ですが 

娘は私を一番年上の友達と言って仲良くしてます。 

たまに・・ 

「パパそれ・・アウトやからww」って言われることもありますが 

多様性の中で生きてきた娘の方が私たち世代に寛容ですw 

 

〇〇ハラスメントを振りかざして年配の者にマウントを取りたがる馬鹿がいるから上手くいかない・・と、娘が言ってたのを聴きなるほどと思うと同時に、娘はバランスを取るのが上手に育ったな・・と感心しました(親ばか) 

 

=+=+=+=+= 

個人の幸せと言う結果に至る過程の一つが同性愛であったり、社会の効率的な運用の手段の一つが男女同権や夫婦別姓であったり。目指す結果ではなくて、その為の様々な過程や手段を尊重する社会なのだと、頭を切り替えるしかないと思ってる。正誤でなくで、尊重するか否か。 

 

=+=+=+=+= 

世代によって価値観が違うってことを「お互いに」認めるのが本当の多様性社会なんじゃないの。おじさんが若者の価値観を理解できないと同じようにおじさんは若者の価値観を理解できなくて当然だよ。老害だのなんだのってのは一方的におじさんを貶めるのは多様性社会に反するし、おじさんも若者の価値観に媚びることないですよ。みんなそれぞれ生きてるんだしね。 

 

=+=+=+=+= 

入社当初はセクハラ、パワハラが当たり前だった。カラオケでは若い女子社員にデュエット強要、肩に手を回す、回した手が下に降りていく・・・の定番パターン。職場では飲み会強制、土日に会議があるのになぜか休日扱い、呼び捨て、暴言は当たり前、上司より早く帰ろうとしたら空気を読め、若手は終電で帰るものだと怒られた。 

あるとき労基の行政指導が入った。辞めた誰かがタレ込んだらしい。そこから会社は突然、早く帰れ、働き方改革だと言うようになった。どの口が言うんだと思ったが、変わったのは良いことだ。自分も時代遅れのオヤジと陰口を叩かれないよう、常に価値観、というか労働環境の変化には敏感であろうと心掛けている。 

 

=+=+=+=+= 

国会議員やマスコミの最前線でも価値観のアップデートが追い付いていない昨今、最新の価値観とはどこを参照すればいいのだろうね。一部の閉じた社会のローカルルールを最新の価値観と勘違いしてしまっていないか心配だ。 

 

 

=+=+=+=+= 

誰とも絡まなければいいだけで、その割り切りはするしかない。 

身内以外は全員敵だと思って生きていればなにも苦労はない。 

その境地に辿り着けるかどうか。 

他人なんて所詮はプラスの作用を生まないし、生むようなら仲良くしたらいいだけ。 

なにも期待なんてしなければいい。 

 

=+=+=+=+= 

今も昔も、主導権握った連中が、自らの考えを「新しい考え」として押し付け、過去の価値観を「古い」と切り捨てていくのだろう。 

 

今の時代が生きづらいから生きやすいかはわからんけど、新しい価値観に乗っかって、自分の敵対する相手を攻撃する輩が増えたのは間違いなく感じる。 

 

=+=+=+=+= 

男性に限らず、この前、ある中高年女性がSNSで「夫の家事下手すぎ、バカか?」と放言してモラハラだと燃えてたけど、本人は何が悪いか分かってなさそうだったな。 

彼女からしてみれば、昔ながらの謙りを使った愛情表現だったのかも知れないけど、少なくとも現代じゃ、パートナーを下げるなんてモラハラとしか受け取られないからね。 

男なんかとうに「あいつは外面は良くてもトンでも無い愚妻で〜」なんて言えんからね。 

世間的に倫理観がガラッと変わっちゃって、昔ながらの流儀が通じないのは大変よの。まぁ頑張ってほしいわ。 

 

=+=+=+=+= 

この手のタイプの方々は関西圏に移ればいいのでは? 

関西は変わらずのマイペースで、愛あるズケズケやツッコミが 

そう簡単に止まるとは思えませんから。 

関西だけはそう在り続けてほしい、という願いも含んでいます。 

 

=+=+=+=+= 

生きづらいと言っている人の裏には、今まで理不尽に抑圧されてきた人たちがいる。その立場が変わって被害者ヅラしないでほしいね。時代が変わらなければ自分が理不尽に周りを抑圧するつもりだったのだろう。 

別に難しいことではない、ただ目の前の人をあるがままに対等の1人の人間として扱えばいいだけの話だ。 

 

=+=+=+=+= 

大まかに言えば「多様性社会」で非難されるのは 

・他者と差別化することで自分を優位に位置づけること 

・持っている力を正当な理由無く感情的に用いること 

であって、中年男性より上の世代は更に上の世代に当たり前にされてきたことだから、そのことに疑問を持たなかった人は 

「上の世代がはけて今度は自分達の番だったはずなのに」 

となっても不思議ではないだろう。 

自分の頭で考えることをしなかったツケとも言える。 

(安保闘争にびびった日本の後の教育が、考えることを放棄させた従順な国民の育成に傾いたからしかたないといえばしかたない) 

 

=+=+=+=+= 

この50代の人も若いころは、今の若者は~と 

言われたんです 

それに比べると今の若い人たちは昭和の 

人たちより優しかったりデリカシーがあったりしますよ ネット環境に慣れてるからまた 

違う価値観もある 

いつでも年長者からは若い者は~と言われるような気がする 

 

=+=+=+=+= 

今の人たちって「多様性」という言葉を自分の都合の良いことばかりに使ってるけど、本当多様性とはこういう昭和を生きてきた人の人生も否定せず受け入れるべきだと思いますけどね。 

何で自分が必死に生きてきた人生を否定されなきゃならないんだと思います。 

今の若い人たちは自分が年取って周りから自分の人生を否定されるまで気付かないんでしょうね。 

 

=+=+=+=+= 

自分の時代の価値観はもう通用しないと思って捨てる。 

年長者、肩書が上=偉いの価値観をすてる。 

話かけられていないのに自分から話に加わって口出しをしない。 

若い人に自分の武勇伝を語らない。 

若い人の意見はとりあえず全部聞く。 

 

多様性が生きづらいと感じるのはこれらとま逆なことをしているからだと思う。 

 

=+=+=+=+= 

時代や価値観は急に変わったものではなくて、時と共に徐々に変化していくもの。それに気が付かずに自分が変わらなかったのは、狭い世界に閉じこもっていたんだと思う。色んな本を読むだけでも、自分を変えられるのに。 

 

 

=+=+=+=+= 

時代や価値観は急に変わったものではなくて、時と共に徐々に変化していくもの。それに気が付かずに自分が変わらなかったのは、狭い世界に閉じこもっていたんだと思う。色んな本を読むだけでも、自分を変えられるのに。 

 

=+=+=+=+= 

「誰であっても尊厳ある一人の人間」(記事より引用)なんて、嘘うそ。それが本当なら、この記事のような悩みは生まれません。障害者や高齢者、間違いや過ちを犯した人を害として扱い、断罪し再起不能にするのが今の時代。昭和の時代よりも差別区別は明らかにひどくなってるし、過激になっていると感じます。 

 

=+=+=+=+= 

多様性という言葉は聴こえのいい抑圧する言葉だから 

 

多様性と言いつつ個性を否定する言葉であり社会構造の平坦化が目的 

つまり、人を無思考の生命の機械化させるためのもの 

 

皆は気が付いてないけども愛・多様性・助け合い、これは今の社会では 

違った意味合い持つ言葉 

 

愛→自己正当化 

多様性→個の特性抑圧 

助け合い→自己の利益 

 

↓本来の在り方 

 

愛→物事を受け止める 

多様性→個性を尊重し理解しあう 

助け合い→足りない所を埋めあう 

 

愛は受け止めることであり、多様性は理解すること、そして足りない事を 

助け合う 

お互いに理解しお互いに受け止めあい足りない部分を認識して助け合う 

 

けど今は、自分を正当化するために愛を押し付け、一方的な常識(変化のある)を押し付けて落ちた人たちを自身の贖罪のために支援する 

 

よく考えたほうがいいよ、今の人間は大多数が機械と同じだ 

 

=+=+=+=+= 

うつ傾向で認知行動療法の本でワークとかしてみましたが、あれはやはり一人では難しいんしゃないかなと思う。少なくとも自分一人では何の役にも立たなかったですね。自分の首を絞めない程度に黙してやり過ごすのが一番無難じゃないでしょうか。価値観をアップデートしたつもりで喋ってボロを出すよりいいかと。 

 

=+=+=+=+= 

まあ少なくとも昭和の「スパルタ教育」、あるいは「恋愛至上主義(もっというなら「性欲・劣情至上主義」)」は今の時代ではほぼ通用しないことぐらいはちゃんと認識すべきだろうな。この辺をアップデートできていない人たちがハラスメントを起こしていることが多いわけだし。(それ以外だと「梶原一騎的なスポーツ観」、とか) 

 

=+=+=+=+= 

『時代の流れに沿ってアップデートすべきだ』と言ってもねえ…… 

 

結局、『みんな』『時代の流れ』に沿った価値観と生き方になるべきだ、と言ってるわけだから、本当の意味では多様化できていないんだよね。 

キラキラネームと同じ。 

『個性』をうたいながら「名前は時代と共に変わっていくものだ」「みんなキラキラネームになればいい」って。 

 

大雑把に言えば、個性、多様化とは『みんなとは違う』ってことだよ。 

時代の流れとか関係なく、『自分はこうしたい』と思うことだよ。 

 

体罰などは価値観というより、道徳、倫理の問題。 

 

=+=+=+=+= 

ぼっち気質の人間だと現状は快適なんですよね。 

ただ記事のように悩む方々にも同情するトコがあって、みんな普段はお澄まし面で過ごしてるのに誰かがパワハラとかで道を踏み外すと途端に悪口言ってOKとなる豹変っぷりは見ていてキツイものがある。誰かがミスるのを息を潜めて待ってストレス解消してる陰険が社会に蔓延してる気がするので。 

 

=+=+=+=+= 

田舎なんか行くと昭和から変わらない会社や組織がまだあって、若者が定着せず人手不足に喘いでますね。 

定年退職した老人が嘱託採用されてるとこなんかはもう酷くて、世代交代を遅らせてるようなものだから昭和が今も続いてる。 

喫煙室で若者に先輩がタバコ出したら火をつけて差し上げるのが気に入られる極意なのに、最近の若者はと気が効かないだのドヤ顔してるけど、タバコ吸わない若者が多数派な世の中に何言ってんだと… 

 

=+=+=+=+= 

このお父様はこのお父様なりの適応の仕方をされていると思います。 

 

ただし記事の書きぶりは大いに謎です。 

それこそドラマのように昭和から令和にいきなりタイムスリップした人なんていません。 

このところ価値観や倫理観の変化が早くなっているのは確かだと思いますが、それでも平成の5年10年刻みくらいで階段状に変わってきた部分も多いはずです。 

昭和の価値観が令和に通用せず戸惑っている人は平成の30年あまりはどこで何を見て生きてきたのでしょうか? 

 

=+=+=+=+= 

昭和や平成初期までは頭おかしい奴が出世したりが多過ぎただけで、 

パワハラとかたかが会社員ごときが人を人とも思わないように蔑んで、俺なんか何言ってんだかって思ってるけどね。 

逆に若い子の方がよほどまともで良く話も聞いてくれるし今の時代は生きやすいよ。 

 

 

 
 

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