( 233434 )  2024/11/14 02:49:52  
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教育のマニュアル化と公教育の市場化が進み、学校がサービス業化される中で、教員たちが直面する問題が生じている。

現場では教員がサービス業のように扱われ、サービス業のようにお客様の言う通りにしなければならない難しさもあり、労働条件が改善される一方で、教員と生徒・保護者間の関係性が縛られる可能性も指摘されている。

教員の働き方、専門性、責任に焦点を当て、保護者、学校、地域、どのような環境でその役割を果たすべきか、再考する必要があるとしている。

(要約)

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※写真はイメージです(写真: hirokof / PIXTA) 

 

教育のマニュアル化と公教育の市場化が進んだ昨今。学校はサービス業化し、教員は「使い捨て労働者」との声もあがるほど、学校現場にはさまざまな問題があふれています。教育研究者の鈴木大裕氏が上梓した『崩壊する日本の公教育』から一部抜粋・再構成し、教員たちが直面する問題を解説します。 

 

【写真】『崩壊する日本の公教育』(鈴木大裕)では、日本の教育政策の問題を鋭く指摘する。 

 

■教員がサービス業のように扱われる 

 

 そもそも、私たちは今、学校の教員が「先生」でありにくい世の中を生きている。教員がサービス業のように扱われ、「お客様を教育しなければならない」という難解なジレンマを抱えている。そして、教師としての仕事を守るなら、このジレンマの解決につながらない「働き方改革」はあり得ない。 

 

 このジレンマが内包するのは、教員のサービス労働者としてのアイデンティティと、教育者としてのアイデンティティの衝突に他ならない。それは「現職教員審議会」を立ち上げ、教員の働き方改革に関する緊急記者会見を開いた現職教員のこんな声に象徴されている。 

 

 「皆さんにわかっていただきたいのは、僕たち教員というのは自分たちの生活や権利のことだけを訴えたいのではありません。教員として、目の前の生徒や日本の未来というものに責任を持ちたい」 

 

 「もう一度僕たち教員に、授業者としての誇りを取り戻させてもらいたい。……一人間として最低限度の生活を営むための時間やゆとりを与えてもらいたい」 

 

 今日の教員は、生徒や保護者に口では「先生」と呼ばれつつも、時にはサービス業の店員のように扱われ、サービス業のようにお客様の言う通りにすれば、「もっと先生らしく」と求められる。 

 

 このような状況で、教員が搾取の実態や労働者としての権利を主張すれば、確かに世間の同情は集まり、労働条件は改善するだろう。 

 

 しかし、だからといって教育者としての教員のニーズが満たされるわけではなく、「お客様を教育しなければならない」というジレンマの解決にはならない。 

 

 もっと言えば、教員が労働者としての権利を主張すればするほど、教員と生徒・保護者間の「労働者」―「お客様」という関係性の縛りは逆に強くなるだろう。 

 

 保護者から、「先生だいぶ楽になったんでしょ?」「給料もたくさんもらえるようになったんでしょ?」と言われるようになれば、これまで以上に教員が「先生」になれない社会になる可能性の方が高いだろう。 

 

 

■教員は何で勝負するのか 

 

 「じゃあ学校の先生たちはいったい何で勝負するんですか?」 

 

 22年前、野球部の外部指導者の方に言われたその言葉を、私は今でも鮮明に覚えている。 

 

 当時の私は教員1年目。バリバリの高校球児であった外部指導者の方が率いる野球部の顧問を任された。私自身も野球経験者で野球が大好きだったものの、その方の技術と知識は段違いに優れていた。 

 

 私が着任したときには、既に1年分の野球部の大会予定が決まっており、合間の土日には当然のように練習試合が組まれていった。 

 

 生徒といることに喜びを感じていたし、最初はそれでもよかった。しかし、プライベートの時間もなく、人に決められた予定に合わせて生活するのが、だんだんとしんどくなっていった。 

 

 部活に限らず、教員としての業務があまりにも多岐にわたっていたため、教材研究の時間も、1日1時間取るのがやっとだった。 

 

 そんな弱音を彼に漏らしたときに戻ってきたのが、その言葉だった。「じゃあ学校の先生たちはいったい何で勝負するんですか?」。 

 

 私は、何も言い返せない自分が嫌だった。野球の専門家であるシニアリーグの野球指導者や、授業を教えることに特化する塾講師の存在が脳裏をよぎり、学校教員の自分は全てが中途半端な気がした。 

 

 結局、私は勝負できる環境を自分でつくる他なかった。人としての生徒の成長に深く携わりたいと願った私は、1週間3回の英語の授業ではとうてい足りない、生徒との信頼関係構築の場を部活などの課外活動にも求めた。 

 

 生徒の下校時間までは極力生徒と過ごし、一人でできる事務作業は後回しにした。3年目には校長から野球部を一人で任され、あの外部指導者の方からいただいた言葉を思い出しつつ、指導者として成長できるよう精進した。 

 

 自分の師匠も見つけ、一から学び直す覚悟を決めた。たくさん叱られ、反省し、それでも師匠の技を盗もうとすればするほど、自分が目の前の子どもたちの「先生」に近づいていくのを感じた。 

 

 自分が「生徒」になったことで、初めて「先生」への道が開けた気がした。いつしか、私のそんな姿を見て保護者も団結し、私が頼むことには全面的に協力してくれるようになっていた。 

 

 同時に、英語の教材研究にも力を入れた。授業がつまらなければ生徒は耳を貸さなくなるし、生徒との信頼関係は築けない。生徒たちが私の英語の授業を楽しみにしているかどうか、それが自分にとって一つのバロメーターとなった。英語を通して、生徒たちの小さな世界が広がっていくことに魅力を感じた。 

 

 

 また、学年の生徒指導担当となって、やんちゃな生徒たちとも泥臭くかかわり、その後もずっと続く得がたい人間関係を手に入れた。学級経営にも力を注いだ。 

 

■教員の専門性は「子ども」にある 

 

 授業なのか部活なのかと、悩む時期もあったが、そうではなく、教員の専門性は子どもなのだと感じた。数学だけを専門的に教えたいなら、塾の講師になればいい。サッカーだけ教えたいなら、クラブチームの指導者になった方がいい。 

 

 学校の教員は、学校生活を通して子どもたちのさまざまな表情を見ることができる。ずっとそばにいる教員だからこそ見えてくる、一人ひとりの良さや課題がある。それぞれが持つ良さを見抜き、伸ばすことで、子どもの生きる力を育むのだ。 

 

 そうやって本気でかかわった子たちとは、一生の付き合いになる。教え子が進学し、生業を見つけ、家族を持ち、一人の人間として立派に成長し、次の世代にバトンをつないでいく姿を見守れることこそが教師の幸せなのではないだろうか。 

 

 だから教員は歯を食いしばって頑張れ、などと言いたいわけではない。経済協力開発機構(OECD)が2013年に発表した国際教員指導環境調査(TALIS2013)の結果を分析した妹尾昌俊は、「過労死ラインを超えるくらいの長時間労働をしている教師は、部活動も、授業準備も、校務分掌や学年事務、添削も熱心にやっており、もっと時間があれば授業準備や自己研鑽をもっとしたいと思っている傾向が強い」ことが示唆されていると述べている(『「先生が忙しすぎる」をあきらめない――半径3mからの本気の学校改善』教育開発研究所、2017年)。 

 

 私がそうだったように、過労死ラインを超えて頑張っている教員は、行政の十分な支援がないため、残業することで、自分が「先生」になれる環境を無理やりつくろうとしているのではないだろうか。 

 

■教員の仕事をとらえ直す必要がある 

 

 大人が子どもの心をつかみあぐねているこんな時代だからこそ、教員の仕事を、子どもの人としての成長を支援することとしてとらえ直す必要がある。 

 

 教員が「私たちの仕事を減らせ!」と労働者の権利を主張するのではなく、「私たちにちゃんと仕事をさせろ!」と「子どものプロ」としての義務と責任を追求した方が世論もついてくるだろう。 

 

 教員の現場裁量を保障すること、教員の数を増やして子ども一人ひとりと向き合う余裕を確保すること、自己研鑽するための休みを確保すること、生徒の成長と直接関係のない調査などの事務作業を外部委託もしくは撤廃すること、点数に依拠したPDCA(Plan, Do, Check, Action)サイクルを廃止すること……。 

 

 教員が教えに浸り、子どもの成長を促す環境づくりのために行政ができることはたくさんある。 

 

鈴木 大裕 :教育研究者 

 

 

 
 

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