( 243123 ) 2025/01/02 05:51:51 2 00 人気芸人 M-1は「滅びるよ」将来を危惧「どんどん鋭角になってく」審査員の構成に疑問「興味がなくなっている」デイリースポーツ 1/1(水) 17:40 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/3199aacebbf952e0afac22488144c63f9042f537 |
( 243126 ) 2025/01/02 05:51:51 0 00 伊集院光
タレントの伊集院光が1日放送のテレビ東京「あちこちオードリー」に出演。漫才日本一決定戦「M-1グランプリ」の将来を危惧した。
収録がM-1本番4日前。MCのオードリー若林正恭が初めて審査員を務めるとあって、ゲストの伊集院、パンサー向井慧も話題が同大会に集まった。
伊集院は「M-1の審査員っていつから、こんなに漫才の人だらけになったの?」と疑問。初期の審査員は、劇作家の鴻上尚史氏、落語家の立川談志さん、放送作家から東京都知事になった青島幸男さんなど、多彩だった。
伊集院は「M-1に出たことある人たちで、しかもM-1がちゃんとステップになった人たちが全員、審査員でいいの?すごい特殊じゃん。そういう文化って滅びない?見てる人も出てる人も、審査している人も、漫才通の人とかが『あそこ、もう1回天丼あってよかったよね』みたいな、『これは競技スタイルの漫才だから、早めにつかみの大きめの笑いを』みたいな。どんどん鋭角になっていく。滅びるよ」とマニアックな方向に行くことに心配を募らせた。
伊集院は「単純に全エンターテインメントの中で漫才は高い位置にあるから、『面白いね、コイツ』で、自分の見方でいいと思うんだけど、勝ち抜いた人たちが、勝ち抜いた経験からのことを、すごい通のファンが見て、みたいなのはあんまりいい傾向にないと思う」と語り、「正直、どんどん興味がなくなっている」と話した。
若林も「学問化して、タコつぼ化していく」と将来に懸念をのぞかせた。
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( 243127 ) 2025/01/02 05:51:51 0 00 =+=+=+=+=
令和ロマンの連覇に、その傾向はもう見られる。 バッテリィズに若林君が『ワクワクするバカが現れた』と絶賛したのが、せめてもの救い。
ちょっとSNSを気にし過ぎてる。 やたら審査員を叩く人が居るが、あんな輩はほんの少数。 全く違うジャンルの人が、『つまらない』と言って50点を出すくらいの審査で有って欲しい。
▲2838 ▼291
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言いたいことがすごく分かる。漫才を漫才として分析する審査員はもちろん必要なんだけど、みんなが同じ視点だけで審査をするとより答えが明確になりすぎて面白く無くなると私は思った。笑いには広い視野で尚且つ自分の独断で一言面白かったからと堂々と言える審査員も必要だと思う。あと、大御所と呼ばれる人はいた方がいい。審査員が小粒に見えると番組もダイナミックさがというか幅がなくなり内輪だけのものになっていくように思う。 視聴者の批判があっても堂々と審査できる人が審査員としていることも大事だ。
▲86 ▼3
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個人的には過去の優勝経験者が審査するのは悪くないと思いますが、それだけになるというのは、確かに偏る可能性はありそう。
他の賞レースでも、視聴者投票の結果が票に入る事がありますけど、だいたい視聴者が選んだ方は負ける事が多い印象があります。
もちろん、審査する芸人の方々も、色々と板挟みになる点もあると思いますが、その負担を減らす意味でも、別ジャンルの人間がいても良いと思う。
▲1880 ▼138
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他の分野もそういうところがあるものだが、お笑いは特に。 誰かが創り出し育ててきた違う分野の伝統や文化や仕事や素行や努力や芸風や言動や癖や風潮やマナーや流行を、いじくり見方を変えたりマネしたり強調したり崩したり違うことをしてわざと間違えたり偉そうに批判したり時にはバカにしたりして笑いをとることが、お笑いレベルが高いように思われるが、 一生懸命やって創り上げてきた他人がいるからこそ、成り立つお笑いも多くある。 お笑いは他分野の多くの方々の長年の積み上げに比べれば、一瞬の期間でそれらを破壊できる力がある。 だからこそ、お笑いはお笑いだけでほぼ完結できるものではないのだから、他分野へのリスペクトも必要である。他分野を育てる種まきも必要である。
▲80 ▼14
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オーディション系の番組は昔からあり、のど自慢・スター誕生・イカ天などが挙げられるかな。マンネリ化して数字が取れなくなり消えていった番組が多い。M-1も当時は斬新なスタイルで非常に楽しく見ていたが、何とかマンネリ化を防いで頑張っている方だと思う。 コアなお笑いファン向けなのか万人向けなのかで審査員の人選も変わってくるだろうが、数字が正義のTV局の意向次第だね。審査員が固定化するとマンネリ化しやすいし、些末に拘りすぎると普通の人はついて行けなくなる。バランスが難しいと思う。
▲116 ▼15
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視聴者としては審査員とファイナリストの芸人さんとは テレビや舞台で共演したり、事務所が同じでプライベートでも色々付き合いがある場合が多いので、フラットな気持ちで審査するのはほぼ不可能に近く 馴れ合いになってる様に思える。 (審査員の方もそう見られるのが分かってるから 点差に大きな差を付けられないんだと思います)
M-1の初期の 島田紳助、松本人志、大竹まこと、ラサール石井、島田洋七、 中田カウス、立川談志等、漫才師じゃない方も入ってる方が 多角的な視点で審査をして欲しく 特に立川談志さんの様な畑が違い若手芸人さんが萎縮するような 方が1人居てほしいですが、今そんな芸人さん居ないんですよね。 (立川志らくさんでは役者不足)
▲304 ▼64
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今も今で面白いとは思うのですが、いわゆる「スター発掘」的な要素が生まれづらくなるのかな、という危惧はあるように思えます。 予選は別審査とはいえ、決勝の審査員が全て漫才出身で世代も似通ってくれば、その好みを押さえたような没個性的な展開も今後はあり得るのかなと。 極論ですが、柔道ではなくJUDOというよく似た別競技に変貌していくような…そんな感覚です。
▲114 ▼6
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良くあることだと思う。 専門化していくのに伴ってファンのマニア度が上がる、そしてそのジャンルが先鋭化していきマニア以外は入れなくなる。 これはお笑いだけでなくサブカルチャーでもあった。 どんどんM-1を勝つ為の競技漫才として特化していくコンビもあるだろう。 それでもそれをぶち壊すコンビも出てくるはず。むしろそういったコンビの方が爆発力があるかもしれない。 それでもシンプルに面白いものはコンテスト関係なく面白いと思う。
▲915 ▼101
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審査員のが緊張してるかもね。発言も気を使ってる感じがするし、なにより他の審査員と点数が離れてたらどうしよって感じの人が多い気がする。トップバッターにいい点数つけるとその後がとか言ってるけど、面白ければその後のこと考えずに点数つけてほしい
▲872 ▼55
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これはどの業界のコンクールにも言えること。つまり、優勝者がスタンダードになるから。みんなそれを研究してレベルが上がる。この時期はまだいい。しかしそれも過ぎてくると、みんなのレベルが高くて差がなくなってくる。ちょっとしたミスも許されず、作り込みも凄く、好みの問題になってくる。しかしながら、これはいわゆるコンクールの弊害と言われる現象で、音楽界では以前から見られた現象だ。どうしても表側の見える、見えやすい部分に焦点があたり、見えない部分がおざなりにされてしまう。自分が面白いと感じ、好きなものを突き詰めるのではなく、勝つためのものになってしまい、ある意味個性が無くなってしまうからだ。M1にしても、例えばゆっくり喋るスタイルとかはもう決勝に残れないだろう、しかしそのスタイルには独特の味があるはずだ。レベルが高いというのはイコール面白いとか、素晴らしいとはまた違うことであることを認識し直すべきでは。
▲400 ▼32
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おっしゃる通り今回のM-1見てて思いましたけど初期の意味合いが全く感じられませんでした。 島田紳助氏を批判されておられる方々が多数いらっしゃいましたが創設者は島田氏であの言葉が大事だと感じました。 そもそも、漫才師を辞めるきっかけになればの意味合いもあったはずですが今やおもしろくなくても目指すものになってしまってると感じますし身内だけで盛り上がっているとも感じます。 やはり、落語家さんや演出家の方々がいらっしゃればもっと厳しい意見も出たと感じます。
▲948 ▼207
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伊集院光さんって多角的に物事を捉えるから見えてくるものが違って見えるんですよね。まぁ三遊亭楽大時代に芸事については師匠に教えられたんだと思う。
ノンスタ井上さんが言ってた「オンバトは審査する一般のお客に受けるネタを作るけどM-1はお客に受けなくても審査員だけに受ければ良い」と言ってた。品種改良品を作るように内輪だけで突き詰めてお笑いをやっている感じがして純粋に面白いという感じがしない、9人の審査員がいるなら落語家や放送作家や劇作家など漫才とは違うジャンルの人から選出するのが良いと思う。
▲329 ▼26
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これは伊集院さんのおっしゃる通りかと思います。流行りすぎるとマニアと一般層が乖離して、声の大きいマニアに合わせると一般層が離れていくのはM-1に限らずどのような文化、流行り物でも共通の現象なのでそのように進むだろうと思います。
▲343 ▼37
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ロジックとか難しいことを考えずに自分が面白いと思えばそれでいいと思い見ています。お笑いはそういうものでしょう。審査員の評価が高いから面白いのではなく、自分にハマるかどうか。人によりけりです。あまり技術面に偏っていくと画一的なお笑いばかりになってしまいそうで懸念します。
芸人さんやオファーする側的としてはわかりやすいおもしろの称号がほしいのだと思いますが、自分はショーレースもひとつのお笑い番組として見ています。
▲61 ▼5
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M-1が競技化しているのは令和ロマンで痛感している。彼らは研究し計算された緻密な戦略によってM-1というゲームを攻略した。私にはAIの漫才のように感じられた。他はそれぞれのキャラクターや持ち味を活かした自分達らしい魂のお笑いをやっている組もあったが、それでも年々おとなしくなり周りに迎合している節が見られることもある。審査員も当たり障りのないコメントと、それぞれの点差の少ないおとなしい採点ばかり。もっと多彩な審査員でいいと思う。芸人枠、スポーツ枠、俳優枠、ミュージシャン枠とか。そして視聴者投票も取り入れてほしい。芸人にウケる芸だけをやってても意味がない。ジャンル問わず皆を笑わせることがお笑い芸人のかっこいいところなのたがら。
▲35 ▼9
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審査員が9人おったら 4人は他の演芸でも ええと思いますよね。
そうしないと他の演芸を勉強した人間の 努力の跡を見逃す可能性がある。
立川談志は落語以外にも踊りや 講談、その他の演芸を弟子に課した。
落語だけできてりゃいいという 甘えを廃すためと、 芸に幅を持たせるためかと思われる。
漫才の大会なのだから 過半数を漫才師が 占めるのは構わないが 他ジャンルの審査員がいないのは ちょっと角度が浅くなる気がする。
▲361 ▼50
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なんか、審査員に個別の評価させると、細やかなテクニックにまで言及して、そうするとシンプルな面白さより鋭角なスキルに走っていっちゃう感じがする。 観ててこういう面白さがあるんだ、こういう笑わせ方なんだという驚きがある一方で、ずっと観てると疲れる様な漫才が増えたかなという気がします。
▲157 ▼12
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今年の審査員は本当に良かったと思いますが、来年以降は伊集院さんの仰るようにM-1功労者だけの構成は避けたほうがいいと思います。 「大会から輩出した人だけを審査員に据えて大会の権威を高めていく」って、なんというか閉鎖的だし排外的です。組織や大会として硬直化して行ってしまうような気がします。M-1グランプリを「M-1特化の競技漫才を評価する大会」にはしないほうがいいと思う。
▲172 ▼15
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私は単純にM1は面白い漫才が10組見れるので楽しみ。また漫才は漫才師が評価するというのもわかります。放送作家ならいいですが落語家に何がわかる的な評価もありました。各審査員がその場で審査するのがエンタメ的に盛り上がりますが、全部見終わってから順位付をして最後発表した方が審査員へのプレッシャーも少ないのではと思います。
確かに令和ロマンには圧倒的な頭の良さを感じます。何をどうやったら「笑い」を起こせるか計算済み。しかしこの一年で思ったほど露出が多く、茶の間の人気者になったとは思えません。それはアドリブ力、人間性等、現在TVで大活躍中のタレントにはまだ到底及ばないからではないかと思います。
そう考えると二連覇した令和ロマン、ここからが正念場。漫才は上手だがタダそれだけと言われるかも。TV局は10組の中に未来のタレントを見定めているだけ。それを証拠にバッテリィズの露出が既に多くなっています。
▲2 ▼3
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よくぞ言ってくれました! M1直後に令和ロマンの時代が来るなんて散々言われてたけど、 自分は時代までは来ないと思ってます
このままいくと、M1の行きつく先は、 大袈裟に言ってボディービル大会みたいなもの いや、そんな筋肉の名前知らないし……、 てか筋肉つけすぎて良さがわからないし……、 という感じで
本当に面白さを競うなら、 審査員も絶対に多種多様な人がほしい 江頭さんとか、喜劇作家の三谷幸喜さんとか デーブスペクターさんとか、コロッケさんとか 別に漫才の技術どうこうではなく、 たくさんの人が独自の視点で審査して面白いを決めてほしい
▲105 ▼14
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紳助、松本という大会の創始者的な人間がいなくなり、大御所も減った。今の審査員からでは、認めてもらって得た栄冠という部分は薄くなっている。優勝して売れる目標だけでなく、本来は売れない中堅芸人に諦めるきっかけを与える大会でもあり、芸人が納得する仕組みである必要はあります。 審査システムはマイナーチェンジしているが、審査員も審査後の批評で辞退する人も出たりする中で、全員が納得する審査員を揃えることは難しい。 新しいスターを生む大会としては残ってほしいが、今年の連覇もあり、大会自体の意義なども考える時期かもしれません。
▲39 ▼7
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「素人の感想は聞いてもアドバイスは聞くな、プロのアドバイスは聞いても感想は聞くな」と言われることがある。 観客の大半は素人だからどこが良かったか聞くのは重要だが、制作現場や舞台裏を知らないのでアドバイスは的外れなことが多い。 一方でプロは現場や舞台裏を経験しているからそのアドバイスは参考になるが、プロにはそれぞれ完成したスタイルがありマニアックな視点によるものが多く、それが自身のスタイルに当てはまるかどうか分からないので感想は当てにならないことが多い。 そのため、このようなコンテストでは少しは素人審査員を招いてバランスを取らなければ、伊集院氏の言うとおりだんだんトンがったものになっていくのかもしれない。
▲45 ▼7
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歴代優勝者が消えていないのはさすがと思われるが、漫才師として活躍しているかどうかで見るとすでにいくつかそうではないコンビもいる。 初期の頃の大会王者はたしかに底力があるのかもしれない。 本来は伊集院さんが言うように他ジャンルの方も審査員にいるべきだし、例えるなら歌のチャンピオンを決めるエンタメとしての大会でテクニカルな人たちばかりが審査員になっているようなところもあり、そうなると本当のコンクールのようになってしまう。エンタメなのか技術審査会なのか、そこが分からなくなってきている。 そうさせているのは国民審査員である。本当は誰が何をやっても採点が甘いような人がいたり、その逆の人もいるのがエンタメとしての大会なのだが国民審査員はそれを許さない。国民審査員がこの大会を難しくしている。
▲50 ▼22
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令和ロマンにはらしさを感じ、バッテリィズの1発目などもおもしろかったので、今年のM1はおもしろかったなあ、で終わった 伊集院さんの言葉で、なんとなく思うのはヤーレンズの敗退かな。「後半にかけてなんとか」とかの話とは関係なしに終始クスクス笑える漫才師が、「あ、評価されなかった」などと思うようにはなってほしくないかも。お笑い番組にしょっちゅう出て楽しませてほしい
▲22 ▼4
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番組の時間の関係上漫才の時間が制約されてしまっているから余計に競技化してしまうんでしょうね。そこはジレンマな気がしてそれより長い方が面白い、いまいちがあると思う。 審査する人も三分の一はちょっと違う立ち位置の人がいていいような気もする。お笑いって変わりゆくから審査するのも大変だと思う
▲12 ▼3
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確かに今回は似たような価値観の審査員ばかりだと思いました。中堅以上の漫才師で、しかもネタ作りも担当してそうなそうそうたる方々。 大会の影響力が大きくなり過ぎて、少しでもズレた評価をするとすぐにネットで叩かれるから畑違いの人は尚更引き受けてくれないのかも。 落語家やコント師、漫談家や放送作家等他ジャンルで活躍してる人が審査員として出できて笑いの好みで差のつく、荒れる審査を見てみたいとは思います。
▲42 ▼5
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好き嫌いも年齢差もあるから誰が優勝するかということに対しての興味は無くなってますが、面白い人達が出てきてると思います。
新鋭の面白い漫才が見れる出し物として観ていますので、むしろ決勝進出までの審査の方が重要なのかと思います。
▲67 ▼39
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漫才とは何かって、根本的には大衆芸能なんだよね。個人の好みは当然あるけど、4分間見終わって笑ったかそうじゃないかで評価してくれるなら誰が審査員でも良い。それよりも、各審査員の基準点を揃えてほしい。1組目が基準になって、そこから加算減算するという人多いけど、その基準が85点なのか88点なのか90点なのか。特に今回は審査員多かったから90点基準と85点基準で40点以上かわる。1人目は必ず85点とか、審査員側のスタートラインを統一しないと、審査員内で重さが違ってきちゃう。
▲22 ▼45
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そもそも予選が点数制で決勝は投票制というのが、審査方法に統一感がなくて見ていてスッキリしない。 点数制であれば、審査員の4人が1点差でAのコンビを支持しても、、審査員の1人が5点差でBを支持したら、Bの方が上になってしまう。
最近は50点や60点台を付ける審査員はいないが、それでもトップと最下位で10点差以上つける人もいれば、5点差ぐらいの範囲で評価する人もいる。そうすると当然、点差を多く付ける審判員の影響が大きくなる。
予選を、例えば各審判が1位は3点、2位は2点、3位は1点で評価し、点数の多いコンビが決勝に進むというような投票制にすれば統一感でるし、逆に決勝を点数制にしてもよい。
▲15 ▼23
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一般にはコンテスト、コンクールなんてものは新人の為の登竜門のようなものなのではないのか。ただビジネス、実力の指標としては万人に分かりやすいのかも知れない。優勝したコンビは連覇して審査員からも絶賛されていたが、自分にはさっぱり。漫才はある意味言語、文化を最先端レベルで扱う芸術分野の一つとも言えると思うし、審査員も仲間内ばかりではなく、他の分野の人間もいればより漫才の面白さも奥行きも増してきそう。伊集院さんの考えも言えてると思います。
▲10 ▼7
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トムブラウンが初めて決勝に出たとき他の審査員が90点前後の中で立川志らくさんだけが97点という高得点をつけた事があった。こういう感じで特定の人に刺さるというのも大事だ思うから他のお笑いのジャンルの審査員というのも必要。
▲184 ▼17
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人によって見るポイントも変わっている それだけで十分ではないのか それでもやはりちゃんと面白いコンビが残っているし、優勝した令和ロマンも最終決戦に残ったバッテリィズも真空ジェシカも面白かった いろんな審査員がいろんな審査をして結局面白いコンビが残っているからな 競技性ってのはわかるけど、結局面白いコンビが勝っているうちはM-1は紳助が目指したM-1だと思うよ 面白さよりネタ構成やテクニックばっかりに目がいって面白いコンビが取れなくなればその時に初めて危惧されるべきことだと思う
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確かに大吉先生のコメントとか聞いていると、そのうちに表現型のスポーツみたいに芸術点と技術点とか採点のカテゴリー分けみたいなことが起こり始めかねないなと思ったのだが、その時々で運営側が一生懸命見直していけばそれはそれで進化の一つかも。
▲93 ▼10
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本当に、品評会みたいになってしまったら本来の漫才の面白さは無くなってしまうだろうね。 実際若手漫才師はM-1を当然目指すのでそれ向きのネタ作りになりがちで早いうちから型を作ろうとしたりしてどこかで見たような形になってしまったりとその弊害も感じられる。
やっぱり審査員の好みも出て良いと思う。 良い意味で軽いスタンスでお客さんと審査員の間に立ってコメントできる人は必要だと思う。 今回はともこ姉さんがその役割をしようとしていたんだと思うけど、あのメンツの中で下手したら一番今でもネタをやっている人だし漫才への気持ちの強さは誰よりもあるが故にその役になりきれなかった。
それでも第一回から欠かさず見ていて大好きなので今から今年のM-1も楽しみにしてます。
▲65 ▼20
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テレビの出演者がテレビでM-1グランプリに対しての意見を言ってほしくない!M-1の放映がテレビじゃなくても、漫才師の頂点を目指す人たちの戦いを観たいから観るのです。伊集院さんみたいなテレビタレントが滅びるとか言うのは解せないというか… 大会を盛り上げる為には、それに関わる人口というΦを広げる必要があると思います。毎年エントリー数が増えるのはその努力の賜物でしょう。 一方で、技術のトップを目指す者の向く方向性は、やはり尖っていくものだと思います。 唯一無二を目指す訳で、職人としての当然の事です。 漫才師は自分で一番笑ってもらえる工夫をするのが仕事であって、舞台であってもその本質は変わらない。でもそれを競い合わせて、M-1グランプリを作ったのがテレビなら、興味がある物にし続けるのはテレビの努力じゃない?
▲4 ▼27
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色々奥深くて難しいもんなんだな、 よく分からんけど、見ていて令和ロマンが一番面白いと感じたし、 決勝に残った他の2組も、めちゃくちゃ面白かった。 決勝の前は、バッテリィズの1本目が1位だったけど、確かに1位の面白さだった。鋭角になっていってるのかな?毎年面白いけどな。
ナイナイがやってる面白荘もめっちゃ良かった 意表を突いたのがいっぱい出てくるびっくり箱 M-1みたいなのも面白荘みたいなのもあって、たぶん大丈夫じゃないかな
▲1 ▼9
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漫才師のコンテストとして有名になってしまったからこそ、漫才師ではない一般の感覚が必要だ、というのはなんとなく理解できる。 今回Xで初審査員だった海原ともこが叩かれたようだけど、そもそも海原ともこを知らない視聴者が多数いることに驚いた。年末のマスターズ(※全国放送)にはずっと毎年出ているのに。日頃漫才とかお笑いの類を全く見ない人が、話題性からかM-1だけは見ているって状況が浮かび上がってくる。 漫才を見ない人もなぜかM-1は見るみたいなので、漫才を見ない人の肌感覚にも合わせた審査も納得性の面では必要なのかもしれない。
▲8 ▼8
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大会が大きくなりすぎた感じはありますね。 番組以外にもアナザーストーリーとかツアーとか、 朝日放送としたらドル箱なのでやめられないでしょうけど。
視聴者側からすると決勝に上がるコンビも、すでにテレビでは馴染みの面々も増えてきたので新鮮味は昔ほどないかなあ。 南海キャンディーズや笑い飯ほどのインパクトがあるコンビは数年出てない気がします。
▲89 ▼45
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伊集院さんはさすがに目の付け所が違うな……と読んでました。 漫才技術の特化で点数の上下があったり、審査員の質から大会が始まったり…… たしかに専門色の強い閉鎖的なイベントになっていく懸念はあります。 単純に面白い漫才と言っても、審査員によって価値観も変わりますし、世間のノリも毎年変わりますし、必ずしもM1の覇者とか上位経験者でないと審査員は出来ないなんてイベントにすると視聴者は置き去りにされる時が来るかもしれないな…と、思いました。
▲20 ▼3
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過去の優勝経験者やお笑いの大御所が審査員は悪くはないですが、 結局一般人が見て面白いかどうか?そこに尽きると思います。
もっと色々なジャンルの方々が審査員として出た方が 様々な角度からお笑いの視点が見られると思います。
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伊集院さんがおっしゃることもわかりますが、おそらくそういった他分野の方々に断られて断りきれないM-1経験芸人達主体になってきたのでは。 それと、テレビ的に仕方がないとはいえ本来なら10組全てのネタが終了した段階で各審査員が1位から10位の順位を着けて決勝ラウンドに進む3組を決めるのが公平であり望ましいです。
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各事務所に養成所があり毎年多くの芸人が生まれている。同じくらい芸人が引退すれば良いが、そんなことはない。しばらく飽和状態の芸人が溢れ出ている状態だと思います。そんな芸人を売り出すためにM1が始まって毎年二人しか生まれていなかったが、例えば10年続けると20人生まれたことになるし、各局が賞レースを開催することになったので10人/年くらいのタイトルホルダーが出ているので各人のインパクトは薄れていると思います。賞レースをもう少し絞るか、四年に一回とかしないと価値が下がり続けることになると思います。
▲68 ▼97
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審査する人間を少数制にするなら今の形でいくしかないんじゃないかな。 ただ人によって見方も変わるから会場の人が審査するってした方が漫才する側も納得できると思う。 昔は点数もドンって出てきてたけど最近は各人何点、何点、何点と時間を稼いで視聴率を保とうとしている感があって正直飽きます。 リアルで見る価値は感じないからビデオ撮って、後で漫才の所だけ見ています。審査員の評価なんてほとんど見ていませんし、ほとんどの審査員が90~96点の間の点数をつけている感じもあまり好きではありません。 かといって一人の審査員が80~100点の間でつけられてもその審査員に依存してしまいますからね、難しい所です。
▲3 ▼0
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これ見てて納得してた。審査員は出場or優勝経験者でガチガチに固めてるし判定に審査員以外の表はほぼ影響を与えないから内輪で優勝者を決定してるのと同じ。審査員もズレた事を言っちゃった人はお笑い知ったかド素人に吊し上げられ翌年呼ばれない予定調和。決勝に行く人はドラマチックに紆余曲折をわざわざ感動的に流してるし敗者復活もわざわざ当日ギリギリの時間帯にやってる。シンプルに笑いのみを見たい視聴者としては押し付けがましいし重い。本当はシンプルに笑えれば良いだけだと思うんだけど何を主役にしたいんだか分からない。
▲36 ▼2
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視聴者の殆どが漫才素人なんだから、お笑いに 関係のない審査員達に面白い、つまらないの2択で審査されるのはアリだと思うけどね。玄人好みの芸が評価されるならテレビでやらずに劇場でやったら良いと思う。チケット買って集まる観衆も通好みなのだろうし。SNSのコメントを気にしすぎてこ難しくなっていくのなら、伊集院さんが言う通り視聴率の取れない滅びゆくコンテンツになるのだろうね。
▲5 ▼1
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そもそもだけど、令和ロマンが2連覇してしまってるのは大会の趣旨に大きくズレてるんだよな。 実力云々よりも、元々M1は10年やって全く結果が出なければ芸人を諦めるだろうという島田紳助考案の最終トライアウトみたいな考えが始まりだった。
だが番組が大きくなるにつれ、本来の売れない芸人にケジメをつけさすための趣旨が曖昧になりどんどん競技性が増し、気が付けば今の芸能界で最も大きい芸人の賞レースになった。 審査員にしても9人もいらないし、全員が漫才関係でしかもM1から出てきた芸人が大半というのは面白みに欠ける。 昔のアマチュアバンド発掘番組のイカ天なんかは審査員7人のうち必ず2人ぐらいはその回のゲストで俳優や著名人を呼んでいたが、そういう色眼鏡なしの目線で面白い面白くないを判断する人って絶対に必要だと思う。
▲16 ▼3
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伊集院さんと言えば、「エンタの神様」が若手芸人の使い捨てで将来を心配していたことを思いだした。確かに一時の爆発はあったが、長い目でみたら沈んでいった方が大勢いた。観ている方は「あの芸人いたなぁ」で思い出話できるが、芸人当人は苦しい思い出しかなかったのではないかと、今は本当に思います。
▲31 ▼4
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わかるなあ。 上沼さんとか、山田邦子がある種違った切り口で評価することで「多方面から評価されての王者」感が成り立っていたのに、審査員が全員本職になってしまうと「競技漫才」になってしまう。「面白かった」ではなく、「うまかった」になる。 フィギュアの演技点、構成点、芸術点みたいな、あんな感じにしたいんだろうか。実際ここ数年リアルタイムで見る気がなくなり、気になった芸人だけ、配信で見るようになった。
▲59 ▼3
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さすが伊集院さんの意見は鋭い。 的を射抜いている。 以前のような「おもしろい人が勝つ」漫才コンテストではなくなった。 なんとなくテレビ局サイドが令和ロマンを連覇させて盛り上げようという空気を作り、審査員たちにも令和ロマンを負けさせる勇気がなかった大会だと思いました。 このまま世間の考える「おもしろい」と、審査員の採点基準とのギャップがあれば、大会が廃れていくのは確かでしょう。
▲31 ▼5
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滅びるかどうかはわからないけど、令和ロマンが連覇したことでM-1が一つの区切りを迎えたと個人的には思っている。漫才師はM-1を漫才日本一の称号が得られる大会と捉えているんだろうけど、テレビ業界から見ればニュースター誕生の場だったんだろう。その証拠にネタ番組をやって優勝者の漫才を見せる場を作るのではなく、既存の番組のゲストとして読んでみたりレポーターをさせたり、漫才へのリスペクトが感じられない企画にばかりに使い、飽きられたら使い捨て。そんな扱いのM-1から本当の意味での漫才日本一を選ぶ大会へと姿を変えるチャンスだと思っている。
▲69 ▼72
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だから、若林は令和ロマンじゃなく、理屈抜きで面白いバッテリーズを選んだのかな?
でも、世間はバッテリーズの方が面白いと感じていたみたいだし、そこは確かに審査と乖離があったのかもしれない。
今回だけを見ればバッテリーズだけど、令和ロマンは去年と変わらず今年も面白いという安定感があった。
もし、令和ロマンが去年、勢いでの受賞で一発屋だったらバッテリーズが優勝だったんだろうけど、安定してるのは実力を認めざるを得ない。 そう見ると、令和ロマンの2連覇は妥当とも思える。
審査員は皆たしかに漫才師だけど、見方はそれぞれで、笑いの技術を重視する人、技術よりも単純な面白さを評価する人とさまざまだから、そこが幸いかスタッフの狙いがわからないけど、マニアックになり過ぎないバランスを保っているように感じた。
準優勝でもバッテリーズがしっかり評価されたから、まだ危惧するほどではないかも。
▲23 ▼51
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伊集院氏の言ってることはその通りだなと思う。テクニック的なことまで皆んなで話してて。奇しくも今日のテレビで、連覇マン=令和ロマンが、漫才でそれをいじっていた。外野で突っ込んで、自分がお笑いの側だと思ってる人たちを。審査員が9〜10人もいれば、多方面の方を入れたほうが面白くなりますね。
▲49 ▼18
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伊集院さん、多くの視聴者の感想でありえる事を発信して頂き有難うございます。ここ数年、面白くもない芸人が受賞して違和感しかなかった。今大会で前年受賞者の令和ロマンの漫才を初めて観たが、一つも笑えずでした。なのに連覇!? 令和ロマンが権力者の息子さんと後で知って、審査員の顔触れを見ても、忖度などがあったのかと感じました。
▲15 ▼8
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鋭角になり過ぎるとしてもそれで良いんじゃないかな。逆に今回のバッテリィズみたいなシンプルなのが目立つ訳だし。 意外と審査員もテクニカルだけを重視してる訳じゃ無い。それよりも予選の審査員をしっかりした布陣で固めるべきだと思う
▲5 ▼22
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近年のM1はアイススケートの採点のように技術点や芸術点で審査される大会になってしまった。審査員も「理由なき採点」への批判を恐れて採点の理由探しに必死。名指しで悪いが大吉さんや石田さんなど臆病な審査員が増えている。その結果、更に残念なのは見る側もプロ気取りに採点してしまう。本来の漫才はもっと自由で「おもろい」か否かでいい。笑いの多様性はもっと広く、感性で楽しむもの。その意味で今のM1は危機だと思う。
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自分もこの空気感が嫌になって見なくなった方なんだけど、自称お笑い好きの友人の話を聞くとまぁ視聴者までもが評論家的目線で見る大会なんだと痛感しますね。 去年がどうこうで~とか、準決勝のネタがこうだったから~とか、ここまでの経緯を含めての審査なの?って思うほどM1にストーリー性を求めてるようで「その日そのネタ」で純粋に笑いたいだけの普通の視聴者からはマジでどうでもいいことを語ってくる。 審査員も「いつもはもっと出来る」みたいな品評多かったし(この点は普段劇場で一緒にやってる分しようがないのかもしれないが)そういった点でも閉鎖感は否めない大会に見えます。
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単なる雑学王ではなく、お笑い文化の在り方等には特に含蓄が深い伊集院さんの指摘だけに、一考の余地はありますよね。ただ、同時にあまりにも(サブカル)分野も細分化してしまい、誰もが認めるような柔軟な文化人、という存在が見当たらなくなった、という現状もあると思うのです。ひと昔前の小林信彦さんや泉麻人さんのような方々。マツコさんやみうらじゅんさんだと、ちょっと斜めすぎるだろうし…。強いて言えば宮藤官九郎さんや三谷幸喜さんなどが、どんな漫才を面白いと評価するのか? は興味深いですが…M-1はもう、完全に「専門家」による品評会と化してしまった気がします。
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SNSとかの世間の声を聞きすぎなんだと思う。 落語家の立川志らくが審査員をやると「漫才知らないくせに」「落語家の分際で」と批判が多かった。 誰かが他の審査員と違う点数つけても批判が続出するし。 漫才やる側だけの視点じゃなくて、純粋に見る側の視点も必要なんだけど 漫才のプロが審査しないと世間が納得しない、みたいな雰囲気は払拭しないと。
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個人的にはお笑いが大好きなので1年で一番楽しみにしている番組です。 しかもここ数年は個人的には特にメチャクチャ面白いです。 松ちゃんが不在だったので審査員さん選びにも難航したのかな、との思いですが私は違和感なく観る事が出来ました。 確かに優勝するのとしないのと人生が変わってしまいますし、やはり皆さんプロなので優勝目指されていると思いますのでここはしっかりと考えなければいけない所だと伊集院さんの記事を読んで思いました。
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どんな業界でも批評性がなくなった業界は保守的な身内ノリが横行するからせいぜい現状維持か衰退しかしないんだよね。M-1くらいは笑いというものを色んな角度から批評して解説する世界観にもう一度戻しても良いかも。昔はお笑い自体が下に見られてたので真面目に解説するのが野暮と思われてたけど、むしろ初期のM-1審査員の顔触れを見るとお笑いを一つの学問として捉えてる節も感じられてかなり志しの高さを感じる。お笑いの力を信じてる人が発足した大会なのは間違いない。
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十人十色。色々な意見があるのを承知の上で自分個人としては伊集院さんとは全く逆の評価。単に2人組で面白ければいいって感じになった2020年とかの方がこのままだと本当にM-1滅びるなと思った。で、審査員が少ないと1人の見解が結果を左右しがち。山田邦子や立川志らくが嫌いってだけで先に進めない(逆に彼らが好きでだけで著しく大きな加点で有利になる)M-1とか本当に興ざめ。今回のM-1は審査員の人数・構成も含めてかなり理想的だったと思う。
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運営の本意は知る由もありませんが、直近の漫才畑で固めた人選はイレギュラーケースという可能性もあるんじゃないかと思ってます。 2022年時点の情報ですが、当時大吉先生は、運営は『審査員の過半数を“M-1に人生を捧げた人間”が占めるのはマズい』と考えているのではないか…と指摘されてました。勿論その後運営の意向が変わった可能性はありますが。 またこれは推測ですが、運営は“場合によっては”漫才師のみで固める人選もやむなしと考えているのかもしれません。例えば同じく9人体制だった2015年も歴代王者集結という名目で審査員全員が漫才師でしたが、その後再び現役漫才師以外の人選も再開されました。もしかすると、本当は漫才師以外の審査員も欲しいものの、大勢のうちの一人だけになると採点が悪目立ちするリスクがあり、そのリスクが排除しきれない場合は仕方なく漫才師のみで固めるシフトを取っているのかも…
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大阪のでは、内藤剛志さん、マナカナ、大林素子さん達が審査員していたコンテストがあるよね 内藤さんは、ハマったら凄く拍手されていて見ていても面白い そういうのも良いんだろうな
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審査員もそうだが、それ以前に持ち時間もしっかり守って欲しい。勿論生放送だから多少の誤差や流れから時間が長くなる事は解るが、最初から1分近く時間オーバーしているネタをやって、それで優勝してもどうなんだろうと思う。
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要するに、もはや審査員も視聴者に審査される側になってしまっている時代だから、まず引き受ける人を見つけるのが大変だし、コメントとかもそれ相応の対応ができる人しか呼べないというのが現状なのでしょう。 M-1の審査そのものとは、また別の次元で物事が動いている側面も感じます。
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元々M―1を作った理由を紳助氏が言ってた事を思い出します。 優勝者がどの組かより、予選の段階で、出場している周りの芸人達を見て、自分達の実力を見極め、如何に実力のある芸人達がいるのかを知り、漫才を見限って、違う道に進むように!と始まったのがM―1だと聞いた記憶が有る。 漫才を職業にするのは無理だと気づかせ、辞めるなら出来るだけ若いうちの方がいいと… 笑いは人によって感性が違う。審査員は誰がやっても難しいのは当然だ。
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ほとんどのコンビが奇妙なキャラを乗っけたボケ、そこにツッコむ手数だけの漫才ばかり。今はこれがウケるんだから良いが全体的に同じ構成過ぎるよな。 後は奇妙な世界観で「この笑い理解出来るのカッケー」みたいなどうでもいいヤツ、あれもキツい。
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競技としてやっている以上、専門家じゃない人たちが審査してもクエスチョンマークがつく。極論言うと採点基準が独人化してて競技として成り立たない。競技は古き良きを守るためにやってるわけではない。競技化しない方向もありだとは思うが、審査の納得感で必ず課題が出るはず。
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確かに競技漫才とか言われると、何それ?って感じやね。 キングオブコントもちょっとその気があったように感じたけどな。まあ、漫才以上に演技力がいるので、緊張と緩和が重要になってくるんだけど、最初の笑いまでの流れがどのコンビも似ていたような。 いろんな視点の審査員が居てしかるべきかな。 視聴者にも一票持たしてほしいし。
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第一回は2001年。そこから四半世紀も経っている。別に当時の理念や紳助の考えに習うことなんて不要で、今のニーズに合わせれば良い。自分としては1回目の審査員のほうが違和感あり、漫才をよく知り、かつそれで人を笑わせることができる人に審査員をしてほしいから、今の審査員陣で違和感はない。
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すごくわかる。ただおもしろい漫才をして1番笑いがとれたコンビが優勝という単純なものが、若い審査員たちが辛辣に分析したり、テクニック重視になったり、1つめは漫才、2つめはコント漫才で変えてきたから優勝とか意味がわからない。2つとも漫才、同じやり方じゃダメなの?ミルクボーイは2つとも同じ行ったり来たり漫才だったけど優勝した。バッテリィズも2つともわかりやすいあほ漫才で大爆笑だったけど、やり方変えてきた令和ロマンが評価されて疑問。
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たしかに。 「初見」の人が、簡単に楽しんで観られる「大衆芸能」だったのが漫才です。 周囲から「軽く見られる」ぐらいの立ち位置でいる漫才には凄みを感じますが、「芸術家ごっこ」になったら「能」や「狂言」のような立ち位置になる可能性があります(能や狂言が悪いとは言いませんが、漫才に比べて市場が小さいのは事実です)。
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でも、そうは言いながら優勝するコンビって意外とテクニカルな漫才ではないことが多い。ウエストランドも錦鯉もマヂカルラブリーもそういう意味では漫才の「幅」方向で評価されたコンビだったと思う。たまたま令和ロマンがそっち方面を究めていく芸風なので錯覚するけど、意外と競技漫才は決勝止まりになることが多い印象。審査員の人選はいろいろ考える余地はあるけど、結果に関してはそれほど危惧しなくてもいいと思う。
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個人的には今大会良かったけどな。 感覚派のともこ姉さんから技巧派の大吉先生まで色んな評価基準があって面白かった 一番の主役は出場する芸人たちなんだから他者の提言より彼らが認められたいと思う人に審査員はやってほしい。
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爆笑やナイツ、サンドイッチ、タカトシなど、誰がみても笑えるようなそんな芸人がいなくなったね。本当に何が面白いのか?わからない。審査員もカメラ向けられるから作り笑いしているなと勘ぐってしまう。TVの前の視聴者からしたら、何が面白いんだと思っている人もいるはずと思ってます。また、No.1になったとこで、バラエティー番組に引っ張りだこにはなるものの、出たその番組で(旅番組やドッキリ仕掛け、トーク番組)自分らの笑いを入れ込むなどの事をしていない芸人が多い、もしくはつまらない。面白いことも言えない。番組の尺ももちろんあるだろうが、芸人としての魅力を1ミリも感じない。令和ロマンもおんなじようなもん。現にTVにも出てこないのも実際いる。
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お笑いって人を笑わせる、という目標、ゴールがある、訳でしょう。 でもそのルートに制限はない。結果的にゴールに到着すればいい、という 類の物。 だから人の数だけそのルートがあるはず、だけどこういう形でやると 人と違うルートはおかしい?とか、当然色々な好みが出る。 審査員はプロでマニアでもあるはずだからなおさらでしょう。
でも本来笑いのツボって個人差ある訳でしょう。 全員が笑える物ってそうそうないし。 そうすると先鋭化してマニアックなものになるか、 逆に万人受けするためにあえて少し緩くなるか・・・
競技って結局勝つためのお笑い、って言う事になるとみんな同じ顔になる。 あと審査は結局は一般視聴者の投票、だけにしないと 時世は出ないだろうね。 ビスコンティの映画じゃない。大衆芸能だとおもうんならね。
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面白い芸人発掘オーディションだったら多方面のプロから選出されるのもいいと思うけど、M-1は"漫才"の日本一決めるのに漫才に造詣が深くなくてどうするつもりなんだろう? 巨人師匠も言ってたけどM-1は漫才師を決める大会だからコントの点数は低くなるって凄く大事な基準だと思うけどなぁ。 まぁ歴代優勝者や令和ロマン他が必ずしも漫才はやってたと思えないけど。
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自社のタレント売り込むための吉本の吉本による内輪ウケの賞レース。 最初は売れるのは優勝者だけだったけど、そのうち準優勝とかファイナリストとかが肩書になってきてる。 視聴者と勝敗判定が違うことも多く審査員も吉本枠が増えてきて昔のように楽しめなくなってきた。
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今のM-1の審査って、理由は語ってるけど殆どが一般観客のウケ量と比例してるようだから、実はそんなにテクニカルな評価はしていない(ウケ量の理由を後付けで語ってる側面が強い)。
とはいえ観客がお笑いマニアばかりになるとちょっとおかしな事になると思うので(いわゆる「準決勝の観客」の問題)、そこのコントロールは大事になるとは思う
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これはちょっと分かる、実際俺もここしばらくのM1ってなんか興味沸かなかったし、 最初は漫才の祭典と思ってたから審査員の特典理由や解説にも分からんなりになるほどなーと思ってたけど、2010年あたりから何でもありになってきて、審査基準も審査員の好みに左右されることが多くて共感できない結果が増えてきてた ただそれが自身の年齢とか趣味嗜好とか個人的なものなのか、言われてるように審査員のせいなのか、それともお笑いの形態や質によってそうなったのかを判別しにくい なのでほぼ同じ条件で芸人が3:その他文化人が7とかで審査員集めてやってみて、その上で比較してみたいね
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松ちゃん自身がが若手時代に文化人みたいな人に酷評されて、笑いの分からん奴に審査されたくないっていう主義の人だから、スタートからあんな感じの布陣なのかもしれないけど、最初から一般人の評価も取り入れるって意味で普通のタレント枠を設けていたら良かったかもな。少なくとも構成作家くらいは入れても良いと思う。
だいたい、外野から採点のバランス良かったなって褒められる大会って何なんだろう?ってちょっと思う
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これがフィギュアスケートの審査みたいに「素人はどこがすごいかわからないけど、プロはそこがわかっててプロの視点で審査すべき」というのならわかるのだけど、漫才は大衆芸能だからね。
まずは「誰にでもわかる」というのが大前提。 その上で、プロにはわかる技術がポイントとして加わればいい。
今はプロ、それも経験者ばかりだから、ちょっと歪なのは確か。 これ以上高度に競技化すると、伊集院さんのいうように衰退は免れないと思う。
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たぶん復活して参加資格のコンビ歴延長させた今のM1−って、昔のそれではなく『もはやテレビを見ない人』が、「これだけは見る!」って類のものだと思います。
ですので、もうすでに『漫才好きがターゲットの先鋭化されたコンテンツ』だと思いますよ。
てか、それくらい先鋭化させないと今どきYouTubeはじめ、腐るほどコンテンツは溢れてるんだから、人の時間はむしり取れないと思います。
伊集院ももうおじいちゃんだし、まだテレビに夢見たいんだろうけどもね。
銀幕の時代が終わったように、もうテレビ全盛の時代じゃない、斜陽産業なんだから、下手な毒抜き作業は逆に寿命を縮めますよ。
なので今さら劇作家とか学者とか並ばれて平均化されても「普通の漫才番組と何が違うの?」って白けるだけだし、年一の芸人の祭典という特別感は薄れると思う。
その点では、私的には今回の審査員の布陣は全然オッケーでしたね。
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たしかに審査員のコメントを聞いていると、最初の笑いまで長過ぎたのが惜しいとか、終盤尻上がりに畳み掛けるような掛け合いが良かったとか、優勝するためのセオリーというか、スタイルが模範化しすぎている気がする。
もう少しコント師や落語家など別分野のお笑い関係者も入れた方が良いのかも。
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一晩で人生を変えたいと真剣に挑む漫才師たちのイベントにまでなってしまったので、それを採点する人たちもしっかりと漫才を批評できる人たちになるのはしょうがないかと。 出場者からしたら、漫才のことよく知らない人から採点されるのどう思うんだろうか。
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今回のM-1は出場者、審査員ともに良かったと思います。審査員に大御所や他ジャンルの居ない懸念もわかりますが、皆さん経験者として笑いの大きさだけでなくネタの構成やテクニカルな部分へのコメントで納得できる部分が多かった。 視聴者も私みたいな審査員もどきが増えてると思う。
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M-1が漫才の全てではないし、漫才の技術はわからないけど好みのタイプではないからという理由で低い点数をつける専門外の審査員がいるよりは、漫才のネタ作りやパフォーマンスの難しさをよく知る経験者が審査する方が公平だと思う。
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かと言って視聴者だけの視点だと、人気による偏りも出てくる。 会場の審査員と視聴者それぞれの投票で決める方が一番分かり易い。 勿論、審査員と視聴者それぞれの点数を表示。 乖離した結果が出たら、それはそれで面白いと思う。
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紳助が「諦めるための大会」としたはずなのに、応募数はどんどん上がってる。もちろん素人の腕試しとか既にタレントの人が話題作りなどもあるけど。諦めの良くない芸人もどきがいつまでもズルズルやってくような面もある。そしてこの大会が自分の人生の全てになってるような。自分もお笑い好きなので、毎年見てるけど、反面それ以外にもっとやる事あるだろうと思ったりもする。
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確かに、2015年〜2018年あたりは(漫才の技術はとても高いのに)どこか息詰まるような空気を感じたな。2018年で若手の霜降り明星が優勝し、2019年でミルクボーイが大爆発し、「何が起こるかわからない」ワクワク感による風通しの良さが生まれたと思う。 そこから、お笑い全体が盛り上がるにつれ、だんだん評論家的な(オタク的な)ノリも加速したよね。そんな中、令和ロマンのくるまが「評論家キャラ」の極地のような圧巻ぶりを見せたことで、(逆説的に)ここ数年の流れもまた変わりそう。漫才論やらお笑い愛やらでは、もう令和ロマンの印象に敵わないわけで。 「ジャンルが最も盛り上がるのは成熟する前の過渡期だ」という話が、ラーメン再遊記という漫画で深掘りされていた。M1も、このまま成熟に向かってしまうより、令和ロマンはじめ王者たちや来年以降の新王者の力で、爆発の火種を生みつづけてほしいな。
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