( 222755 )  2024/10/16 00:16:05  
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尊厳死に関する議論は多岐にわたり、個人の自己決定権や家族の負担、医療費の問題、社会保険料との結びつき、医療従事者の視点などさまざまな視点が示されています。

一部は尊厳死を支持し、本人の意志を尊重すべきと主張する声もあります。

一方で、医療と財政の関連性や高齢者の増加に伴う社会的課題への懸念も示唆されています。

その中で、尊厳死を含む終末医療を分析し、具体的な制度や枠組みの整備を求める声もあります。

さらに、個人や家族、医療従事者が尊厳死に対する考え方や選択肢を広く議論していくことの重要性が指摘されています。

議論を深めて、尊厳死について国民全体で考える機会が必要とされる意見も見られました。

 

 

(まとめ)

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この問題をただ批判するだけでタブー視する事に違和感がある、宗教観や医療倫理観など様々な問題がある事も含めて議論をする時期に来ていると思う。私も含めて多くの人が家族の負担になり、自由がない状態になったら誰にも迷惑をかけずに生涯を終えたいと望んでいると思う。認知機能に問題がない時点での自己申告と医師による最終判断を経由して尊厳死を認めるべき。これは高齢者の切り捨てなどではなく人間らしく最後を迎えたいという自分の尊厳を守る主張です。 

 

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みんなも尊厳死というものをよく考えて欲しい。うちの親父が亡くなった時、担当医師から「延命治療希望されますか」と聞いてきたんだよ。オレは即座に「83年間生きてきたんだし、今更胃ろう・点滴に繋がれてる姿を見たくない。さらに苦痛を与えてしまうからここらで安らかに眠らせて欲しい」と言ったの。その結果親父は2日後に永遠の眠りについたんだ。仕方ない選択だったよ。そりゃ長生きさせるのがいいんだろうけど、ガン・急性心不全とか助かる見込みがないなら尊厳死の選択もアリだと思う。 

 

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尊厳死と医療費を直接結びつけるのはおかしいものの、延命処置により寝たきり高齢者の増加が、医療費の増加と関連しているのは間違いないと思います。本人の希望がわからない場合、家族の意思を確認することになりますが、その結果、本人は望んでいない可能性がある処置(胃瘻、中心静脈栄養、人工呼吸管理など)を施されるリスクを認識すべき。 

加齢が誰しもが避けられない現象であり、一定の段階でどのように最期を迎えうことを望むかを、家族などと十分相談する機会を設けなければいけない。そして尊厳死のあり方を国全体で議論し、一定の方針を示すべき。 

 

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年齢や経験により大きく意見の分かれる非常に難しく繊細な問題であると思いますが、だからこそ十分な議論が必要かと思います。現代に必要なテーマについて勇気と覚悟をもって触れられたことには敬意を表したい思いです。 

 

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確かに尊厳死という選択肢を与えるのも一つの考えではある。祖父母の老老介護を目の当たりにした自分からすればこの記事は他人事には思えない。最初の一年はまだ許容範囲だが、この状態が二年三年と続けば生活状態が逼迫していく。それと同時に精神的な余裕が感じられなくなる。予算や倫理観といった問題はしっかり議論すべきだが、介護に行き詰まった人の負担を軽減できるなら、この法案は通した方が良い。 

 

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タイミングなんですよ。 

選挙前ではなく、落ち着いた時期に、政治家の方や識者をパネルに日本各地でタウンミーティングを行い、全世代型の社会保障制度のあるべき姿について議論を重ねてほしい。その中で、終末期医療だけでなく、世代別医療(子供・就業世代・初老世代・後期高齢者世代)の確立へ向け、医療界、医療介護関連企業を巻き込んで議論を行う。 

それをYoutubeで余すことなく流して全国の国民への啓蒙を行う。もちろん厚生労働省などの公的機関が流した方が良い。 

政治家は、こういう取り組みの上で、適切なタイミングで選挙公約に組み込み、選挙で政策の是非を問う。 

国民も、こういう市民との活動に積極的に取り組む政治家こそ、国政選挙で当選に値するとみんなが感じる世の中になっていくだろう。 

但し、誰もが避けてきた議論を提起したことだけは評価しても良いとは思う。 

 

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私はもともと国民民主党支持ですが、今回の件を理由に支持を止めることはありません。 

 

玉木代表の発言は、確かに軽率だったと私も思います。 

尊厳死については、直近の優先順位は低くともいずれ一定の結論を出すべきという認識ですが、この時期に・しかも社会保険料と絡めて話題に出すべきではなかった。特に、議論の要素を出し切れない程に限られた時間しかない場での発言なので、誤解を誘発する恐れが高いことから、場面も相応しくなかった。その点は批判されても止むなしと思います。 

 

ただ、社会保険料に関して言うと、現役世代への負担の偏りを変えるべき、その為には負担能力に応じた形として、余裕のある高齢者などに負担をお願いすることも考えなければ…という、聞こえの良くないことも避けずに正直に主張をされている。この姿勢は与党や野党第一党には見られない、誠実なものであると感じます。 

 

それこそが、支持を続ける理由です。 

 

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国民民主党は、第一党を担う政党ではない。 

だが特に経済政策については、自民党のようなしがらみ政策、立憲のような財務省マンセーなハチャメチャ政策ではなく、非常にまっとうで検討するに値する政策を立案している。個人的には国民民主の経済政策を丸のみすれば、日本の経済は確実に成長し、国民の生活も広く改善されると思う。 

 

語弊を承知で言えば、この記事のような政策論点は、国民民主には全く期待していないので、このようにマスコミに遊ばれないように、玉木さんも得意分野、国政に絶対貢献できる経済分野に主張の重点をおいてほしい。 

 

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難しい問題かと思いますが、個人的には意識もなくなり身体中に管をつけられて治る可能性がないのならさっさと治療を終了して自然死を選択します。自分の母は癌で40代で亡くなりましたが、当時の医者は入院してれば多少は延命期間が長くなりますが自宅療養とどちらを選択されますか?と、母は迷わず自宅を選択しました。 

こればかりは個人差が大きいですからなんともいえませんが。 

 

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今まで尊厳死に関して問題提起すらセンシティブで、どの党も避けて通るところを敢えて切り込んでまず議論のテーブルに乗せたことに対しては、寧ろ評価に値する。 

言い回しばかりに焦点を合わせるのは時間の無駄で、医療費削減のために人が死ぬのではなくて、人間らしい生き方死に方を選択できる医療費の使い方を考え議論をして行くべきだと思う。 

 

 

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私は五十半ばになり、老後の資金を考えるようになりましたが、一番の不確定要素は「何歳まで生きるのか」であります。長生きする前提で資金計画を立てると、多くの資金を残したまま亡くなる可能性が高くなります。自身の寿命を決めることができれば、健康なうちにお金を使って楽しむことや終活もできて、自身の満足度が向上すると思います。また、孤独死や自害などまわりの方々に迷惑をかけることも少なくなると思うのですが。。 

 

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確かに脳血管疾患で寝たきりで意識のない平均寿命超えの人にフルコースの延命措置を望む家族は多くいます。 

そうした方を切り捨てることはしなくて良いと思います。 

一方で、かかった入院費用の半額を支払っていただくなどは検討しても良いのかなと思いますね。 

支払いが厳しい時は、医療行為を少なくしていけば本人家族負担も減りますし、何かしらは要検討だと思いますね。 

 

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報道の仕方に違和感を覚えます。選挙に行くのは高齢者が多いためその年代の方に取って耳障りの良い政策ばかり訴えてきた政治家が多い中、玉木代表が今のタイミングで一石を投じた事に敬意を払いたいと思います。生命の切り捨てと印象操作をするのはどうかと思います。私自身、生きているのかいないのか分からない状態で遺漏され生きながらえたとて嬉しくありません。高額な延命措置で喜ぶのは病院だけですよ。そこに生命の重みとか切り捨てとか言って家族に負担を掛けている今の日本の医療の在り方は変えて行った方が良いと思います。国民の意識を帰るには時間が掛かると思いますが。 

 

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超高齢化社会の中で尊厳死について考え、討論する必要性はあると思います。日本は生死について話をする文化があまりなく、死が直前に迫った時にやっと自覚する方が多い印象です。死を受け入れることができない家族が本人の意と反して延命しています。それも90〜100歳です。保険金目的の方も現状にはいます。尊厳死をを支援するかしないかは人それぞれで良いと思います。ただ、全ての人が家族や身近な人と話し合うきっかけになれば良いと思いました。 

 

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高齢者ですが、若い人たちに、負担ばかり申し訳ない気持ちです。尊厳死は、なかやか日本の社会通念で、論議しにくいですが、若い人の負担軽減とは、関係ない話です。いま医療費1割負担です。介護も受けていません。医者の薬も自分で減らして飲んでいます。高齢者の方々 薬は増やさないように、運動を頑張りましょう。自分で頑張って歩きましょう。私見ですが、高齢者も3割負担に戻すことも必要と思います。年金少ない人もおられます。何とか生きていけます。生活保護本当に病気とか障害のある方とか、若い人や働けるのに働かない人、法律に守られて最低保証やと当たり前のように生活保護受けている人もたくさんおられるかも知れません。いろんな論議して、負担やら考える時期に来ています。みんなが平等に負担を。 

 

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尊厳死と言うと拒否反応が起きるけど、90才や100才の人を手足を縛りつけて人口呼吸器に繋いでむりやり生かし続けても本人は幸せではないというのは多くの人が共感する。 

 

問題なのは、今の制度では本人や家族が明確に「しない」という意思を示していないと自動的にこちらのコースに行ってしまうことで、せっかくマイナ保険証にするんだから、一定以上の年齢の人は元の生活に戻れる可能性が極めて低い時にどこまで治療を望むかという項目の登録を必須にすれば良いと思う。 

 

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現場では、高齢者の終末医療について、尊厳死、平穏死という概念で、無理のない亡くなり方への模索が盛んに行われています。これは医療費の削減が目的なのではなく、亡くなる方への最後の配慮であり、遺言や家族の思いを最優先に生かす医療行為の選択となっております。時代は変わり、食べられなくなったら終わりという考えで、亡くなり方の大きな考え方の変化が、今すでに最前線では起きています。最後まで口から少量の食事や水分を摂って、経管栄養も点滴も酸素も行わない自然な亡くなり方を選択する方も増えており、医療者側もそれに協力して行く時代になって来ています。 

 

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まず、ヨーロッパのいくつかの国やアメリカのいくつかの州では安楽死が認められています。そこに行って死ぬ方もいます。 

もっと重要なのは、自分で食べられない状態になった場合に、それを無理に食べさせようとしたり栄養補給したりすることは、プライバシー権の侵害であり、認められないというのがコンセンサスになっています。 

それを知らせないで(報道しない自由を使って)きたと言うことを、議論の前提においてほしいと思います。 

 

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尊厳死を選択できるなら自分はそれを選びたい。今は62歳ですが、もしこれから大病を患い病院やいろんな施設をたらい回しにされ自分で何もできないような状態になったら、それこそ生きている意味も無い。お金があって高級な施設で余命を過ごせる方はそれでいい。選択的夫婦別姓よりも選択的尊厳死を協議して欲しいと思います。 

 

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感情論での反発が大きい案件ですよね。だいたいが予想される論点での反発ですが、だからこそなかなか切り込みにくい部分にメスを入れようとしていると思います。 

是々非々なのは承知ですし、存分に議論を深めてタブー扱いせずにメリット、デメリット双方の観点で何かしらの結論を国民に示してほしいと思います。 

 

 

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私は医療従事者です。現時点では尊厳死を認めることには反対ですが、尊厳死について議論もしてはいけないという意見にも反対です。社会保険料負担と結びつけて議論するのに「違和感」があるとありますが、色々な論点から議論するのは当たり前だと思います 

 

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尊厳死ってすごく難しい議題だと思います。 

ただ、今の医療では延命をすることに重きがあり、患者自身の気持ちや尊厳はあまり汲み取られているように思えません。 

死を自分で選ぶことはすごく怖いことだと思いますが、完治しない状態で痛みに耐えながら生き続けるのも辛いなと思います。 

ですので、自分自身で終わりを決めれる権利があるのは選択肢としてはあってもいいかなと思います。 

 

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いやいや皆さん、綺麗事で済む話じゃないんですよ、これは。 

歳取ったら皆一律に尊厳死とかそういう話じゃ無くて、 

延命治療を始めてしまうと途中でやめる訳にもいかないし、 

物凄くお金がかかるんですよ。 

実際にその金銭的、精神的な積み重ねが負担になって 

何年も苦しんだ家庭をいくつも見ました。 

私個人としてはあんなふうになってまで生きるのであれば、 

自分は尊厳死を選びたいと思っています。 

だから家族が決めるのではなくて自分で決めておくという選択だって 

アリなわけです。 

勿論突然の病気や事故でとか色んな難しいケースはあるでしょうけども、 

こういう事もきっちり議論できる世の中になって欲しいなと思います。 

 

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尊厳死や終末医療は考えないといけない問題で避けては通れない。ただ延命治療して自分が望む生活もできないのは本人にとってもとてもつらいことだと思う。ただ子供のためとかではなく、あくまでも本人、または関係者が本人の威厳も尊重してそのときの状況で決めることだと思う。なんでも長寿がいいという風潮は変えていく必要があるだろう。 

 

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実際大事な問題です。現状の制度では寝たきり老人に対してもひたすら医療を継続しなければならず、それが社会に大きく負担としてのしかかっています。 

施設とかからの救急要請への対応で病院の救急外来が他の患者を受けられなくなったり、救急車が足りなくなったりもしています。 

そもそも施設に預けている時点で自分で面倒をみることを放棄しているくせに、なぜ完全な医療対応を求めるのか意味がわかりません。 

死をタブー視するのではなく、社会のサイクルに組み込み、順番が来たら自然に死んでいなくなるような体制の整備も必要です。 

 

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80歳以上の高齢者 認知症・気管切開・胃ろう これらによって生きている人たちがいます。 

これまでは 病院入院にて対応してきたけれど、 長期療養の病院でも医療度判定が必要となり 国の基準において 長期入院ができなくなってきています。 

そうなると その後は、、在宅は難しい となると 

看護師は日中しかいない 老人保健施設など  

 

そうなると 急変時は(海外ならそのまま看取るが) 日本では救命救急へ。 そして 挿管 蘇生 人工呼吸器へ 

それで 一般障碍者病棟の対象となるが 月に100万の医療費がかかります。 当然ながら 高齢者・障害・高額医療等で家族負担はほとんどなくなりますが、国や保険者の負担は年に1000万/日  

 

家族は年金を満額で受け取れ それを希望し続ける家族もいます、、、 

 

さて どうすれば いいのでしょうか。。。 

 

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この問題に限らず、どんな政策にしてもそうなのですが、まずはいろんな意見を出して議論する事こそが重要なのでは? 

マスコミは自分達の意見と合わないとすぐ攻撃対象としますが、非常に良くないと思います。 

 

この尊厳死の問題の他に、消費減税にしても、日本の核武装にしても、色んな意見が出てくるのは当然であり、それを議論してより良い方向に調整するのが、本来の民主政治だと考えます。 

 

すぐに反対意見にレッテルを貼って攻撃する人達は、議論しても勝てないからそういう手段に出るように思えてなりません。 

 

昨今、多様性という言葉が流行っていますが、多様性を殊更に主張する人達の方が、他の意見を認めていない傾向にあるように感じます。 

 

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尊厳死となると思い出すのは、ブラックジャックのDrキリコです 

本来はちゃんとした医師でしたが、軍医時代に大怪我でもう生きているのが辛い、頼むから楽にしてくれ、と言う兵士達の願いを聞き入れ安楽死処分を行ったことがキリコの運命を変えたのです 

処分された兵士達は、これで楽になれる、先生本当にありがとう、と涙を流し逝きました 

手塚先生は生きることと生かされることの違いを、キリコを通して数十年前に提起していました 

自分自身ももう高齢者の仲間入りしてますが、この先もし自分が何らかの大病を患い、生きるか死ぬかの瀬戸際のような状態になったとしたら、費用は一旦考えないものとしてブラックジャックとDrキリコ、どちらを選ぶのか考えました 

若い時なら間違いなくブラックジャックでしたが、今より更に年を経ているならキリコを選びそうな気がします 

高齢者が増えた今、尊厳死についての定義と議論は必要かと思います 

 

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確かに言葉足らずなところはあっただろうが、尊厳死の定義をどう考えるか明確にした上で主張し議論を呼び起こすこと自体は意義があると思う。 

例えば回復の見込みがない状態での延命措置を望まないことをドナーカードのように意識が明瞭な時に意思表示している場合、その時に家族が延命治療を止めることについて同意した場合はそれが認められる(もしくは罰せられない)こととするということであれば、個人的には賛成したいと思う。 

 

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今の医療の限界は、そのような状態重篤な疾患になったときに治せない 

(元のように元気に戻せない) 

心臓と呼吸だけは維持し、生かせることはできる。 

特に高齢者の場合、判断が難しいこと。 

お金持ちだけが、欧州で尊厳死の選択ができることも問題。 

医療費だけの問題でない。何がなんでも生きていることが、良いことではないと思う。もっと個人の選択があって良いと思う。 

 

 

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このことに意思はお持ちだろうが周りは汲み取れない状況の方もいるだろう。 

この方はどういう状態だろうとまだ死にたくないと生きたいと思っているかも知れない。 

迷惑が掛かるからってご本人も本心で言ってるなんてことはないだろう。 

生命における尊厳ってそんな簡単に判断できるものじゃないだろう。 

言われた周りも辛い状況であろうけどどんな状況でも最期まで穏やかに過ごせるような施策を考えて欲しい。 

 

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日本の医療は基本的に、現状でも尊厳死をかなり認めています。積極的に人を死に至らしめるような行為(安楽死)は法律で禁止されている一方、家族や本人の同意の下に、生命を維持するのであれば必要と思われる処置を敢えて行わないことによって死期を早める行為が尊厳死であり、実は法的には微妙な問題を含むところではあるのですが、現に広く行われていて、違法行為として処分しようという動きは皆無です。なので、尊厳死の法制化は単に現状の法的な承認に留まる可能性が高く、医療への実影響は僅少です。 

 

そうとはいえ、一部には本人も、家族も、医療者も誰も望まないような延命治療が行われている実態もあります。こんなのは三方一両損というもので、こんなことに掛ける医療費はびた一文もない、というのが本来のはずです。 

 

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私の父は85歳で肺がんを宣告され亡くなりました。最後は余りの苦しさと痛み(肺が機能しなくなり溺れた状態らしいです)に耐えかねて「俺を殺してくれ!」と泣き叫びながら逝きました。 

父に育ててくれた事を感謝する息子の私にはなす術もありませんでした。 

 

最後の口ぐせは「自分で死ぬ事を選べたらいいのに・・」でした。これで政治家たちが尊厳死に関する議論を恐れてしなくなってしまったら本当に辛いです。 

 

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身体がもう動かない 

排泄も上手く出来ない 

相手が介護士であったとしても、失禁の跡を見られる 

食事も介助してもらう 

好きなものを食べたいが、その自由が無い 

用を足したい、でもすぐには介護スタッフに来てもらえない、失禁するしかない 

 

その時、 

「何故私はまだ生きているのだろう」と、 

私はきっと考えると思う。 

 

人として生きていきたいよ、という意見も含めて議論しても良いのではないかなぁ。 

 

大切なのは、本人の意思をしっかり確認出来る仕組みを整備することなのでは。 

 

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私は、尊厳死について賛成です。 

ヨーロッパでは、寝たきりの老人がいないという記事を読みました。 

ヨーロッパでは、胃ろうの処置は行わず、老化によって衰える体に任せるので、寝たきりになっている時間はほとんど無いそうです。 

 

玉木さんの意見は、老人医療の問題点を包み隠す、本音の意見だと思います。 

 

認知症が進行し、重度の介護が必要とするお年寄りがもしも増えたら、お金と人手がとても必要となると思います。 

 

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治る見込みが無い、治療の術が無い難病の方が海外で「尊厳死」を受ける映像を見たことがあります。 

 

同じ状況になったら私も「尊厳死」を選択すると思います。 

難病でなくても、治らない病なら自分が動けるうちに身の回りの整理をして…と考えてしまいます。 

 

癌などで強烈な痛みが続くとか、きっと耐えられないと思います。 

かと言って自死もできそうにないし…何より家族にも納得して看取って欲しい…そんな思いを叶えてくれるのが「尊厳死」だと思っています。 

 

その時に海外まで行かなくても良くなっていたら…。 

 

今は「延命治療」の選択ができるようになったのですから、「尊厳死」の選択もできるように法整備して欲しいです。 

 

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人は生まれるべくして生まれる。生まれてくる人間には、選択肢は無い。人の死もそのように考えれば、生死の選択肢を考えられる間は、まだ生きる欲求も権利もあるし、第三者が死を与える根拠はないが、選択肢を考えられる力が全く失せ、生きる屍となったときには、果たして人としての存在意義があるのかどうか?そのような観点から尊厳死の制度は考えられる余地はあると思う。 

 

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条件付きで尊厳死賛成派かな。まずは本人の意思を尊重すべきだ。 

意思を伝えられなくなる前に然るべき手続きに則って望む望まないを表明できる様にすべきだと思う。 

その然るべきというのを決めていくのが政治の役割であり責務なのだから、しっかり議論をして欲しい。 

 

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死は例外なく誰にでもおとずれるものなのに、タブー視しすぎだと思います。 

最初の発言は言葉足らずだったかもしれませんが、追加の投稿をあわせて考えると、玉木さんが間違った事を言っているとは全然思わないけどな。 

どんな状態になっても生きたいと本人が元気なうちに言っていたなら延命治療でも何でもすればいいですけど、寝たきりで自分の口から物を食べる事もできなくなってしまった時に無理に延命しないでくれと言っていたのなら、それも尊重されるべきでしょう。 

まだまだ一緒にいたいという場合もあれば、今死なれては困るといった場合もあるとは思いますが、とにかく周りの都合で生かされ続けているケースって沢山あると思いますよ。 

「他人の為に自分は死ぬべき」みたいな考え方はどうかと思うけど、自分はどう生き、どう死にたいかをもう少し気軽に語り合える雰囲気はあっていいと思う。 

 

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選択肢として尊厳死を選べるように制度化すること自体はアリだと思う。議論すらタブー視するのはよくない。もちろん安易に選べるような状況になってはいけないけれど、極めて特定の条件下で本人の強い希望に基づき実施するというのはあってよいと思う。 

 

これは、私の私自身に対する考えであって、決して他人にまで押し付けるものではないけれど、私は自分の命より自分の尊厳の方が大事だと思ってます。少なくとも尊厳が踏み躙られる状況が果てなく続くとしたら、私は尊厳を守るために命を捨てたい。 

 

何よりも命が大事、生きていれば可能性はある、という考え方の人もいるだろうし、それはそれで尊重するけど、そういう考えの人もせめて、いつか来る死から目を逸らさずメメントモリ的な考えだけは持ってほしいと思います。 

 

 

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このような記者クラブの討論会の席で、あまりに唐突に尊厳死のことと終末期医療を一緒にして話をするから、大変な誤解を生んだと思います。それに尊厳死と医療は向いてる方向が逆の場合もあるので、別にして考えなければいけないと思います。 

ただ確かに重い不治の病により、まだ若くても生きてること自体があまりに辛く苦しく、それで日本では許されないため海外での尊厳死を希望するという大きな決断をされた方もいらっしゃいます。命との向き合い方、終末医療の限界、残された家族の理解、本人も家族も様々葛藤がありながらも、現実には生きたくてももう生きられないという、瀬戸際に直面している方がいらっしゃるのも事実だと思います。あまりにも難しい問題なのは確かですが、タブー視せず今後議論していくことはとても大事だと思います。 

 

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尊厳死の議論も必要だが、ヤングケアラーの問題も重大だと思う。 

最近「ロストケア」という映画を観たけど、想像していた以上に社会的問題だと感じた。 

この手の問題は個人や家庭の問題では無く国がもっと対策を考えなければならないと思う。 

自助や共助では解決出来ない大きな課題で、今の緊縮財政では到底解決策なんか見出だせないと思う。 

 

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個人的に、尊厳死については大いに議論すべきだと思います。医療技術の発達と共に、昔なら力尽きる場面でも、命を繋ぎ止められる確率が上がってきた。それ自体は良いことなのだが、医療的見地からしてどう考えてももう無理なのに、それでも身体中に器具を繋いで延命することが、本当に良いことなのか。でもその反面、自分の父親が、志半ばでこの世を去ったのを目の当たりにした経験したので、何とか生き長らえさせてあげたかったかなとも思う。 

ただ、今回の玉木氏の発言で問題なのは、尊厳死そのものではなく、社会保障費の圧縮とつなぎ合わせるような発言をしてしまったこと。時間が足りなかったと言うが、確かにあの言い方では、安易な口減らしと捉えられるでしょう。放たれた言葉の印象を変えるのは非常に難しく、言葉の怖さを改めて実感しました。 

 

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脳梗塞とかになると延命するかしないかの選択ってある日突然来ることもあります。 

普段から老後のこと死後のことを親子間で話し合えてる人って多くないので、本人は楽しみも奪われた生活を周りに迷惑かけてまで生きていたくないと思っててもその思いを共有できていなければ、残される側はとりあえず救う選択をする。 

でもそのとりあえずって数ヶ月かもしれないし10年かもしれない。その間本人はほとんど意思疎通が取れなくて、飲食も出来なくて、テレビの内容もあまり理解できなくて、病院以外じゃ外出もほぼ無くて、そういう状態じゃ家族も半年に1回くらいしか面会に来ないってケースはいくつか見てきた。 

その政策が実現するかどうかは置いといて、この話題を基に延命って誰のため何のためにするのか考えるきっかけにするにはいい政策だと思った。 

それか延命後の治療は負担を多くするとかね。家族が望んだんだからお金くらい出せるよね?って感じで。 

 

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私は子どもや他人に迷惑をかけてまで生きていたいとは思いません。私の祖父はボケてしまい最後の一年は自分のことも自分の子どものことも全く分からなくなって亡くなりました。私はそんな状態になってまで生きている祖父が何のために生きているのか分からなくなりました。 

死についての考え方は人それぞれ違うのでその人その人の考え方で良いと思います。しかし、私は祖父のような状態になったり寝たきりになったりしている状態で生きていたいとは思わないので尊厳死の法制化は賛成です。それが今生きている若者の負担を減らして次に繋がるならそれで良いと思います。 

 

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無駄な医療をしないようにするのも必要だと思います。高齢で胃瘻をしないといけないような事案もあります。その場合は医療措置自体をやめる事も一つの選択肢としてあるべきだと思います。 

ヨーロッパでは高齢者の過度の延命治療は基本おこなわれていません。そういう事も国民は知るべきです 

 

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尊厳死を選択肢の一つとして議論するのは大いにやっていただきたいです。条件など非常に難しいとは思いますが、選択肢としてあるとないのは大きな違いだと思います。 

社会保険料の削減も是非ご検討いただきたい。そして社会保険料削減を考える時、尊厳死は別にしても給付の削減は避けて通れない議論です。 

私は本物かどうかを見極めるのにデメリットの話をするかどうかをポイントにしてみています。 

メリットを語る人は多くいても、同時に発生するデメリットについて言及する人はまずいません。 

多少なりともデメリットに踏み込みかけた玉木氏は勇気のある方だと思います。 

 

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私の母は神経難病になり動けなくなって亡くなりました。 

体が動かなくなり、話す事も出来なくなっていく恐怖で母は精神を病みました。 

母が早く死にたかったかどうかは分かりません。 

でも衰えていく母をみながら、動けるうちに好きな事をして自分の意思で死ねる世の中になって欲しいと心から思いました。 

助かる見込みのない方でも無理矢理生かすのが今の医療。 

 

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すぐに姨捨山だとか見殺しにするのかなどと騒ぐ人たちがいますね。出来ることならその方達に終末期医療の医療費を社会保険料に加算して負担していただいてはいかがでしょうか?多くの国民は老人、後期高齢者もみんなと同じ3割負担の医療費を支払って欲しいと思っているのではないでしょうか?老人だけではなく、必要以上の投薬を行う医師(診療指針がそもそもおかしい)にも社会保険料が年々増加する原因かもしれません。今一度医療制度をきちんと見直す機会にして欲しいです。医師会と癒着している自民党が野党になったら少しは動くと思います。 

 

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お金の配分の現実的な話です。 

松山ケンイチのロストケアって映画のテーマであったように、終末医療の終わらせ方にも選択肢があって良いと思います。 

 

一方的に批判する人の中で、介護経験者はどれだけいるのだろうか。 

若者の手取りを増やすための具体的な方法を提言できるのだろうか。 

 

私はまだ40代ですぐには死にたくない。やりたいことも見続けたいものも沢山あるし、自分の存在がまだ他人の役に立つと思うから。でもこれも一生物ではないことも知っているし、それがなくなった時に新しい物を見つけ続けるのも、どこまで続けられるかな。ましてや、寝たきりとかになったら、生きる希望を持つ自信ないな。 

 

寂しいし、大いなる矛盾のある話なのだが、どこかで決着をつけなければいけない以上、こういう法律もあって良いと思います。 

 

 

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過剰に反応し過ぎ。 

今後益々高齢化社会となる中で、増え続ける医療費をどう抑制させるかの一つの選択肢として挙げただけだろう。 

現状では本人が望まない状態にも関わらず心臓が動き続ける限り過剰な延命治療に莫大なコストが掛かっているのは事実でしょう。だったら本人もしくは家族の了解の上で安らかに楽にしてあげる為の法整備は必要ではないかと思う。 

 

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その通りだが、尊厳死は本人はどう?生きたい、いや死にたくない、もういい死んでもいい。言葉がない。そんな心境だろう。親族の受け入れが重視。他人がいう事ではないと思う。ただ、親族の意向は重点的に重視してもいいんじゃないかね。それが身内とのお別れであり、感謝であり、永年の生きた証と思うが。議論はいいが、法的に論ずるなら、遺族に任す。こういう法案を国会で議論を更に進めて欲しい。言ってる本人の切なる願いでもある。 

 

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医療費抑制を背後に見てるならそれは尊厳死じゃないだろうっていうのは分かる。 

尊厳死を認めないというのではなくて、どちらかと言うと尊厳死を認めてほしい立場だけど、やはり動機がそこにあるのは違うだろうと思った。 

そうじゃないとは言っても関連付けてるし、玉木さんの頭の中にはそれがあるのは確かだ。結果として尊厳死の形態が認められるならそれでいいじゃないかという風には受け止められない。 

 

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私はまだ働ける世代だから、自分の死に関しては考えたことはない。 

だけど、不慮の事故で自分一人で生活できない、意思疎通ができない状態になってまで生きたいとは思えないし、高齢者になって、ボケて家族に迷惑をかかる、介助がないと生活できない、自分のやりたいことができなくなると言った状態でも生きたいとは思えない。 

今がこの上なく幸せであるから、これが訪れる自由が制限された環境で、誰かの迷惑になる、もしくは闘病の末、死ぬほど辛い思いをしても生き続けるってのは、我慢できないと思う。 

その時にならないとわからないけど、自分の死に様を選べるってのも選択肢の一つとしてはありなんじゃないかな。 

老人が死ねば金が浮くとか、そんな政治的な理屈だけじゃなく、人生の最後くらいは自分で選択してもいいのかな。 

理想は老衰で眠るように召されるのがいいけどね。 

 

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尊厳死と言えるか分かりませんが、私の母がガンで亡くなる前、痛みや抗がん剤のツラさで生きているのがしんどすぎるから楽に殺してほしいと呟いてましたね。 

 

医師から助かる見込みは無いって宣言もされていて、なら今すぐ死にたいって言ってて、、子供としては親を失う恐怖感と、ツラさから解放してあげたい焦燥感に似た感情と、いろいろ混ざってしまって悩みました。 

 

医療は状態を良くする・悪化させないが前提で行われるものなので死を積極的に迎えさせる訳にはいかないと思いますが、本人がツラさから解放を自分で選択という点では、尊厳死を選べることについて議論があっても良いように思います。 

 

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尊厳死の法制化はいいと思うが、実際に尊厳死が認められるケースはそれほど多くはないだろうから、医療費の削減につながるとは思えない。 

 

それとこれとは別の問題なのに、一緒にしてしまったところで、本音が透けて見えてしまった。極めて雑な問題意識だったのだろう。 

 

脳死を死と認める時も様々な議論があったので、尊厳死ももう少し丁寧に議論を積み重ねていくことが必要だ。 

 

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これって重要な問題です。確かに人の生き死ににかかわるタブーなのかもしれない。確かに医療技術が進んで人が生きれるようになりました。これは凄い事です。しかしそこには莫大な税金も使われている事も事実です。高齢者を死なせろとは思いません。しかし本人の尊厳も必要ですしその家族の意見も尊重はしなければならない。 

だからみんなで考えなくてはいけない。 

玉木代表はそこに切り込んだ。これはこれで重要な事です。 

 

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私もお医者様に、父の病気の際に「食事を自分で取ることができないなら生物は生きられないもの」「外国では看取り(治療せず死ぬに任せる)をしている」と話を受けました。私は治療を望みましたが、その場合には全額個人負担と言われればそれを受けたでしょう。お金がない人に死ねということか!お金が無ければ家族を死なせて良いということか!という人もいるでしょうが、私はそれでいいと思います。ではあなたは、その選択の結果、薄く広く社会保険料負担が大きくなることには全面賛成ですね(もちろんそれだけが要因ではないですが)という話だと考えます。みんな望む一方で諦めることを知らなさすぎ。少なくとも議論はすべきですね。火消せず、真正面から議論すべきです。 

 

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安楽死や尊厳死を短絡的に否定すべきではないと思う、 

私自身障碍者で持病もあり、尋常じゃない痛みや苦しみから逃げたく「死んだ方が楽になれるからもう楽にしてくれ」と願ったこともある。 

 

いずれ生き物は死ぬ、激しい痛みや苦しみはその経験から私は恐怖を感じる 

出来れば静かに最期を迎えたいと願います。 

 

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生死の自己決定の問題と社会保障負担を結びつけるような誤解をされたのは玉木さんの失敗でしたね。 

 

ただ、私は現在の終末医療の中に胃ろうが含まれ、保険適用になっていることが気になります。 

口から食事が出来ない状態になった時、栄養を無理やり流し込んでまで延命されたい方がどれほどいるのでしょうか?しかも、その治療は苦しそうだと、医療関係で働く知人に聞きました。さらに、家族側も大変だと… 

 

本人が幸せにならない選択肢に流れてしまう構造は、是正すべきだとも思います。更に言えば、国民の税金を投入して誰も幸せにならない選択肢は、せめて自由診療にして、選択肢から遠ざけた方が良いかと。 

 

 

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尊厳死と医療費の問題はまったくの別物この2つを結びつけるのは大きな間違いだと思います。ただ終末期医療において尊厳死については患者本人の意思はもちろん家族の希望なども含め議論するべき、延命を望む人安らかな最期を望む人それぞれの考えがあると思うので 

 

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認知症の母を10年介護しました。 

筆舌に尽くしがたい酷い状態でした。 

 

そこでの気付きは、私は認知症と診断されたら、まだ判断力がある時に自分の始末をつけよう!ということでした。 

 

批判覚悟ですが、 

病気や怪我は当然として、老いに関しても尊厳死は必要だと思います。 

 

それは、コスト面も含めてです。10年間の施設代、病院代、とんでもない費用でした。。。 

 

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尊厳死、安楽死は真剣に検討してほしい。この世を去る時期を自分で選択できるようにしてほしい。先日父が癌で旅立った。癌が見つかった時は既に末期で治療は何もできず、緩和ケアを選択した。それでも最期は「早く死にたい」と言っていた。治る見込みがなく、苦しい時間を過ごすくらいなら、苦しくなる前にこの世を去る選択肢を与えてあげてほしい。 

私自身も「認知になり、自分でいられなくなるくらいなら、その前にこの世を去りたい」と思う。 

どうか、真剣に討論して、国内で安楽死ができる環境を整えてほしい。 

 

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これって若者だけではなくて、老人にとってこそ大事なことでは。 

私は自分が老人になったときに、自分で動けず、何もわからず、好きなものも食べられない、そんな状態で肉体的に辛い思いをしながら生きていたくはないです。自分の親からも絶対に延命治療はしないでと言われていますし、するつもりは全くありません。 

医療費と結びつけるなんてと言いますが、老人を虐待するために、現役世代に多大な負担をかけるのは無駄どころの話ではないのでは。 

元気なときにこそしっかり話合わなくてはいけないことなのに、これを違和感といい話し合うことすらしない人たちにこそ違和感を感じます。 

 

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何を持って「尊厳死」とするか?よく考えなくてはいけない問題だと思う。逆に考えてはいけないのは、本人の年齢と懐具合。 

しかし、人生の最期に、自分自身で、最後の生き方を「選択」出来ることは、人間にとって大切なことだと思う。 

 

自分の父親は、突然の事故で、頚椎損傷になり、本人の意思には関係なく、人工呼吸器を付けたまま、二月ほどで、病院で亡くなった。 

 

本人は、頸から下は麻痺しているので、幸い、身体的な「痛み」は無かったと思うけれど、意識は最後まであったので、気丈な父にとっては、相当な精神的な「苦痛」は、あったと思う。 

 

私は、遠方に住んでいたこともあって、毎週、新幹線で通っていたけれど、唯一、父の口から聞けた言葉は、「早く死にたい」の一言だけだった。 

 

今でも、話が出来る元気なうちに、いろいろ話をしておけばよかった、もっと、安心させられる優しい言葉をかけてやればよかったにと、後悔ばかりしている。 

 

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この少子化の流れの中で尊厳死は国の勢いを取り戻す重要な解決策の1つだから真剣に話し合ってもらいたいんだよね。 

これからの若者達に老人介護をしている余裕はもう無いんだよ。 

もちろん今の40代50代だって親の介護をいつまでも続ける余裕はない。 

過激な発言と言われてしまうかもしれないリスクを覚悟の上で、尊厳死について国民に問おうという姿勢は評価できる。 

 

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それぞれの考え方があると思うので、何らかの同意に至ることはまずない。 

 しかし「家計の心配のない外野」が悲惨な実態を知らずにあれこれ倫理が、道徳が、と言うことに非常に違和感を覚える。氷河期のど真ん中で私は低所得でずっときて気付けば50代、生活保護確定路線です。さらに、このままだと孤独死する確率が高い。これまで何も良いことはなかったし、自分の死に方くらいは自分で決めたいので、積極的安楽死制度には本気で賛成です。 

 生活保護で生き長らえることで、若い世代やネット右翼等からも「税金無駄遣い」などと非難を浴びることが、積極的安楽死を選ぶ理由なのか?と問われると、それは前提が間違っていて、「人間としての尊厳を持ってこの世を去れる」ということの「結果」でしかないでのです。 

 

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尊厳死の議論は有っても良いと思います。 

医療費と絡めてしまったのはまずかったですね。 

 

随分前から尊厳死について、日本で認められるべきではないかと思っていた1人です。 

自分が病気になり点滴に酸素マスクに胃瘻の管、尿管も繋がれて何も食べれない話せない状態で生きていたいか?と考えた時・・・全て取っ払って欲しい。 

それこそマイナンバーに尊厳死希望とかデータを残しておけるならば、何かあった時には希望通りにしてくれるとかあっても良いのでは?と思っています。 

 

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医師です。この問題に踏み込んだ玉木代表に敬意を表します。火消しなど全く不要です。 

社会保障費も国民医療費も、政治家が安く1票を買える高齢者を偏重するあまりパンク寸前の状態です。結果、集中治療室(ICU)は多くの慢性疾患を抱えた超高齢者に占拠されています。DNR(過剰な救命の停止)を拒絶し続ける家族がいるため、患者は人工呼吸器をつけられたまま体位変換と清拭を繰り返されています。そういう家族に限って、見舞いに来ることはほとんどありません。 

若い医師達は「誰にも感謝されることはないし、誰の笑顔も見ていない」ことに気付き、やりがいは絶望に変わっています。 

 

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一度でも自分が生死分ける病気か事故に有った経験が無い方には解らないと私は思います!生きるか死ぬかはお医者さんは勿論家族と言えども判断出来ず苦しむ姿を見れば誰もが楽にしてやりたいと思うだろうし本人も楽にしてと言うものでしょう!自分は生死の経験有りますが、苦しく切なくなれば死んでも良いと思います、然し、人間は不思議な物で次の日には未だ生きたいと、まだまだやりたい事も有ると思う物です!他の患者も殆どがそうでそこには高齢だから若いからは関係ないですよ!議論やどう有るべきかを問うは良い事とは思いますが想えば高度経済成長を支えて現代の日本を作ったと言える高齢者をお金がかかるからまだ何もなしていない若手の負担率を下げる為は変な考えと思います、何故なら若い人も未来は高齢者ですので医療費以外の大判振る舞いの予算を考えるべきではと私は考えます! 

 

 

=+=+=+=+= 

人間は長生きしすぎだと思います。文明が発達して本当の寿命よりもかなり長生きすることにより、脳が衰えて痴呆症が増えてきたのだと思います。動物が痴呆症になったことを聞いたことがない。介護する人の事件も結構あるし、議論する必要があると思います。 

 

=+=+=+=+= 

医療費削減のための尊厳死解禁というならそれは違うと思う。辛くても最後まで生きたいと思う人だっている。そういう人に早く死んでくれれば他人が楽になると言っているようなものだ。解禁すれば社会保障費が低減されるのは事実だが、その論理は公の場で言うべきだとは思わない。 

 

しかし、尊厳を保って死ぬ、言葉通りの目的で、尊厳死自体は認められるべきは思う。長年タブー視されてきた分野に切り込むというのはいい試みだと思う。 

 

玉木氏と国民民主党は、ネットに流されているのか、自分たちの予想以上に軽はずみな発言が目立っていることは自覚した方がいい。その上でこうした自分たち独自の視点をアピールしていただければと思います。 

 

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これは口にしないだけでみんなが思ってることやろ。どんな綺麗事言うたって年寄りが多いことが年金や医療費を増大させ働く世代を圧迫してることは明白。 

身内に89歳で入院している老人が居る。殆ど口もきけない、自分ではトイレにも行けない、食べることも出来ない。それでも生かされている。個人が元気なうちに意思表示してそうなった時には終わらせてくれと言うことが選べる世の中になる方がいい。私なら60を超えて手術が必要な病や認知が出るタイミングで終わらせようと思う。 

 

=+=+=+=+= 

このような、人の生命観に関わるような議論は選挙の争点にしないようがよいと思います。多額の医療費を使っている人はいなくなって欲しいのではなくて、医療費の負担が出来る人は応分の負担をしてもらうということが大事ではないのでしょうか。この話を聞いてちょっとびっくりしましたね。 

命を自分で決められるようになる世界は怖いですよ。生きることが何より一番大事なのに。 

 

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現在病院では、老人ホームの空き待ちをしてる90歳を超えたお爺さん、お婆さんで溢れかえっている。 

自宅で痴呆症が進行し発熱や骨折で入院したのにも関わらず急に歩こうとしたり、点滴を引きちぎる事もあり、それを止めようとすると暴れる事も多々ある、夜中に奇声をあげることも日常。 

家族は短時間だけ面会にきて、傷が増えただのオムツをすぐに交換して欲しいなどクレームを言ってスッキリしたら帰って行く。 

医療とは掛け離れ、ただでさえ人手が足りない看護師さん達が可哀想すぎる。 

そんな姿を見てると自分は一定の条件を満たした場合は尊厳死、安楽死の選択肢が欲しいと思う。 

 

=+=+=+=+= 

私の父は延命治療を選択せず、自分自身のありのままで死にたい事を希望。だんだん弱っていく父の姿をみるのは辛かったが、最後まで頑張って生きました。どんなに歳を取っても人間です。ましてや、自分の親なら何としても長生きしてもらいたいと思うのが普通。人間の命は、簡単にはどうこう決められません。 

 

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私と妻は相性も良く、老後の事を偶に話し合います。 

どちらかが寝たきりや脳軟化症で世話が出来なくなった時どうするかに話が及ぶと、二人で一緒に死ねたら良いよねの結論に達します。 

私達が老後もう良いかなって思った時、尊厳死ならぬ自分の人生の終焉を決められないものですかね? 

例えばリンゲルとかで楽に出来たらって考えた事って無いんですかね? 

只急に決められることではないので、もっと早い時期に国会を通じ話し合うべきであり、いきなり選挙間近に語る話では無いよね? 

 

=+=+=+=+= 

俺の叔母さん、と言っても享年101歳で一昨年亡くなったのだが、その数年前に脚部骨折からその手術後の予後が悪化して敗血症になりかけた。医者からの選択肢は片脚の切断。娘さん(従姉妹)は五体満足叶わぬのであればこのまま、、と判断しかけたが、息子(つまり孫)が海外勤務から駆け付けて母を諌めて片脚切断での救命を選択した。 

で、その後叔母さんが意識を取り戻した際、自分の片脚が無くなっている事に酷く動揺したものの、一命を取り留めた事も理解して孫に感謝してたそう。だがその後間もなく痴呆が進んで養護施設へ。しかもその時期に新型コロナ禍になり親族の面会もままならぬ事態に。結果肉親に看取られる事も無く逝ってしまった。 

人の死とか延命とかってのはその時の状況や心境や決断で様々なケースがある。幸か不幸か納得か後悔かなんて神様でさえ判断出来ん。それをたかが法律で一線を引くなんて人間のエゴそのものだと思う、改めて合掌。 

 

=+=+=+=+= 

軽率だったのは確かだが安楽死は今後の日本には必要不可欠なのは確か。本人が本当はまだ生きたいのに親族に悪用されることも確実に起きるだろうな。安楽死を選ばないのはおかしいと言うおかしな風潮が起こる可能性もあるかもしれない。そこは費用や厳しい審査で誰でも簡単に選べるようにはしないとかあれば防げるし。安楽死は救いの一つとしてある方がデメリットよりも何倍も良い。 

 

=+=+=+=+= 

尊厳死の法制化は大事な問題だと思います。 

結果として医療費の削減にもつながると思います。 

ただ、それよりも、良くも悪くも国民の医療費の負担が軽い日本において、誰も望まない無意味な延命などの問題への対処の方が急務な気がします。 

 

 

=+=+=+=+= 

終末期というと、人生の終末期=高齢者の尊厳死を連想してしまうかも知れないけど 

末期のがん患者だったりとか病気で余命や体力が残りわずかとな人も同義だと思います 

尊厳死自体は病気の身体の痛み、苦しさに耐えられなくなった人には救いになることもあるかと思います 

私も寝たきりで下の世話されながら生きながらえるよりは 

親や夫、親しい身内を見送り独りになって満足したら準備を整えて尊厳死を選んで逝くことも選べたら良いなとは思いますよ 

ただ社会保障費の問題と結びつけると「邪魔にならないように」という圧を感じて「気ぃ悪い」という人もいるでしょうし 

失言感はありますね 

 

=+=+=+=+= 

日本では尊厳死と言う言葉に拒否反応を示す人が大多数。だから尊厳死を語ったらどんな理由であれ直ぐに噛みつく人が多いのも事実。玉木代表や党員の方の言い方も良くなかったのかも知れないが、海外では病気でいづれ死ぬのであれば、家族に迷惑かけたく無いからと尊厳死を選ぶ人もいます。 

尊厳死に関してはまだまだ超後進国の日本。受け入れてもらうには後100年はかかるでしょう。 

 

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いくら長生きしてもやがては死ぬ時が来る。大事なのは命が尽きるまでの長さじゃなくて健康寿命!そして死ぬ時にいかに苦しみを避けるかが大事。自分は両親に関して父が母の寿命を縮めるような行為をしてしまったので、母よりあとに父が残った場合の対応に苦慮していた。そのため母に長く生きてほしいと思って、別に胃ろうや人工呼吸器とかしたわけではないがちょっと無理をさせてしまい最後かなり苦しい思いをさせてしまったように後悔しています。特になあ、もうろくしてしまってまでも長生きしたいとは全く思わないのですよ。 

 

=+=+=+=+= 

自分は尊厳死の選択肢は欲しい 

仮の話ではありますが、自分が痴呆で寝たきりの自宅介護になってしまったら、妻や一人娘に大きな負担(経済的、身体的、精神的)がかかります 

施設に入って望まぬ寂しい余生を過ごすこともありえます 

自我があるうち自分の最後を決めさせて欲しいです 

 

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これを介護・看護する側の負担を減らす為と感じる人が多いと思うけど、私は自分の為にこの制度はあって欲しいと思う。 

医療費問題を抜きにしても。 

寝たきりになって、食事も食べられなくなって生きたいと思うか? 

延命治療に胃ろうを想像する人が多いけど、実際の現場には経鼻経管栄養をしている人が多い。 

これは常に鼻に管を入れられている違和感、毎月交換しなくちゃいけないので、その度に鼻に管突っ込まれる苦痛。 

お腹痛くても気持ち悪くても、時間になったら胃に直接入れられるし、胃ろうも経鼻も、経管栄養を入れられると多くの人が痰が増え、自分で出せないから鼻に管突っ込まれて吸引される。酷い人は20〜30分おきに。 

そして寝たきりになったら、お尻や腰が痛くても寝返りが打てない。 

蚊に刺されてても潰せないし掻けない。 

あらゆる「不快感」に自分で対処できないのは恐怖でしかないので、そうなったら私は安楽死させて欲しい。 

 

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尊厳死は自身が選んだ死に対して完結するのか、それとも埋葬されるまでなのかによって意味合いが変わってくる 

 

私は尊厳死というものを病気や怪我で望まない生を強いられた方が自らの意志によって死という選択肢を選ぶことができると思っている 

強制された生によって高額な医療費や介護費用、家族の肉体的精神的負担を課すよりも合理的だと思っているから 

ただ、できることなら死という瞬間までにしてほしい 

その後は遺体を献体や臓器提供へまわしてほしいから 

死を全うしたことに対する対価として社会へ貢献していただきたい 

残された家族への配慮が足りないかもしれないがこれができれば臓器提供を待つ多くの患者さんの待機リストが消化されるだろう 

 

=+=+=+=+= 

尊厳死や安楽死の議論は当然あってもいいのですが、 

 

この手の議論で留意すべき事は、 

「死ぬ権利」は容易に「誰かを死なせる義務」に化ける事です。 

「こういう状態になったら安楽死を考えた方が良い」という言い方もそうですし、 

直接言わずとも、そういう状況を見て「私も安楽死した方がマシでは」 

とかいう考え方を誘導しかねない事が問題になる所なのです。 

 

死を決定できるのは本人だけである、という前提は 

個人的にはきちんと守られるべき事のように思います。 

 

 

 

そして、そういう患者が尊厳死や安楽死を選ぶことが 

残されたもの為なのだという議論になったら、話は突然植松聖案件です。 

そういう議論だけは為されてはいけないものであるとすら思います。 

 

玉木氏、言った事の不味さには気付いたんでしょうけど、 

横から油注がれる形になってしまいましたね。 

 

=+=+=+=+= 

切り捨てないように生かし続けることで、若い世代の生活やその後の人生も少しずつ削ってることは認識しないといけないと思う。基本的には見捨てないにしても、確たる意志を持つ人の選択の幅を狭める必要はないのではないかと思うのだが。。 

 

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少なくとも自分の周囲は尊厳死について同意していますね。40代、50代で助けられる命であれば延命も理解できる。 

 

しかし、70歳を越えての延命治療は許否。ましてや80代、90代の回復の見込みもない治療は親族の負担にもなるしね。 

 

延命を希望される方を否定しないが、高齢者については、西洋列強の様に全額保険適用外で行うべき。 

 

常に先送りの「ことなかれ&前列」主義は終わらせないと。健康寿命こそ本来の姿なんだから。 

 

=+=+=+=+= 

発言そのものをタブー視することはおかしいと思う。少なくとも私は火消しになっていないとされる候補者の、子供に迷惑かけたくない の気持ちはよく分かる。これは在宅介護本気でやってみたら、こんなこと子供にさせるくらいなら、貯金のあるうちに人生のピリオド打たせてくれと思う、 

 

綺麗事ばかりではなく、本当に両親が要介護になってから施設に入るまでの介護地獄を経験したら議論に乗せることは間違いではないはずだ。 

特に社会保障費は膨らみ、施設は足らず、介護職員の離職が進み、年金削られていくということを目の当たりにすると。 

 

江川氏の言うように対応するなら、根本解決方法は国が老後の安心を完全に保証することであろう。 

そもそも小泉竹中時代の税と社会保障の一体改革のスローガンは100年安心だったはずだ。 

 

それができずに介護者が疲弊していく現状を見ていたたきたい。 

 

 

 
 

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