( 229508 ) 2024/11/03 01:16:16 2 00 「運動嫌いの子供」が増えるだけ…オリンピック選手を"体育教師"として学校に送り込む文科省の大失策プレジデントオンライン 11/2(土) 17:17 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/55831ee32e4e2b9cfa7b63544c4a9232d4cd27d2 |
( 229509 ) 2024/11/03 01:16:16 1 00 文部科学省は、特例として元五輪選手やパラリンピック選手を教員に登用する方針を発表したが、この取り組みには危惧も表明されている。 | ( 229511 ) 2024/11/03 01:16:16 0 00 ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Image Source
文部科学省が元五輪選手やパラリンピック選手を教員として登用する取り組みを始める。元ラグビー日本代表で神戸親和大学教授の平尾剛さんは「教育の基礎もないまま元アスリートを現場に投入すると、運動嫌いの子供たちを増やすばかりか、他の教員の負担にもなりかねない」という――。
【写真】松井秀喜氏を指導する読売・長嶋茂雄監督(当時)
■五輪選手を「特例」で教員にしていいのか
そんなことをすれば教育現場は混乱するだろう。私がそう直観したのは、文部科学省が2024年9月13日に発表したとある通知に触れて、である。
文科省は今後、五輪やパラリンピックなどに出場した経験を持つ者を、以前からある「特別免許状」の仕組みを活用して積極的に教員に登用するという。トップアスリートが有する専門知識や経験が、児童生徒や他の教員にプラスの効果をもたらすことを期待しての取り組みである。
つまり、全国の小中学校に元オリンピアンが体育教員として常駐することになるかもしれないのだ。
朝日新聞によれば、「特別免許状」とは、高度な専門性を持つ人に教科を限定して与える免許で、現在社会問題となっている教員不足の解消や教育現場の多様性を確保するための方策である。
文科省は近年この制度の活用を促しており、2022年度は計500件の授与があった。教員の定数とは別に学校に配置し、担当教員と協力して保健体育の指導をしたり、高校で競技能力の高い生徒への指導や部活動を担当したりする例などを想定しているという。
■体育は「健やかなからだを育む」のが目的
筆者は、この方針は「運動嫌い」の児童生徒を増やしてしまうのではないかと危惧している。
部活動の指導に限定するのであれば、この意図はかろうじて理解できる。競技力向上に励む意欲の高い部員が、引退後まもない元トップアスリートから専門スキルを学ぶ貴重な機会となりうるかもしれないからだ。
だが、体育となればどうか。スポーツ全般を教材とし、競技力の向上よりも健やかなからだを育むことが目的の体育教員が、果たして務まるのだろうか。
■向上心を学ばせるならば「スポット講演」で十分
なぜ元オリンピアンを安易に教員に登用することが危険なのか。
子供たちが卓越した人物に触れることの大切さを、私は否定しない。努力の果てに高みに達した人が成長期の子供にもたらす影響は、確かにある。子供たちは彼、彼女から諦めずに努力を続けることの大切さや、緊張や不安のやり過ごし方、あるいは困難を乗り越えるための心構えなどを感じ取り、それがきっかけとなってときに大化けする。向学心など、自分を高めるために必要な意欲が湧いてくることもあるだろう。
だが、それは講演やスポット指導で十分に伝わる。先生という立場で毎日顔を合わせなくたっていい。むしろ毎日顔を合わせることはマイナスに作用しかねない。どれほど功成り名遂げた人であっても、身近になればなるほど慣れてしまうからだ。新鮮さが薄れ、トップアスリートの存在が醸す卓越性が感じられなくなる。スポット指導と日々をともにしながらの指導は、意味合いがまったく異なる。
■「名選手名監督にあらず」
そもそも運動指導には、座学とは異なる困難さがつきまとう。伝えないといけないのはコツやカンといった身体感覚だ。コツやカンは、身に付けるのもさることながら、教えるのはさらに難しい。この難しさは、子供に自転車の乗り方を教えたことがある人ならば経験的にわかるはずだ。
「名選手名監督にあらず」と言われている通り、高い競技能力を備えているからといって必ずしも高度な指導ができるとは限らない。「自らできること」と「適切に教えること」のあいだには千里の逕庭がある。コツやカンを教える術は、それなりに訓練を積んだあとに指導現場での経験を積み重ねるなかで、次第に身についていくものだからだ。
■「わかっていてもできない」が発生するのが現場
「発生論的運動学」という学問がある。身体運動を高めるためにはコツやカンを習得しなければならないが、それらの発生を現象学的に掘り下げる分野であり、シンプルに言えば、「わかる」と「できる」の違いを明らかにするのを目的としている。
身体運動を習得しようとする場面では、「わかっていてもできない」という事態が往々にして起こる。頭で理解していても、からだがそのようには動いてくれない。バットやラケットの持ち方がわかっていてもうまくボールを打ち返せない、手順がわかっていてもうまく跳び箱を跳ぶことができないなどという現象が、あらゆる運動習得場面で生じる。
これはうまくコツがつかめず、カンが働かないからだ。つまり教員には、児童生徒がコツやカンをつかめるように、頭での理解としての「わかる」と、からだでの実践としての「できる」をつなぐことが求められる。
■アスリートは自らの動きを言語化するのが苦手
言葉で言うのは簡単だが、この実践がなかなか難しい。「わかる」と「できる」の関係は実に複雑だからである。
というのも、運動習得場面では「わからなくてもできる」といったことも起こる。頭で理解せずとも見様見真似でできてしまうことがあり、言葉による説明を経ずとも感覚的にその動きを習得できてしまうのだ。「できる」に至るには「わかる」ための言葉が必ずしも必要なわけではない。反復するうちにいつのまにかできてしまうことも、ままにある。
もうおわかりだろう。トップアスリートがまさにそうである。
トップアスリートは運動神経がいい。つまり、コツやカンを掴むのがうまい。指導者からの言葉による説明を理解できずとも、その足りない部分を身体感覚で補う能力を備えている。類まれなる身体感覚を駆使し、たとえわからずともできるようになった経験を有しているのが、トップアスリートだ。だから感覚的に掴むことには長けている。
しかしながら――いや、だからこそと言うべきか――元トップアスリートは自らの動きを他者にわかりやすく説明することが苦手だ。彼、彼女らは、自ら体現できる動きをうまく言語化できず、言葉に詰まるか、「スーッ」「グッ」「パッ」など、オノマトペだらけでの説明をする傾向にある。ここに、先にも述べた「自らできる」と「誰かに教える」の壁がある。
■子供が理解できるような語彙や言い回しを身に付ける
この壁を取っ払うにはどうしたらよいか。それは「学び直し」しかない。
他者ができないのに自分にその動きができるのはなぜなのかを、客観視する。その動きに必要な手順や感覚的に捉えているコツやカンを、ひとつひとつ言葉にしてゆく――。指導の言葉は、この作業を通じなければ身につかない。
それを助けるのは言うまでもなく学問である。先の発生論的運動学をはじめ、スポーツ・バイオメカニクスや運動生理学などの知見を下敷きにしながらの学び直しが欠かせない。
さらにいえば、相手に伝えるための言葉そのものも豊かにしなければならない。語彙を増やすのはもちろん、身体感覚を伝えるためのたとえ話や言い換え、また意欲を高めるための言葉がけなども身に付けなければならない。これには文学や心理学が役立つ。固有の身体感覚を広く子供たちに伝えるには、実際にやってみせることに加えて、相手が理解できるような言葉での説明が欠かせないのである。
■「特別扱い」はアスリートも子供も教員も不幸にする
繰り返すが、当人の専門競技である部活動の監督などであれば、それなりに成果は出るかもしれない。とくにスポーツ強豪校ならば競技能力に優れ、競技力向上への意欲が高い児童や生徒がいる。
彼、彼女らは、ついこの前までトップアスリートだった人からの指導に目を輝かせることだろう。たとえ言葉足らずな指導であっても、それを補うべく努力しようとするだろうし、なにより知名度がある人からの直接的な指導に心が躍るはずだ。教える側も、彼、彼女たちの積極的な姿勢に意欲が湧いて、相応の充実感を覚えるに違いない。
だが、体育の授業となればそううまくはいかない。
体育の授業には運動そのものを苦手とする子供たちが少なからずいる。苦手意識があるためにどうしたって意欲的に取り組めない子供たちに、然るべき勉強をしていない元トップアスリートが指導できるのかは甚だ疑わしい。伝える言葉を十分に持っていないことに加え、できない人の気持ちを思いやる想像力や、「できない」を「できる」に導くための方法や考え方を備えているとは、到底思えない。
元トップアスリートは、おそらくどう指導すればよいのかわからない事態に陥るだろう。そうなれば教えられる側も困惑するうえに、うまく指導できない相談を持ちかけられる他の教員の負担も増える。
「うまく教えられない」と自信をなくす元トップアスリート、「うまくできない自分が悪いのかも」と自分を責め、先生の期待に応えられず落胆する子供たち、そして通常業務に加えて指導の仕方を元トップアスリートに指導する業務が新たに増える他の教員たちが、それぞれ煩悶を抱えることになる。
■教育現場には「愛嬌」も必要
したがって従来のプロセスを免除する「特別免許状」制度の活用は、きわめて的外れだと言わざるを得ない。教員免許取得に向けての勉強は、教育とは何かを学ぶためにある。それを端折ってはいけない。むしろ別立てで特別研修を設ける必要さえあると、私は考えている。専門競技に打ち込むなかで学業を疎かにしがちだった彼、彼女たちは、基礎的なことを学び直さなければならないからだ。
さらにもうひとつ――これはたぶんに私の経験則だが――自尊心と折り合いをつける術を身につける必要がある。
自らを特別な存在として自負し続けなければ、トップアスリートにはなれないものである。競争的環境を生き抜くためにコツコツと築き上げたこの自尊心は、トップに登り詰めるためには必要不可欠だ。エゴイスティックでなければ、スポーツで頂点を極めることは難しい。
しかしながらこの尊大な自意識は、教育現場ではときに仇となる。いまだ成長途上の未熟な子供の傍らに立つ大人には、「愛嬌」が必要だからだ。それには、成功体験よりも失敗談を積極的に開陳するよう努めなければならない。つまり、自分もまた一般的な人物に過ぎないことを自覚し、それを子供たちに伝えなければならないのだ。
それができて初めて、子供たちは卓越した人物の歩んだ人生が自分のそれとさほど隔たってはいないのだと感じる。この親近感がなければ、子供たちは元トップアスリートを別世界の住人としてただ見上げるだけにとどまり、触発されることはほとんどない。
■「学び直し」をした元アスリートはきっと役に立つ
「愛嬌」を身につける。これは言葉でいうほど簡単ではない。自らのプライドと折り合いをつけるために、社会という文脈に我が身を置いて客観視しなければならないからだ。だから、それらを学ぶための特別研修を新たに設ける。セカンドキャリアでは、これまでの常識がそのままでは通用しない。狭い世界で生きてきた現実を直視し、見識を高めるための努力を、元トップアスリートはしなければならない。
自尊心に折り合いをつける術を身につけ、然るべき学び直しを経た元トップアスリートが教員になれば、教育現場は豊かになるだろう。類まれなる経験を備えた人物が子供の傍に立つことの豊穣性が、ようやく担保できるはずだ。
文科省が意図するところのトップアスリートが有する専門知識や経験の教育的効果、また教員不足の解消や教育現場の多様性は、こうしてもたらされると私は見立てている。
---------- 平尾 剛(ひらお・つよし) 神戸親和大教授 1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。 ----------
神戸親和大教授 平尾 剛
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( 229510 ) 2024/11/03 01:16:16 1 00 教員の経験や考え方、教員不足や教員免許取得の難しさ、アスリートと教員のスキルの違い、教育現場の問題点などがさまざまな意見として挙がっています。
おおよその意見としては、教員の仕事は単なるスポーツの指導ではなく、子供たちの教育や生徒指導、教師としての責務が求められるという点が強調されています。
一方で、アスリート出身の教師が部活動の指導者として協力的に参加することや、一部の特殊なケースを除いて、教員としての役割を果たすには適していないという意見もあります。
教育現場における教員不足や文科省の政策に対する批判的な意見も多く見られ、教育現場全体の課題や問題点が浮き彫りにされています。
(まとめ) | ( 229512 ) 2024/11/03 01:16:16 0 00 =+=+=+=+= 元教員です。
アスリートのセカンドキャリア確保のため、またブラック職として周知された教員のイメージ回復のための下策です。
教員免許取得のためには各教科の教育法だけでなく、児童・生徒の心理、教理念・歴史・思想などを学ぶ必要があります。体育であれば学校にもよりますが人体構造や栄養学なども学びます。教育実習・介護等体験も必要です。
そもそも教員不足は深刻ですが、保健体育は採用試験倍率は高く10倍前後はザラで、端的に言えば間に合っています。
発展的解消として無かったことになった免許更新制度もですが、文科省は自ら教員の価値・誇り・尊厳を損なう施策を好んで行っています。
体育だけでは不公平ですので、一流ホテルやミシュラン掲載店のシェフに家庭科、文学賞を受けた作家に国語などの特別免許を与えなくては釣り合いが取れません。
=+=+=+=+= 子どもの頃体育が苦手だった。 好きになりたい思いはあったから体育系の部活に入ったりしてた。 でも苦手なままだった。 楽しく運動したかった。
大人になって、ある時ふいに走ってみたくなって自分のペースで走ってみたら 楽しかった。 それからずーっと走り続けている。 フルマラソンも何度も走っている。 子どもの頃一番嫌いだったのが長距離走だったのに。 学校での体育は楽しさを教えてあげられる人が教えに来て欲しいと思います。
=+=+=+=+= 文部科学省の官僚は、本当に現場のことがわかっていないんだろうなあと思う。文部科学省が何か新しいことを現場に押し付けるたびに、現場が荒廃していく。現場からアスリートを入れてくれという要求がありましたか?不登校は最高を更新し、いじめも深刻化し教員の精神疾患が増えつづけ、採用試験の 倍率が下がり、深刻な教員不足で担任がいないなんてことも起きているなかでこんなことを言い出す文部科学省には呆れ返ります。真面目に現場の声を聞き、現在の状況を作ったのは自分たちだということを文部科学省の官僚には自覚してもらいたい。
=+=+=+=+= サッカー日本代表の澤さんは自分は感覚派のため、監督などの指導は向いていないと分析している。 一方で野球の新庄監督は野球では理論派であり、成績は今季2位。 競技は違うが、選手自身が自己分析でき教えることは可能ではあると思う。 けど問題はやはりできない子達への指導でしょうか。 あくまでも上記のスポーツは、経験した人達に対する指導。 記事の通り未経験の子たちに教える技量があるのか。そして子供が耐えられるのか。
=+=+=+=+= アスリートはアスリートとしてリスペクトしたい。 しかし、アスリートと教育者はまた別のもの。 オリンピック選手は「才能」「環境「努力」「運」「周囲の協力」があって成功した人。 「精神論」でやってきた人もかなり多いはず。 それを今の学校現場に放り投げるとすると 「できて当たり前!なんでその位できないんだ!」系統になってしまうことが目に見えている。 特定の分野だけに長けてきた人が、全人的な教育をしている学校現場にはなじまない。双方が不幸。
=+=+=+=+= たまに来るお客さん的な講師なら、どんな雰囲気のクラス学年でもその時一度の機会に割と大人しく目を見開いて学ぼうとするでしょうけれども。 日々毎日の指導となると生徒指導の技術も必要になってきますからねー。
ちなみに体育が専門でも何でもない小学校の先生方の跳び箱指導を見たことあるけれど、指導経験がある方々流石でしたよ。補助の仕方も手慣れていて、跳び箱を飛ぶ前のイメージとしてやる活動にもノウハウがありそこにわざわざオリンピック選手必要ですかねーという感じがする。
=+=+=+=+= 名選手に名コーチなしですね。出来ない人の心は、すぐ出来る人は分からないと思います。ただ、熱心さはあると思うけどね。ある種目は一流でも、他の種目はどうかと思います。文科省って言うより、これ、政治家からの要請で渋々、官僚がやらされてるんじゃないの?
=+=+=+=+= この記事の内容とはちょっと異なりますが、私が通っていた高校は教員免許を取ったオリックスの2軍の選手だった人が教師として来ました。体育科ができた事もあり、弱小の野球部を甲子園に行かせる為でしょうね(過去に一度甲子園出場した事があるので意地があるのかな)。でも担任として進路指導、相談ができるような経験や知識を持っておらず、そのクラスの子が「大学の進路相談したいのに全然頼りにならない話にならない!」と絶望感たっぷり不満たらたらで駆け込むように私のクラスの担任(ベテランお爺ちゃん先生)に相談していました。スポーツ選手って脳筋が多いので、例え運動専門の体育教師だとしても教師には向いてないと思います。
=+=+=+=+= そもそもオリンピック選手の中に、正規の教員として働きたいという声が挙がっているのでしょうか?もちろん、その種目に関しては天才的な才能があるのだとは思いますが、多くの場合アスリート自身の力だけではなく周囲の多くの人達に守られ助けられているからこそ競技に集中できるのであって、教員はむしろ、雑用や泥臭い仕事を担い、守って助けてあげる側の立場だと思います。
=+=+=+=+= 現職です アスリートの方は信じられないほど色んな種類の体力トレーニングの経験があり体育会系、一般人より指導の引き出しがあります。さらに体が出来てるから子どもを引き付ける存在感やオーラもあるので向いてます ただ教育は基本的に熱意や継続力 モンペの理不尽さに耐える精神力が不可欠で 今まで会ったアスリート先生は基本的に勉強(学力UP)を教えるのは得意でない方が多い印象です
=+=+=+=+= 名選手、名監督にあらず。 オリンピック選手は遺伝的、生まれつき、才能に恵まれており、一般人からはかけ離れた存在に見える。真似をしろと言われても無理。 世界トップクラスのF1ドライバーだった人が、何も教育を受けずにいきなり自動車学校の教官になり、普通免許取得のための運転技術を教えたり、道路交通法を守った一般道の安全運転を教えたりできるのか疑問と同じ。 教育原理、教育心理学、教科別指導法、教育実習、文科省が定めた学習指導要領、モンスターペアレントの対処法などを勉強してから教師になるべきと思う。
=+=+=+=+= トップアスリートも様々でしょうが、かなりの成功者としてややこしい人になることもあります。 自分で歩んできた人生に自信と誇りがありますから、子どもの教育を一から学び直さなければいけないと思う人は少ないでしょう。学び直しは地道なことですし、これまでの概念を覆すこともあるでしょうから。自分に求められているのは、それではないと判断されるんじゃないかな。 近しい人に日本代表だった人がいますが、これまでの人生経験に当然ながら誇りを持っています。もちろん素晴らしいのですが、それを我が子にも当てはめてしまうことのリスクを目の当たりにしています。人にもよるのでしょうが、トップアスリートだからと手放しで喜べない事もあると思います。
=+=+=+=+= トップアスリートが良い指導者になるのは、本当に一握り。引退後のアスリートがこれからトップアスリートになろうとする後輩を指導するのは、いいかもしれません。 しかし、その悪い例が山形県の高校教育にありました。昭和47年のインターハイのために、数年前から各競技の国体選手や名前の売れた選手を優先的に高校教諭として採用しました。その影響はすぐに現れました。学業が極端に低下してしまいました。教師としての資質のないものまで採用されてしまったのです。その影響はそのときばかりでは無く、その後も続くのですから、大変なマイナスでしかありません。
=+=+=+=+= 平尾さんの意見に強く賛成する。自分が競技で勝つための方法と児童・生徒に運動を教えるための方法は全く異なる。トップアスリートで教員になりたいという人が大学等で教育理論を学ぶ際に国が学費・生活費等を支給するとか国立大学への編入をしやすくするとか「教員としての資質」を高めてもらうことを国は支援すべきだと思う。
=+=+=+=+= 東北のとある県で国体が終わった後の年に中学生になりましたが、国体崩れのスポーツマン達が一斉に県内の体育教師として採用されました。 国体選手に部活の顧問をしてもらって部活動で全国大会を狙う算段だったのかもしれませんが、勝利至上主義が蔓延し、体罰や部活内いじめが増えて問題となり、批判されるようになりました。 トップスポーツ選手が必ずしもコーチングが得意ではないのと、なまじ自分が運動できる分、運動音痴や体力不足の生徒を理解できず無理をさせて怪我させたり、最低限の教育も受けていないため脳筋すぎて安全管理ができていなくて問題となりました。自分を含め沢山の同級生・下級生が被害に遭いました。 いじめ、体罰という言葉がマスコミで取り上げられ、社会問題となり始めた時代の話です。
=+=+=+=+= 競技で 一流になれる 鍛錬を継続できる才能と、指導者になって体育教師として 教え子に 教育をすることは別物だから 特殊条件で教師に いきなり 就任させるんじゃなくて 教師として必要な下地を養うための動きっていうのは 一般の教員と同じようにしないと 必要な 予備知識が足りていない状況で 一足飛び で教員になった教師が問題を起こすって場合もあると思う。
=+=+=+=+= スポーツ特待生で大学に入った方々は、勉学は大丈夫なのだろうか。スポーツがどんなにできても、 勉学が駄目なら、生徒に馬鹿にされないか?中学数学や理科の教えを請われた場合、応えられなければ信用が落ちる、教育の崩壊が始まる!? 部活の指導員として教えに行くとかなら、先生の仕事軽減やスポーツへの教育に良い影響があると思う。 文科省職員やその子供に、一度アスリートの授業をある期間受けてもらえば、効果がわかるはずなのに、何故、日本の教育対応は机上の理論だけなのだろうか。もう少し、真面目に日本の教育を考えてほしい。
=+=+=+=+= 教員です。 全くもってその通り。現場が言いたかったことを詳しく分かりやすく書いています。
先生が足りないので臨時免許状が乱発られています。 これは異常です。
医者が足りないから、医師免許を臨時で出しますか?車を運転したことがない人にバス運転手が足りないから臨時で運転免許を出しますか? そんな異常なことが現場では普通に毎年起きています。
文部科学省自身が「先生なんて誰でもできる」という認識でいることがよく分かります。 無茶を押し付け現場を苦しめて、長時間勤務なのに残業代は出ずに自腹だらけ。自分のクラスでいじめが起きたら全国ニュース。うっかりプリントを置き忘れたら生徒がSnsに上げて全国ニュース。モンペには全面降伏。
小学校の教員が足りないため、この国は小学校の教育すらまともに受けることすらできない国になりました。 資源がないのに教育が崩壊。もう終わりです。
=+=+=+=+= そのオリンピック選手にも、クラス担任、生徒指導や進路指導、その他もろもろの雑務もさせる?させるとなると、アスリートの持ってる能力を発揮できる場が限定的となり、もったいない気がします。そして、させずに体育だけのための専任として着任させると、着任先の学校では、本来教師1人が担うべき仕事量をそこにいる他の教員に負担させることになるので、負担増になります。どちらにしてもあまり得策では無い気がします。
=+=+=+=+= 教員不足解消のためで代わりにスポーツ選手がなれる職業ではないと思います。 仮に保健体育や実技がうまく教えられたとして、担任業務、進路指導、学校で割り当てられる分掌(体育祭を運営したりの仕事もあり)など、片手間では出来る仕事では不可能に近い業務が山程あります。 人数が少ないからスポーツ選手というのは、教員を目指して今まで採用試験を頑張って受けては落ちている人々の気持ちや情熱を踏みにじっているみたいで胸が痛いです。
=+=+=+=+= 勉強もスポーツも自分ができることと他の人に教えられることとは性質が違うことだと思います。私の周りにも勉強ができる人や部活動で頼りになる上手い人はたくさんいましたが、その人たちが必ずしも教え上手ではないです。オリンピック選手でも教員になれば生徒指導やクラス担任だってやるべきですからやはり教員免許を取得するべきだと思います。
=+=+=+=+= 平尾さんはまさにトップアスリートでいながら、教えることの難しさをよくご存知ですね。それは体育に限ったことではなく、すべての教科に通じることだと思います。特に理系科目は「公式」と「解答」に「わかる」と「できる」の違いに近いものがあると思います。どちらにも「センス」が必要で、それを言葉で伝えるには知識と経験が必要です。
=+=+=+=+= 体育はずっと嫌いだった。 スタミナやバランス感覚に優れ、走っても泳いでも速いし、ジャンプすれば高く遠くまで跳べる。 加えてどんな球技もこなせるぐらいのボールの空間認識やコントロールができる。 そうじゃない人にとって体育の時間はみんなの前で恥をかかされる場面が年に何回も、必ずやってくる。 大人になってから分かったことだけど足の骨に異常があった。 そのせいでほとんどのスポーツですぐ足が痛みだして上手くなるまで反復できなかったし、ゲームやったり漫画を読んだりする時間のほうが好きだった。 それでも足が痛くならない種目を見つけて中高では部活をやりきった。 自分に向いてる運動が分かってきて体を動かすのが楽しくなったのは20を過ぎたあと。 40手前の今では週に何度か自分のペースでランニングしてるし、自転車でまあまあ長い距離の通勤をしている。 今が一番運動が好き。 学校の体育は何を目指してるんだろう?
=+=+=+=+= 指導者の方も時代とともに考えが変わっていると思います。特に最近は、変化が求められていると感じます。昔ながらの指導が通用しないことは、最近の選手は痛感しているのではないでしょうか。試行運用などでやってみてはどうでしょうか。最初から無理だという考えからは、何も始まらないと考えます。
=+=+=+=+= 元実業団選手でオリンピック代表には惜しくも選ばれなかったというコーチと、現役成績でいったらそのコーチほどは華々しいわけではない2人のコーチから指導を受けました。 前者のコーチの口癖は「なぜできない!なぜやらない!」でした。みんな口では正解を言えるんですが、なかなか理想通りには動けない。前者のコーチが「わかってるならやれ!」と言って再開するのですが、後から後者のコーチがボールの受け方や動き方や考え方を具体的に教えてくれて、名選手が必ずしも名監督ではないよなと当時から仲間内で話していました。 前者のコーチの顔色を伺って萎縮してプレーしていたので、観るのはまあまあ楽しいけど実際やるのは億劫になってしまいました。 チームは東北大会での2位が最高成績でしたので、それ以上のトップ層同士は感覚的に近いものがあるかもしれませんので、ナショナルトレセンとか?そういうところで採用を増やしたらどうですかね。
=+=+=+=+= 私は常々、教育という枠組みにおいて、教員に最も求められていることは子どもを理解することだと思っている。 オリンピックのメダリストともなれば間違いなく才能を持って生まれた人間。才能のない子どもの気持ちを理解するのは大変困難なことだろう。 だからこそ、教員になりたいというならしっかりと学ぶ必要がある。 大学に入って一から教育を学び、教員免許を取れば良い。
=+=+=+=+= 40年以上前リズム縄跳びというものが授業に加わった。音楽に合わせ踊るように縄跳びする運動音痴、リズム感無しの自分には拷問のような種目だった。 失敗しても楽しく出来たら良かったが新種目の普及を任された熱血教師に放課後居残りで特訓させられたり皆の前で出来ない子が1人でやらされたりいい思い出が無い。 選手を育ててるんじゃないんだから出来る喜びを教えて欲しい。
=+=+=+=+= 競技スポーツと学校体育はまったくの別物。いくら優れたアスリートでも少し研修をうけたくらいで教壇に立っても、子供とのコミュニケーションはうまくいきませんし、学校の実態を見てイヤになるかもしれません。昔の子供が今の子供より運動能力が高かったのは、学校でも帰宅後でも体を使った遊びがベースにあったからではありませんかね。ゲームばかりしている子供、毎日帰宅したら塾や習い事で忙しい子供が多い現代では臨むべきもありませ。
=+=+=+=+= 元オリンピック選手なら、もっと他の職業に行くでしょうね。学校の教師はオリンピックの名声だけでやっていける職業ではないと思いますよ。競技をやっているときとは別の難題やストレスがあることを知れば、教師になる人は少ないでしょう。卒業式などで校長がオリンピック選手を題材に話をするのをよく聞いたことがあります。何か学校や文部省って、努力してメダル獲得したーみたいな話大好きなんですよね。
=+=+=+=+= 監督コーチと教員は、まったく違います。そもそも、教員になるため四年制大学・短期大学で、学習をしてきた学生の努力を無にする政策です。 かつて、同様のことは実際にありました。旧国体では、開催都道府県が優勝するために、能力のあるアスリートを教員として採用し、開催都道府県が優勝し続けました。私の県も昭和の最後に国体が開催されました。採用されたアスリートは、体育教師や教育委員会に所属し、教育委員会に所属したアスリートは、退職体育教師の後釜として採用されていきました。その影響で、大学卒業学生は、長い期間、体育教師として採用されませんでした。
=+=+=+=+= 教員です。記事の内容、全て納得でき、特に「自尊心と折り合いをつける術を身につける必要がある。」という点は、トップアスリートにこの点を理解してもらう事が最も難しいように思えます。ただ、学校という場できちんと授業を担当して教える場合には、非常に重要なスキルだと思うので、先ずはマインドセットしていただく事は必要なのでしょう。
=+=+=+=+= まあ、なんとなくわかる。1~2回自分の経験を話すのは良いと思うが、ずーっと指導を受けるのは道だろう。ちょっと話は違うが、とある専門学校も似たような感じ。高校生を相手に、博士号を持つ教員(ほとんどの教員が博士号を持っているが教員免許は持たない)が数年間ずーっと指導する。設備は立派で、大学並みの研究装置がずらりと並んでおり、それを使って学生のための実験を行うようだ。なので卒業生のレベルは高く企業からの評価はすこぶる高い。が、当然話は難しいし、試験も難しい。毎年数十人の留年者、退学者が出ている(中学ではトップクラスだった生徒)。それだけであれば良いのだが、ハラスメントもどきのこともあっているらしい。精神を病んで休学するものもいる。(国立なので表には出にくい。校長は官公庁の天下りか、旧帝大の定年教授)。少なくとも成人するまでは、それなりの人格者で、まともな教育できる人がいいと思う。
=+=+=+=+= そういう意味では、アスリート本人よりそのコーチとかを教員にできるといいのかな。ただ、コーチはコーチを続けられるんだから、選手より教員になりたい人が少ない気もするけど。
ただ、教員というか、部活の顧問とか教員の負担を減らす人員として、元アスリートに助けてもらえたらとも思うけどね。一概にダメを出すより、その気のあるアスリートに活躍してもらう知恵は何とかでないものか。
=+=+=+=+= 部活の顧問までが限度かな…。 授業としてするのは教えられるのか疑問。 やると教えるは別物なので気になりました。 運動が苦手な子の気持ちによりそえるのかも気になるところだし、担任を持つ場合、運動以外の業務もあります。対応できるのでしょうか。 私が中1の時の体育教師が担任になった時は理由は言えませんが学年途中で問題を起こし養護学級に異動になり、中3の時の体育教師は生徒・保護者から進路の相談がまるでできないとクレームが学校に殺到し…教育実習を受けたはずの体育教師ですら良いイメージかありません。 ちなみに進路の相談は進学塾主導でしてもらい、まともな高校に進学しました。 オリンピック選手、まともに授業ができるのでしょうか?
=+=+=+=+= こういう言い方をすると元も子もなくなるとは思いますが、”トップアスリートは努力のみでなく才能と運にも限りなく恵まれた人なので、一般人とは全くバックグラウンドが違い、向いてない”と思います。
この記事にあるように時に非常勤として講演したり、飛び入り指導をするにとどめる方が、お互いのためだと思います。
=+=+=+=+= 昭和から平成時代の話になるが児童生徒の身体能力の差があるにもかかわらず、体育ってどのように評価をつけられてきたのかとふと考えた。テストと言えば、走るスピードを計られ、鉄棒や跳び箱やマット運動と言えば技ができるかどうかだったと記憶している。精一杯練習を重ねてもできないものはできない。 意欲が認められるといった点数で何とか1ではなかったのだろうが、ここにオリンピック選手が来て手本を見せらてしまうと、ますますその輪に入れない気がする。自己肯定感がますます低くなることも予想されてしまった。 応援や観覧とは違う。文科省は、子ども目線で考えているのだろうか。
=+=+=+=+= 本気で教員を志願し、それなりに子どもと一緒に悩んでくれるならオリンピック選手出身者でも歓迎ですが、今の教育現場はそのような素晴らしい特性を生かしきれない、とにかく日々の問題やクレームの中で生徒の個性を把握し、まとめていく能力が、すぐに求められる場所かと思います。一芸に秀れていることは素直に素晴らしいと思うのですが、大変ですよ。きっと。教職に近寄ることはあまりおすすめできません。
=+=+=+=+= 自分が実践することと、他人に自分と同じレベルで実践させることは全く違います。多くの教員が最初に味わう挫折がこれで、自分はそれなりに勉強ができると思って、自分の経験のとおりにやらせればよいのだと、若い教員が自信満々で教えるものの、子どもの学力は微塵も上がらず途方に暮れるという経験。果ては、子どもたちから馬鹿にされ、保護者からクレームを言われるという苦しい経験。
文科省の方はそんな初歩的な経験すらしたことがないのでしょう。そういう教育の素人が教育行政に携わり、教育政策の大きな方向性を決めていくという理不尽。当の文科役人にとっても不幸だと思います。
文科官僚だって安い給料で懸命に仕事をし、何かを成し遂げたいという意欲があるだろうに、現実は教員のほとんどからそっぽを向かれ、教育崩壊を招いて多くの子どもを不幸にしているという悲劇。
国家公務員採用の仕組みが制度疲労を起こしているのでしょう。
=+=+=+=+= そもそも「得意な人から教われば、苦手な子も得意になれるだろう」という発想が間違っていると思う。
運動が苦手な子に上手に教えられるのは「運動が苦手だったけど苦労して体の動かし方を習得した人」であって、「子どもの頃から苦も無くスポーツをこなした人」ではない。
算数が苦手な子に上手に教えられるのが「算数が苦手だったけど苦労して算数を習得した人」なのと同じ。どこでつまづいているのか、論理的にも心理的にも理解できる可能性が高いから。
オリンピック選手にも様々な人がいるだろうが、世界レベルのスポーツ選手が子どもの頃は運動が苦手だったということもあるまい。
「なぜこんなことができないの?」と首を傾げてしまう可能性が高い人を、教師に据えるべきではない。
=+=+=+=+= もちろん保健体育教師として元アスリートを雇用するにしてもある一定の教職プログラムは受けなきゃいけない 但し、いま小学校・中学校の部活動が廃止の流れが急加速してる 本来義務教育中の部活は生徒全員が平等に参加出来るという目的もあったはず 部活動に就く先生が居なければその道のアスリートが職として就くって最適では
=+=+=+=+= 東大出た人が先生になったからといって、教え方が上手な人もいれば、下手な人もいる。 できる人ほど、できない人の気持ちが分からないというのは往々にしてある話。 トップアスリートたちのすべてが、足が速くない、泳げない子供たちの気持ちを理解して、指導できるとは思えない(もし、教員にするなら、そういった面での教育は不可欠だ)。
=+=+=+=+= このような体育教師が出来ると、運動の苦手な子が得意になるのか? 運動の得意なアスリートに運動の苦手な子の気持ちがわかるのか、ものすごく疑問です。得意な子を伸ばすのなら大学で体育の指導をすれば済むこと。大学教員に免許は必要ないので、そちらで活躍して欲しい。免許に必要な単位は取ってから小中高の教員にするべき。
=+=+=+=+= アスリートでも教えるのが上手い人なら良いと思いますが(上も下も経験済み)天才肌の人は無理だろうと思います。下手(要領の悪い)な人の気持ち分からないからお互いに伝わらない。 別件ですが、昨今のスポ少、習い事絶対も如何なものかと。別に全員プロになる訳では無いので楽しむ程度の活動があっても良いのではと。学生終わった途端に燃え尽き症候群なったり。子育てもやる事多すぎて大変さだけ伝染して子供の大切さとかが薄れてるようにも思います。高卒で卒業して生きていけるくらいで良いのではと。踏ん張りどころが違う気がします
=+=+=+=+= スポーツで抜きん出た才能を持つ人が、運動が苦手な子の気持ちが分かるのだろうか? そういう優れた技能を持つ方は、義務教育ではなく、高等学校以上の専門的に学びたいという生徒が集まる学校へ行ってもらいたい。 いろんな子がいる義務教育の学校にはなじまないと思う。
=+=+=+=+= 私の長い教員生活を振り返って見ても、チャンピオンスポーツを経験した方ほど、(すべてではありませんでしたが)子どもたちに体育を指導できない。形やルールや技能からではなく、その子たちの今から始められないことが多い。やはり、体育や運動が何のために⁇あたりは先生としての資質として、学んでから教員にならなくてはならない
=+=+=+=+= 例えばユーチューブ動画。 上級者が教えてくれる動画を見て、初心者がまねても上手くいかずに崩壊するだけ。体の使い方も柔軟性も筋力もすべてが違うのに。
子供の習い事に素人の親が聞きかじった知識(オリンピック選手の書いた本) で介入すると、かえって下手になるのはよくある話。本じゃなくコーチを頼ればいいのに。担当コーチが頼りないなら別のコーチに話を聞くとか。
学校の体育の授業なんて、初心者向けの指導に長けている人が活躍できるフィールドなのに。教育について学んだ体育大学出の人が長年教育現場で指導経験を重ね、ようやく良い体育教師が完成する。
オリンピック選手は、体育大学、名門高校、名門クラブが活躍の場。ごっちゃにするな。
=+=+=+=+= ライオンのグータッチのように、こどもに寄り添い、弱点や長所をすぐに見抜き、それを改善する練習を提案できる指導者なら最高だろうな。 ただ、その人の専門のスポーツに限るからずっーと1つの学校で1つの競技を教える 事はできないよね?? 地域のスポーツ団を週一くらいで指導、3チーム掛け持ちしてもらうのが良いと思う。
=+=+=+=+= 体育が苦手な私は「なんでこんなことができないの?」と言われてました。 「努力すれば夢はかなう」という事を言う人は、できない人の気持ちはわかりません。 体育が嫌いな生徒や児童が増えるという記事の内容に賛同します。
=+=+=+=+= 日本の教育では目標を決めると一律指導になりがちだ。運動が苦手、嫌いな子どもでもカリキュラムは強制になる。教師が熱心なのはよいが、行き過ぎた指導にもなる。罰ゲーム的な発想の指導にもなる。 私の小さい頃、好き嫌いの無い給食指導が行われていた。食べきらないと昼休みの遊びに行けない。それがトラウマとなり、苦手の食べ物が固定した友だちも出た。同じだね。
=+=+=+=+= トップアスリートをそのまま体育教師にするならば記事の通りの懸念は生じます。 ただこれは一般の体育教師でも同じことが云えますよ。 勿論教育理論や具体的な指導法を学んでいるとは云え、元々運動だけは得意だから体育教師になった人が殆どなのですから。 そんな人に運動が苦手な子供の気持ちなんて分からないんですよ。
もっと言うならば数学教師は数学が、英語教師は英語が得意だからその道に進んだのです。 苦手な子供の気持ちなんて分かるはずがない。 つまり教師が優秀であればあるほど教師には向いていないんですよ。 少なくとも苦手な子供達の指導には。 上を目指す出来る子供なら良いでしょうけどね。
自らの出来は少々悪くても、それを努力で克服した人こそ苦手な子供達の指導者には向いています。 「何故出来ないか」が分かるのでね。
=+=+=+=+= 兵庫県でもずっと以前にメダリストが高校体育の先生になりましたが、普通の指導力なし。部活動の顧問としては頑張ってくれると思いきや、全くこれも指導力なし。何のための特別採用?まずは担任として役に立つのかな?偏見はダメとしてもやはりいかがなものかな?昭和の駄目政策ですよ。これを言い出した文科省大臣落ちたけど、役所が現場知らず。これは常に言えること。半年くらい現場に出向して苦労を感じてもらいたい。
=+=+=+=+= できない生徒の気持ちがわかるのはできない自分を克服した人。オリンピアンはほとんどが特別な才能で、もともと苦労せずできる人だったわけで、打ち上げ花火的な指導はできても、いつできるかわからない地道で先の見えない指導には向いていないのでないか。もちろん決めつけはダメですが。なぜできないのか、どうしたらできるようになるのか。教師は日々考え抜いてます。オリンピアンはすごい。しかし、教師もすごいんです!なめるな!
=+=+=+=+= 体育や音楽の専門家って、自分は得意で好きな人間のほうだから、嫌いな人の気持ちがさっぱり分からないんですよね。義務教育の目的を端的にいうと「嫌いな人を減らす」ことですから、もっと嫌いな人に寄り添ったカリキュラムに改定してほしいですね
=+=+=+=+= 個人的にはなんでもかんでもスポーツ振興と称して大会だのイベントに強制参加をやめてほしいなと学生の頃は思いました。
中学生の時に地元に総合グラウンド場ができた時に休みの日に全員参加させられ、グラウンドを皆で走る、暑い中延々とテントの中で競技を観戦。昼飯はパン一個と牛乳。なんの仕打ちかと思うくらい嫌でしょうがなかったのを思いだす。
=+=+=+=+= オリンピック選手が講師として、近くの小学校に赴任してきた。なぜか、町の講演会で、講演していた。講演を依頼する役場も見る目ないと思った。 学校では見習い教員でも、やってきたことはオリンピック選手だから、管理職も強く言えない。おそらく、教員と指導者は似ているが違うものだ。学習の教え方、児童理解、保護者対対応、、、苦労の未来が想像される。
=+=+=+=+= 本当にその通り トップアスリートは、感覚で大成した方が多く、その動きなどを言語化して説明できない だから、体幹が大事とかのような、抽象的な説明をする人が多い印象 だからこそ、言語化して一般的に指導できるようにする教育機関が必要かなと思う
=+=+=+=+= プロスポーツ選手のヒーローインタビューを見れば一目瞭然です。質問者の意図に合わせた解答ができる選手がどれだけいるでしょうか?試合後のインタビューならファンが受け入れてくれて拍手が起きますが、教育現場でそれをやられては児童生徒が不幸です。運動会のマーチング練習の際に、その道のスペシャリストの特別講師の先生が来校されたときに、指導内容の意味が児童が???だったためにフォローをしたことがありますが、あれが日常になったらと思うとゾッとします。 文科省はなぜ現場の先生が疲弊するようなことを繰り返すんでしょうか?
=+=+=+=+= 器用な人は往々にして不器用な人を見るとイライラしてしまう。 自分には簡単にできることが何故この人(子)にはできないんだろう?と思ってしまいがちだから。
また、才能ある人間が血の滲むような努力をして身につけたものなのに、それと同じように努力することを凡人に要求するような間違いを犯しかねない。
「競技の楽しさ」というものを教えるにはたぶん超一流の人よりも一流半くらいの人の方により適性があるように思う。
=+=+=+=+= 今の教育現場で求められている人材は、アスリートなのか。ただでさえ疲弊している現場で、さらに負担が増えるだけではないかという気がする。必要なのは、学習指導以外のことにも忙殺される教員の負担を軽減して、授業集中できるような環境をつくるための人材だろう。 文科省がこんなピントはずれなことしかできないから、保護者対応やいじめ、不登校への対応が十分できず、学校が疲弊することになっているのではないか。
=+=+=+=+= 今の子どもは、昔と違ってほめてやらなければ喜ばないしほめてやらなければ楽しくない。ほめてやらなければ動かないということがトップアスリートには分からないだろうね。楽しくスポーツをやらせることが最も重要なことだよ。
=+=+=+=+= オリンピックまで出場したアスリートが、果たして一般教員の安い給料で受けてくれるかも問題である。 もし、特別な給料体系なら、その費用で一般教員を数名正採用した方が、現場は大いにた助かる。 アスリートも、オリンピックがなかったら生活に窮しているのなら別であるが・・・。 体操のアスリート選手でも、体育科を教えるのであれば、陸上も球技も水泳も教えなければならなくなる。 この施策はちょっと短絡的な判断だと思うのだが。
=+=+=+=+= 元高校教師です。 愚策としか言いようがないですね。
どんなに素晴らしい実績を残したアスリートでも 教育者の資質があるかは別問題。 なんなら、センスの塊だったであろうその人に、 出来ない者の気持ちがわかるかな?
そして、正直もったいない。宝の持ち腐れ。 教師は、自身の専門科目授業2割、 雑務やら生徒の個別対応8割です。 世界を相手に戦ってきたスキルを発揮するほど 教師は暇じゃないし、自身の専門分野に専念できません。
ことごとく、文科省は現場を分かってないです。 それが現場を仕切ってるのだから、 現場…この国の未来は荒廃していく一方です。
=+=+=+=+= 教員の数を埋めるためには何かと理由が付けば免許を交付する。犠牲になるのはそれに乗ってしまった人。それまで教育現場とは無関係の人が何の知識もなく先生の立場になると、現場が混乱します。広島県尾道市や京都府舞鶴市で起きた校長の自殺もその犠牲者です。立場的なことを考えると、この件では子どもが犠牲になりそうです。これは誰でも分かっている教員不足の根本に手を付けようとしない文科省の大失策だ。
=+=+=+=+= できるすぎる人には、できない子どものことが分からない。トップランクの大学の超頭の良い子は分からないことを理解できないから子どもの教育にはむかないことと同じ。文科省は教員の給与を上げれば教員不足は解消されるとか、一般企業に勤務していた人を採用するとか、根本を見ずに安易にことを進めようとする。
=+=+=+=+= 学校体育はトレセンでもなければトレーニングではございません。(笑) なので怪我をしない身体を作る運動を理解できたら目的はほぼ終わり。 極論、体育にサッカー等の球技は全く必要なく、寧ろ古武術等、本来の身体の操を育む「体操」が必要だと思います。
=+=+=+=+= うちの子どもは体育でさまざまやるのは仕方ないが、体育大会やダンスの発表会が意味わからないと言っています。 わざわざ親にみせる必要あるのかと。
得意な子達は活躍する姿をみせられるからいいのでしょうが、そうでない子達からすると、、、これも時代なのかなぁと思いました。
そんな子達にトップアスリートは毎日何を教えるのかな?
=+=+=+=+= オリンピアンはごく一部の運動神経を持った生徒に対しては指導できるかもしれないが体育という教育から見た場合、指導が難しいのではないかと思う。体育は競技技術の向上を目的とはしていない。技術向上を目的とすればそれは体育と言うより町中の体育クラブと同様になってしまう。教育における体育はあくまで健全な心身の向上を目的としているのだ。競技技術の向上と体育は似て非なる物である。
=+=+=+=+= アスリートを教員に採用するなら小中学校じゃなく高校の部活指導をして貰った方がいいんじゃないでしょうか? 高校の先生はその競技の知識がない人もいるし指導を任せれば働き方改革にもなるでしょう。
=+=+=+=+= なかなか興味深い話。 ピアノなどの楽器演奏もこれに近い。あれもある種、手の運動だから考え方は似ている。 天才肌のピアニストだと、なぜそういうふうに手が動かせるのか、そういう響きを出せるのか、説明できないらしい。 そういうのが芸大の教授なんかになってしまったら悲惨で、 「そこ、テンポが乱れました」 「音の粒が揃ってません」 とか、間違いや欠点を指摘するだけで、じゃあどうしたらできるようになるのかを教えることができない。 文科省の連中なんて、どうせ表面的なことしか考えない。また子どもが犠牲になる。
=+=+=+=+= 元教員、高校野球部監督でしたが、餅は餅屋の面があると思います。
もちろん新しい風が入ることは良いことですが、適切な課題を選手全員に提供できるか、そういった地道なことというより選手・生徒に合わせた指導が出来るかが心配です。
自分のやり方を単に伝えることは誰でも出来ると私は思っています。 ただ本当の指導とは上記のようなことです。
=+=+=+=+= 体育教師は飽和状態で、教育課程を学んでもなかなか受からない現状をご存知か?何年も現場で講師として子どもと向き合い、関わりを持っていてもなれないのに、それらをすっ飛ばして、「はい、正職採用です。」はあまりにもひどい。 同じ土俵での採用方法を是非とってもらいたい。 強豪校のクラブ顧問としてならばよいのかもしれないが。
=+=+=+=+= 学校体育は、エリートアスリート養成の場ではない。ましてや各競技の普及ですら教育現場でするものではないだろう。元選手であっても、普及が得意な人、強化が得意な人もいるだろう。彼らの特性を活かす場は、各競技団体が受け持つべき。学校は利用しても、彼らを教育現場に入れるのは筋違い
=+=+=+=+= スポーツと体育は別物。そんなにアスリートの就職先が心配なら、地元のスポーツクラブとか斡旋してもらえばええやろ?誰もかれもプロ目指してるわけじゃない。そのスポーツを楽しみたいだけの人がほとんど。学校の部活もそろそろ本気スポーツは学校外のクラブでやってもらって、学校の部活はそれぞれのスポーツを楽しむクラブ程度にするべきだ。
=+=+=+=+= 文科省の安易な発想に危機を感じます。現場を知る人からの発想ではないです。現場を知らない文科官僚から出た言葉にだれも逆らえずに表にでてしまったのでしょう。 もし、選手が採用されれば、学校では辛い目に合う人も多いでしょう。 また真面目に教職を勉強してきた学生はますます教職離れを起こすでしょうね。
=+=+=+=+= この大学の先生は余りにも無知。
終戦直後から教員免許法では「第一級陸上無線技術士の資格で中学校二種(職業)と高等学校一種(工業)の教員免許が取得できる」となっています。
無線技士にはこの先生の言うような「教育」に関する専門的な知識はありません。しかし大昔からその専門性に敬意を表しつつ教育に関われると判断して教員免許を与えることになっているのですよ。
オリンピアンに教員免許を与えることにしても何の問題もない。戦後つくられた教員免許法の趣旨にも合致しています。
=+=+=+=+= オリンピック選手ってストイックで自己流とかもあって教えることが上手いとは思えない。高校以上であれば理論とかそのへんの講師としてはありだろうけど、学校に至ってはスポーツ選手に教えてもらうよりは、野山をかけるような遊びをするほうがずっと良いと思うよ。
=+=+=+=+= この方策、誰が求めているのか?誰が得するのか?もし100人のオリンピアンが体育教師になったとして、何人が教員として一人前になれるか?小学生は分からないが、中学生は思ったよりいろいろ考えいろいろ分かっている。ウチの子は「先生はいろんなことをやらなくちゃならなくて大変なのに、運動ばかりをやってきた人にできるのかな?自分の担任にはなってほしくない」と言っていた。中学生がわかることを文科省のお役人さんは分からないんでしょうか?また部活動指導に特化するとしても、部活動指導だけをして1人前に給料をもらっては、他の先生がやる気をなくすだろう。そもそも、体育だけそんなに優遇してどうするのか?スポーツ好きばっかり大量生産してどうするのか?読書好きを増やさなくていいのか?英語が得意で、国際感覚を身に着けられる人物育成は必要ないのか?理科が好きで将来研究に従事する人材はいらないのか?文科省って何のためにあるの?
=+=+=+=+= 学校教育なら一流選手ではなく、一流選手に育てた指導者を入れた方が良いのでは無いでしょうか? 一流選手は自分に合ったトレーニングや体験はあるけど、子供一人一人の適性やそれにあったトレーニングを指導するのは難しいと思う。
=+=+=+=+= 個人的には体育は様々な競技のビデオや机上学習で十分。実技はいらない。体格も体力も異なる生徒に僅かな時間で競技を体得なんて出来ない。体も頭も理解不能。楽しさなんて論外。 体育の授業がスポーツが嫌いになっても好きになるキッカケでないことはハッキリ言える。そもそも体育の実技で取り上げるスポーツなんて氷山の一角。
=+=+=+=+= どんな分野でも,生来の能力で感覚的にこなしてしまう人は,他人に教えるのがへただ。たとえば,数学者が算数のいい先生になれるか。「どうしてこんな簡単なことがわからないんだよ!」と怒り出すのがおちだろう。定年退職までは大学教員だった私も,自分をいましめていたことだ。
オリンピック選手を雇用するなら,部活の顧問・コーチがいいのではないか。教員免許は不要のはずだ。私立のスポーツ強豪校が雇えばいい。彼らにとっても,現役を引退したあと,なにか飯のタネが必要だろう。
=+=+=+=+= できる人に教えてもらうことって、苦手な人からすれば苦痛なんですよね。 以前、働いていた塾でのことです。個別指導で担当が変わることもありました。私は文系なので、数学は中学までの担当です。近くに国立大医学部のキャンパスがあったので、私なんて比べるも申し訳ないぐらい数学ができる学生アルバイトに自分が担当していた生徒が変わることがありました。ただ、数回その学生が授業をしたところで、生徒の保護者から担当講師を変えて欲しい、元の講師(私)に戻してほしいと言われました。その生徒はあまり数学が得意ではなかったので、「こうやってやればできるでしょ?」と言われても難しいです。その講師は、自分の通う大学を志望している生徒には合っていましたが、やっぱり苦手な生徒には合わないんですよね。 プロを目指すような生徒がいる学校ならともかく、運動が苦手な子もいる普通の学校でプロのアスリートが指導してもね…
=+=+=+=+= 自分は運動が苦手で、自分がチームに入ると嫌な顔をされ、失敗すると非難されるので、体育が大嫌いだった。しかし、大人になると、ジョギングや筋トレ、ウインタースポーツなど個人競技のスポーツで体を動かしている。結局、自分が嫌いだったのはスポーツではなく、体育の授業だった。運動が苦手、運動が嫌いという子がいるという事実は、世の中の体育教師、体育主任の頭の中にはない。
=+=+=+=+= アスリートだからと教える人格、素養、適性があるとは思えないし、各スポーツでみられるセクハラやパワハラ、薬物汚染をみると、危なそうな感じも。 体の良い就職先なのでは。
=+=+=+=+= 安易な文科省批判をすることは反対かな。
教育については、専門外からの横やりが入りやすい。 誰もが教育を受けてきて、自らの経験から施策を述べやすいからだ。
筆者の考えには参考だが、コメント欄は教育学の勉強をしたことが無い人の意見が並ぶ。 日本が教育にかける予算は昔から少なかったし、家庭と学校に教育の責務を担わせすぎる文化もあり、文科省の少人数学級に対する予算増額の希望はことごとくはじかれていた。
今回の案件も、本当に文科省から出て来たのか、国会議員が裏から根回ししていたのかよく分からない。
教員不足は予算が増えない以上厳しいものがある。ただ、一方で、予想以上の少子化が進行していること、部活動の地域移行が進みつつあることから、現場の仕事量を減らす方向で考えていく方がいいと考える。
=+=+=+=+= そうですね。やはり文科省は根っこでは、小学校のことぐらい誰でも教えられると思ってるんでしょう。文科省の役人になる前に、現場での研修を行なっていただきたいです。1ヶ月でもいいから担任持ってもらってからいろいろ意見言ってもらいたいです。机上でのことなら、誰でも立派なことは言えます。これだけ子どもの数が減少しているのだから、一人あたりにかける予算は増えてもいいはずです。確かに防衛も大事ですが、少子化対策と教育は国の存亡に関わります。人なくして国は生きられません。
=+=+=+=+= 教員の仕事の割合として、授業は3割程度です。 あとは合理的配慮生徒への対応、分掌業務、保護者対応、会議、研修、出張、書類作成などなど。 記事にもあったけど、勉強し直すならまだしも、せっかく世界大会に出た人が教員になるのももったいない。 オリンピアンは年に1回くらいの特別授業くらいがちょうどいい。
=+=+=+=+= 運動嫌いの子供が増える そのとおりでしょう。 でも、文科省や日本の支配層は、そんなこと気にしちゃいません。 すでに、ゆとり教育を導入した段階で、日本は欧米のようなエリート育成国家に、舵を切っているのです。 ゆとり教育によって、子供たちの平均学力は低下しました。 その反面、スポーツや芸術の分野で、世界に躍り出る若者も増えた。 野球の大谷選手が目立っていますが、クラシックやジャズといった音楽、バレエの世界でも、若者たちの台頭がスゴイことになっています。 なぜか? 詰め込み教育的な、余計な勉強を、幼い頃からしなくてもよくなったから、ですね。 たぶん、これからは、学問のような頭脳の分野でも、好きな勉強だけに邁進して来た若者が、優れた業績を示すようになるでしょう。 大部分が、いわば犠牲になり、平均値を下げたとしても、数少ない頭抜けた若者が出現することが、その成果なのです
=+=+=+=+= オリンピアに限らず、国スポにも似たことが言えます。本県は来年国スポの開催県ですが、体育科の採用では全国大会での入賞経験かつ、現在も競技を続けていれば、なぜか教職教養と模擬授業を免除、小論文が作文に変更という措置があり、陰で国スポ枠と揶揄されている。約20名の半数は国体枠で受かるらしく正攻法でチャレンジしてる知り合いが以前やりきれない気持ちを打ち明けてくれた。そしてマイナー競技部活でも競技経験のある教員が都合よく赴任してくる‥単純に体育の授業指導、学級指導に見込みのある順に採用して欲しいと思うが‥
=+=+=+=+= アスリートのセカンドキャリアを考えるのは確かに大事だが、 いきなり現場に放りこむのは違うと思う。 「オリンピック出場選手がセカンドキャリアのために 教育学部を志望する場合は学費の補助をする」 「地元の大学の教育学部に限り、現役ではないけど推薦入学の枠がもらえる」 とかなら理解できるんだけど。
=+=+=+=+= 退職高校化学科教員である。 珍しくもかなりまともな記事で、思わず読んでしまった。
文部官僚は現場で生徒を指導したこともなければ、 現場に降りてくることはないからなぁ。 派手なことをやって、自分はその後はどこかへ転勤、 あとは野となれ山となれ。 マスコミに言いたい放題叩かれて、不首尾の後始末は現場の担当。 何回同じことがあったんだろう。
選手として実績のある先生がいろいろご存じなのは知っている。 化学の教員が自分の経験と勉強で指導しているのとは相当違う。 選手の強化に長けた先生が、ゲーム中の指導で何を言っているか、 こっそり盗み聞きしていたこともある。 でも、「生徒がヘタクソに見えてしょうがないんだろうな」 と思わせる名選手監督もいる。 このトピの論旨もそういうことなのだろう。
結局目的は、名選手の再就職先の確保、 目立つことをして向こう受けを狙う。 生徒のためじゃないのはよくわかる。
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