( 234681 )  2024/12/17 17:44:24  
00

1969年2月1日、多摩川グラウンドでキャンプインした巨人の長嶋茂雄選手(左)と王貞治選手(写真:共同通信社) 

 

 2004年の「球界再編」から20年が経過した。いまさらながら「あの年に起こったこと」のインパクトは、日本野球史上で最大のものだったと思わざるを得ない。 

 

 「球界再編」の前後に起こった様々な改革によって、プロ野球のビジネスモデルは劇的に変わったのだ。テーマごとに、数回を費やして考えたい。 

 

 まずはNPB球団が「地域密着型のマーケティング」に真剣に取り組み始めたことについて。 

 

 これまで述べてきたように、日本のプロ野球は「巨人一強」「セ・リーグ優位」の時代が40年以上も続いていた。 

 

■ 「球団経営の赤字は親会社の広告宣伝費」という罠 

 

 この時代のビジネスモデルは、セ・リーグの場合「巨人戦の放映権を主たる収入源とし、あとは入場料収入、その他」だった。 

 

 パ・リーグは「主たる収入源は入場料収入、それ以外はないので親会社の補填恃み」だった。 

 

 このコラムでも何度か出したが、1954年、国税庁は「職業野球団に対して支出した広告宣伝費等の取扱について」という通達を出し、 

 

 一 親会社が、各事業年度において球団に対して支出した金銭のうち、広告宣伝費の性質を有すると認められる部分の金額は、これを支出した事業年度の損金に算入するものとすること。 

 

 二 親会社が、球団の当該事業年度において生じた欠損金(野球事業から生じた欠損金に限る)を補てんするため支出した金銭は、球団の当該事業年度において生じた欠損金を限度として、当分のうち特に弊害のない限り、一の「広告宣伝費の性質を有するもの」として取り扱うものとすること。(以下略) 

 

 と定めた。これによって親会社が球団に対して行う「損失補填」は、広告費扱いとなり、節税対策になった。 

 

 筆者はこれが今に至るNPB球団の「自立できない体質」の根源だと思うが、これによってプロ野球球団の多くは、毎年のように赤字決算でありながら存続することができたのだ。 

 

 

 しかし、球団側の営業努力も十分とは言えなかった。 

 

 ロッテオリオンズが、千葉市にできた千葉マリンスタジアムを本拠として「千葉ロッテマリーンズ」と名前を変えたのは1991年のことだが、当初、観客動員は伸び悩んだ。当時を知る元球団職員は 

 

 「最寄りのJR海浜幕張駅で毎日、無料のチケットを配ったが、受け取ってもらえないことが多かった。地元の人はタダでも野球を観なかった」 

 

 と語る。 

 

■ 「観客なんて来るわけない」が当時の球団経営者の感覚 

 

 筆者は1980年代後半、南海ホークスの本拠地、大阪球場に通い詰めていたが、入場口の横には無料招待券が山積みされていた。係員は、近所に住む子供に招待券を渡して「誰でもいいから連れて来てくれ」と言っていた。 

 

 南海ホークスが福岡に移転したのは1988年のことだった。本拠地の大阪球場は10年後に取り壊され、その跡地には「なんばパークス」という商業施設が建った。 

 

 このあとで、南海電鉄の関係者に話を聞く機会があったが「南海ホークスがあったころの大阪球場は、年に100万人も動員できなかった。でも『なんばパークス』は2000万人も来場する。プロ野球を手放してよかった」と語っていた。 

 

 要するに、当時のプロ野球経営者は「お客なんて来るわけがない」と思い込んでいたのだ。当時から各球団が「ファンクラブ」のようなものを持ってはいたが、それはごく少数の「贔屓筋」へのサービスに過ぎず、ファンクラブを集客の核にするような発想はなかった。 

 

■ 千葉ロッテが起こした「革命」 

 

 そこに新たな風を吹き込んだのが、千葉ロッテマリーンズだった。前述のように、1991年、千葉マリンスタジアムに移転したころは、周辺住民でさえ行きたがらないような球団だったが、1995年から監督に就任したボビー・バレンタインは、チームの強化だけでなくMLB流のファンサービスの導入にも尽力した。 

 

 ユニフォームをシャープなデザインのものに一新した。またファンの応援を、高校野球の応援のような「鳴り物中心」から、サッカーのような手拍子、掛け声のスタイルに変えたのもこのころからだ。 

 

 1998年、ロッテはNPB記録の18連敗を記録した。昔のファンであれば、モノを投げ込んだり、罵声怒声を浴びせかけたり、ファンはチームを激しく非難しただろうが、この時のロッテファンはチームを励まし続けた。「マリーンズ、俺たちがついている」という横断幕は、全国に深い感銘を与えた。 

 

 この時期から、プロ野球のファンは変貌し始めたと言ってよい。 

 

 2004年の「球界再編」を機に、千葉ロッテはファンサービスの抜本的な改革に取り組んだ。 

 

 当時の事業部門の責任者は筆者に、 

 

 「目標としたのは、新規顧客の獲得とそのリピーター化でした。そのために二つのコンテンツを用意しました。 

 

 一つは、野球にあまり関心がない人に球場に来てもらうためのコンテンツ。例えば有名歌手のミニコンサートだとか、地方の物産展だとか、内容は野球でなくてもいいんです。むしろ野球から離れた方がいい、そういうイベントで野球に関係のないお客に来てもらう。 

 

 そして二つ目はそうして来た、あまり野球に関心がないお客を野球ファン、リピーターにするためのコンテンツ。千葉ロッテの場合、それが『応援団』だったのです。あの情熱的な応援を見聞きしたお客が、私たちもああいう応援をしたい、と思ってファンクラブに入る。そういう形で顧客を増やしたのです」 

 

 と語った。 

 

 

 技術的には、千葉ロッテは、ファンクラブの拡大、獲得のためにカスタマー・リレーションシップ・マネジメント(CRM)というシステムを導入した。 

 

 CRMは当初、金融機関が顧客を獲得、維持するために導入されたが、その核心は顧客を個人レベルで管理し、適切に情報発信して行動を促すというものだった。 

 

 千葉ロッテの公式ファンクラブ「TEAM26」の会員は、スタジアム来場時や飲食・グッズ購入時に「Mポイント」を貯め、それをチケットやグッズとの交換に利用することができるようにした。球団側は、このシステムを導入することで個々の顧客の購買頻度や購買パターンを把握することができるようになった。 

 

 これによって顧客が観戦した試合の勝敗、誕生日の顧客への特別サービスの告知、顧客が好きな選手の情報なども個別で発信、きわめて緻密なマーケティングが可能になった。 

 

 これが可能だったのは、21世紀以降、スマートフォンが急速に普及し、多くの顧客と球団が、媒体を介さずに直接つながることができるようになったことが大きい。 

 

■ ホークスが成功させた「地域密着マーケティング」 

 

 もう一つ、忘れてはならないのは、ダイエー、ソフトバンク「ホークス」の地域密着マーケティングだ。 

 

 前述のように1989年、南海電鉄は、南海ホークスをダイエーグループに売却。ダイエーは本拠地を大阪から福岡へと移転させた。 

 

 福岡ダイエーホークスは、グループの「福岡3点事業」(福岡ダイエーホークス、福岡ドーム、ホークスタウン)の中核をなす事業だった。 

 

 ホークスは根本陸夫監督の下で有力選手を獲得し、チームを強化していった。根本陸夫は王貞治を監督に招聘することで、盤石の体制を作った。 

 

 一方、事業面ではリクルート出身の高塚猛氏(故人)が、地元九州に徹底的に密着したマーケティングを展開した。高塚氏は福岡ダイエーホークスのロゴマーク、キャラクターなどの使用料を無償にした。本来、ライセンスビジネスはプロ野球のような人気商売では大きな収入源になるが、これをあえてライセンスフリーにした。これは極めて大胆な施策だったが、これによって「ホークス」のロゴ、キャラクターは本拠地を中心に一気に拡散した(現在のホークスはライセンスフリーではない)。 

 

 さらに「九州のホークス」を大々的にアピールした。従来、福岡県は「西鉄ライオンズ」のフランチャイズであり、ライオンズ色が残っていたが、高塚氏はこれを払しょくしただけでなく「福岡のホークス」を「九州全域のホークス」へと拡大させた。熊本出身の松中信彦、長崎出身の城島健司、福岡出身の柴原洋、鹿児島出身の川﨑宗則など九州出身のスター選手の登場もあって「九州のホークス」のイメージは急速に広がった。 

 

 従来のプロ野球もフランチャイズ制を敷き、特定の都道府県を「保護地域」として独占的にビジネスを行っていたが、それは徹底的なエリアマーケティングではなく他球団を排除するためのものだった。しかしホークスは、スーパーマーケットビジネスで鍛えたマーケティング力で、九州全域に支持を広げていったのだ。 

 

 ダイエーは2004年に経営破綻し、ソフトバンクが経営を引き継いだが、ソフトバンクは九州エリア全域をマーケットとする戦略をさらに強化した。 

 

 多くのNPB球団が春季キャンプを温暖な沖縄県に移転する中、ホークスは今も宮崎市でキャンプを続けている。「九州のホークス」を印象付けるためだ。またこの春季キャンプでは、メイングラウンドの一部を指定席にしているが、これは自由席にすると地元宮崎市民が席を独占してしまうからだ。九州の他県から来る人の分の席を確保するため指定席を販売しているのだ(指定席代金は、地元物産品などですべて還元している)。こうしたきめ細かな配慮で、今やホークスは九州で圧倒的な支持を得ている。 

 

■ ホークスの成功を手本に 

 

 このホークスの成功を目にしたことで、2003年、日本ハムファイターズは巨人と共有していた東京ドームを離れて札幌ドームに本拠を移し、北海道の地で再生を試みたのだ。 

 

 札幌ドームを本拠としたファイターズは、北海道各地で公式戦を行うなどして「道民のファイターズ」をアピールしてきた。 

 

 現在、公式戦は北広島市のエスコンフィールドHOKKAIDOだけで行っているが、地域住民を招待した「○○町民デー」のようなイベントを頻繁に行っている。 

 

 こうした新たな動きは、ロッテ、ダイエー(ソフトバンク)、日本ハムと、すべてパ・リーグ球団から起こったことに注目すべきだろう。「巨人一強」の恩恵を元々受けていないパ・リーグ球団に、優秀な経営者が登場し「球界再編」を機に、彼らのビジネスが花開いたのだ。 

 

 こうした地域密着型、リピーター獲得型のビジネスが、12球団に広がったのは言うまでもないことである。 

 

広尾 晃 

 

 

 
 

IMAGE