( 233221 ) 2024/11/13 17:01:50 0 00 ささちかさんが一橋にこだわった理由とは(写真:mits / PIXTA)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて2分の1になっている現在。「浪人してでも、志望する大学に行きたい」という人が減っている一方で、浪人生活を経験したことで、人生が変わった人もいます。自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した濱井正吾さんが、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったこと・頑張れた理由などを追求していきます。今回は、1浪で岩手大学に進学するも、父親と予備校の担任を見返すために一橋大学の合格に人生を捧げ、学校の非常勤講師をしながら7浪で合格したささちかさんにお話を伺いました。
【写真】ドイツ語の参考書/現在のささちかさん
【東洋経済オンラインで2023年3月19日に公開した記事の再配信です】
みなさんは、大学の勉強が役に立たないと思ったことはありませんか。
「学生の学力は大学受験がピーク」と言われることもあるように、大学に入ってからはむしろ学力が衰退するイメージがあるかもしれません。
しかし、今回インタビューしたささちかさんは、1浪で進学した岩手大学の授業を受け続けて、その後の受験に通ずる確かな学力を身につけた後、7浪で一橋大学に合格しました。
■すべては一橋に合格するため猛勉強
岩手大学在学の際に取得した単位は245。これは一般的な大学の卒業要件単位が120程度であることを考えると、普通の学生の倍の勉強をしたことになります。これも、すべては一橋大学に合格するためでした。
何が彼を駆り立てたのか。なぜ、大学を一度卒業してまで一橋大学にこだわったのでしょうか。
1976年に中国地方に生まれたささちかさんは、生後1年半で岩手県に引っ越しました。岩手県での生活は、苦労が絶えなかったそうです。
「小学校から中学校にかけて、言葉遣いが普通の子と違うので”変わった子”として扱われました。だから、よくいじめのターゲットになりました」
「変わった子がいじめられる」環境を脱するため、ささちかさんは「学力水準が高いところに行けば、道徳的にまともな人がいる可能性が高いのではないか」と考え、猛勉強の末、岩手県内屈指の進学校に進みました。
実際、その考えは正しく、いじめられることは少なくなったと言います。
ただし、高校では定期試験で学年360番中200~300番がやっとだったというように、授業についていくのが非常に大変だったそうです。それでも、高校3年生のときには志望校を一橋大学に設定し、そのために毎日頑張って勉強をしていました。
「当時の私は知的好奇心が旺盛で、社会科学系のことが総合的に学べる経済学部にとても興味がありました。また、文系でも数学が好きだった私は、一橋ならば文系学部で中高の数学科の教員免許が取れるということに、妙な興味を抱いたのです」
文系最難関の1つでもある、一橋大学。そこで勉強する日々を夢みて、ささちかさんは受験勉強を続けました。しかし、模試の判定はつねに最下位(E判定)だったそうで、一橋には残念ながら現役での受験は落ちてしまいます。
「現役のセンター試験では800点満点で500点前半でした。前期試験で岩手大学を出願したのですが合格に至らず、行く大学がなかったので浪人を決断しました」
こうしてささちかさんは1浪を決意し、当時岩手県内に唯一存在した予備校に、実家から通う生活を送るようになりました。
■父からの残酷な一言
現役のときに成績を伸ばせなくて落ちてしまった理由を、彼は「学校を信用しすぎていた」と分析します。
「当時、学校で先生から課された膨大な量の課題を周囲が必死にこなしていたので、自分もそれをやれば大丈夫だと盲信していたのです」
受動的な勉強をやめ、主体的に勉強をするという意識はこの失敗で生まれたと言います。
実際、ささちかさんは1浪の1年間、毎日規則正しく授業に出て1日10時間勉強の生活を続けていました。
「高校のときの土台がここでようやく開花した」と語るように、夏の模試で英語と数学の偏差値が70を超え、初めて後ろから2番目の判定(D判定)をとれたと言います。
ついに憧れの一橋大学が見えてきたと、そう思ったところで父親から残酷な言葉をかけられました。
「『経済的に岩手大学以外行かせられない』と言われたのです。選択肢を探せばあったと思うのですが、父は思い込みが強い人なのでどうしようもありませんでした」
さらに完全に進学を諦める決定的な出来事が12月に起こります。予備校の担任の講師との三者面談がきっかけでした。
■許せなかった先生からの言葉
「『お前は一橋に行くには学力も努力も足りない』と言われて受験をやめさせられたんです。その言葉自体は受け止めないといけない部分もあったのですが、面談の終わりに『将来、お前が一橋に入っても、学生生活がつまんねーと思うぞ』と捨て台詞を吐かれたんです。それが許せませんでした。目指していた一橋大学を受けて落ちるのなら納得できます。でも、記念受験もさせてもらえなかったのが悔しくて、まったく納得できませんでした」
結局、この年は岩手大学に出願して合格します。センター試験の結果は72.5%(580/800点)。一橋大学は85%程度(680/800点)を取らないと合格が難しいため、厳しい数字ではあるものの、挑戦すらできずに1年の頑張りを試す機会を奪われてしまったことが、彼の人生に暗い影を落とすことになったのです。
「父親と担任のせいで一橋に行けなかったとずっと思っていたのです。だから、後悔を払拭するためにも将来必ず再受験しようと決めました。どうせ、大学を辞めさせてはもらえないから、受験のための勉強を4年間、大学でやろうと思ったのです」
岩手大学に入ってからのささちかさんは「ある程度高い偏差値まで伸ばせたところで、一橋レベルまで持っていくことに挫折を感じた」そうで、受験科目を英語から、得意だったドイツ語に変更します。
すべては一橋大学に受かるため。決意を固めた彼は、大学で勉強をし続けました。
「多くの人は大学に入ったら勉強に対するモチベーションがなくなります。でも、大学ってその道のプロがいっぱいいる場所なんです。だから私はドイツ語の言語学や社会の授業を熱心に聴き、授業後に大学教員を捕まえて添削をお願いしていました」
この主体的に勉強を進める様子は、かつての学校の課題を受動的にこなしていたささちか少年から劇的に変化していました。そして、その勉強への姿勢はまさに一橋大学が求めていることでもあったのです。
「一橋大学は難解な記述問題を課します。だから、大学生がやるような勉強を先取りして専門的な新書を読んだり、文章を書く練習をしたりする必要がありました。だから、大学で真面目に勉強することが、一橋大学の入試に全部つながると確信していたのです」
2年生のときには冬学期に1コマ90分の授業を週に19コマ受講していたそうで、4年生になると卒業要件単位の120の倍以上である245単位をとっていたそうです。
ささちかさんは岩手大学卒業までは再受験できるような環境にない、と判断し、5浪目となる岩手大学4年生のときに、4年ぶりにセンター試験を受けます。
しかし、自信を持って挑んだ試験では大失敗。1浪目より低い68%(544/800点)に終わり、一橋大学経済学部を出願するも第一段階選抜で不合格になってしまいました。
「このときは目の前が真っ暗になり、この先の人生をどうしようと思いました。一橋の二次に対応できる知識はつきつつありましたが、センター試験の対策まではできていなかったのです」
4年分の思いが水泡に帰してしまったささちかさん。しかし、この悔しさを忘れないため、彼はある行動を取ります。
「合格発表の日に一橋大学まで行きました。そこで喜ぶ周囲の人たちを目に焼き付けて、この悔しさを絶対に忘れないと思ったのです」
まだ、彼の目は闘志が宿っていました。
■大学時代の縁が一橋への道に
一橋受験に魂を燃やした4年間を過ごしたささちかさんは、試験後に慌てて就活をして神奈川の私立の中高一貫校に非常勤講師として採用が決まります。ここでの経験がさらに彼を奮い立たせました。
「社会科1つとっても満足に学生に勉強を教えられず、もっと勉強が必要だと痛感しました。それで一橋大学に行きたいと改めて強く思ったのです」
6浪の年にこう考えた彼は、1年間みっちり一橋対策をして臨もうと決めます。6浪目は月曜から土曜日のうち3日、7浪目は5日出勤するハードな日々の中で、オフの日をうまく使い、自分の稼いだお金で代々木ゼミナールの夏期講習・冬期講習・直前講習を受けました。
そして、さらに受験の追い風となる縁もありました。
「岩手大学にいたとき、教授のご厚意で上智大学の授業を見学する機会に恵まれたのですが、そこでつながったドイツ人の先生が、ドイツ語の作文の添削を引き受けてくださったのです。7浪目の二次試験の直前まで、オフの日に上智大学まで行って答案の添削を受けていました」
こうして1年かけて準備をし、7浪目のセンター試験に臨みます。結果は69%(552/800点)でE判定。しかし、その結果も彼にとっては想定内でした。
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