( 224741 ) 2024/10/21 17:02:31 0 00 社名は1991年に変更。園芸用品のブランドに使っていたアイリスと姓の大山を合体した。会社のロゴにある花は子どもたちに好かれるハート形を変えない(写真:街風隆雄)
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年10月21日号では、前号に引き続きアイリスオーヤマの大山健太郎会長が登場し、「源流」である大阪府東大阪市を訪れた。
【貴重写真】学生時代の大山さんはこちら
* * *
父が働きに出て家計を立て、母が家事を受け持って子どもを育てる、という姿が、かつて日本社会の大半だった。だから、子どもたちは社会人としてのモデルを、「働く父」にみた。
一方、母は「何があっても自分の味方」と言える、優しさばかりの存在。たとえ厳しく叱られることがあっても、子どもたちの心のよりどころだった。
企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。
■小中学校は家のそば ベルが鳴ってからいっても間に合った
この8月、大山健太郎さんが「働く父」をみて過ごした大阪府東大阪市を、連載の企画で一緒に訪ねた。5歳のとき、父は市内で飴づくりの町工場を始めたが、中学生のころにやめて転居し、プラスチック成型の大山ブロー工業所を開業した地だ。大山さんがビジネスパーソンとしての『源流』が流れ始めたところ、と挙げる地でもある。
工場と自宅が並んでいて、姉妹と弟が計7人いた。父母は、長男の健太郎さんに「大学へ進み、大きく羽ばたいてほしい」と願った。でも、高校3年生の夏、父が胃がんの末期にあると医師に告げられ、進学は断念。翌年夏に父が亡くなると工場の代表者を19歳で継ぎ、従業員5人とブロー成型機を動かした。
通った小学校は自宅の斜め横にあり、始業ベルが鳴ってから家を出ても、担任教諭が教員室から教室へくる前に、間に合った。中学校も真向かいで、同様だ。夏休み中の中学校へ入れてもらうと、校庭で運動部員たちが練習していた。すると、大山さんは校舎側の一角を指さして「私がいた卓球部は、あそこで練習していた」と言う。短い言葉に、感慨がにじんでいた。
卓球部は部員が少なく、練習をたくさんできたおかげか市の大会で優勝し、学校が沸いた。すると、入部希望者が一気に増える。だが、大勢が練習するには、卓球台が足りない。買い増すにも、学校の予算に用意されていない。すぐ、閃いた。
「ここは、何でもつくっている街。卓球台を安くつくってくれる町工場も、あるはずだ」
東大阪市は家電製品メーカーなどの下請け、孫請けの町工場が集まる「日本のものづくり」を支えた街。電話帳であたりをつけた町工場を訪ね、事情を話すと、破格の安値でつくってくれた。部員たちから50円、100円と集め、わずかでも支払って、みんなでたっぷりとラケットを振る。そんな話をしながら、2度、3度と頷いた。
■映画づくりで知った「構想」の大切さが製品開発に重なる
『源流Again』で、大きな転機を迎えた母校の府立布施高校も訪ねた。1年生の後半に映画研究会へ入り、映画を観て感想や評論めいた原稿を書き、学校新聞へ出す。多い月は30本以上も観て、「将来は映画監督になりたい」と思っていた。
鮮明に覚えているのは、文化祭で8ミリフィルムの映画をつくったときのことだ。まず「観る人は、何を求めているのだろうか」と考えて構想を練り、どうすればそれができるかへと進む。この経験が、事業家としての『源流』となった。
父の町工場を継いだ当初は、ただ発注者の指示通りにつくる日々が続く。そこから「一生、下請けで終わりたくない」との思いが募る。やがて自社製品の生産へ踏み出すとき、世の中が「こんなものがあったら、便利だ」と思うものを、開発時に描く。8ミリ映画をつくったときの視点と、重なる。『源流』からの流れが、姿を現していた。
■震災の停電で決断LEDの大増産へ中国・大連へ飛んだ
真珠の養殖用に軽くて作業しやすい浮き球、探し物がみつけやすい透明な収納ケース、鉢植えを根腐れさせない水はけがいい園芸用品、清潔さを保ち愛犬が気持ちよく暮らせる犬小屋。すべて「こんなものがあったら便利だ、と消費者に思ってもらえるだろう」と考え、手ごろな価格で実現させた。
2011年3月の東日本大震災で、多くの家庭や会社が停電を余儀なくされ、省電力がいちだんと国家的課題となる。そこで大量生産を決めたのが、照明器具用のLED(発光ダイオード)だ。電力消費が少なく、電気代が抑制できて、耐久性も高い。この普及こそ世の中が求めていることだ、と決断した。
LEDは、園芸用品のヒットに合わせ、夜間のガーデニング用につくっていた。主力工場は中国の大連にあり、大震災から半月後、山形空港まで車でいって飛行機で羽田へ飛び、成田へいって大連行きの便に乗る。着くと大号令をかけ、増産体制を動かした。他社も3カ月ほど後でつくり始めたが、スタートダッシュの違いは大きい。早々と生産設備を発注し、従業員も増やし、工場内の配置も変えた。2012年8月には、仙台市にまるごとLED照明の「アイリス青葉ビル」も開く。
自動車や住宅のような大きな市場ではないが、市場が小さくてもいち早く押さえる。模倣者には、常に先をいく新基軸を打ち出せば、追随は振り切れる。「そんなものをつくっても、儲からない」と否定する声は、過去の成功事例への安住で、衰退が待つだけ。過去からの「非連続」こそ、事業家が取るべき道と、布施高校の校舎の前に立って、確認した。
世の中のニーズに応えたいとの思いは、社員たちにも強い。その方向性を決めるのが自分の責務と思って、「社長として幹と枝はつくるが、葉や花はきみたちで考えろ」と呼びかけてきた。具体的に何をつくるかのアイデアは、社員たちが出す。出てきたものすべてはできないから、優先順位を新商品の開発会議で決めている。
89年12月、本社を東大阪市から仙台市へ移した。正装に似合う真珠のネックレスが、ミニスカートに代表されるカジュアルな服の時代に入ると、売れ行きが急減。真珠養殖用の浮き球の需要も、落ち込む。そのとき、カキやホタテなどの養殖をしていた東北や北海道に新市場を求め、立て直した。その縁から、宮城県に新鋭工場を次々につくり、経営の拠点にも選んだ。
東大阪市の工場の跡地には、関西の営業部隊などが入る新しいビルを建てた。『源流Again』で寄って玄関を入ると、ロビーの左奥に父の胸像が置いてある。昔の写真をもとに、つくってもらったそうだ。この連載で取り上げさせていただいた「トップ」の方々には、父を早く亡くした方が何人かいた。それでも子ども心に「働く父」から様々なことを感じ取った、と言った。大山健太郎さんも、その一人だ。
父とはわずか19年しか一緒に過ごしていないが、胸像をみれば、「働く父」から得たものが蘇り、気持ちは緩まない。ビジネスパーソンとしての『源流』を生んでくれた高校での日々も、蘇る。『源流』は、ここで父に背中を押されて、日本列島を北進した。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2024年10月21日号
街風隆雄
|
![]() |