( 244758 ) 2025/01/05 16:23:10 2 00 「田沼意次=賄賂政治家」は時代遅れ…まっとうな人格者を歴史的悪人に仕立て上げた"2人の人物"プレジデントオンライン 1/5(日) 9:17 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/8f8a8eceb228c5e97bb384010b03439de7260f7b |
( 244759 ) 2025/01/05 16:23:10 1 00 NHK大河ドラマ「べらぼう」の舞台である江戸時代中期は、田沼意次が商業重視の政策を進め、学問や芸術が花開いた時代であった。 | ( 244761 ) 2025/01/05 16:23:10 0 00 田沼意次(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
NHK大河ドラマ「べらぼう」の舞台・江戸時代中期はどんな時代だったのか。歴史作家の河合敦さんは「田沼意次が商業重視の政策を進め、学問や芸術が花開いた。意次には『賄賂政治家』というイメージがあるかもしれないが、近年、この評価に疑問が生じている」という――。
※本稿は、河合敦『蔦屋重三郎と吉原蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■国民に染みついた「賄賂政治家」
田沼意次といえばもう賄賂政治家のイメージしか思い浮かばないという方が多いのではないだろうか。
やはり小説や時代劇の影響に加え、かつて学校でそう習ったからだと思う。
たとえば、およそ50年前の歴史の教科書を紐解いてみよう。そこには、確かにこう書かれている。
---------- 「意次はわいろを取ったりしたので、非難された」(『中学校社会歴史的分野』日本書籍1974年) ----------
30年前の日本史の教科書でも、「意次は、賄賂による役職の売買などを非難されて失脚した」(『高校日本史』三省堂1993年)と明記されている。
■今の歴史教科書に書かれている評価は…
また、田沼意次の屋敷には毎日大勢の客人が高価な贈答品をもって訪れ、客間はそうした人々であふれかえっていたという話は、松平定信と同時代を生きた松浦静山の『甲子夜話』に記されているし、意次が日本橋稲荷堀に下屋敷を新築したとき、「庭の泉水に魚を入れたらさぞ面白かろう」とつぶやいたところ、その日の夕方までに諸大名から続々鮒や鯉が贈られ、池には魚が群れていたという話もある。
また、これは俗説だろうが、さる大名は、等身大の京人形だと称し、大きな箱に本当の京美人を入れ、意次に進呈したという話も人口に膾炙している。
では、今の教科書は、田沼意次のことをどう評価しているのだろうか。
---------- 「意次の時代は、経済の発展を背景に、学問や芸術が展開しました。しかし、その一方で、地位や特権を求めてわいろが横行し、政治に対する批判が高まりました」(『新しい社会歴史』東京書籍2021年)
「意次の政策は、商人の力を利用しながら、幕府財政を改善しようとするものであり、これに刺激を受けて、民間の学問・文化・芸術が多様な発展をとげた。一方で、幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士の気風を退廃させたとする批判が強まった」(『詳説日本史日本史探究』山川出版社2023年) ----------
■エピソードの出所は政敵の松平定信一派
現在の教科書にも「わいろが横行」とか「賄賂や縁故による人事」という文字が載っている。やはり、「田沼意次が賄賂政治家だという評価は変わっていないではないか」そう考えるのは早とちりである。もう一度、山川の教科書をよく読んでいただきたい。
この時代に賄賂が横行したとあるが、それは単に当時の風潮を述べているだけで、意次自身が賄賂を受け取ったとは書かれていないことがわかるはず。
意次が賄賂政治家だったことについて、近年、疑問が生じているのだ。
確かに江戸時代の史料には、意次が賄賂を受け取った記述がいくつも残っている。ただ、その出所をよくよく探ってみると、平戸藩主・松浦静山など意次の政敵・松平定信一派が発信していたり、誰彼と悪口を言う人物が書いていたりする。
しかも、研究者の大石慎三郎氏によれば、こうした賄賂に関する逸話は「すべて田沼意次が失脚したのちに書かれたものである」(『田沼意次の時代』岩波書店)という。田沼が政権を握っていたときの記録ではないわけだ。
なのに、賄賂政治家の汚名を着せられたのは、やはり意次を失脚に追いやった松平越中守定信とその一派の仕業だと思われる。つまり意次失脚後、わざと巷にフェイクニュースを流した可能性が高いのだ。
■定信は意次を殺したいほど憎んでいた
政権を握った人物が前の権力者を貶めることは歴史上よくあることだが、ここまで悪評が広まったのは、定信に明確な復讐の意図があったからだと思われる。
じつは、定信は意次を殺したいほど憎んでいたのである。というより、刺し殺そうと短刀を懐に入れて江戸城内をうろついていた。本人が告白しているから本当だろう。
世の中を腐敗させた田沼政治を憎んだのだというが、定信が意次の妨害で将軍になりそこねたからだとする説もある。
ちょっと怪しげな話だが、面白くもあるので、紹介しておこう。
■徳川将軍になれるチャンスを逃した
十代将軍徳川家治には嫡男・家基がおり、彼が十一代将軍になるのは確実であった。
ところが18歳のときに急死し、次期将軍には御三卿(八代吉宗の子や孫の家柄)から一橋家の家斉が選ばれた。これを松平定信が憎悪したというのだ。
じつは定信は、御三卿の田安宗武の次男で、そのまま田安家にいたら、このとき将軍になれた可能性が十分にあった。田安家を継いだのは兄の治察だったが、治察はとても病弱で、いつ没してもおかしくない状態。このため田安家では、次男の定信を家中に置いておきたかった。
なのに定信は、幕府の命により、無理やり白河藩主松平定邦(十一万石)の養子に出されてしまった。案の定、それから半年後に治察が死んでしまい、一橋家は当主不在に陥ってしまう。そこで田安家としては、幕府に定信の復帰を願ったが、認められなかったのである。
そしてそれから5年後、先述のとおり、将軍家治の嫡男・家基が急逝したというわけだ。もし定信が田安家の当主になっていたら、英邁の噂が高かったので、十一代将軍を拝命していたかもしれない。つまり定信は、裏で田沼意次が自分の将軍就任を妨害したと信じ、憎悪するようになったという説だ。
■人気が高まる定信、人気が落ちる意次
真偽は不明ながら、定信が意次を殺したいほど憎んでいたのは事実であり、そんな彼の一派によって意次の悪評が流されたことは頷けよう。
しかも、松平定信は寛政の改革の実行者であり、清廉潔白な人物だった。だから明治時代になっても人びとの尊敬を集め、あの渋沢栄一も非常に敬愛していた。そのうえ大正時代には、定信が支配していた白河の地に彼を祭神とする南湖神社が創建されている。
このように、定信の人気が高まれば高まるほど、敵である意次は不人気になっていくのは必然だった。
私の手元に明治時代末の『尋常小学日本歴史教授書』(教員の歴史教授法の手引き書)があるが、そこに意次のことがどう描かれているかをみてみよう。
---------- 「田沼意次が、家治の時には側衆となり、遂には大名になり、今や老中に進み、一門皆顕要の位置に立ち、茲に威福を弄し、下情を壅閉して種々の弊害を惹起すに至つた(旧教科書には田沼意次の名ありたれども新教科書には省かれてある。国史としては其の氏名の如きは重要にも非ざれば、便宜省略するも可なり。)
今其の弊政の例を簡単に挙ぐれば、賄賂公行は言ふを待たず、諸大名などが家督の祝に老中を招待して饗応する事を法令で催促するやうな事さへあつた」 ----------
■田沼意次を悪玉に仕立て上げた教授
ちょっと難解な文章だが、「種々の弊害を惹起す」などと意次をことさらおとしめ、彼の名前なんて重要ではないので教えなくてよいとか、賄賂をもらうだけでなく饗応を法令で催促したなど、いかに悪い人間だったかを書き連ねていることがわかる。
一方、定信については「文武の道に秀でた人で、老中となるに及び、(略)節倹を行ひ、武備を励まし、奸邪(かんじゃ)を斥け、俊才を挙げ、幕府復興るに至つた」とベタ褒めである。こうして意次=悪人、定信=善人というイメージが確立していったのだ。
先の大石氏は、「田沼意次の悪事・悪評なるものを総まとめにして世間に周知させたのが、辻善之助氏の『田沼時代』という著名な著書である」(『田沼意次の時代』)と、意次の悪評に拍車をかけた歴史書を指摘する。
同書は大正4年(1915)に刊行されたもので、著者の辻善之助は当時、東京帝国大文科大学助教授だった。後に同大学の名誉教授となり、文化勲章を授与された歴史学の権威である。
そんな辻氏が不確かな史料を用いたり、恣意的に史料を取り上げ、「田沼意次のみを悪玉」に仕立て上げたのだと断じている。さらに大石氏は、「田沼意次についてこれまで紹介されてきた『悪評』はすべて史実として利用できるものではない」と明言する。
結論を言えば、田沼意次は取り立てていうほどの賄賂政治家ではなかったのである。
■物腰柔らかく、職務精励がモットー
そもそも当時、付け届けによって出世や利得をはかるのは珍しいことではなく、幕府の最高権力者に贈答品が殺到するのは、それが意次でなくても当然の現象であった。
では、意次は本当はどのような人物だったのだろうか。
残念ながら、その人柄がわかる一次史料(当時の日記、手紙、公文書など)は極めて少ない。そうしたなかで、意次が家中に与えた遺訓がある。深谷克己氏はこれを分析し、意次の性格を次のように論じている。
---------- 意次は「家臣が主家のために思いつくあれこれを遠慮せず、上下の身分を問わず建言することを指示していた」、「日常接触する者には丁寧で、物言いはやわらかく率直でわかりやすく、『遺訓』でいっているように『そけもの』(異風者)をきらい、乱れのない格好と職務精励を日頃のモットーにしていたのにちがいない」(『日本史リブレット人田沼意次「商業革命」と江戸城政治家』山川出版社) ----------
つまり、まっとうな人格者だったというわけだ。
---------- 河合 敦(かわい・あつし) 歴史作家 1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数 ----------
歴史作家 河合 敦
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( 244760 ) 2025/01/05 16:23:10 1 00 田沼意次は貨幣経済への転換や経済活性化を試みるなど、時代の変化に合わせた政策を行おうとしていました。 | ( 244762 ) 2025/01/05 16:23:10 0 00 =+=+=+=+=
田沼は米中心の財政に限界が来ていることを察していた。米が豊作になる程、米価が下がり米を売って生活している武士の生活が苦しくなるのは当然である。俸禄(給与)は戦国の先祖の功績によって定められ、基本上がることはない。それに米の収穫は天候に左右されるから長期の予算が立てられない。田沼の行ったことはこうしたことにメスを入れようとするものであった。だが今も昔も変わらないのは既得権益を持つ人間の激しい抵抗である。松平定信はそうした層の代表者であり、朱子学の影響で武士が金勘定などすべきではないという考えの持ち主であった。田沼への恨みは余程強かったのか、意次の死後田沼家は5万7千石から1万石に減らされ、領地も遠江相良から東北へ移され、城も石垣から徹底的に破壊されてしまった。なお田沼家は幕末まで存続、水戸天狗党メンバ-の処刑を指揮した田沼意尊(おきたか)は意次の庶子の子孫である。
▲232 ▼7
=+=+=+=+=
田沼が派遣した蝦夷地探検隊によってロシアの南下が明らかになったという事実がある。司馬遼太郎が指摘するように、ロシアには病的なまでの南下志向があった(今もそれは変わらない)。当時の日本にそれを気づかせたのは田沼の大きな功績と言えよう。
▲195 ▼6
=+=+=+=+=
田沼時代は最初期から天災や飢餓が続出し、大旱魃や洪水、江戸では明和の大火、そして三原山・桜島・浅間山の大噴火、天明の大飢饉が起きるなど苦難の時代だった。 意次を必要以上に持ち上げることはないが、こういう状況下ではそれなりに頑張ってやっていた方だと思う。いろいろ改革のアイデアも出したが、時代状況が味方せず、そのほとんどが実を結ばなかったのは、息子の悲劇もあり本人も無念だったろうな
▲95 ▼0
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江戸中期は何年も農作物の不作状態が続いており、そこへ天災が重なるなど、飢饉で命を落とす人が続出していました。 幕府も、かなりの財政赤字を抱えていました。 田沼意次は、商人たちを儲けさせ儲けた商人から税金を取るというやり方で財政の立て直しを図ろうとした。 お金は集まりましたが、商人たちが権力を持つようになり、お金を積んで優遇してもらおうとする「賄賂政治」が横行。 幕政はすっかり腐敗。 そして、老中となった松平定信は倹約令を出す。 流行っていた書籍類の出版を統制、庶民が読むものも規制。 贅沢な衣服を禁じ、百姓は粗末な衣服をまとい髪は藁で結えなどの令を出し違反者は取り締まった。 学問では朱子学以外を禁じ、蘭学者を公職から追放。 今度は厳しい倹約や統制に不満が高まった。
▲58 ▼8
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あまりに「賄賂政治家」と語られているところから作家の山本周五郎が「進取の政治家だったがゆえに敵をつくり、戯作者に悪い噂を書かせて流布させられていたのではないか」と考察し「栄花物語」を書いた。ただし後世の人々はこの小説で「田沼意次」を進取の政治家と鵜呑みにしてしまっているのも、これはこれで軽薄だと思う。
坂本龍馬の功績が坂崎紫瀾とそこから影響された司馬遼太郎の創作であった経緯に似た構図になっている。
▲69 ▼3
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田沼は今でこそ名宰相として評価されていますけど、彼を重用した家重もあまりよくないあだ名が後世に伝わってますけど、もっと評価されていいもと思いますね。 家重は家臣からも侮られ、一時は弟の宗武を推す声も大きかったようですが、吉宗が利発な孫の竹千代に期待を開けて、その父の家重を差し置くことはできないとして、家重を後継者に指名しました。 親父の緊縮財政頼みの政治に限界を見ていたのでしょう。享保の改革は成功ばかりではないですし。 自分が将軍になって、経済に明るい田沼を登用したのは正解でした。田沼は思いのほか有能でしたし。 息子の家治も引き続き田沼を重用し続けたのは、家重の遺命でしょうけど、田沼が優秀なのを認めていたからでしょうね。
▲72 ▼6
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自分の中でこの人の評価が変わったのは、小学生の頃読んだズッコケシリーズの時間漂流記?だったかを読んだ時だった。 細かい筋書きは覚えていないが、三人組が江戸時代にタイムスリップして平賀源内に会うという話だった。 セリフは曖昧なのであくまでニュアンスとしてだけど、田沼の名前が出た時にハカセが「賄賂政治家だ」と昭和当時の一般的な見解を示したのに対し、源内は「文化や学問を奨励する立派なお方だ」と評していて、なるほどそういう見方もあるんだ、教科書なんて当てにならないなぁと子ども心に感じたのでよく覚えている。
▲45 ▼1
=+=+=+=+=
意次はコメ経済から貨幣経済への転換を考えていたんじゃないかと思います ならば商人の力は絶対に強くなければならない なお彼は奇才・平賀源内を気に入っており援助もしているし 蝦夷地に移民を送り込んでロシアとの交易をもくろんでいたという説もあります 彼が源内に命じたのは輸入品を「内製化」するために研究することでした 進んだ海外の製品を日本で自力製造できれば経済は発展すると考えたのです この当時としては抜群に先進的な人だったんじゃないでしょうか (幕末の島津斉彬にちょっと似ていますね) まぁ進み過ぎていたために失脚してしまう訳です 彼の海外への関心は政権を維持できていたら鎖国を緩和しかねないものでしたからね 保守派にとっては許すまじき人物だったのです
▲155 ▼5
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田沼意次の後に老中に就いた松平定信の改革が対象的であったため、この二人はとかく比較されますね。「田沼意次と松平定信どちらがいいか?」みたいなやつです。 個人的には、田沼意次に壮大な思想があろうがなかろうが、富裕層が経済を牽引して(言い方は良くないですが)庶民がそのおこぼれをいただくというのは、確かに多くの貧困層が生まれますが経済自体は前に進むので、こちらを支持します。松平定信は確かに清廉であってもそのやり方は急進的かつ経済の活力を奪うもので、富裕層は減りますが貧困層は増えるというトータルで見てマイナスで、結果失脚ですしやはり政治力自体は弱い気がします。
現代でもそうで、田中角栄と三木武夫どちらがいい?となれば、オイルショックやロッキード事件などいろんな背景があっても田中角栄の方が強い政治家であったと思います。
裏金云々で叩いても勘定の満足があるだけ。強い政治家を落としてしまうだけです。
▲79 ▼27
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数年前にテレ東で放送された新春ワイド時代劇の大江戸捜査網でも田沼意次は善人で松平定信は非情な悪人の設定だったな、まぁ時代と共に歴史上の人物は評価が変わるね、後評価じゃ無いけど真田幸村も大河ドラマの影響で本来の信繁って呼ばれるのが普通になっているからね。
▲35 ▼3
=+=+=+=+=
田沼が評価される様になって良かったと思います。若年寄意知の刺殺も、今までは田沼政治に対する社会の鉄槌のような言われ方してましたが、明らかに政治的テロですね。こうなると松平定信も、もっと厳しい眼で再評価が必要ですね。幕府延命のために国力を削いでいった訳ですね。どこかの国の財務省と同じ。 後、吉宗も再評価して欲しいですね。彼も紀州時代から色々ありますからね。
▲88 ▼25
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賛否両論だが田沼意次は田中角栄にも通じる。わいろ貰ってたのは確かだが低い身分(意次は足軽出身で角栄は貧農出身)でのし上がり経済活性化の為に尽力したのも事実。最後は失脚した。家柄の良いエリートからのやっかみは凄かったでしょう。たたき上げの政治家と言うのは地盤が無い中、政治の中央に飛び込む形になるのでどうしてもお金が必要になってくる。 今まで門前払いだった一般庶民が陳情に訪れてきてもちゃんと受け入れるのも エリート出身者ではできない事だった。
▲50 ▼3
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人間は真っ白でも真っ黒でもないが、白黒、善悪ハッキリさせた方が覚えやすいので、田沼は一般的には黒にしてあっただけではないだろうか。 この番組で白と塗り替えるのも間違いで、より深く田沼とその政治を知る機会なのだと思う。しかし、これはドラマ。解釈は作者の自由だ。
▲32 ▼6
=+=+=+=+=
お中元やお歳暮というのも「つけとどけ」というんだから、 風習としてごく普通に根付いているものなんだよね。 コマーシャルでもよくあるように「感謝の心を形に」みたいな。
もちろん、そういうのが露骨に見返りを期待してってことになれば、まずいんだけど。 そこの境界線は、実際にはかなりビミョーなんだろうな、と思う。
▲35 ▼1
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50年以上も昔だが同じNHKの時代劇で「天下御免」と言う平賀源内を主人公にしたドラマがあったが、ここですでに田沼意次は自由な風を吹かせた善人として描かれていたことを思い出しました。
▲45 ▼0
=+=+=+=+=
何でもそうだが、話する人や見方によって評価が違う。これは仕方のないこと。先日もTVである歴史家の話があったが、幕末のある幕府傘下組織についてかなり否定的な話をしていた。そういう人の話は、よく聞いていたが、要するに悪い所だけをピックアップして強調する。人生というのはその人の持って生まれた環境によって大きく左右される。大事なのはそういう中で如何に生きるかということ。時代に逆行する幕末の幕府や関連組織を非難しても仕方がない。
▲17 ▼4
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白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき という狂歌があったとか。 質素倹約で庶民のささやかな楽しみまで取り締まった寛政の改革は不人気でとん挫した。賄賂が横行するのは良くないことだが、政治家はやはり「清濁併せ吞む」くらいの度量が無ければ勤まらないということかな。 田沼意次は時代劇では悪役に描かれることが多いが、「剣客商売」に出てくる田沼意次は悪役ではない。もしかしたら、この作品の中の田沼意次が実像に近かったりするのかも?
▲9 ▼1
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同業組合や金融緩和の殖産興業、海産物輸出で貿易赤字解消と経済活性化の功績が、今日の長い低成長時代反映して再評価されている、歴史検証も評価する時代空気で変わる。貧しい今日は極端には正義より金なのだろう。賄賂、返礼金は当時には違法てはなかた。金融緩和は今とは違う説明がいる。金銀本位制度下、金銀が通貨価値そのものため、社会大きくなると産出限られる通貨は不足しデフレなりやすい。田沼が登用の部下が明和南鐐二朱銀という金貨の補助貨幣を発案し大量発行し通貨量を増やしている。この仕組みは寛政改革の松平定信も評価して継続している。田沼・松平も政治対立しても政策の全否定ではなかつたのだ。
▲0 ▼2
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田沼意次の功績の一つに南鐐二朱銀の発行がある。 これは両替商にとっては死活問題であり激しく抵抗されたが、もし意次が私腹を肥やす人物だったら抵抗に屈していたことは間違いない。 そもそもこんな面倒で評価されにくいことに取り組もうとする時点で、意次が国政に腐心していたことがよくわかる。
▲14 ▼0
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佐野が意知を殺害したのは定信の指示だったと逸話があります。始めは佐野は意次を殺害する予定が若手の意知を殺害した方がメリットがあるとみて、意知を殺害したと言われていますね。また、意次は賄賂の金は印旛沼の開拓や平賀源内のような山師に資金援助をしていたらしく、意次の懐には金は残っていなかったそうです。
▲25 ▼1
=+=+=+=+=
田沼は重農主義一本による経済が限界を迎えているという当時の状況を鑑みて抜本的改革を行おうとした。 これまで賎業とみなされ課税対象でなかった商人たちの力を認め、株仲間の結成を促しそこに運上金を課した今でいう法人税を作り出した。 更に印旛沼を干拓し北海道を開拓しようとするなど公共事業の発注というのにも乗り出している。これにより農業資本もバランス良く拡大しようとした。 その過程で賄賂を現在の政治献金のように受け取った。 いずれにしても既存の枠組みを破壊して次の世代は繋げようとする創造的破壊あり、それを嫌う政敵や儒教の教えを絶対とする教条主義者の政敵にとっては格好の攻撃材料になった上に、自然災害や息子を暗殺されるなどの不安続きで失脚することになる。
▲8 ▼2
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年貢に頼っていた財政を貨幣経済による現金での納税に切り替えようとして、それに対して商人にも益があるような制度作りをしていたようだね。 商人から税は取るけどそれ以上に儲けさせるという姿勢があったから、そこで賄賂が潤滑油として機能していたところもあったのだろうともいわれているね。 大災害に見舞われなければ田沼政治にここまで批判が集まることもなかったろうにね。
▲12 ▼0
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田沼意次は下級武士出身で市場経済をよく知っていたから、社会構造が貨幣経済に変化に対応する中で有効な政策が打ち出せたと聞いています。
三陸の海産物を高級中華食材として輸出して海外から金を獲得するなど松平定信には逆立してもムリな話しです。
但し、彼は自由主義経済の良さはよく理解していましたが、その弱点は理解出来ていなかったと言われています。
浅間山噴火の飢饉でコメの自由化をしたのがそれ。彼は自由化でコメの流通が増えると考えたようですが、逆に欲深い人々(商人だけでない)はコメを買い占めて、餓死者が出るようになり、米一揆が多発して失脚となります。
小泉竹中改革と似てます。 工場労働者の派遣解禁、タクシーの規制緩和。自由化に伴うルールが弱くて結局社会が疲弊しました。
▲32 ▼2
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確かに意次は江戸時代きっての大政治家だったし、悪評に関しても記事の通り定信のせいだろう。ただ、その上で息子の意知を引き上げた事は最大の失策だったと思う。 意知自身は優秀だったようだし、改革的な政治にはそれを熟知したスタッフが手元に必要なのはわかる。しかしながら徳川幕府の機構では絶対ではないものの親が引退してから子がデビューする不文律があった。だから親が最高権力者でも息子は親が引退した後に家格に合わせた一番下の役職から始めるので権力の連続性が分断され、それが幕府の安定要因の一つになっていた。 対して意次は自分が老中の内に意知を若年寄にまで引き上げた。これは田沼家の権力が連続することを意味し保守層を相当に刺激したことは想像に難くない。殺されたのが意次ではなく意知だったこともそれを象徴している。
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経済政策(特に通貨政策)そのものは、後の松平定信たちの政治とも連続性を保っています。要するに、政治的な考え方の違いに基づいた対立というより、よくある派閥争いの一つだったということでは? 田沼意知(意次の子)が江戸城中で暗殺されたときに、庶民のなかからは、これを歓迎する向きもありましたから、田沼意次の治世が同時代人から常に支持されていたわけではありません。ただ、治世の末期に庶民から嫌われていたのは松平定信も同じですからね。
▲6 ▼0
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田沼意次の時代で江戸幕府の経済政策の変化を見れば商人が中心の重商主義に変わったことが町民文化がお金持ちから庶民へ拡がった背景があります。 田沼意次は江戸幕府の終わりの始まりを作った人物だと思います。
▲17 ▼1
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>松平定信は寛政の改革の実行者であり、清廉潔白な人物だった。
庶民の生活は、田沼意次の時代は好景気だったのに、松平定信の時代は不景気だった。 知識人と言われる人達がべた褒めする松平定信だけど、当時の庶民には「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と言われる位、定信は評価されていない。 そして松平定信が行った寛政の改革も失敗している。
そんな松平定信が現代で高評価される理由は、現代の政治家や官僚達が行おうとしている政策に当てはまるから。 更なる好景気を目指す田沼政治を抑え、統制経済を目指す松平政治は現代の政治家や官僚にとって都合の良いものなのでしょう。 インフレを極度に恐れ統制経済によって政治を行おうとする政治家や官僚にとって、好景気を成していた田沼政治が正義となってもらっては困るから、悪として叩く。 現代の権力者達が何を考えているのか、よく分かる一例だと思うけど。
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農本主義の江戸幕府において、商業志向の田沼意次の失脚は必然だった。 田沼政治がその後の幕府の基調となれば、50年ぐらい早く日本は自主的に開国していたかもしれない。 そうなれば中央集権化や近代化も、30年ぐらい早まったかもしれない。
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近年だと安倍さん。 安倍元首相が暗殺された途端、ビデオメッセージを送っただけで統一協会と癒着しているかのような印象を与え『手の平返し』でバッシングである。 経済とてアベノミクスは決して間違いではない。 事実、日経平均は3万円を越える盛況ぶりである。 日本の経済が資本主義を採用している以上、どうしても金は、 富裕層→中間層→低所得者層 と言う流れになる。 末端まで金が流れるのは時間がかかるのである。 そこで安倍元首相が技術大国による経済復興の為の繋ぎとして目を付けたのが日本の『観光大国』推進。 東京五輪、大阪万博はその為の呼び水であった。 その東京五輪と大阪万博の躓きは全てコロナによる影響である。 (コロナの予測は誰にも出来ない) それでも最近の観光業界はかなり上向き傾向にある。 こうして見ると、安倍元首相は現代の田沼意次のようで、もっと評価されても良い。
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「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」有名な狂歌ですね。白河侯松平定信が行なった「寛政の改革」は引き締めに辟易した民衆の反発により6年で終わりを告げます。貨幣経済への転換を考えていたと思われる田沼意次はもっと評価されていい政治家ではないかと思います。
▲32 ▼1
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工藤平助の「赤蝦夷風説考」を読み、北方の国防は重要だとし、ロシアが狙うアイヌの取り込みの原因を作っている松前藩のアイヌ虐待を知って激怒し、蝦夷を幕府直轄に進めていったのは田沼意次で、家康以来の「蝦夷のこと勝手(自由)たるべし」に戻した。同時に蝦夷地でのアイヌの暮らしがなるように手を打ち始めたときに失脚。松平定信は田沼の政治をすべてご破算にし、もとの松前藩と近江商人の場所制に戻し、アイヌの人々の希望を奪い去った。 若かりし頃の定信の振る舞いは、家重は宗武に対する怒りを月光院の斡旋で赦したのにもかかわらず、父宗武の蟄居などを恨み、将軍家重に対する批判を口にすることが多く、家重は激高し、重罰(死罪さえ口にしたという)を意次に命じたが、意次は将軍家の内紛が表ざたになるのを避けるために、定信を江戸から遠ざける策を練ったのが、白河藩への養子である。つまり、意次は定信を救ったのだ。逆恨みでしかない。
▲4 ▼1
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松平定信の改革は経済が苦しくなると「質素倹約」という幕府の伝統的手段。いわば守旧派であり、そういう人たちは自分たちの路線を変える改革者を認めようとせずに徹底的に邪魔をするのだと思う。現在の政府でいえば財務省であり、兵庫県でいえば箱モノ行政で潤ってきた政治家たち。
▲27 ▼18
=+=+=+=+=
田沼意次の評価については、見直しは随分前からあったと思いますよ
>上下の身分を問わず建言することを指示していた
これが身分制度を重視する江戸時代の支配層からは疎まれたのでしょうね。
ただ、最近は一周回ってネガティブな方向で、「経済政策は上手くいかなかった」みたいなのが出ていますね
▲14 ▼5
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田沼意次の政策は、それなりに上手く行っていたと思うけどね。 何事も改革を進めると、必ず反動が生じる。 勝てば官軍・負ければ賊軍と言われるように、どちらの立場にも戦いには、それなりの言い分や正義があるから、尚更、負けた方は勝った側からボロクソに言われ、後世に伝えられるのが世の常だもんね。 「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」 江戸にもなれば、庶民の思いが言葉として残されてるから、肌感覚としては当時の人々のこうした評価の方が真の評価ナノではないだろうか? だから今の基準に当てはめ、犬将軍を再評価しようとする動きもあるが、当時の市井の人々からの怨嗟の声は、記録として多数残っているから変えてはいけないと思うけどね。
▲6 ▼1
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まあ役得や付け届けなんて言葉があるし推薦してもらったり役についた時に謝礼を払ったり先役に贈り物をする習慣はあったらしいしね。賄賂は普通のこと。田沼が嫌われたのは貨幣経済を推進した結果御家人や旗本が貧しくなったから。給料を米で貰いそれを換金して生活する者にとっては貨幣経済はマイナスでしかないから。
▲8 ▼2
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藤田まことさん主演、TVシリーズ剣客商売に出てくる田沼意次が、煩わしいことなく好きです。 原作の池波正太郎さんは、意次の一方の魅力を見出していたのでは。
▲8 ▼0
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田沼時代についてはいい加減政策について議論されないと 田沼の政策は見切り発車が多く大部分が失敗して居る。田沼期でも幕府収入は年貢頼りで吉宗期からの増税政策をより進めている。長崎貿易も歴代の長崎奉行の努力によって黒字になったもので田沼の功績ではない。寧ろ田沼の介入に反発して居るぐらい長崎奉行は田沼政策を嫌っていた 蝦夷地探検は功績に入るが、田沼最後は完全にやる気を失って放置して居る
▲12 ▼4
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僭越ながら補足。
この時代は、付届け(賄賂)はごく一般的な習慣として行われていました。別に田沼意次が特別だった訳ではありません。付届けは重要な収入源の一つで、内緒で貰っていたわけではなく収支はしっかり記録されています。
むしろ賄賂の弊害は次の松平定信の時代、老中水野忠成によるものが深刻でした。
▲11 ▼3
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手元にある1982年旧版の小学館版学習漫画『少年少女日本の歴史』では、田沼意次がわずか六百石の旗本から成り上がったので老中たちから妬まれていた背景を説明しつつ、息子の意知との会話で、
意次「ときには、大奥につけとどけをしてごきげんをとらなければならないしのう。」 意知「ええ、しかし…。」 意次「しかし?…何だ!?」 意知「はあ。世間には、田沼はわいろが大すきだという批判もあるようです。」 意次「いや、わしはほかの武士以上にわいろをうけとりもしないし、おくったこともない。」 意知「はい…。」 意次「そのようなうわさは、わしの政敵どもがながしているのだろう。」 意知「はい。くやしいことです。」
と、「田沼意次=賄賂政治家」の俗説を否定している。 近世日本史の泰斗の児玉幸多・学習院大名誉教授の監修の賜物だろうが、当時の他社版の歴史学習漫画が俗説をそのまま踏襲していたのと比べると画期的だった。
▲7 ▼0
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柳沢吉保・吉良義央・田沼意次など、悪徳政治家の代名詞とされていた人物たちの再評価が一般的になってきたのと、田中角栄の再評価の流れとがリンクしているように感じる。 共通するのは経済重視政策と経済活性化の副作用としての格差拡大かな。
▲7 ▼7
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どうせなら大河ドラマで 田沼意次を主人公にしたのをやってみてほしいけどね
みなもと太郎も「風雲児たち」で 田沼意次を絶賛してるけど それまでの常識的な歴史観と全然違う人物像を描くのも面白いと思うんだけど? すでに田沼にはそういう評価が進んでるだろうけど、自分たちが子供の頃は 賄賂政治で世の中を腐敗させた悪人と教えられたからね
推測に過ぎないけど あまりにも考え方が先進的すぎて、 古い考え方や既得権に凝り固まってる人間から、もの凄い非難をされたのでは?
平賀源内を重宝するくらいだから 能力のある人物は、身分を問わず採用する人間だったようだし 士農工商に厳しく、しかも武士の中でも身分や差別にうるさい時代で そういうことをすれば、そりゃあ怒り狂う人間はたくさんいるだろう
あまりにも考え方が先進すぎる人間は 周りの人が考え方についていけず 、理解されず、悪者にされてしまうからね
▲5 ▼0
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意次が商業経済を活性化させる政策をとったことは確かだろうが、賄賂や悪評に根拠がない、という論証はこの記事を読んでも説得的でない。
意次死後に賄賂政治家という評が広がったというのは同時代では批判を憚った可能性もある。 また、
> 確かに江戸時代の史料には、意次が賄賂を受け取った記述がいくつも残っている。ただ、その出所をよくよく探ってみると、平戸藩主・松浦静山など意次の政敵・松平定信一派が発信していたり、誰彼と悪口を言う人物が書いていたりする。
とあるが、具体的に誰が書いたのか、定信一派なるものが存在したのか、存在したとして意次死後に嘘の悪口を流して何の得があるのか分からない。定信が意次を殺したいほど憎んでいた、というのも推測に過ぎない。 過去の歴史評価が否定に傾きすぎていたのは確かだろうが、だからといって180度転換して優秀な政治家だったというのは極端すぎるのではないか。
▲7 ▼12
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今の財務省は松平定信ばりに緊縮財政をやるから積極財政の田沼意次と比べ松平定信とどちらが良いかは肌身で理解出来るのでは?歴史の評価は変えるべきだろうが、財務省=政府は松平定信贔屓だろうから歴史教科書の記述はなかなか変わらないだろうね。
▲5 ▼3
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「松平定信は寛政の改革の実行者であり、清廉潔白な人物だった」と言うけれど、そんな人格者が、将軍になれたかもという出世欲と根拠の無い私怨で田沼を殺したいほど憎んで、刺し殺そうと短刀を懐に入れて江戸城内をうろついたりするだろうか。ただのヤバい奴じゃんそれ。ようするに、松平定信へのイメージも作り上げられた脚色に過ぎないってことでしょ。辻褄合わないもん。 田沼意次もさ、剣客商売での田沼像でいいよ。どうせ脚色なんだろ。もうあれでいいって。
▲20 ▼4
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田沼意次に関係する一次資料が少ないのが残念です。賄賂容認の時代背景を考察すれば、彼が賄賂にまみれた政治家である方が自然な姿。人間の欲を外に出す(殖産興業、植民政策)ことをやってのけたなら、彼は英雄になっていたかもですね。
▲8 ▼1
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改めて田沼時代を見ると、「米本位制」とも言える経済体系を貨幣経済にシフトしようとした現実的な政策をとっていたわけだけど、神君家康公以来の前例踏襲主義の徳川親藩の人達からすれば、それを蔑ろにしているように見えたのだろうな。
▲3 ▼0
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>研究者の大石慎三郎氏によれば、こうした賄賂に関する逸話は >「すべて田沼意次が失脚したのちに書かれたものである」
普通のことだと思いますが…。 時の権力者にたてつく人は、今も昔も少数派です。
>つまり意次失脚後、わざと巷にフェイクニュースを流した可能性が高いのだ。
権力者の失脚後、その人物に対する批判が浮上するのはよくあることです。 フェイクと決めつけるのは如何なものかと思われます。
▲3 ▼1
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田沼意次の時代になると米の生産能力を基準にした石高経済がもはや立ち行かなくなってきたのだろうなあ。そんな変化に合わせて田沼が貨幣経済を進めていこうとしたのだけどほとんどの武士は理解できず失脚。そして経済音痴な松平定信が政権を担う、と。
▲2 ▼0
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定信を持ち上げた庶民がそれから5年位で、 白河の清き水より元の田沼の濁りを懐かしむのは、 歴史の皮肉としか言いようがない。
『べらぼう』ではどう描かれるのか楽しみ。
▲6 ▼0
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会社経営に無駄を省くことは有益だ。しかし当然限界がある。売れるもの、ヒット商品を創るのが最上だが、当然、才能が必要だ。「質素倹約」はどんな無能な人間でも言える。田沼は「売れるものを創」ろうと模索した経営者だったと思う。「質素倹約」を「改革」などと言う学者先生の感覚が私には分からない。
▲4 ▼0
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「田沼意次」という人物を正当に評価したのは小説家では池波正太郎、漫画家ではみなもと太郎だと思う この二人の作品で学んだ人は多いと思うなあ
▲27 ▼2
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本文の3ページ目「案の定、それから半年後治察が死んでしまい 一橋家は当主不在に陥ってしまう」としているが定信は田安家の ではないのか。歴史を検証する文章は正確であるべきだ。 訂正してほしい。
▲1 ▼0
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〈辻氏が不確かな史料を用いたり、恣意的に史料を取り上げ、「田沼意次のみを悪玉」に仕立て上げたのだと断じている。さらに大石氏は、「田沼意次についてこれまで紹介されてきた『悪評』はすべて史実として利用できるものではない」と明言する〉
仏教歴史文献学の泰斗で厳正緻密な辻善之助が、そんなことするとは信じられないんだけど。
大石本読んでみようか。
▲1 ▼1
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いわゆる江戸時代の3大改革は、時代の流れに逆行したもので、個々の政策には見るべき部分もあったかも知れないが、基本的には失敗に終わったものと理解している。
▲1 ▼0
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美冬殿の父上…剣客商売は山形勲や北大路欣也よりも藤田まことが段凸にいい…完全にハマり役、仕事人シリーズよりもこちらが断然いい。
▲0 ▼0
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山本周五郎は〈栄華物語〉、池波正太郎は〈剣客商売〉で田沼意次の人柄を書いている。両作家ともそれまでの『賄賂政治家のイメージ』とは違うと考えていたと思う。
▲2 ▼0
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◯したいほど憎む政敵が、賄賂やおねだりの悪評を立てた、人の世は変わらぬもの。その真偽の程がいかほどかは分からないが、その人が何を成し遂げたの見なくてはいけない。政治家を評価するとはそういう事。それを忘れてひたすらに憎む、政敵を叩くともはやポジショントークでしかなく、アンチが生まれ分断に繋がる。
▲0 ▼1
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岸田という総理大臣をつとめた人物もとある時代では裏金に関していい話ではありませんが 数百年後にまったく逆の評価になるかもしれませんね
▲2 ▼8
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見直すべき歴史はたくさんある 西郷隆盛や坂本龍馬など薩長の行為はテロだと言うのは特に明確にするべきだ
▲0 ▼0
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池波正太郎先生なんかも、疑問に感じていた人。剣客商売での田沼意次の描き方が、立派な政治家としてだし。
▲29 ▼3
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次の権力者は前の権力者を悪者にする。光秀をボロクソにした秀吉がそうでした。自分の正当性を主張する為です。歴史の研究が深まれば解釈が真逆になる事もあるでしょう。
▲7 ▼0
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フィクションだが 剣客商売 あたりから田沼意次のイメイジは既に変わっていた ただの賄賂政治家と思っているのは 昔の教科書から知識をアップデートできていないひとだけだろう
▲1 ▼0
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緊縮財政派、増税派が、マスコミを操って、積極財政派、減税派を叩くような構図ですね。
▲0 ▼0
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そうは言っても、番組のプロモーション映像を観る限り「この世は全て金」というセリフから従来の意次のイメージなのかな?それとも?
▲1 ▼0
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田安家の兄の治察が亡くなって、田安家は後継者不在になってしまうの間違いでしょ。一橋家なわけがない。ちゃんと読み返してから原稿あげなさいよ。
▲11 ▼2
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「田安」治察が亡くなって、どうして「一橋家は当主不在」になったのだろうか?
松平定信は、宗武の七男だったと思うが?
▲1 ▼0
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政権が交代したら以前のそれを悪く言う、洋の東西を問わず常套手段だよね。
▲46 ▼0
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まぁ、後世の人々からみたら、現代の政治家や官僚なんて、意次なんか足許にも及ばない程の賄賂・天下りの達人たちと評するんじゃない?
▲3 ▼1
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田沼意次の善悪性は別にして、政敵をとことん貶めるってのは、今現代も変わらないやん。 独裁国家の中には、相手の命すら………
オット、これ以上は止めとこう。
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
▲1 ▼1
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田沼意次のときはそれなりに繁栄したから、いいのでは。田中角栄のようなものか
▲1 ▼0
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ただ当時の歌に、元の濁りの田沼恋しき、とあるから、完全に清廉ではなかった気もするが。
▲2 ▼0
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現代の政治家とかは未来の時代劇とかでどういう風になってるんだろうな。
▲3 ▼0
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それから半年後に治察が死んでしまい、一橋家は当主不在に陥ってしまう。
→ 田安家では?
▲16 ▼0
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斎藤知事の失脚みたいなことは、昔からこうやって繰り返されてきていた、ということか
▲0 ▼3
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剣客商売では田沼は善です。池波正太郎の見方でしょうか
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田沼意次と田中角栄はどちらも似てますよね。
▲0 ▼1
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安心して剣客商売を見れる、、、
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三冬のおやじ
▲0 ▼1
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辻善之助はとんでもないペテン師であり、詐欺師だ。 東大名誉教授剥奪 文化勲章剥奪 歴史学の権威も剥奪すべき。
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