( 241556 )  2024/12/30 04:32:17  
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安倍元総理銃撃事件をきっかけに明らかになった自民党と旧統一教会との癒着。その原点はどこにあったのでしょうか? 1959年に統一教会が日本に進出して以降の岸一族との知られざる関係を、教団側の現役幹部がテレビの前で初めて証言しました。 

 

■教団側の現役幹部が初証言「関係がなかったなんて、言えないと思う」 

 

朝日新聞が2024年9月、安倍晋三元総理と統一教会の会長らが2013年の参院選直前に自民党本部で面会していたことを報じました。 

 

この場に同席していた教団の政治団体「国際勝共連合」の渡邊芳雄(わたなべ・よしお)副会長。 

 

国際勝共連合 渡邊芳雄副会長 

「(朝日新聞の写真を指さして)こちらです。一番端っこです」 

 

初めて取材に応じた理由は「これまでの報道は一方的だ。教団側と自民党の関係、その真実を知ってほしい」というものでした。 

 

国際勝共連合 渡邊副会長 

「2013年の参議院議員選挙において、全国比例で特定の候補・北村経夫さん。この人を応援しようという動きになりました。それを(安倍元総理に)説明しに行ったと思います」 

 

Q.安倍元総理はどういう反応を 

「うれしいと言いましょうか、合意の言葉があったと思います」 

 

けれど自民党は、一貫して「教団との組織的な関係はなかった」と主張してきたはず。 

 

国際勝共連合 渡邊副会長 

「『今まで組織的なつながりを持ったことがない』なんて言えないと思いますよ」 

 

きっかけは今から60年ほど前。 

 

(山梨県の)本栖湖の湖畔で、統一教会教祖・文鮮明(ムン・ソンミョン)氏と右翼のドンと云われた笹川良一(ささかわ・りょういち)氏が、ある合意に至ったのです。 

 

笹川氏は、“戦後を代表する政財界のフィクサー”の異名を持ち、全国モーターボート競争会連合会の会長でもありました。 

 

会場になったボートレーサーの養成施設は今も当時のまま。そこに招かれた文氏は、笹川氏の協力のもと「国際勝共連合」を立ち上げることを決めたのです。 

 

笹川氏がメディアから“タブー視”されていたこともあり、統一教会との関係はほとんど報じられませんでした。 

 

 

朝鮮半島を分断した戦争の記憶もまだ生々しい時期。統一教会が韓国で創立された背景には、共産主義勢力への対抗という側面もあったのです。 

 

本栖湖での会談から遡ること8年、教団は日本に進出。 

 

その後すぐ、笹川氏の人脈を介して反共思想の持ち主・岸信介氏に接近します。 

 

以来、娘婿(安倍晋太郎氏)から孫の安倍晋三氏へ。関係は、あの銃撃事件によって注目されるまで、ベールに包まれていたのです。 

 

半世紀あまりの三代にわたる、政治家一家と統一教会の絆を紐解きます。 

 

■岸・安倍三代と統一教会 “組織的関係の原点” 

 

岸信介氏の総理就任は1957年でした。TBSには、在任中の元総理を追った貴重な映像が残っています。そこには、孫の安倍晋三氏(当時3歳)も。 

 

岸信介元総理 

「僕は?僕はいくつだ?」 

「特に弟(晋三氏)の方が乱暴者で。おい、じっとしなきゃダメだ。あそこでうつりますよ」 

 

娘婿の安倍晋太郎氏と晋三氏が遊んでいるのは、渋谷区南平台にあった岸氏の邸宅です。 

 

この時期、日本の領域内で日米の共同防衛を可能にすることを目指していた岸元総理。1960年には日米安保条約の改定に取り組みました。 

 

これに反発した人々は大規模なデモで「安保反対」を叫びます。デモ隊は、岸元総理の邸宅にも押し寄せました。 

 

当時の報道 

「『岸を倒せ』のデモの声が毎日毎日、南平台に続きました」 

 

反共を掲げる岸元総理は、デモを主導する左翼の人々への嫌悪を回顧録に綴っています。 

 

岸信介著「岸信介回顧録 保守合同と安保改定」より 

「共産党員というものは、人間の誠実さとか善意の通用しない、我々の頭の中にある“人間”には当てはまらない連中だと思っていた」 

 

新安保条約が成立すると、岸内閣は退陣。岸氏は南平台に二軒並んでいた邸宅のひとつを手放します。 

 

そこに1964年に移転してきたのが、統一教会の日本本部でした。 

 

岸氏や孫の晋三氏らが遊んでいた、あの庭で信者がランニングや体操にいそしむ姿がありました。 

 

 

その後、急速に接近した教祖・文鮮明氏と岸氏。2人の間をなぜ、笹川氏が取り持つことができたのでしょうか。 

 

笹川氏と岸氏は戦後、A級戦犯の容疑で、ともにスガモプリズンに収監されていました。それ以来、親交があったのです。 

 

国際勝共連合の渡邊副会長によれば笹川氏は岸元総理に、こう語ったと言います。 

 

国際勝共連合 渡邊芳雄副会長 

「『是非、見守っていてもらいたい。あるいは時には協力してもらいたい』と笹川先生から(岸元総理に)言われたということがあって、それで岸先生が南平台の教会の本部を訪ねるようになったというのが最初です」 

 

勝共連合の勝共とは、共産主義に打ち勝つこと。統一教会は1960年代半ばから、「勝共運動」を世界に広め始めます。 

 

文氏が日本での拠点を作るべく、笹川氏と会合を持ったのが、あの本栖湖の施設でした。 

 

いまもそのままに残る、第3特別室。笹川氏と文氏が日本における勝共運動の推進を誓ったのがまさにこの部屋でした。 

 

教団側に残されていた写真からは、笹川氏や岸氏が積極的に活動に参加していたことが見て取れます。 

 

1970年には、韓国が中心となって世界のさまざまな反共団体を組織した世界反共連盟・WACL(ワクル)の大会が日本武道館で開かれました。これを取り仕切ったのも勝共連合です。 

 

国際勝共連合YouTubeより 

「WACL大会総裁・笹川良一氏が津波のような拍手とともに登壇」 

 

笹川良一氏 

「我々は世界をいでとし、人類すべてを兄弟と考えておるものであります」 

 

演説を目の当たりにした統一教会元幹部の記憶は、いまも鮮やかです。 

 

元アメリカ統一教会 幹部 アレン・ウッドさん 

「笹川氏は胸を叩きながら『私は文氏の犬だ』と言った。驚くべき言葉でした」 

 

■宗教団体の票を頼るようになった背景は? 大きな転機は「京都府知事選」 

 

教団が掲げる反共の理念に賛同の意を表明した政治家に福田赳夫氏がいます。 

 

福田赳夫大蔵大臣(当時) 

「アジアに偉大なる指導者あらわる、その名は文鮮明ということである」 

 

 

福田氏や安倍晋太郎氏の番記者だった政治ジャーナリスト・秋山光人さんは、福田氏が総裁選で、田中角栄氏に敗北を喫したことが宗教団体の票を頼るようになった背景にあると指摘します。 

 

政治ジャーナリスト 秋山光人さん 

「非常な金権選挙があって、集票マシーンである建設業界というのはほとんど旧田中派になびいていた。だから福田さんの政権になるまでは、ずっと冷や飯を食っていて、厳しい立場に清和会(福田派)の人は置かれていたわけですね」 

 

Q.清和会(福田派)の議員にとっては何でも票は欲しかった? 

「それは昔から今までそうじゃないですか」 

 

統一教会の大きな転機は、1978年の京都府知事選でした。 

 

政治家の信頼を勝ち取るべく、勝共連合が選挙支援に乗り出したのです。 

 

28年続いていた共産党の地盤に全国の信者が集結。自民党が推薦する候補を応援しました。信者は、共産党を攻撃するビラを大量にまいたのです。 

 

その結果、共産党候補は落選。勝共連合の組織力・集票力が政界に知れ渡ります。 

 

彼らが爆発的な力を見せたのが、1986年の衆参ダブル選挙でした。 

 

国際勝共連合 渡邊副会長 

「中曽根政権のときの衆参ダブル選挙のときが圧倒的だったので。(選挙前に)中曽根先生とお会いし、あるいは安倍晋太郎先生とお会いして、どういうふうな選挙応援をするかというのは協議し合って動いた形ですね」 

 

自民党と勝共連合は支援する候補者や手法まで協議していたといいます。 

 

衆議院で300議席を獲得し、自民党圧勝に終わった選挙。 

 

勝共連合は支援で130人を当選させたと機関誌で喧伝。政界とのパイプが新たな信者の獲得にも利用されたのです。 

 

文鮮明氏「文鮮明先生マルスム(御言)選集」より 

「(1986年の)選挙当時に日本の金で60億円以上使った。統一教会は恐ろしいです。(信者が)40人いれば1人当選させることができます」 

 

■安倍晋太郎氏、落選を経験 より一層教団側と接近へ 選挙支援のお礼を述べたことも 

 

1986年、統一教会と自民党の関係はさらに深まります。岸・福田両元総理に連なる派閥の会長に安倍晋太郎氏が立ち、ここに安倍派が生まれました。 

 

 

 
 

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