( 238781 ) 2024/12/24 17:13:05 0 00 青春18きっぷ(画像:写真AC)
かつて、“自由の象徴”ともいえる切符があった。それが「青春18きっぷ」だ。
この切符を手にした若者たちの顔に浮かぶのは、何物にも代えがたい興奮と期待の表情であったに違いない。背中に背負った旅行鞄、足元に広がる無限の可能性――。あの頃の記憶は、今もなお心のなかで鮮やかに輝いている。
あの頃の青春18きっぷの象徴性は何か特別なものを持っていた。それは、単なる移動手段以上のものであり、若者たちの心を満たす冒険の切符であった。
しかし、あれから年月は流れ、世界は変わった。かつて無限の可能性を約束したその切符が、今となっては、過去の遺物のように感じられることが少なくない。
鉄道の風景もまた変化し、私たちの移動に対する感覚は変わった。青春18きっぷは、その名前の通り、もはや「青春」という時代を象徴するものではなくなったのかもしれない。
改変されたルールでは、連続して3日間または5日間だけ利用でき、利用人数もひとりに制限されるようになった。
青春18きっぷ(画像:写真AC)
それでは、なぜ今、青春18きっぷは廃止されたほうがよいのか。
それを考えるとき、まず思い浮かべるのは、あの切符が持っていた
「自由」
という価値である。若者が旅をすること、それが持つ意味は大きかった。だが、現代の社会は、もはやその自由だけで成り立っているわけではない。いや、自由そのものに対する価値観が変わったというべきか。
かつての自由な移動は、今ではときとして無駄に感じられることもある。私たちは、自由の名の下に、効率性や迅速さを求めるようになり、鉄道の使い方も、かつてのような奔放なものではなくなった。
たとえば、鉄道というインフラの運営において、今や効率化が最重要課題となっている。地方路線が次々と廃止され、ダイヤの見直しが行われ、鉄道会社の生き残り戦略として、より効率的で採算が取れる路線への注力が進んでいる。旅の自由という価値が、企業活動としては成り立たなくなってきたのだ。
これを見過ごしてしまっては、未来の鉄道がますます無駄なものになっていくばかりだろう。旅の自由が、無駄であり、無駄を許さない社会では通用しなくなったということだ。
青春18きっぷ(画像:写真AC)
それでも、自由という価値が失われたわけではない。
人々が求める自由の形は、かつてのように駅から駅へと自分の足で歩き、見知らぬ町に立ち寄るというようなものではなくなった。今求められている自由は、むしろ、より迅速で、効率的で、定められた時間内で達成できる自由だ。
時代が進むにつれて、自由という概念自体が変化しているのだ。自由な旅を楽しみたいと思う気持ちは依然として存在しているが、それをどのように実現するか、その方法が変わったのだ。昔ながらの青春18きっぷの枠組みでは、その自由を十分に提供できなくなったのである。
さらに考えなくてはならないのは、鉄道会社の立場だ。もはや若者たちに過剰なサービスを提供する時代ではない。経済的な観点から見ると、鉄道会社にとって、無償または低価格で提供される切符の維持は負担となり、他の競争力を高めるための資源が失われてしまう。それは、結局のところ鉄道全体の運営にも影響を及ぼすことになる。
旅行という名の自由が、鉄道というインフラにかかるコストや効率を軽視したものとして存在することに、もはや無理があるのだ。
青春18きっぷ(画像:写真AC)
しかし、青春18きっぷを廃止することで、若者たちがその自由を失うわけではない。むしろ、別の形でその自由を実現する手段を模索することが今後の課題だろう。
現代の移動手段は、鉄道に限らず、バスや高速道路、さらには自転車など、さまざまな選択肢が存在する。鉄道だけが唯一の選択肢ではない。新たな移動の形を提供することで、むしろ若者たちはより柔軟で多様な自由を手に入れることができるのではないだろうか。
そして、社会全体の視点から見ると、青春18きっぷを廃止することは、次のステップへ進むための布石となるかもしれない。無駄を省き、効率を高め、持続可能な社会を作るためには、古き良きものにしがみつくのではなく、新しいものに目を向けなければならない。切符が持つ
「青春」
の象徴性が過去の遺物となり、今は次世代の移動手段が求められる時代なのだ。もちろん、廃止された青春18きっぷに対して
「感情的な反発」
はあるだろう。多くの人々が思い出とともにその切符に心を寄せてきたのだ。それは、ある意味で日本の鉄道文化を支えてきた象徴であり、その存在感は無視できない。
しかし、物事には始まりがあり、終わりがある。どんなに愛され続けても、時にはその役割を終え、新たな形に生まれ変わる時が来る。それが今なのではないだろうか。
ローカル線(画像:写真AC)
廃止の決断は一見冷徹に見えるかもしれないが、その先に新たな可能性を切り開くための一歩が待っているのだ。
青春18きっぷという過去の遺産を手放すことは、必ずしも失うことではない。それは、未来に向けた新しい扉を開くための前進であるのだ。
時代は無情に進み、過ぎ去ったものは二度と戻らない。しかし、残されたものは、次の時代を生きるための力となる。その力を、私たちは未来へとつなげていかなければならない。
青春18きっぷは、もはやその存在意義を問われるときが来た。今その役目を終え、次の時代へと移行するべき時なのかもしれない。それを受け入れることで、新たな価値が生まれるだろう。それが、進化の過程であり、次のステージを見据えた選択なのではないか。
作田秋介(フリーライター)
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