( 225506 ) 2024/10/23 16:44:26 0 00 自分の選挙区に投票したい人がいないからと白票を投じるのは現状を黙認することになる(写真:sh240/PIXTA)
「青少年の刑法犯罪は増加の一途」 「生活保護費の不正受給が蔓延し財政が逼迫」 もっともらしく聞こえますが、これらはフェイクです。気がつけば、日本の政治や社会を考えるための基本認識に、大中小のフェイクとデマがあふれかえっています。 「『世界は狂っている』という大雑把で切り分けの足りないペシミズムに陥らないことが大切」と述べるのは、政治学者の岡田憲治氏。大中小のフェイクについて考えることをスイッチにして、この世界を1ミリでも改善するための言葉を共有する道を探そうと企んで執筆したのが『半径5メートルのフェイク論「これ、全部フェイクです」』。今回は、「選挙と投票」にまつわるフェイクについて考えてみたい。
■政治に無関心な人を変えるきっかけ
誰もが政治の話になるとあまり幸福な顔をしません。「政治は……ちょっと」です。無理もありません。政治に関するニュースは、あまり愉快ではない問題を常に眼前に突きつけてくるものばかりだからです。
税金の使い方の誤り、深刻な問題の放置、積年の社会課題の未解決、大切な原則やルールのねじ曲げ、未来に投影される不安の種。こうしたものすべてに関するものが政治ですから、そんなことに新鮮な意欲をもって向かい合おうとする人はあまりいません。
そうなると政治は、もっぱら「政治で生きている」人たち、「政治に依存している」人たちによってこね回され、公共的で大切なものが私物化されるゲームのように思われてきて、音のない諦めの入り混じった無関心か、より強い反対バネを利かせてドロップアウトし、ドン引きの態度となる人たちだらけとなります。
それでは、そうした政治への否定的な態度の人が残らず政治的に無関心であるかと言えば、決してそんなことはありません。諦めの境地に至る人も、何かきっかけが与えられると、割と簡単に政治的にアクティブになる場合もあります。
例えば、税金や物価など銭金の話になると政治への感度は上がり、支持率などに即反映されたりもします。ある特定問題に強い利益関心をもっている人々は、もちろんそれに応じた投票行動を取りますし、他者への呼びかけなどにも熱心です。
■「沈黙・棄権・白票」=「現状に不満なし」
気になるのは、投票や発言、広く言えば政治的意思表明をする気持ちはあるのに、不満や怒りのあまり「あえて」行動することを止めて、「私はもう抜けます。この棄権や白票は、私の政治への強い抗議の意思表明です!」と前のめりに後退する人たちの思い詰めた行動のもたらす結末です。
抗議の意思を示しているのだからよいのではないのか? 己の信念に依拠した天晴れな行動だと、評価したくなる気もします。あえて棄権し、意思をもって白票を投じたのですねと。それなりのお考えがあってのことなのですねと。
しかし政治という人間の営みにおいては、思い詰めた気持ちや感情とは裏腹に、冷徹かつ当たり前の帰結が待っているのです。それは政治的意思の中に含まれる重要な要素である「決める、選択する」というものが、ゲームのルールの中でどう判断されるのかということです。
政治の位相空間では、「それはいかがなものでしょう?」と明確にノーと示さなければ、すべて自動的に「私は今のままの世界でよいです」という意思なのだとしてカウントされてしまいます。 つまり「沈黙・棄権・白票」=「現状に不満なし」です。なんと無慈悲な力学でしょう。
■日本の政治家選びの大半は「黙認」
己の気持ちと裏腹に、そうなってしまう理由は、政治における大原則、すなわち「世界を1ミリでも変えたいなら声帯を振動させねばならない」がどっしりと存在しているからです。棄権や白票投票に内心どのような気持ちを込めようと、ここは実に冷徹で解釈は一択です。
選ばれる側は実に慇懃無礼であって「異論があるならと機会を用意しておきましたが、ないようなので、我々政権担当者を是認してくださったとします」という台詞を脳内に残しつつ、「有権者の皆様の賢明なご判断をいただきました」などとうそぶきます。
日本の政治家選びはこのように大半は「黙認」によってなされていることになります。
メディアも評論家も言論人も、「日本の有権者は政治への関心が低い」とか、「かように悪政が続いているのに有権者は寛容を通り越して市民の義務を放棄する無責任な人々である」と非難し、時には世界で一番人の心を閉ざさせる「劣化した日本の有権者は民度が低い」などの軽蔑の言葉すら投げかけます。
■支持政党なしと答える人が増える理由
とりわけ自称リベラルの、本当は不寛容な政治関心の高い層の人々は、「なおも与党に投票する人々がいるとは、もう救いようがない」などと嘆息をついて、それでいて正論めいたことだけを言って、「このままでよいとは思えないけど」と心がザワザワしている人たちに疎まれて、民主政治の仲間をつくることに失敗し続けています(拙著『なぜリベラルは敗け続けるののか』集英社インターナショナル、2019年)。
政権党への文句は百万も口にしますが、やることは悪口や批判をすることばかりで、苦しい中で自ら汗をかいて野党を育てる努力と工夫をしている人たちは、本当に一部しかいません。正しかろうことは口にしますが、「そんなやり方で人の心が開くはずがない」みたいな選挙応援をし続けているのです。
雨が降ろうと槍が降ろうと、在野勢力に投票するという「固定客」の方には、適宜お声がけだけしていれば大丈夫です。いつもの定番の与党批判と少数派の擁護と平和への想いを語れば、安心してくれるからです。
しかし、それでは投票に行かない人たちを仲間にすることはできません。与党の支持率がどれだけ下がろうと、彼らを脅かす野党の支持率は上がりません。支持政党なしと答える人が増えるだけです。
こうして政権党の政治家たちは助けられています。無党派や、投票されない、カウントされない声はそのまま、今の世界を黙認しているものとして扱えるありがたい信任投票になるからです。
かつて支持率が消費税率と見間違うほど低くなった不人気総理大臣は、選挙中の会見で愚痴をこぼし「(選挙に関心のない無党派層は)寝てしまってくれればいい」と実に正直なことを漏らしてしまいました。でも、これは現在政治権力を運用している人たちの本音です。
■現行の選挙の不思議なルール
元総理大臣はいい人だから本当のことを言ってしまったのです。政治における意思表明は、常に相対的比率として数値化されてしまいます。議会の議席を6割近くも取っている政党が、実は20%程度の人たちの支持でも政権党になりうるというのが、現行の選挙の不思議なルールです。
そこでは、あくまでも「声を上げた人たち」(投票者)のパーセントで勝負を決めますから、「黙っていた人」抜きでのゲームとなります。100人中99人が棄権すれば、たった1票のイエスだけで多数決は可能になります。非情なる鉄則はこのように巧妙な形で、真面目でピュアな怒りでゲームを抜けた人々を利用しているのです。
それでも自分の選挙区には投票したい人が1人もいないと困っている方もいるでしょう。
その気持ちもよくわかります(今の私がそうですから)。だから「心の底から政治を託したいと思っている人じゃないのに投票なんてするのは不誠実じゃないですか?」なんて私に文句を言う人もいます。
でもそのピュアな気持ちにしたがって、迂闊な純粋精神を発揮してしまうと、もともと一番あり得ない投票先の政治家を自動的に応援してしまうという、最も不純なる行動(非行動)をしたことになります。
私たちは普段は日常生活の中で、適当に汚れちまった大人として、心に嘘をついて、偽りの言葉と態度で日々をやり過ごしています。責められる筋合いはありません。生き延びなければならないからです。だから、「最良の人を信念に基づいて応援し投票する」ということが成立しない条件にあったからって、突然ピュアなことをやらなくてもいいのです。
いつだって、善意もあるし、基本的にはまぁ正直に生きているからです。つまり普通の人間だということです。
■鼻をつまんで投票する
それなのに、どうして政治に向かい合ったときだけ「似合わないピュア精神」を発揮してしまうのでしょうか? 言いたいことはたくさんあるし、大して好きでもない人だけど、「鼻をつまんで投票する」以外に、民意自動翻訳に吸収されるのを避ける道はないのです。
そんなのやっぱり絶対に嫌だと感じるみなさん。どうするかはもちろんあなたの自由です。でも政治と人間の非情なる関係とカラクリがある以上、そしてしつこいですが、世界を1ミリでもよくしたいと思うなら、いつも会社や地域でやっているように、「よりマシな決断」をされたらいかがでしょうか?
誤解なさらないでください。私は野党を応援しろと言っているわけではありません。
熱く純粋な人々の気持ちが、ムザムザ「白票だって意思のこもった表現だ」などというあからさまなフェイクによって、投票率が下がることでほくそ笑んでいる者たちに利用されていることに耐えられないので、こんなお節介なことを言っているのです。
岡田 憲治 :政治学者/専修大学法学部教授
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