( 237766 ) 2024/12/22 17:11:57 0 00 ※写真はイメージです(写真: Jake Images / PIXTA)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 今回は、1浪して中央大学商学部に入学。卒業してから地元の静岡県の銀行で4年間勤務したあと、2浪して私立大学医学部に合格したMJさん(仮名)にお話を伺いました。
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■27歳から2浪で医学部合格
今回お話を聞いたMJさん(仮名)は、27歳から2浪して、私立大学の医学部に合格しました。
1浪して中央大学の文系学部に入学したMJさんは、地元の銀行で4年間のサラリーマン生活を送ります。
世間で「王道」とされるルートを通ってきた彼ですが、27歳のときに医学部に行くことを決意し、浪人生活を始めました。
彼を医学部再受験に駆り立てたものはなんだったのか。そして、彼の浪人生活を支えた「力の源」とは。文系からの「医学部受験」のリアルに迫っていきます。
MJさんは、静岡県浜松市に3兄弟の長男として生まれ育ちました。父親はサラリーマンで、母親はパートとして働いていました。
MJさんは母の勧めで小学校受験をして、国立の小中一貫校である静岡大学の附属小学校に進学しました。
「両親は私が小学生のときにお絵描き・英会話・ピアノ・水泳・剣道など、さまざまな習い事をさせてくれました。そのおかげで小学生のころには、多くの経験ができました」
小学校時代の成績は5段階評価で全科目3程度。勉強はほどほどに友達と毎日ゲームをしたりして過ごしていました。やや人見知りなごく普通の小学生だったと当時を振り返るMJさんは、小学校時代のある出来事がきっかけで医者を目指し始めます。
「小学2年生のときに卵を食べたら、食中毒になってしまったんです。2週間くらい入院していたのですが、そのときの担当医がとても優しい方で、私の中で記憶に残りました。また、将来は医者になりたいと考える同級生が多かったこともあり、漠然と医者に憧れを抱くようになりました」
小学校の卒業文集では、「医者になりたい」とはっきり書いたというMJさん。しかし中学に上がってからはソフトテニス部に入って部活動に力を入れていたこともあり、成績は120人中90番前後をうろうろしていて、あまりよくはありませんでした。
「学年全体の120人のうち、上位60人は、一般受験で静岡有数の進学校である浜松北高校に合格していました。私も浜松北高にずっと行きたいと思っていたので、60番以内に入ることを目標に勉強しました。
しかし、中学3年生の夏までは部活メインだったので、通っていた塾の宿題だけをこなしている状況でした。部活を引退してからは、学校が終わってからも3時間は自主的に勉強していたのですが、中学3年生の冬までに思うように学力が上がらなかったこともあり、浜松北高校を諦め、磐田南高校を受験して進学しました」
■医者になりたい夢はすっかり忘れる
磐田南高等学校に入ったMJさんは、バドミントン部に入ります。部活でできた友達と、一緒に遊んで楽しい高校生活を送っていましたが、成績はどんどん下がっていき、下のほうで安定していました。
「高校生活は楽しかったですね。ただ、部活ばかりしていたせいで勉強が後回しになりました。高校2年生に上がる際に文系・理系の選択があったのですが、高校1年生の1学期の化学の定期テストで赤点を取ったこともあり、理系ではなく文系を選択することにしました。このころには、医者になりたいという夢はすっかり忘れていました」
親から国公立大学に行ってほしいとは言われていたものの、将来の夢もなく、進路もぼんやりしていたMJさん。それでも、高校3年生の夏に部活を引退してからは、夏休みに10時間ほどの勉強時間を確保して、受験勉強に励んでいました。しかし、残念ながら成績は上がりませんでした。
「全統模試の偏差値は高校1年生・2年生のときと同じくらいか、やや上がっているくらいで、50を少し超える程度でした。現役で受けたセンター試験は58%しかなくて、名古屋市立大学経済学部の前期試験と後期試験、南山大学の経済学部を受けてすべて落ちてしまいました。でも、同じ部活の同級生のうち、私を含めて11人中7人が浪人をすると言っていたので、周囲がするならいいかと思って、ノリで浪人を決断しました」
浪人を決意したMJさんは、代々木ゼミナールの国立文系コースに入りましたが、最初のほうはあまり勉強しておらず、夏までは16時ごろに授業が終わってからアルバイトをする生活をしていました。
「アルバイトを辞めてからは多少勉強するようになりましたが、ゼロだった自習時間が2時間くらいになっただけで、授業時間も含めて10時間もしていないと思います。お腹がすいたら家に帰るという感じでした」
中学2年生からお小遣い帳をつけ続けていたこともあり、お金への関心があったMJさんは、経済系・経営系の学部を志望して受験勉強をしていましたが、この年も現役のときよりは成績は上がったものの、偏差値60には届きませんでした。
■中央大に進学、サークルとバイトで充実の日々
横浜国立大学の経営学部や、広島大学の経済学部を狙うものの、センター試験では65%止まり。前期試験で信州大学経済学部に出願し、併願で明治大学経営学部、中央大学商学部、法政大学経済学部、日本大学経済学部を受験したこの年は、中央大学・法政大学・日本大学に合格し、無事1浪で中央大学への進学を決めました。
「中央大学では、楽しい大学生活を過ごしました。オールラウンドサークルに入り、友達とお酒を飲むか、アルバイトをするかの4年間でした」
就職活動では地元の企業3社のみを受け、唯一内定をもらった銀行で働くことを決めます。MJさんは、ギリギリの単位でなんとか4年間で中央大学を卒業し、静岡で新卒社会人としての生活を始めました。
しかし、MJさんの真の浪人生活はここからスタートすることを、彼自身もまだ想像すらしていませんでした。
4年間、サラリーマンとしてさまざまな住宅会社や不動産屋に飛び込み営業をし続けたMJさん。1年目は成績が上がらずつらかったそうですが、2年目からは成績も上昇し、だんだんと仕事が楽しくなっていきました。
2年目以降は仕事を辞めたいとは思わなかったと当時を振り返るMJさん。ですが、4年目の夏ごろに仕事を辞めることを考えるようになります。その理由を聞くと、「仕事量が増えすぎたこと」だと答えてくれました。
「年次を重ねるにつれてかなり忙しくなってきたころ、仕事に作業感が出てきたと感じていました。ふと自分のやりたかったことを考えてみたら、小さいころは医者になりたかったなぁ……と思い出したんです。同じ時期に放送されていたドラマ『ナイト・ドクター』を観て医者への憧れが再び湧いてきました」
仕事で持病が原因で住宅ローンが貸せないお客さんと会ったこともあり、健康でいることの重要性に改めて気づいて、医療を身近に感じていたMJさん。
いろんな原因が重なって、彼は医学部を目指して再受験を決断しますが、もっとも大きな理由は、「全力で何かをやりきった経験がほしかった」ためだそうです。
「思えば、私は結構周囲に合わせてノリで生きてきたので、それがコンプレックスでした。周りの同級生は勉強をすごく頑張って第1志望の大学に行ったり、部活を真剣に頑張って全国大会に行ったりしているのに、私は何にも真剣に取り組めていませんでした。
27歳になって結婚も考える時期でしたが、いざ自分に子どもができても、子どもに何かを言えるほど全力でやってきたことがないと思いました。20代のうちに1個くらい全力で何かをやってみたいと考えたとき、医学部受験しかないと思い、もう一度浪人をしようと決意しました」
■校舎長から言われた屈辱的な言葉
こうして会社員4年目が終わる3月末に会社を辞めて、27歳の4月から地元の大手予備校に入って医学部を目指し、浪人を始めたMJさん。
そこで電話で校舎に問い合わせたときに言われた屈辱的な言葉も、さらに彼のやる気を駆り立てたそうです。
「予備校に電話で入塾したい経緯や経歴を伝えたのですが、当時の校舎長から、『君じゃ無理だよ』と言われたんです。『僕が(医学部の再受験で)受かった事例を見たのは、文系学部の出身だと東大・京大出身者だけで、MARCH(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)から入った人は見たことがない』と。それが頭に来たので、どうしても見返してやろうと思って、その予備校の医学部コースに入ったんです」
27歳で予備校に入ったMJさんは、国語が苦手なこともあり、英語・数学・物理・化学の4科目に絞った私立医学部受験にターゲットを絞ります。受験生活は幸い、社会人時代の生活リズムと変わらないこともあって、スムーズに勉強を開始できたそうです。
「朝6時に起きて1時間勉強して、予備校に行く準備をして、8時半に予備校に行って、20時まで勉強していました。その後、家に帰ってご飯を食べてから24時に寝るまで勉強していたので、平均で11時間は勉強したと思います。受験直前期は12時間以上の勉強をこなしました」
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