( 239738 ) 2024/12/26 15:28:29 2 00 「体育を恨んでいる人がいるなんて知らなかった」“運動が得意な人”の素の発言がXで話題に…運動嫌いを量産する学校の体育の問題点とは?集英社オンライン 12/26(木) 11:02 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/c764b36d7632d1c59954d0dcf1c5a52820409fda |
( 239741 ) 2024/12/26 15:28:29 0 00 体育の授業が嫌な思い出になっている人も……
運動が得意な人は、体育の授業を恨んでいる人がいることを知らない――そんなXの投稿が話題になっている。Xではその鈍感さに驚く声とともに、運動が苦手な人の体育への「恨み」が噴出。なぜ体育の授業は、こんなにも運動嫌いを量産してしまうのだろうか。
Xで「体育の授業」に関する投稿が話題になっている。
〈ツイッターやってて特に衝撃的だった事件のひとつに、市民がスポーツする場をつくるNPOの人が「ツイッターやるまでは学校の体育を恨んでいる人がいるなんて知らなかった」と「目から鱗」になってたこと。その人は体育がいちばん楽しかったから、と。体育へ寄せられる恨み言の数々に呆然とされていた。〉
この投稿は3356万インプレッション、10万いいねなど大きな反響を呼んだ。
この投稿に対し、〈本当に苦痛でした〉〈体育は苦手だった、それと同時に体育が得意な連中が苦手だった〉など“体育嫌い”のコメントが多数寄せられるとともに、〈気づかないもんなんですね〉〈あまりにも鈍感〉〈体育が嫌いな同級生のことは目に入っていなかったのか……〉という驚きのコメントも寄せられた。
ちなみに元陸上選手で世界陸上銅メダリストの為末大氏も過去に、こんなポストをしている。
〈スポーツを離れて社会に出て良かったのは、スポーツを嫌っている人や、憎んでいる人、やっていたけど傷ついている人がこんなにいたのかと気付かされた事です。(中略)これまでのスポーツ体験でひどい思いをして距離を置いたそんなに小さくない集団が「スポーツ最高」と言っている私たちを冷ややかに見ていることはきちんと理解する必要があると思います〉
全員ではないにせよ、運動が得意な人が「体育やスポーツを憎んでいる人がいる」ことを認識していないというのは、どうも本当のようである。
それではなぜ、体育の授業のせいで、運動嫌いが生まれてしまうのだろうか。
Xでは次のような理由が投稿されていた。
〈周りから笑われた〉
〈つらかったのは、誰かと比べられて差別を受けること、チーム分けなどでお荷物として扱われることでした〉
〈チームプレーの競技でみんなの足引っ張るのも辛かった〉
今回話題となった投稿には、体育の授業でチームスポーツをやった際にミスをしてしまい、冷ややかな視線を浴びせられたり、笑われたりといったつらい経験を語るリプライが続出した。
しかし、体育の授業が運動嫌いの人を量産する仕組みは、本当に「運動が得意な人」からの嘲笑や差別だけなのだろうか。
体育の授業についていけない子どもに運動を教える『運動が苦手な子の教室』を運営する、NPO法人スマイルクラブの代表・大浜あつ子さんは、「体育の授業システムや教師にも問題がある」と指摘する。
「体育の授業の場合、約30人の生徒に対して先生1人が見るわけですよね。例えば鉄棒だとしたら、複数人の生徒が鉄棒につかまって、『はい、スタート』でそれぞれ始めます。できる子はどんどんやる一方で、できない子は鉄棒を持ったまま。ひとりひとりを見る時間もなく、そのまま『はい、終了』となってしまう。そういう授業になっているんですよね」(大浜さん、以下同)
1対多数で教える授業では、丁寧に教えることができないうえ、構造的に「さらし者」を生むような授業になってしまうようだ。 筆者も運動が苦手で、体育の“居残り組”だった。鉄棒や跳び箱など、できた人から解放されていく中で、できない人は見せしめのように何度もやらされる……苦い思い出である。
Xでも「さらし者」になって辛かったという声が多く、こういった授業も体育・運動嫌いを生む要因のひとつのようだ。
さらに、教える教師のマインドにも問題があるという。
「私も体育教師をやっていたのですが、私自身は体育やスポーツが好きなので、見ればだいたい分かるしできちゃうんですよね。自分ができる人は『なんでできないんだろう?』と純粋に思い、そのまま言葉に出てしまうこともあると思います……。これこそが、いちばんダメなことなんです」
確かにどうやって良いのかわからないのに、教師から「なぜできないんだ」という言葉を投げられたら、体育や運動を嫌いになってしまうだろう。
「教員を目指しているときに、『体育嫌いは、体育の先生がつくる』という言葉を聞いて、しっかり胸に刻んだつもりでいたんですけど、いま思うと反省することが多いですね。教え方やコーチングを勉強してきたとはいえ、どう体を動かしたらいいかわからない生徒がいることまで当時は考えられなかったというのが本音です」
ここでも「運動が得意な人は体育が苦手な人の存在を想像できない」という問題があった。 自分ができてしまうだけに、できない子に対してどう指導していいか分からない教師も多いのだろう。
では、一体どんな体育の授業が理想だろうか?
「小学校では、マット運動や鉄棒、陸上などで自分の体の動かし方を知り、球技ではボールをつく、投げる、受け止めるといった動作などの基本を学ぶ。このあたりを『できる』『できない』で分けず、楽しくやれる仕組みがベースにあるといいですよね。そのうえで、中学生、高校生になって、ルールのあるスポーツや陸上競技などに広げていくようなイメージです」
確かに、今の体育の授業は、運動ができないことは気づかせてくれるけど、どうやったらできるようになるかは教えてくれない印象だ。
体の動かし方やボールの扱いなど基本をもっとしっかりやれていたら、体育を好きになったかもしれない……。いや、それでも体育は嫌いなままな気もするが、大浜さんはみんなに体育や運動を好きになってほしいと考えているのだろうか?
「そうですね。運動は健康のもとですし、子どもはとくに運動することで身体がつくられていきますから。学校の体育の授業も大切な基礎づくりです。体育が嫌いだからやらなくなってしまうのではなく、運動が苦手でも楽しく身体を動かせる環境があるといいと思います」
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班 サムネイル写真/shutterstock
集英社オンライン編集部ニュース班
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( 239740 ) 2024/12/26 15:28:29 1 00 この記事には、体育や運動に対する嫌悪感や苦手意識、そしてそれに対するさまざまな経験や意見が多く寄せられています。
一部のコメントでは、体育が苦手なだけでなく体育の授業や部活動に対する価値観や人格形成への影響についても言及されています。
「体育嫌いは教師の影響も大きい」「体育の授業内容に工夫が必要」など、子供時代の体育経験を振り返りながら、個々の立場や経験に基づいた意見が多く見られます。
(まとめ) | ( 239742 ) 2024/12/26 15:28:29 0 00 =+=+=+=+=
私も運動音痴です。昭和の時代だった小学生の頃は、縄跳びでも鉄棒でも出来るまで先生に叩かれ殴られながらやらされていました。自分だけではなかったので、恨むというまでは行きませんが、叩かれるのがわかっている時はできない子は嫌になりますよね。 わが子は小学1年ですが、親譲りの運動音痴です。学年でトップクラスの運動音痴だそうです。それが原因で、いじめに遭わないか心配になります。親として申し訳ないなと想う。 今の教育には運動以外でも光るところを伸ばしてもらって、スポーツを嫌いにならない様な取り組みを期待します。
▲435 ▼21
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学校の授業にも限界がある。目的としては運動を通じて健康的な体づくりを目指すものだと思うが、生涯にわたって運動が必要な昨今においては運動嫌いになるのは避けなければいけないというのは理解できる。しかし、100%拾い上げるのは難しい現状もあると思う。 先生方はかなりご苦労されている中で、声の大きい人に影響されるのではなく、目の前の子供たちに注力していってほしい。
▲6 ▼5
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体育の先生が全員、できない子の気持ちがわからないというわけではないと思いたい。
嫌な先生もたくさんいたけど、水泳で「〇〇のフォームはお手本レベルだぞ」とみんなの前で褒めてくれたり、持久走で後ろの方の子に「大丈夫、いいペースだよ、しっかり鼻で呼吸して」と声をかけてくれた先生、できない子をクスクスと嗤う子を厳しく叱り飛ばしてくれた先生もいた。
私の子が世話になっている体育の家庭教師の先生も、すごく細かいところに気づいてくれる。私が「その程度で?」と思ってしまう部分でも、少しでも良くなったことは必ず見つけてくれる。
そういうことをするには、習熟度別や少人数指導が必要なのかなと思う。
▲152 ▼16
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私は小中学校の音楽の授業が苦手で大人になっても純粋に音楽を楽しめるようになるまで随分と時間を要しました。 音楽担当の教員は大きな声で歌うことは楽しく素晴らしいことと信じて疑わず、無邪気に目をキラキラさせて子供たちに強要していました。人前で大声を出すことが苦手だった自分にとっては虐待以外のなにものでもなく、テストと称して一人ずつ歌わされるときは本当に酷い腹痛になりました。 体育や芸術系の科目はより各児童の特性にあった指導がなされるようにカリキュラムを工夫してもらいたいものです。
▲334 ▼20
=+=+=+=+=
この記事で初めて知りました… たしかに苦手なものをやらされたらそりゃ嫌いになるか… そう考えるとアスリートを妬むようなコメントを書いたりする人がいるのも理解できる。
ただ私が子供の頃、少年野球チームに入っていたんですが、そこにもかなりの運動音痴な子がいました。 だけど彼は周りに応援されるような子でもあって最後まで少年野球は続けていた。 結局彼はレギュラーは取れなかったけど、一生懸命にやっていた子だったなぁとこの記事を見てちょっと思い出しました。 ただの運動音痴だから嫌いになるってだけじゃなく、環境やその人の人柄なんかもあるんじゃないのかなぁ。
▲4 ▼10
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スポーツ苦手で勉強得意でしたが、子供は勉強嫌いでスポーツが好きなはずだという圧力で、勉強ができることを罪のように感じていました。
大学院の時に友達が勉強がわからなくて辛い、勉強できない子は小学校の低学年からこんな目にあってたなんて気づかなかった、こんな目にあったら非行にも走りたくなる、こんな目にあっても真面目だった子は本当に人間性がすばらしかったんだな、と言ってました。私も同じように思いました。
スポーツも勉強も好き嫌いあるので、できなくても責められないで、みんなを認めれる世の中になるといいですね。
▲303 ▼11
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「不平・不満報告会」のような記事の意図が不明だ。「分からない」で済めばよいが、問題の本質逸らしとなっている記事内容は甚だ遺憾だ。日本型教育課程の功罪の罪の方が「体育を憎む」という言葉に込められていることを表面的になぞるだけでなく、改善策につながる報道を望みたい。子どもたちがかけがえのない成長の日々を現在進行で取り組んでいる学習活動なのだから。
▲21 ▼22
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授業内容以前にまずブルマが嫌で嫌で。しかも、隣のクラス担当の女性教師は上のシャツの裾を出してなるべくブルマを隠すのを許可しているのに、自分のクラス担当の男性教師はかならずシャツはブルマにインするよう強制。今思えばセクハラというか、下心を疑う。 あと、先生も運動できない子を馬鹿にしていて、できる子を贔屓していて、それも体育嫌いに拍車をかけた。 ただ、嫌な先生ばかりではなく、中学3年の時の先生は、みんなをきちんと見ていた。課題をすぐこなして端っこでサボっている子たちには次の課題を与え、出来ない子たちには出来ないなりにここまで足が上がったら合格あげるからがんばろうね、と能力に合わせて合格ラインを下げてくれた。こんな先生ばかりだったら、運動苦手な子ももうちょっと良い思い出になったのにと思う。
▲108 ▼3
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一時期、「好きなスポーツを頑張って、高みを目指すのは最高!」くらいの持ち上げ方をしていた時代があったよね。現代は、ロボコン(理系)など、理数系のイベントも取り上げられてるし、クイズ番組ではクイズにしやすいのか、漢字の読み方・書き方などに詳しいタレントが持ち上げられる。色んな分野での優秀さにスポットを当てるようになってきたのは良いと思う。 しかし、昭和時代のスポーツ一辺倒の感じは、まだ残ってるよね。(^^;)
▲280 ▼10
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昔スポーツ雑誌のある作家の回想録で中学時代の体育の先生が 体育というのは健康になるための方法を教える授業だから スポーツは一切授業中にやらないと言っていたそうですが、 その先生はそれが元で学校を首になってしまったそうです。 体育で過度な競争は必要ないと思います。 自分は、かけっこはクラスで一番でしたが、音楽がまるで 出来なくて音楽の授業のおかげで音楽嫌いになりました。 出来ないことを非難したりするのではなく、 かけっこが速かったり、音楽が出来たり、算数が出来たり、 各々の得意分野を認め合うことが出来るようになると 良いですね。
▲71 ▼2
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自分は運動苦手だけど、体育も休み時間の外遊びも嫌いにならなかったのは、小学校の時にめちゃくちゃ周囲に恵まれていたからだもんなぁ。本当、周囲の環境次第。 できないことをどうすれば出来るようになるか、運動得意な子たちがめちゃくちゃ考えてアドバイスくれたし、成功できなくても以前より進歩したところをしっかり見つけて励ましてくれた。団体競技は上手い子がリーダーとして下手な子の出来る範囲のことをいかに生かせるかが腕の見せどころだった。 いつの間にか跳び箱6段跳べるようになったし、ドッジボールの球を取れるようになったし、キックベースでヒット打てるようになった。 もし「構われること自体が苦痛」な人がいたら、この環境でもお手上げだけど。自分はいっぱい助けてもらって楽しかったな。今思うと、ある程度は子供同士に任せる雰囲気作ってた先生方もすごかった。
▲52 ▼1
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これのおもしろいところは、体育を恨んでいる人の中に、大人になってランニングをはじめたら楽しくなって、マラソンにまで出場するようになったという人もいるという事 全く運動ができないから、じゃなくて、年齢体格的な不利でクラスの中でできない扱いになっていただけで、本当は運動できる人までも体育が嫌いになっているという事実があるんですよね 多分こういう人はたくさんいるんだと思う、一学年といっても誕生日のタイミングでおよそ1年分差があるわけだからね
▲112 ▼0
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日本はスポーツが「修行ツール」になってしまってるので、学校の体育もどちらかといえば「苦行に耐える」ことに主眼がおかれがち。これからの季節、マラソン大会」を実施する学校も多いと思うけど、大会当日までの体育の授業は「練習」と称してひたすら長距離を走らされる。それも、長い距離を走りきるためにはどうしたらいいかという指導はなく、ただただ「一生懸命必死に走れ」と言われるだけ。それでいてスタミナが切れて歩こうものなら厳しく叱られる。まさに「苦行」でしかない。そりゃ「体育嫌い」は増えるだろうさ。(運動会の徒競走にしろマラソン大会にしろ「出たい人、速い人だけ出場する」ことにすればいいのにそういう提案をすると「嫌なことから逃げるべきではない」などと猛反発される。大人なんて嫌なことから逃げまくっているのに)
▲223 ▼14
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小中高と体育が苦手でした。 器械体操も球技も徒競走もすべて苦手でした。 すべての教科の中で体育が一番嫌いだったかな。 ただ今振り返ると体育で良い経験をした事もあった。 小学生の時に皆ができる中、自分だけできない逆上がりの練習をなん度もやってできるようになった時には先生みんなに褒められた。 中学生の時に台上前転の練習の際、できない組の中でも諦めずに授業中になん度も何度も練習し、一度だけできた時に先生や運動が得意なギャル達からも拍手をもらった。 長距離は皆がいやがるので、練習して最後まで諦めずに走り切ると入賞できた。
基本嫌いなのだけれど、頑張ると周りにできないなりに評価してもらえた経験は自信になっている。 環境が良かったのかな?
▲46 ▼2
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とあるスポーツ競技で小中学生の指導者をしています。 この記事の視点とは少し違いますが同じようにズレを感じることがあります。
全国トップレベルの選手などは競技の中にいても特別って感じで誰もが見るんですけど、都道府県でトップクラスやそれを狙うくらいの子供って周りに結構いるんですよね。 なのでそんな子たちでも「普通」って思ったり「もっと頑張ろう」って思ってしまうんです。 だけど、そんな子もクラスの中ではとんでもないスポーツ万能扱いの子だったりするわけで。
たまに小中学校の運動会を見る機会があると、ハッとさせられます。 運動苦手、運動嫌いな子を無理に好きにさせる必要はないけども、健康のためだったりとかで興味を持ってもらえるようにできる人こそ真の指導者なんじゃないかって思います。
▲2 ▼1
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小学校の時体育苦手だったなぁ。なんせ運動神経悪かったから。 逆上がりが出来なくて残されたり、課題の縄跳びが出来なくて夏休み学校来させられたり。チャリも6年生くらいまで乗れなかったし。
それが悔しすぎて、毎朝走って、筋トレして、放課後はサッカーとハンドボールのクラブ活動に加えて、体操と陸上の課外授業も受け続けてたっけ。 小4くらいまで体育の成績が3段階の1だったけど、小6の3学期に初めて3点もらえた時はめちゃくちゃうれしかったのを覚えてる。
▲132 ▼14
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自分も体育が大嫌いで、スポーツ全般に関わりたくない人間だけど、教員になってみて、自分の成功失敗分岐点が高すぎた事に気づいた。「それくらいできれば上出来だよ」って自分が思っても、子ども自身ができる人と比べ過ぎたり、勝ち負けにこだわり過ぎたりで「出来ない」って思い込んでることも多い。
体育教育の難しさって、目標と評価の設定にあるんだなぁ、とはしみじみ思う。
一つ改善案挙げるなら、球技はもっと軽くて弾む、大きめのボールに変えていった方が良いと思う。うちの子たちは、普段本を読むことが多いけど、風船でバレーやると全身を動かしてとても楽しそうに遊べる。どれだけ参加のハードルを下げられるか、体育教育の改善のひとつかと。
▲51 ▼3
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これは、昔は実技科目によくある話でした。音楽の音痴や絵になってない美術とか、不出来がよく見えるものでした。
これに加え、昔は座学メインの科目でもプレゼンやら何やらで無様な姿を晒すリスクが高まっています。そのあたりをどう考えて授業するかだけでも難しいものですね。
▲138 ▼4
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運動が苦手なうちの子どもには「勉強がてきればいいよ。運動は別にできなくても将来困らないからね」 成績もとうでもいい。5段階評価の3で十分。 走るのは苦手。けどダンスやマット運動は得意。 それでいいよと言ってます。 子どもにはそれぞれ得意な事があると思う。 運動な得意な人は、それはそれで自分を発揮できるからいいのでは。別に劣等感抱く必要はないけど、体育の教師のわけの分からない指導の仕方には、子どもの気持ちをどう高めたいのかわからない時があった。 スポ根なんていらない。
▲27 ▼3
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体育だけじゃなく苦手なことを人前でやるのは嫌ですもんね。 私も極度の音痴なので、音楽の時間が嫌いでした。 ただ、私見ですが学校は【何かをできるようになる場】でもあるが、【何が得意か可能性を探る場】でもあると思います。 子供のころから食わず嫌いで好きな事だけやるのは可能性を潰してしまうようで勿体なく感じます。 親も学校も友達も【あの子は何ができる】よりも、【あの子は何が好き、得意】という意識が強くなると良いかもしれませんね。
▲29 ▼0
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あまり関係ないコメントですがエピソードとして。 運動嫌いのため中学の時はパソコン部に入りました。 しかし顧問の先生の方針として、パソコンだけだと運動不足になるし成長期に運動しないというのは良くない、と教えられ、部活動の開始時に毎回1年生は5km、2年生からは10kmのロードワークをしなければなりませんでした。ですので、学校イベントの陸上競技会では陸上部やサッカー部などに加え、パソコン部も上位に入っていました。
▲36 ▼0
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体育で得意だったのは縄跳びとダンスだけ。 あとは何一つ上手にできませんでした。 跳び箱や鉄棒で放課後残されるのが嫌だった。
勉強ができなくても笑われることはないし、人格の評価とは無関係、 音痴でも絵が下手でも同様。 できない人は早々に諦めてもらえる。 音痴な人が放課後残されたりなんて聞いたことない。 また、得意な人も威張ることは滅多にない。
ところが体育だけは、できない人は笑われるし、得意な人は威張るし、できるようになるまでエンドレスでやらされる。
やはり体育という科目は大嫌いです。 高校で芸術を選択制にするなら、体育も選択制にしてほしい。 健康は別の場で手に入れますので。
▲268 ▼26
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辛い理由はそれぞれだと思いますが、生徒が『体育』そのものを嫌うという考えに至る前に、教育者が軌道修正出来ないものかと思います。 そもそも『体育』を教育カリキュラムに入れてる目的は体を育むというもの。健全な体を作り上げる事や身体能力の向上。他にも団体行動の必要性を身に付ける事や、他人を意識した視野を広げて行動する力を養う事などなど。 これらは社会に出て必要であったり役に立つスキルでもある。 それらのスキルを身に付けるのが嫌だという人は居ないでしょう。 運動が得意でない人なのであれば、得意でなくてもその人向けに対応した授業のあり方を考えれば良いのではないでしょうか? 体育のみクラス分けだとか、他にも様々な案はあるのではないでしょうか?
▲4 ▼0
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私も運動苦手で体育嫌い、体育祭をさぼったこともある。 だから、苦手や嫌なことを強制するのはよくない、というのはわかるのですが、これが行き過ぎて苦手を克服するチャンスや経験を奪うことにならないか、とも思う。 中学の時、強制的に運動部に入ることになったが、運動は好きでも得意でもないので全然強くなれず、楽しくもなかった。しかし、今思うとあのとき形だけでも運動していたことが今の健康に繋がっていると思う。
体育もいや、音楽で歌うのもいや、音読もいや、あれもこれもいやでも、それでもやらなくていい、というのもある意味教育虐待ではないかと思う。 小学校の頃は嫌だったけど、今はそれを職業にしている、という人もたくさんいる。 嫌なことはやらなくていい、というのは本人も、さらに言えば教える先生も楽でいい。けれど、大きな可能性を捨て去る危険性もあると思う。
▲20 ▼2
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私も運動が苦手で、体育の授業のある日は朝から憂鬱でした。 しかも出席番号が一番だったので、跳び箱でも鉄棒でも一番最初にやらされて、最初だからクラスの全員に注目されて、もう散々でした。 父兄の集う運動会の徒競走など、まさに地獄の心境でした。 体育の授業が嫌いと言うより学校のシステムそのものが嫌だったのが小学校時代の古き良き思い出。
▲8 ▼0
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子供の頃から体格は良くて一見すると運動得意そうに見えるのだけど出来ないから木偶の棒扱い しかも山間地域だからほとんどが動けるし人数が少ないから動けない自分は目立つ目立つ チーム分けした時は私が取ろうがミスしようがノーカンでいつの間にかメンバー外で見学していた 運動会も裏方で先生と一緒にラインの引き直しとか目立つから集合場所の旗持ちをしていた しかし子供は運動得意で活発な妻の遺伝子を多く引継いだのか運動は普通に出来る子になったが性格は至って大人しくインドア派で能力は活かせず普通に大人になった
▲7 ▼0
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私は小中と肥満だったので、運動は大の苦手だった。小四の時に測った50メートル走は16秒を上回っていた。 ただ高校に入ってなぜか身長がグングン伸び、肥満傾向が薄れて他の子と同程度に運動ができるようになると、今までやったこともなかった運動に挑戦したくなり運動クラブに入った。中学校までは一回もできなかった腕立てや腹筋ができるようになると、見る見る内に筋肉がついて逆に運動が得意になった。走れば400メートル走でクラスのトップ5に入ったし、俊敏性や持久力もついた。そのおかげで大学に入ったその日にアメフト部の部長にスカウトされたほどだ。 自分では運動が苦手だと思い込んでいても、実際に私のように体型が変わることで克服できる場合もある。運動が嫌いな子どもには無理にやらせようとするより、運動に興味を持つような機会を作ってあげる事が大事なのではないだろうか?
▲46 ▼39
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子ども時代、体育がすべてできなくて高齢者になった今でも思い出すとつらいです。 体育は球技やリレーなどチームですることが多く、自分が入ってシーンとした雰囲気になるのがたまらなかった。そのため高校までずっと学校嫌いで、友だちつきあいも苦手でした。 でも大学に入って初めてした卓球、先生が丁寧に教えてくださり、初めて体育が楽しいと思えました(大学では運動会やスポーツテストはないので)今ではウォーキングや軽スポーツを楽しみ、いたって健康です。 スポーツが嫌いではなく、学校体育が嫌だったのですね。
▲25 ▼0
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わかるなぁこれ。笑 元来運動神経が悪かったからできない、勝てないはよく味わった。チームプレーも苦手で足を引っ張ってしまい、やたら張り切ってるクラスの運動部連中の舌打ちと体育教師の呆れ顔も腹が立つやら情けないやらで体育はを楽しいとは思えなかった。
でも社会人になって始めた筋トレは黙々と自分のペースで一人でできるし、コンテストに出たりしないなら他者との勝ち負けもない。 引き締まっていく身体の変化やウェイトを重くできる事への嬉しさを感じるようになった。筋トレ友達もできたし今は体を動かす楽しさが少し分かった気がする。
▲19 ▼0
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自分は運動ではなく、運動部が嫌いだったことに最近気付いた。中学時代は陸上部だったが、走ることは好きでも、部活動自体は進路のために我慢して続けていた記憶がある。学校の運動部は楽しんで運動することが許されず、プロを目指すわけでもないのに記録を追ったり競争させられることで優劣をつけられる。試合も出たい人だけ出るのではなく、全員もれなく強制参加。体育会系の思想が正義とされる世界なので、訳の分からない上下関係も強い。小学校の時もソフトボールチームに勧誘されたが、当時は運動よりゲームやパソコンや読書が好きだったので加入しなかった。ただ、周りからはソフトボールをやっていないだけでまるで異常者やコミュ障のようなレッテル貼りをされ、スポーツが苦手なことが悪であるかのような空気さえあった。結局、帰属意識を植え付けて集団で高みを目指すことだけが全てとされるので、元々運動が得意な人でなければ面白くない。
▲18 ▼2
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体育嫌いは”体育の先生”がつくる。間違いない 体育という授業・カリキュラムに加害性があるのではなく、その先生の個性に左右されている 一部には運動が特別に苦手ではない同級生のからかいもあるだろうが、それは当人と立場自体は対等ななんだから、からかわれた側も反発しないといけない
私はO脚で小学校低学年の頃に走る姿がアヒルのようだとバカにされたし、走り幅跳びが苦手でどうしても上に飛んでしまって距離が出ないことをからかわれたりもした。 そうした声はできるだけ気にしないように努め、バカにするやつは無視して体を動かし続け、どんなスポーツもある程度楽しめるようになれた
▲20 ▼5
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体育に限らず、今の教育方法は一定数の算数嫌い、読書嫌い、図工嫌い、給食嫌いetc.…を生んでしまっているのは否めない。理科嫌いがあまりに増えたことで理科の授業内容は改善が図られつつあるけど、「できる子もできない子もみんな一緒の義務教育」自体は人口増加期からあまり変わっていないので、メリットとデメリットをしっかり比べて根本的な変更をしてもいいと思う。
▲13 ▼1
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自分も運動は苦手だったから、正直体育の時間は苦痛だった。出来ないということがクラスの中に知れ渡ったり、チームプレーだとチームの足を引っ張ったりということになるので、考えるだけでめちゃめちゃ憂鬱。だからといって、以前話題になったような徒競走で全員手を繋いでゴールということも、それはそれで運動の得意な子の個性を潰してしまうからよろしくないし、簡単には解決しないよね。
▲25 ▼1
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サッカーなり、バスケなり、ドッジボールなり、体育も算数のように習熟度別がよいです。
前半の練習期間は苦手中間得意の混成グループで取り組み、後半のゲーム期間は苦手グループ、中間グループ、得意グループに分ける。
すると、前半は得意な子たちが生き生きとリードしたり教えたりしてくれます。
後半は、どのグループも盛り上がって楽しめます。
「楽しかった!」と振り返る子は格段に増えますよ。
ただ、場を設定する教師の力量もある程度は問われますが、、、。
▲15 ▼1
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問題なくできる人にとっては「レクの時間」で、出来ない人にとっては「恥をかく時間」ですから、その差は埋まらないと思います。 ただ、SNSにいる「体育を憎む者」にも色々いて、体育教師の大雑把さが嫌だったというパターンと、熱心に個別指導してくれるがゆえに余計にみじめで嫌だったというパターンがいるので、体育教師の問題とも一概には言えないよなぁと思います。 肝要なのは、すべてにおいて「できないは恥じゃない」という教育を家庭でどれだけできるかでしかないのかなと思います。
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体育や運動系部活でよくいわれたのが 「スポーツは人格形成に必ず役立つ」 ↓ 裏を返せばスポーツが不得意、苦手、あまり積極的にしない人は人間的に劣ってる、人格不適合者とも捉えられるからな スポーツが苦手なだけでも屈辱やのに人間性まで否定されるとそりゃ恨みにもなるわな しかしこれだけ大学の運動系部活が不祥事や事件を起こしてるのに、いまだにスポーツと人間性が関係あるようなことを言う人が多いことには驚く。この認識はなかなか覆らないかもな そもそもスポーツは人格形成に役立つならば体育教師は全員人格者のはずやのにそうでないからな
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体育の授業の目的はわかるけど、サッカーとかバスケットボールとか野球とかバレーボールとか、別にそれらの「競技」「スポーツ」をやる必要はないのでは あくまで体の動かし方だとか健康のためとかいうのなら、単純な動作を取り入れた「運動」でいいはず かけっことか持久走は必要かもしれないけど、簡単なマット運動(前転、側転のようなもの)、縄跳び、遊泳、筋力トレーニング、競技ではないボール遊びなど、基礎的な動作を身に着けることを目的として、成人になっても、体育の授業の延長上で日常的に運動を楽しめるような内容にした方がいいと思うけどな 「競技やスポーツ」はそれこそクラブ活動や部活動で好きな人がやればいいと思う
▲0 ▼0
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自分も体育苦手な子どもだったけど、体を動かすこと自体は嫌いじゃなかったなぁ。苦手なら苦手なりの喜びもあったし 跳び箱で飛べなかった段が飛べた! とか マラソン大会でリタイヤせずに完走できた! とか。サッカーでたまたま自分の前に来たボールを蹴ったらゴール決められた! とか。
いわゆる「スポーツが得意な子」にあるような周りからの羨望とかとは無縁でしたが、できないならできない子なりの楽しみ方を見つけてました。 だから運動は苦手だけど体育をサボろうとか運動会出たくないみたいなのは無かったかな。
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スポーツするのも、体を動かすのも好きだ。 筋トレも大好きで、伏黒とうじを見てからはあんな体になりたいと前よりも追い込み始めたくらいだ。
ただ、小学生の頃は喘息もちで瞬間的な運動はそうでもないが、持久走のような長時間の運動は本当に辛かった。 喘息の発作が出ようものなら本当に苦しくてたまらない。 しかし、私の当時の担任は『競技の好き嫌いで免除はしない』と豪語していた。 好き嫌いなわけではないのだが、当時の先生にそんな理屈が通る事もなく走らされた。 最悪だが、まだそこは譲歩出来る、遅くとも発作を出さず走りきりさえすればいいので。 真に最悪なのは最下位でゴールする際に某感動ビジネス番組のように『ゴールに集まれ!〇〇がゴールするぞ!喘息持ちでもしっかり走り続けた!拍手して迎えろ!!』と花道をこさえ始める事だった。 ほっとけよ!この晒し者にされているような時間が何より嫌いだった。
▲29 ▼0
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指導法以前に単純に走ること、体を動かすことが苦手で嫌いな人も居ます。 皆を運動好きにさせるのは難しいと思います。興味を引く競技に出会えたらラッキーですが。
2人息子居ますが、上はパルクールやってて下は逆上がりも出来ませんでした。 その下の子がラグビーに出会い運動するようになりました。俊敏さに欠けるのか、簡単に肩の脱臼したり鎖骨折ったり怪我も多いですけど。
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自分は逆 体育は得意だったけど、他の授業にはついて行けない落ちこぼれでした 宿題をやってなくて、みんなの前で怒られる毎日 放課後、先生のいない教室で居残りも嫌いだった
学校の思い出… もちろん楽しいことも沢山あったけど、後ろを振り返って 楽しかったことだけを思い出すのは今の自分には難しい だから、しっかりと前を向いていよう
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僕は水泳やマット運動、武道(中・高)は得意でしたが、球技や走る事は苦手でした。 なので苦手な人も得意な人の気持ちもわかります。 が、これは体育に限らずですが、学校でできない事で劣等感を持ったり晒し者のようになってしまって恥ずかしい思いをする事も、できない事が出来るようになる成功体験も、得意で中心になったり人に教えたり人に手を差し伸べる事も、どれも大人になるうえで必要な事だと思います。
なぜなら大人の社会は人と比べられるし、劣等感に打ち勝つ力も必要ですし、できる事に天狗になって個人プレーに走らず、立ち止まって人に手を差し伸べたり教えたりする事も必要だからです。
こういった経験を子供の頃に経験できないまま大人になると、極端に打たれ弱くなったり、大変な事を頑張れなくなったり、チームで動けなかったり、人を正確に評価できなくなったりと、社会人として大切な何かが欠落した大人になると思うのです。
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高校受験を控えた子供の保護者です。我が子は体育が嫌いな訳ではないのですが運動音痴です。持久走は最後にゴールしますが絶対に歩かずゆっくり走ります。止まらない、歩かないは本人の信念です。定期テストでは点数は取れてます。けれど、チーム戦で迷惑を掛ける為なるべくボールを受け取らない位置に移動する。知っているからこそ仲間からもボールは回ってきません。敵からは攻撃を受けるので仲間が常に前にいて遮ります。教科担任はテストで点数を取れていても、運動能力が乏しい事で低い評価を付けるので親としては不満です。多様性だとか個性だとか言っておきながら、個人の特性を批判しているのが教育現場ではないでしょうか。勉強ができても生きる力の備わってない大人がいますし、逆に学歴無くても力強く生きている大人がいます。学校教育の体育とは未熟な児童、生徒の基礎体力向上の為という事を忘れないでほしいです。
▲2 ▼1
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座学に関しても教え方や、授業の進め方一つで苦手意識が固定される気がします。私の時は全員立たせて、答えられた生徒から座っていい。と回答させる教師がいて、要領のいい子はさっさと答えて座るけれど、内向的な子、不得意な子はなかなか座れず、後半はその答えはさっき出たから不可、と言われ、とっくに座って退屈した一部の生徒が不得意な子に間違った答えを吹き込んで笑いものにする、という嫌がらせを教師が先導しているような様相で、不快感ばかりが残っています。私が最後まで残った時はサービス問題、と言われて自分の苗字と同じ地名を答えさせる質問が出され、クラス中が爆笑、ということがあり、クラスの中で、笑って終わらせてもらえるまともな人間か、いつまでもいじられ続ける役割を振られる人間かくらいは考えてほしいと思ったものです。
▲54 ▼1
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体育は、やり方を教えて出来ない子を出来る子にする授業では無いです。やらせてみて、出来る子と出来る子に分けるのが目的です。自分は出来ないのが嫌だったので公園とかで練習したけど、体育の先生は「そんなことしなくて良い。」と言ってた。一見、無理しなくて良い感じで理解ありそうだけど、しっかり成績に反映されてるから、やっぱ出来ないじゃ困るじゃん。あの先生何言ってんの?と内心思ってた。
▲3 ▼0
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大浜さんの発言にあるように、見れば分かって出来る人ばかりではないですね。頭で分かっても体をそのとおりに動かせない人もいます。
それともう一つ。 体育の授業では、スポーツのルールをみんな知っている前提で、いきなり実技に入ります。野球やサッカーは普段から授業外でもやってるし、テレビでプロの試合を見てるから、ルールは説明不要だろうと先生は思っているのでしょう(単純に時間が足りないのもありますが)。 私が住んでいた地区は同年代の子どもがほとんどいなかったので、同じ校区の別の地区の子どもたちと違い、放課後や休日に友達とスポーツをして遊ぶことがありませんでした。インターネットも普及していない時代で、ルールを座学で知るのも難しく、体育の時間をどうやってやり過ごすかに終始していたことを思い出します。
▲5 ▼0
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これは体育に限った事ではなく、音楽や図工にも言えると思います。 では何故運動会や音楽会、作品展があるかというとその日に輝く子供がいるからで、勉強はできないけれど音楽は得意という子供がいるからではないでしょうか。1年に1度でもそういった子供が輝ける日を作る事はとても大切だと思います。 間違ってはいけないのは、できない子もいるという事をみんなで共有する事ではないでしょうか。できない子をさげすんではいけないことをみんなが理解する事が必要で、人は得手不得手があるということを教えるのが教師であり家族なのではないかと思います。
▲14 ▼8
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本当の運動音痴に会ったことがないだけかもやけど、運動苦手、運動音痴っていうこのほとんどがそんなことなかった。一緒に練習すればできるようになってたし、理想が高すぎて、自信がなかったり、緊張したりして、悪循環になってるだけの子やった。気楽にできるようにして、楽しくして、フォローしながらやったら普通に出来てた。
▲0 ▼4
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現役の保健体育科教員です。 「体育嫌いは体育の授業によってつくり出されている」まさに、そのとおりだと思います。 体育科の授業における子どもがネガティブになる三要素、 ◆痛い ◆恐い ◆恥ずかしい をいかに取り除き、運動経験量の多い少ないに関係なく、すべての子たちに「体を動かすことの豊かさ」を味わわせることができるかどうかが、プロとしての腕の見せどころだと思います。 上記のネガティブ要素を取り除くことは、「甘やかす」こととは違います。
▲4 ▼0
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高校を卒業するとき、皆と別れるのは寂しかったけど、そんなことより『体育から解放される…!』という喜びの方が強かった。
自分は得意だったとしても、体育を恨んでる人がいるってことすら分からないなんて、周りを全く見てない人だと思う。 私は勉強や美術が好きだったけど、苦手な人がいるの知ってたわ普通に。 運動出来る人の半数ぐらい、こういう無神経な人がいるから、チームプレーの時に悪気があるかないか分からないけど、苦手な人を傷つける発言や表情をして、更に体育を嫌いにさせてるっていうのもある。 中学の時に仲良かった子はすごく励ましてくれて練習しっかり付き合ってくれて褒めてくれて、その頃だけは体育でも楽しかったから、周りの影響は絶対にある。
あと単純に、美術、音楽、体育は、本来は点数をつける類のものじゃない。
▲0 ▼0
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今、息子の小学校は、運動苦手な子どもにも対応してる。 縄跳びは、エアー縄跳びから級がある。 サッカーは全員最初の1ゴールは10点だから、上手い子がたくさんゴールするよりも、全員が1ゴールするほうが勝てるので、上手い子は他の子のアシストにまわる。 キックベースやソフトボールは、守備の子は大きなフラフープにビニールシートを貼ったものを持ってそれでボールを止めてた。 運動できない芸人みたいな息子が「体育得意!体育の先生になりたい」と言っている。 小学校の体育部会で実践研究を共有しているだろうから、勉強熱心な体育の先生がいるとこうやって子どもたちに還元してくれるのだろうと思う。
▲27 ▼0
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通っていた中学では、誰も必ず運動部に所属しなければなりませんでした。 やりたくもない、興味もない、生徒数が少なくて種類も選べない、そんな運動部の部活に強制入部させられたら、嫌いにならない人はいるのだろうか。 やりたい人はやればいいけど、やりたくない人や興味のない人を強制的にやらせることに何の意味があるのか、いまだに分からないままだ。 いとこの通っていた学校では、体力測定で全国平均に満たない生徒は夏休みとかに補習させられたそうな。 こういうことが当たり前のように行われていたのですが、おかしいと思わなかったのでしょうか
▲13 ▼0
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体育の成績は確かに悪かったな、別に嫌いというわけではなかったと思う、できないんだからしょうがないわなと思っていた気がする。 今思うと結局最後まで逆上がりはできなかったのだが、あれは教え方が悪いよな、体を支えるとか器具を使うとかはされたがどうやらなくてはならないのかは教える人はいなかった。器具の使い方も教えないのだもの、できる人にはわからないことなのかもしれないがね。 時間もないのかもしれないが、スポーツの授業でルールをまったく教えないのはどうかと思うね。初めて野球とやったときに三塁に走ったら怒るのだもの知らないって。
▲6 ▼0
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音楽や美術も同じという人もいますが、全然違います。 たしかに、人前で歌わされたりして恥を書くことはあるかもしれないけど、 体育はバスケやサッカーみたいな団体競技だとチームの足を引っ張るんですよ。 それで笑われるならまだよくて、「なにやってんだよ!」って罵倒されたりするんです。 チーム分けでもお荷物扱いで押し付け合いになったりして……。 それが本当に辛かった。
大人になってからジムに入って筋トレも好きになったし、スタジオプログラムも楽しくてよく出るようになりました。 やっぱり教える人と環境で、こんなに違うんだと実感してます。 そもそも体育教師って教えないですよね? チーム分けして時間まで試合させて終わり、みたいなのばっかりだったと思います。
▲10 ▼0
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これ別に体育に限らず、学校のあり方自体に言えることじゃないかな。 教師を目指す人の多くは、学校生活が楽しかったり、勉強もそれなり以上にできたり、恩師と言えるような良い先生に出会ったり、学校に対して良い感情を持ってると思う。 だから勉強が苦手、学校に行きたくない、みたいなネガティブな反応をする子には「なんで?」が先に立ってイマイチ理解できないって先生は多そう。
▲21 ▼1
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出来ないのにやり方を教えてもらえなかったからなぁ。努力が足りないと根性が足りないしか言われなかった。逆上がりが出来るようになったの、大人になってスポーツジムで重心のコントロール教えてもらってからだったな。ジムのトレーナーさん達は本当に優秀な体育教師ですよ。運動の楽しさを教えてくれたから
▲103 ▼1
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チームスポーツと球技が極端に苦手だったのと、リズム感が皆無なので運動会のダンスが苦痛で仕方なかったわ 勉強は出来たから「俺は頭の人。だから運動は出来ない」と自己暗示してしまって、マトモに運動してなかったから50m走もマラソンも学年最下位争いしてた 小学校入る前から嫌々やらされてた競技が、高校に入ってから急激に楽しく感じるようになって本格的にトレーニング開始したら自分が案外動ける事を知ったし全国上位にもなれた アラフィフの今でも50m走は7秒前半だし、ハーフマラソンは1時間半だし、県内の有名な山は全部ノンストップで走れる。走る事が大嫌いだったガキの頃の私が見ても信じない状態だと思う。でも、息子とキャッチボールは未だに出来ない。サッカーは利き足だけなら多少出来る
▲8 ▼3
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ペーパーテストと違って、体育のような実技はその場にいる全員に見られるから不得手を隠しようがないんだよね。高い跳び箱をパーンとカッコよく跳ぶと凄いと思われるし、跳べなけれはみっともない。ペーパーテストは自分で言わない限り結果は知られない。そういうところが余計苦手になる理由だと思う。
▲5 ▼0
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音楽や美術も実技科目なんだけど、体育ほどは嫌われない。 最大の問題は「出来ないです。無理です」って言ってるのに「やれ」と強要されること。 そしてうまくいかなかったときに「ちゃんとやれよ」となじられること。
言われた方からすると「私は一言もやりたいっていってないのに」「無理だって言ったのに」「出来ないって知ってるのに何でやらせるの」とストレスが溜まる。
音楽だったら「どうしても出来ないならそこは休んでて」ってなるし、美術なら「出来る範囲でお願い」ってなる。 個人的に恥ずかしい思いはするが、出来の悪さを他人に責められることは基本ない。
▲31 ▼2
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誰もが運動やスポーツが好きなわけじゃないですからね。私も同じく。運動が好きじゃないわけじゃないが、体育の授業でやるスポーツはたいがい苦手。運動好きな人や得意な人は「やる気出せよ!」みたいな事言うわけですが、本気出したとてって感じ。本気で走ったのに「真剣にやれよ!」とか言われるとマジショック。そういうので嫌いになる。特に4月生まれと3月生まれじゃほぼ1年の成長差あるんですよ。未成年の1年はめちゃくちゃ差がありますからね。
▲1 ▼0
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私は体が小さくて3学年位下の子の体格しかなかったので、運動会の組体操が死ぬほど嫌でした。私だけ小さいから乗っかる人がバランスが取れない。ほんとに消えてなくなりたいと思っていました。
子供の時からピアノをやっていたので突き指したら終わりなので、球技は嫌でしたね。中学のバスケットボールでは、ひたすら自分に球が来ないように逃げ回っていました。先生にバレましたが。
高校はハンドボールが強い学校で校庭の真ん中にハンドボールコートがあるという珍しい学校だったので、体育の授業もハンドボールが多かったです。でも私は手が小さくて片手でボールが持てないからシュートができず、嫌でたまりませんでした。
体格に関係ない長距離走とか水泳とかはできたのですが、体格の関係でできないもので成績をつけられるのは理不尽だと今でも思っています。
▲2 ▼0
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運動が苦手な子どもを理解できず、それが態度や言葉に出るのは教員の責任だが、1対多数の授業形態は、教員を増やさない国や自治体の責任だ。 また、運動が苦手なひとにも2通りいると思う。 苦手でも一生懸命取り組む人間と、苦手だからといって一生懸命取り組まない人間だ。 ちなみに、一生懸命取り組むとは、力一杯動くということだけではない。 うまく投げられないなら、どうすればうまく投げられるか、見て、考え、試行錯誤し、正しい動きを反復する。 ゲーム中の動き方がわからないなら、状況を見て、判断し、目的を考え、味方や敵の動きを観察し、自分が役に立てそうな場所を見つけ、早めに動き出す。 自分で考えることもせず、なんとなく活動しておいて、自分以外に原因を求める人の運動や体育嫌いは自分のせいだと思う。
▲1 ▼8
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私はいわゆる運動神経がなく、トレーニングは単調動作の繰返しに強くなっただけで、球技とか苦手。
運動に限らずだけど、できる理由はあってもできない理由はなく、できないのはそのできる理由の元の能力が無いという事だけ。
可能ならそれを身に着けられれば。
▲5 ▼2
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私は運よく面倒見の良い先生に教えてもらえて、苦手だった水泳が人並みにできるようになった。大縄跳びも私が躓いてばかりで、運動ができる子に陰口をたたかれたけど、その先生ができない子を集めて、放課後に練習をさせてくれた。そういう巡り合わせが良ければ、体育を生涯恨まずに済むと思う。
▲0 ▼0
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昭和の話ですが、当時は持久走が得意な子は我慢強い子で苦手な子は根性が足りない子というふうにみていた体育教師が普通にいました。私は短距離が得意で運動会のリレーでごぼう抜きしていましたが、持久走は全くダメでクラスでも下から数えた方がはるかに早かったので、部活の顧問の体育教師にはいつももっと真面目にやれと怒られていました。本当に理不尽でした。
▲1 ▼0
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体育に恨みはないけど、小学生の頃、体育の実技テストはいつもあいうえお順で、出席番号が早かった私は運動音痴で、みんなの集中力があるうちにみんなの前で披露させられる時間が、今でも忘れられないくらい苦痛だった。 逃れる方法を狡賢く考える思考が鍛えられもしたけど、運動は苦手なままです。 今の子どもたちを見ていたら、私の遺伝子をしっかり受け継いで音痴だけど、体育はそこまで見せ物感なくなっていて、嫌いな意識もないみたいです。
▲1 ▼0
=+=+=+=+=
運動苦手、音楽苦手、図工苦手だけど、体育と図工は嫌いではなかった。音楽は憂鬱。 スポーツや芸術などで何か楽しめるものがあると人生に大きな影響があると思う。が、強制されたら楽しくないかも。 子供にはいろんなことの入り口までは強制的に連れて行って、そこからやるやらないは自由にさせてます
▲0 ▼0
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運動音痴だから、体育の時間は苦痛で、最も嫌いな科目だった。 北方への修学旅行でのスキーにも、あまり良い思い出が無い。
ただ、私はまだマシな方だったと思う。 一部の種目については基礎レベルの事はできて楽しかったし。 何より、一応は成功体験があるから。 パワーは充分だがノーコンな私のバレーのサーブを見かねて、先生が少し指導してくれて、それに従ったらイン率が爆上がりしたから。 運動関連で、周りが私に期待したり応援してくれたり警戒してくれた事はこの時のみ。 いつもは真逆だったから、今でも良い思い出。
運動に限らずだが、【ある程度上手に出来る、または成長が実感できるからこそ楽しい】って事、頭に入れておくべき。
そんなわけで、体育の嫌な思い出が強すぎて、自らスポーツをやりたいとは思えない。 絶対にお荷物・弱みになる上に辛いだけの状況を望む人なんていないよ。
▲20 ▼1
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学校の教科の中でも、体育は特殊なことが多い。 ・苦手な子ほど負荷がかかる ・明確に順位をつけられ、さらし者になる ・連帯責任を負わされ、戦犯扱いされる
例えば長距離走。遅い子は長い時間を走らされる。●分走、等に出来ないものか。走り終えた子は遊んでいる。学科では、早く終わっても遊ばせてくれないのに。逆上がり、なぜ出来ないのに何度もやらせるのか。算数で、正解するまで責め続けるようなもの。 昭和の時代は、順位がついた旗の下に座らされた。算数のテストで、点が高い順に並ばされることがあるだろうか?チーム分けでは、いつも最後まで選ばれずに残るゴミ扱い。この時ほど自分の存在が申し訳ないと思ったことはない。 野球など団体競技は最悪。幸か不幸かチームメイトに恵まれ、決勝まで進んだのに2死満塁で自分に打順が回って負けた。以後、人権は無い。40年たった今でもネタになる。学科テストで団体戦って無いですよね?
▲12 ▼0
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小学校の教師や中高の体育教員は先入観で成績を決めていた。運動神経はイマイチだけどサッカーのキーパーだけは好きでクラスでは取り合いが起きるくらい主戦力扱いしてくれた。
でも成績は5段階評定で2。10段階評定は3か4。FWで運動神経のある生徒は好成績。進学にも影響した。他の学期も同じ成績。理不尽。
▲16 ▼2
=+=+=+=+=
できるできないでの評価があからさまですよね。 できるようになるための努力は見てもらえてないんだなと。 生まれつき運動能力に遅れのある息子がそれです。 面談で、でんぐり返しをできないながらも一生懸命する姿に感動しました!と先生はおっしゃって下さいましが、評価は一番下。 結局そうだよね、それでまた息子は落ち込むわけですよ。 俺の一生懸命は何なの?ってなるわけで。 次頑張ろうにはつながらないです。
▲45 ▼2
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いくらその子なりに努力したとしても、運動音痴だと評価でいい点数つけてもらえないんですよね。内申が下がるので、それだけで受験には不利でした。 生まれつき体感がしっかりしてない子とか、体の一部が動かしづらい子とかいますよね。 運動会なんて学校中の生徒や親の面前で恥かかせられるだけで全く楽しくなかった。代わりに芸術系が不得意でも恥をかかされることは少ないですよね。体育がだめだとダメな奴になってしまうんです。 ただ、時代が変わったのかわかりませんが、運動音痴を引き継いだ子供の体育の先生で、たった一人だけ、元々の能力だけでなく頑張り努力を認めていい点をつけてくれた先生がいました。本物の教師だと思いました。
▲0 ▼0
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>>ここでも「運動が得意な人は体育が苦手な人の存在を想像できない」という問題があった。
これ、運動に限った話じゃないですね。 勉強、書道、美術、音楽、さらにはコミュニケーションやビジネスなどといった一つひとつのスキルにまでも通じる問題だと思います。 どの分野でも、できる人できない人、またできる人の中でも他人に教えるのが上手い人下手な人、と分かれます。
自分でも様々なコミュニティを見てきて思ったのが、人に教えるのが上手い人の共通点は、「できない人がなぜできないのか」を的確に押さえ、適切に言語化していることでした。
▲8 ▼0
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体育は得意な方だったけど、物理は嫌い(化生が好き)だった。
体育嫌いって、そういう普通の好き嫌いとどう違うのか確かにいまいち分からない。 みんなに見られるのは苦痛っていう子がいたけど、仮に笑われた(と感じる)事があっても、そんな事話題になるの長くて数日だし、気にしなければ良いだけなのにな。とは思う
頑張ってる人を笑う(嗤う)ような人に合わせて、気にしてあげる必要はない
▲1 ▼30
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普通の五教科であれば成績の悪い生徒の答案用紙がクラス全員の前に張り出されるなんて事は無いが、何故か実技科目、特に体育では当たり前のように行われるんだよね。 そんなんだから高校生位になると体育は見学して勉強してる生徒が出てくるのも当然。
▲8 ▼0
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同じように学校での勉強を恨み、学力の高い人を憎んでいる人はたくさんいて、いわゆる脳筋に多く見られます。
こうした脳筋は不良化、チンピラ化することも多く、子供時代からひどく悩まされましたが、解決方法は単純で身体を鍛えればいいんですね。
ほとんどの悩みはこれで緩和できますが、今度は脳筋に友好的に絡まれるようになって、これはこれで話が合わなければ敵視されるし面倒です。
何だって脳筋は、他人を見るとすぐに敵か仲間かの識別を始めるのか。 気に入らない相手と対立することが、彼らの生き方の前提としてあるからなのでしょうね。 そしてこうした絡みの煩わしさは笑顔で乗り切ればいいと理解していますが、そこに至るまでは苦労しました。
脳筋は想像力に乏しく思考が一面的ですので、自分は知性や教養を毛嫌いし、学力優秀な者を目の敵にしながら、反対の立場にいる人のことに気付かない。 「知らなかった」とは驚きです。
▲14 ▼2
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勉強ができなくても、クラスメイトから責められはしない。基本的に個人プレーだから。でも体育の場合、チームプレーが求められるから、例えばボールをうまく取れないと、運動できる不良タイプのヤツから「ちゃんと、やれヤァコラァァァ」みたい道徳的に叱責される。(普段は不良のくせに体育の時だけマジメ)ちゃんとやりたくないんじゃなくて、やりたくてもどうやればいいか分からない。楽しみ方も知らない。体育教師は知らんぷりでピッピッと笛を吹くばかり。女子からは白眼視。苦痛で仕方がなかった。大人になってスポーツ観戦の面白さを知ってからは、運動自体は好きになった。ただ体育のことを思い出すと嫌な気持ちになる。特にポートボールが。
▲3 ▼0
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え、これ結構当たり前の話だと思ってましたけど、未だにご存じない方がいらっしゃったんですね。 スクールカースト弱者層の声ってインターネットが広まってけっこう可視化されていたし、「あるあるネタ」として広くシェアされていたと思うんですけど。 体育やスポーツを啓蒙する活動をされてる方でも、そのトピックについてエゴサなどで調査する程度のことも行っていらっしゃらないということでしょうか。
ですが、今の時代は多様化、ニッチ化、分断化が当たり前の時流です。 なぜ入ってきてくれない人が一定数いるのかは認識していただいて、その上でスポーツ嫌いには構わず「好きな人同士で好きを深めるコミュニティ」を作っていただければ良いのではないかと思いますね。
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コレは体育に限った話じゃないよ。 算数とかでも同じです。 出来るのが当然の人が「なんでこんな事が出来ないんだ」と言われ続ける。 そして、出来ないまま授業は進みそこでも「なんでこんな事が出来ないんだ」と言われ続ける。 そうして、最終的には「数字を見るのも嫌だ!」なんて人まで出て来てしまう。 私個人の考えなんだけど、小1の2学期からは全教科をクラス分け授業にした方が良いと思う。 出来る人と出来ない人でクラスを分けて、出来る人にはより進んだ勉強をして 出来ない人には自分達に合わせたスピードの勉強をさせればいい。 今の出来ない人に合わせた教育では出来る人達が可哀想です。 結果、能力に明確な差が出来てしまいますが大人になればどうやっても競争社会になるのだから子供の頃から慣れさせといて損は無いと思う。 それに各科目事にクラス分けなら得意な事を存分に伸ばして、苦手な事は最低限って状態に出来るんじゃない?
▲48 ▼63
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俺もスポーツは全然だったし、握力は25くらいだったし、50mで9秒かかってたし、バスケ部は部長という名のマネージャー兼審判要員だったが、代わりに大して勉強しなくても成績良かったし、東大まで行けたし、人生には満足しかない(笑)。 球技も走りも出来なくても、登山ならできるし、阪神戦と相撲は欠かさず観てます。スポーツ最高!
▲25 ▼42
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運動音痴なので体育は一番嫌いな教科でした。 自分はずっと体を動かす事が嫌いだと思っていましたが、社会人になってから付き合いでテニスやスキーなどやってみたら案外楽しかったり、スポーツジムで汗を流すのもけっこう気持ちがいいことに気付き学校でもっとスポーツの楽しさを教えてくれたらよかったのになと思いました。
▲6 ▼0
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できるできないの範疇で語ろうとするから変なことになるってだけなんだよなぁ。別に身体を動かすことを目的とすれば良いんじゃないの?って話。今ってスポーツだって科学的なアプローチをする時代だしねぇ。根性論上等って言うのは意味があまりないんだと思うよ。
▲60 ▼12
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小学校の運動会に持久走があり衆目の中延々と走らされたな。周回遅れになり,圧倒的最下位の私を,全校生徒と保護者が拍手で応援してきたが生き地獄そのものでもう二度と学校に来たくないと思うほどの屈辱だった。 何故,何十分も,できない人間を晒しものにして,妙な美談にすることの誤りに誰も気づかないのか,そもそも何故運動会のような場で持久走をやらせるのか。30年経った今でも当時のことを思い出すとフラッシュバックのような気持ちになり,居た堪れなくなる。 私は特定の人間が理由もなく恥をかくようなことを是としない大人になったと思いたい。
▲1 ▼0
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嫌な思いだけではありません。体育の成績が悪いと公立校の受験でも不利になる現実があります。体育などの実技教科は不要とは言わないし、学校でやる意味もないではない。けれどもそれは評価とは切り離してもよいように思います。
▲3 ▼0
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そもそもネット上にわざわざ書き込むのは運動に自信のない人が多いという点がある。 スポーツが人並みの人は際立って主張できるものがないからそもそも書き込まないんだよね。 そして、出来る側で書き込むなんてそれこそプロ選手レベルでないとむずかしいのでまず絶対数がいない。
SNSで意見を取り入れるのも大切だけど、それだけが世論というわけでもないので注意ですね。
▲12 ▼62
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文字通り体を育てる事に注力するならそんなに嫌いにならないんだよ。それは将来どんな職業につこうが全ての人に必要な事だ。
そこにスポーツや競技を持ち込むから嫌いになる。
良く行進などの全体行動の練習させたりするが、そんなことより体力作りに注力した方がいい。 スポーツしたい人は部活ですればいい。
▲14 ▼1
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体育の授業はみんなでワイワイと楽しくバレーやバスケットをすれば良いと言う人がほとんどだと思うけど、俺の親父は4月からみっちりと基本(基礎)を叩きこむ授業だったらしい。 そうすると、12月頃には全員がバスケのレイアップやバレーのアタック、ハンドボールのジャンプシュートや0度からのシュートが出来るようになり、スポーツの楽しさを知るようになると言ってた。
▲24 ▼105
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一生モノの恨みを持っている方、多いですねぇ・・・。 私も運動は全くダメで足は遅い、逆上がりはできない、成績も最高で5段階の2でした。 運動部系の同級生と性格が合わないというのもありました。 それでもスポーツは好きで、授業はどちらかといえば好きな方でした。 遊びでは野球もサッカーも楽しんでましたし、大人になってからも少しだけ草野球も経験あります。(数年やって覚えているヒットは2,3本ですが) 音楽も小学校では演奏はみんなのマネ、もちろん楽譜もちんぷんかんぷんで授業もろくに聞いていませんでしたが、中学校から吹奏楽部、〇十年経った今でも楽器は続けています。 スポーツもTVでも現地でもよく観戦しています。
先生は中学校で良くしてくれた先生はいましたが、他は・・・覚えていません。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
教師と言うより生徒自身の問題が大きいと思う。 生徒と言うより人間の特徴なのかもしれません。
座学で100点(トップ)をとってもヒーロー的扱いはされない。 体育でトップを取れば周りからヒーロー扱いされる。 きっと輝いて見えるのでしょう。
だから学生の時は体育が得意な子がモテる。
基本的には仕事でもなんでも「目標を持って必死に頑張っている人」は輝いて見える。 しかし座学を頑張っていても何故だかそこまで輝いて見えない。
体育が苦手な人は輝けない自分が悔しくていつのまにか恨みの様になるのかもしれませんね。
▲18 ▼60
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体育の授業で、算数のように基礎がみんなできるようになるまで教えてくれたらいいのに教えてもらえない。走り方、投げ方など。 習っていない漢字をテストで書くと×なら、体育でも習っていないやり方でやると×にしたらいいのに。
大人になって思うことは、運動音痴専用のテニススクールなどあればいいのになぁと思いますが、ひとが集まらないだろうし無理だろうな。
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