( 245333 ) 2025/01/06 18:08:56 2 00 『孫子』は誤解されてきた...「孫子の兵法」を実行しながら天下を取れなかった武田信玄WEB Voice 1/6(月) 11:53 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/957db5e375a244260795b345456cb47a522a29b0 |
( 245336 ) 2025/01/06 18:08:56 0 00 世界最古の兵書・『孫子』は誤解されてきたという。「孫子の兵法」とはどのようなものなのか? 海上知明氏が解説する。
世界最古の兵書・『孫子』。いわゆる「孫子の兵法」が広く知られるが、実態は謎が多いうえ、必ずしも実用的な内容とは限らない。『孫子』と古今東西の合戦・戦争を長年、研究してきた著者が、近著『戦略大全 孫子』より実例を挙げて世間の誤解を正す。
※本稿は、海上知明著『戦略大全 孫子』(PHP研究所)から一部を抜粋・編集したものです。
世に兵書は数多く存在するが、その中でただ1冊を挙げよといわれれば、多くの人は『孫子』の名を挙げるのではないか。
『孫子』は最も普遍性が高い戦略書であり、西のカール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』に対する東の『孫子』という対置関係になるだろう。『孫子』は戦略書の王者ともいえる。
では『孫子』とは、どのような目的で、なぜ書かれたのだろうか。
『孫子』は、現存するものとしては最古の兵書である。最初の兵法は孫武よりも70~80年前、中国春秋時代の楚の公族・政治家で楚の荘王、後には晋に仕えた呉の申公巫臣(しんこうふしん)によるものではないかとされているが、現存していない。
それどころか、漢の高祖・劉邦の命で韓信と張良が集めたとされる182種の兵書もほとんど残っていない。その中で『孫子』が残り続けた。
世界最古ということは、その価値が高いから残ったということになるかもしれない。『孫子』を読めば名将になれるのか、筆者なども最初に『孫子』を読んだときには大いに期待した。
結果的には読んでガッカリ、ともかく大いなる失望を味わったのである。こうした『孫子』を読む際の期待と読んだあとに味わう現実のギャップは、多くの人が経験するのではないだろうか。
読む者を超人、名将としてしまうのが兵法書ということになっている。ところが実際はマニュアルではないから、書かれていることの応用は各人の創意工夫まかせということになる。戦略書と呼ばれるものでも、マニュアル化されているのはアンドレ・ボーフルの戦略論のような少数に限られる。『孫子』は、その中でもとくに具体策が提示されない書物である。
世界一普遍性をもった戦略書である『孫子』であるが、『孫子』のもつ普遍性は抽象性によってもたらされている。「戦争の様相は変化するが、戦争の本質は不変である」。戦争の様相を重視すると応用も簡単で実用的になるが、時代が変わると役に立たない。戦争の本質を重視すると普遍性・哲学性を有するが、抽象的な記述となり、応用が困難になる。
しかし抽象的な『孫子』に書かれている内容を、具体的な姿として実現できる者がいたら、それこそが真の名将なのである。
『孫子』を最も体得した2人の人物、曹操と武田信玄は天下を統一できなかった。曹操は三国を統一できなかったし、武田信玄は上洛もできなかった。とくに、信玄は「動き出した孫子」といえるほどに『孫子』を体得した人物である。
戦前の中世史の泰斗・田中義成氏は、上杉謙信、北条氏康と比較しつつ、武田信玄を高評価した。
「東国に三雄あり、曰く武田信玄(中略)。顧みるに、武田氏は実利を尊び、(中略)其の尊ぶところは即ちその長ずるところなり、信玄は深謀遠慮、計成り機熟し、然後(しかるのち)に動く。然からば尺進ありて寸退なし......云々」
この一文ほど、武田信玄の本質を表したものはない。信玄は「寸退」をすることはなかったが、半面、「尺進」しかしていない。
信玄の最終目標は、上洛して覇者になることである。そのために上洛に足る軍事力を作り上げ、京都までの距離の2乗に反比例するとされる経済力の充実のために、富国強兵と財政政策に努めた。新田開発・治水・金山・特産品・荒地対策・農兵の比重拡大・共同体確立・軍事訓練・侵略と、生涯を通じて、ひたすら力を拡大した。
侵略のやり方は信玄の慎重さと手堅さを示すもので、小さな城を落とすにも万全を期し、小さな村を治めるにも細心の注意を払っている。これは、多くの人々の絶賛を集めている。
しかし、このやり方での天下統一には何年を必要とするのか?
信玄の手堅さと慎重さは、最小の費用と損失で獲物を手に入れるものであった。元亀3年(1527年)、二俣城攻略を行う際、信玄は2万2000人の大軍を率いていた。二俣城は浜松城の北北東20㎞に位置する北遠江の要所であり、天竜川と二俣川に三方向を守られた天然の堀をもった城塞でもある。
この二俣城攻略においては、城兵が天竜川から水を汲み上げていることを知って、天竜川上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を壊して水の手を断ち、落城させている。この攻略は遅くとも10月19日に開始されたというから、12月上旬に陥落させるまでの期間は約2カ月となる。
天正元年(1573年)1月3日に「藪の中」にあった小さな野田城を発見したあとは、金堀人夫を使って水脈を断つという方法で、約1カ月をかけて陥落させている。
これがまだ国力の少ない甲斐国を率いていた青年期ならばともかく、上洛の途上、病魔に冒され、しかも「人間50年」の時代の53歳のときの話である。
信玄最後の遠征は、明らかに上洛戦であるが、織田信長の上洛戦を知っている者にとっては、とうていそうとは思えないだろう。信長の場合には上洛までの期間はわずか20日程度、なにしろ永禄11年(1568年)9月7日に開始し、26日には上洛しているのだ。
南近江では本城・観音寺城を中心に18の支城に兵力を分散させた六角氏に対し、大軍をもって力攻めにし、かたっぱしから撃破して短期間に征服してしまった。
それに対して信玄は、元亀3年(1527年)4月7日付の福寿院・善門院宛の願文の中で、ここ1年間は謙信が信濃、上野で軍事行動を取らないようにという祈願がされているから、上洛までに1年間という期間が設定されている。
二俣城攻略中の11月19日に出された朝倉義景宛の条目では、「来年五月に至り、御張陣の事」と書かれている。つまり翌年の5月には、信長を打倒する決戦が朝倉義景との連合によって遂行されるというのである。それでいて元亀3年12月28日付書状で、12月3日に帰国した朝倉義景を非難している。
元亀3年10月の西方への出陣から5月の信長打倒までの行動は連続しているのであるが、義景は、今回の信玄の行動は打倒信長というよりも、信玄が遠江・三河を領有するための戦いにすぎず、そのために多大な戦費をかけながら出陣している自らの役回りをそんなものと解釈した。
出発後2カ月たっても国境から数十kmしか進んでいない。その間に、兵力の損失を最小に抑えながら、二俣城や野田城を攻略しているのである。
信長を義景と挟撃するのが出立から7カ月後、もし野戦で信長を破ったとなれば、その後で岐阜城攻略が開始され、長期の包囲戦を展開したにちがいない。上洛はその後の話になる。下手すれば1年以上の歳月がかかった可能性すらあるのである。
もちろん、信長と野戦で決戦する場合、信長が全兵力を集中できないようにし、信玄自身は率いている兵力を出立時とほとんど変わらないよう温存し、「三方ヶ原合戦」同様に「拙速」に、瞬時に勝敗を決したろうが、そこに至るまでに膨大な時間を費やしていくのである。
信玄の鈍足ぶりは、上洛戦に限ったことではない。永禄3年(1560年)の「桶狭間合戦」で、よく整備された情報網を持っていた信玄は即座に今川氏の敗戦を知ったはずである。ちょうど川中島合戦の佳境であり、大規模な動員を怪しまれずに行うことができる状態にあった。
上杉謙信は定められた境界線を侵さない限り信玄を攻撃することはなく、北条氏康は謙信の大規模な関東出兵を前にしていた。
信玄が即時動員をかけ、東海に兵を入れれば敗走する今川軍は壊滅し、駿河国・遠江国はむろんのこと、三河国も、そして今川勢力圏となっていた尾張国の一部までをも瞬時にして併合することが可能であった。
当時の信玄の保有する軍事力から見て、それは十分にできたはずである。そうすれば信玄の領土は一気に2倍以上になったにちがいない。
しかし信玄が南下作戦に転じるのは、8年後、それも三国同盟を遵守したうえ、大義名分までも準備しようというものであった。
『甲陽軍鑑』によれば、永禄11年(1568年)5月、信玄は今川氏真に父の弔い合戦として信長と同盟する家康の三河に攻め入り、戦勝後の領土分割をもちかけた。
氏真がこれを拒絶するところから駿河国侵攻が開始され、永禄11年12月6日の第1次駿河侵攻から元亀2年(1571年)1月の第6次駿河侵攻まで約2年間、7度の遠征でようやく平定しているのである。「桶狭間合戦」からは、実に11年間を経由している。
「時の概念の欠如」は『孫子』に限らず、広く中国の政略に見られるところで、『戦国策』などを読んでも、美女を送り込んで、その後数十年がかりで敵国を衰退させる話が出ている。
もちろん『孫子』の中に、「時の概念の欠如」がストレートな表現で記述されていることはない。しかし、それは行間に隠れていて、あまりにも忠実に『孫子』通りの行動をしていると、やがて表面化してくる。
『孫子』の体現者であった武田信玄が天下を取れなかったのは、その万全で計画的な行動の中に、自分の寿命という要素がなかったからである。
海上知明(NPO法人孫子経営塾理事・日本経済大学大学院政策科学研究所特任教授)
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( 245337 ) 2025/01/06 18:08:56 0 00 =+=+=+=+=
なんなら、クラウゼビッツやモルトケを出したプロイセンも覇権を握れていないよ。兵法書はあくまで参考書だ。優れた兵法家だった曹操や信玄でも、周囲の環境までは如何ともし難い。信玄のケースだと、あの高い山々に囲まれた甲斐の本拠地から出兵するのだから、濃尾平野が本拠地の信長のスピードと較べても意味がない。
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室町幕府が衰退した戦国期、足利の分家である今川氏が「俺が本家に替わって将軍になろう」と天下に乗り出すのは当然としても、鎌倉時代も含めてどっぷりと地方豪族になっていた甲斐源氏の武田氏は、天下を目指すという動機が弱いし地理的にも現実のものとして考えにくかったでしょうね。 一方、信長は革新的な考えの持ち主で、そういった歴史的なことは重視しなかったし、地理的な優位性もあり京都が身近であったことが大きいでしょう。
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第四次川中島もそうだけど、この頃はまだ謙信の方から信濃に攻めて来てるからね。背後を空けて駿河攻めってタイミングかな?ましてそこで北条が敵に回ったりすれば当時の武田の国力では詰みでは。 そもそも貧乏な甲斐の領主に過ぎない信玄が、上洛を考えたのは信長包囲網でもしかしたら勝てるかもという希望が見えて初めてではないかな。信長は尾張美濃と支配した時点で既に並ぶ者のない大領主。この差は大きい。 信玄の上洛戦は(実際に上洛を目指していたとして)朝倉義景の再出陣を待っての決戦しかない。(5月に近江で決戦だと言っている) 結局のところ、春までに本国の防備を固めた上で満を持して西に進むという戦略になる。残念ながらその直前に死んでしまったが。二俣城や野田城は遠江から信濃へのルート、三河から信濃へのルートを塞ぐ場所。こういった城を確実に落として防備を固めた上でなければ、危なくて西に向かえないでしょう。
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孫子の面白い味方で興味深いし、信玄が最初から天下を狙ってたのは同意する。でも人生思い通り行かないのが常でまさか越後に自分と双璧をなす戦国最強と後に言われる武将が居た事とその性格の特異性。天下を取る武将は大抵乾坤一擲の戦いを勝利して時流に乗るが信玄の場合は川中野島の戦いで謙信を破る事が出来なかったんだから、北上政策が破綻して仕切り直しになったのが痛かったと思う。でも結局信長も天下を取れず、取ったと言えるのは秀吉と家康2名だけなんやから十分名将と言えるんやないか?。
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「善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ」のくだりだけを捉えて、武田信玄は・・・と論じられているのですね。 甲斐の田舎から後世に名を残すまで成り上りましたよね。 ちなみに徳川家康も孫子の愛読家だったと伝えられており、天下統一どころか日本史上最長の政権を作られたわけですが、そのあたりはどのようにお考えですかね。
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そもそも甲斐や信濃を領有していても、人口が少な過ぎる。木曽義仲同様、一瞬の勝ちはあっても、長過ぎる補給線では兵力が減っていき、近畿での戦いを継続できない。
信玄は強かったが、同時に、隣国から見てさほど欲しい領地でもなかった。 (嶮岨な山を越えて領有しても、貧しい寒村なので逆にその経営に自分のリソースを費やす事になる。)
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織田信長が今川義元を討ち取った際 本来ならば今川の領地を取り合うのが普通なんだが 彼はその取り合いには参加せずにその時間を使って京の町と天下を略そうと考えたらしいね
だから彼は天下人になれたのかも
もちろん信玄だって用意周到に天下取りの計画を立ててはいたんだが上杉謙信という強大な“ライバル”のために遅れ遅れになってしまったあげく自分が歳をとりすぎたわけだ
信長が比叡山を焼き討ちにした時に足利義昭が上洛せよと書状を送ったことで甲相同盟 のあと上洛したんだが もしその時信玄がもう15才若かったら 日本の歴史は変わっていたかもしれないな
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山梨出身者です 甲斐国(山梨県)は今も昔も海がなく農地も少なく人口も少ない それなのに、ほぼ一代であれだけの版図を拡大したという信玄の偉大さは山梨県民なら痛いほどわかります
一方で武田軍は豪族集団であり鎌倉幕府のような御恩と奉公関係のため、常に領土を拡大して獲得地を配下の豪族に分け与えなければならない宿命にありました
したがって、強烈なカリスマ性がある信玄なら軍はまとまりますが、武将としては非常に優秀でも父ほどのカリスマ性がない勝頼の代になると長篠で負けた後は家臣が次々に寝返りあっという間に滅亡していまいました
山梨県民は口には出しませんが「信玄は偉大だったが天下を取るのは困難だった」というのは理解しています
個人的には、信玄自身、三方ヶ原で徳川・織田連合軍に勝った後も遠江と三河東部を版図として固めるだけで上洛しようとしていたと思っていなかったのではないか、と考えています
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シンプルに筆者が孫子の深淵を体得出来なかっただけではないのか?
孫子が完璧な兵法書と言うつもはない。また、孫子を身につけたら天下を取れるとも言う気はない。現に孫武、孫臏共に天下は取っていない。
だが、徳川家康も孫子を読んでいたし、孫子の兵法を学んだ天下人はいる。筆者が分からなかっただけの話を武田信玄、曹操まで駆り出して、『孫子に欠点あり』とするのはどうかと思う。
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信玄がどういう”つもり”だったか不明だが対徳川戦は準備段階から含めどう見ても遠江併合、上手くいけば徳川家の臣従(滅亡ですらない)を望んでいた程度にしか見えない 比較として出されている信長の上洛戦は慎重に周辺諸大名に同盟を結び、敵対した六角氏も何度も交渉を重ねている等外交努力を怠って居ない。一説に上洛軍6万と言われているが半数以上を織田軍以外が占める等、将軍の権威を十二分に生かしている。三好家が分裂したのもうまく利用し三好本家や松永など畿内派を自陣営に取り込んでいる。更に言ったら敵対した六角の基本戦略は相手が大軍ならさっさと本拠を捨て甲賀の山奥に潜伏すると言うのを室町初期からやって居る 一方の信玄。同盟破りの常習犯で徳川は武田包囲網を築く程反武田。実質天下人である織田家は分裂の兆しすら見せて居ない。これが戦国きっての戦略家扱いされている方が余程おかしい
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孫子には「兵は拙速を聞くも、未だ功の久しきをみざる」というくだりがあるので、時間の概念がないというのはおかしいよね・・・
一、武田信玄が上洛できなかった原因の大きなものは、海路・水路がなく交易に乏しい甲斐の国の領主であり、財政的・貿易的に不利で武器弾薬の調達に苦慮したこと。※鉛や火薬は輸入品であり堺や長崎などの西国から入ってきていた。 二、また、それゆえに経済力が乏しく常備軍を持てず農閑期の戦が主で通年で戦えなかったこと。
が理由でしょう…
金山の開発をして金を産出できても、必要な数量の弾薬を確保できなきゃ、鉄砲の戦で勝利は望めないよね…
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ここまで孫子と武田信玄を理解できていない論考を初めて見た。あまりに酷い。
まず城攻めの圧倒的困難さを理解できていない。
戦国随一の城攻め武将と言えば羽柴秀吉だろうが、その彼でさえ三木城(支城含む)攻略に約2年、鳥取城攻略にも約4ヶ月、備中高松城攻略にも約3ヶ月かかっている。 あとの時代だが西南戦争では圧倒的兵力差があるにも拘わらず、西郷軍が熊本城を攻略出来ず敗北が決定的になった。
天然の要害である二俣城を2ヶ月で攻略というのは(当時としては)驚異的な早さと言って良い。
次に、直ちに今川氏真を攻撃できなかったのは氏真室が北条氏康の娘だったからに決まっている。 北条を敵に回して、上杉と北条と今川に三正面作戦を取られたら窮地に陥るし、そこで徳川織田に攻めこまれたら間違いなく滅亡する。
筆者の問題点は、当時の情勢認識が正確にできていない点だ。猛省すべきだろう。
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金が無かったから、時間を買えなかった、とあいのが正解。 とにかく甲斐は貧しく、とくに黒川金山が早くに枯渇してからは、とんでもない税金と兵役を領民に強いたが、それでも現状維持が精一杯てあり、とても上洛などできる状況になかった。 そもそも若い頃から結核だった信玄には時間がなく、上洛=天下取りの意思があったかは疑問だ。 また川中島の凡戦、村上氏から信濃を切り取る手際の悪さ、また文中にあるが駿河侵攻の決断の遅さなど、ごく控え目に言って、機を見る能力に致命的に欠けた、凡庸な将であった。長男の太郎の教育さえできなかった信玄が、なぜ評価されるか疑問だ。
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西遠江の戦力の過小評価が過ぎる。西遠江は東遠江+駿河の軍勢と戦えるだけの地力がある上に、土豪が力を持ってて攻略が容易ではない。そこを簡単に落として領地に組み込めるなら、河東の乱や遠州錯乱なんて起きない。
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今川義元が敗死した時に駿河を攻めたら、武田、北条、上杉の三つ巴で敵対したろうし、最悪は北条と上杉が同盟だって怖い。それに武田義信は今川から嫁さん貰ってたから。結構、難しい情勢だったと思うよ。
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武田信玄が天下をとれなかったのは孫子のせいではないだろう(^^; 慎重な戦略をとったのも、甲府盆地の資源が限られているからだ。 肥沃な耕作地が広がって人口も多く交通の要所で港をもっていた織田信長とは、条件がまったく違うだろう。 上洛するにしても、尾張からと甲斐からでは、そもそも距離が違う。 物理的な条件を無視して孫子もなにもないだろう。
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信玄の天下奪り失敗は 京都に行けなかったから
これは戦国当時の交通網を 知る必要がある 当時の東国から京都への メインルートは中山道(木曽路)だった で 信長はいち早く美濃を抑えて以降 延々と岐阜城の強化をしたそうだから 信玄にすれば京都へのルートを ふさがれたようなもの 加えて当時の美濃における 織田系豪族には氏家卜全や 稲葉一徹など戦上手も揃っていたから 後の時代に「一に上杉、二に武田」と 歌われた精強武田軍であっても 美濃を抜くのは困難だったと思われる
この発想は勝頼の時代に 信長が甲斐攻略に先立ち 木曽氏を調略したのも 同じ発想かと思われる
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孫子に「時の概念」が無いのは当たり前の話。
春秋時代、周王を頂点とした旧来の秩序の中で、自国の防衛のための戦争を想定した思想だから。
他国を侵略併呑して、最終的に中国統一みたいな発想そのものが無い。
まかりなりにも孫子研究者なら、大前提を踏まえて語って欲しい。
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織田信長以外で上洛を目指してたのは 尼子、大内氏くらいじゃないでしょうか。 ただ尼子だと木曽義仲のようになってたかもしれません。大内ならある程度抑える可能性はあったかもしれませんが両氏とも毛利元就に滅ぼされましたからね。
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甲斐という出身地がすべてを制約した。 尾張という富裕な土地を制したら、伊勢、美濃、近江と雪だるま式に拡大できた信長と比較するのは酷すぎる。 周囲は強国だらけで、甲斐から他国へ出るには信濃しかなく、小さな城を少しずつ落として得られる領地は山国ばかり。移動も難しく兵備も十分でない。 孫子とは無関係といってもいいのではないのか。
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孫子が書かれた時代は、まだ紙が普及する以前だから 竹簡に書かれたものだ。 竹簡は紙の書よりずっとかさばるから、本一冊分が馬車一台分の量にもなったそうだ それだけに普及も時間がかかったかも知れないな そもそも活版印刷がなかった時代だけに、本一冊も、一つ一つ手書きで書かれている そうなれば数が出来ないのは当たり前だよね 何千年もの間に残る書がある方が奇跡だわ ちなみに残されている孫子も、後代に改竄されたものではないかとの説もあったのだがな 最近、漢代の墓所から発見された孫子の記載と現在まで残る孫子の記載がほとんど一致していることから改竄説は否定されている
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信玄ほどのこだわりはなかったかもしれないが、当時の有力大名の行動は孫子の原則から大きく外れてはいない。
孫子の内容自体、「従えば勝てる」ではなく「従わないと負ける」タイプの原則ですからね。
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知っていて書いている筈だけれど、世に言う孫子の兵法書は歴史上の孫武の書いたものではないですよね、名前を騙っているだけで。農閑期しか戦えない武田軍が一代で天下を目指すのは無謀に近く、基本領国の安定化と無理のない範囲での領土拡大が指針だったと考えた方が自然と思われます。比較的上洛が容易な位置で尾張美濃という富裕国を押さえていた織田家と同じに考えるのは無理があると思われます。
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国や政治状況によって採れる戦術・戦略は違う。 兵種や武器も時代によって変わる。 汎用的な本だからこそ、時代を超えて普遍的な価値を持ち続ける。
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武田信玄としては、南の今川と同盟関係があるから東海道が使えず、中山道は大軍が通れないので上洛は不向き。 残る北陸道は、戦争に異常に強い上杉謙信が抑えてる。 まぁ詰んでるよな。
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桶狭間の翌年に最激戦だった川中島4回戦があったのだから、今川攻めるのは無理だよね。嫡子義信の嫁は今川からだったし。 孫氏を表した孫武は天下取りには際していない。孫氏を読んだが信玄は天下を取れなかったという見方は信玄に対する評価としても孫氏に対する評価としてもお門違い。
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記事が事実と仮定すると。 つまり孫子の兵法は不死不滅に近い存在……すなわち国家や法人などが組織的な方針として用い行うもので、個人によるものではないということだ。当然のそのために構成員の教育をきちんとしなくてはならない。しかも社会的環境的な影響を全て最小にしてである。 なるほど、たしかにどの時代にも通用する兵法書である。戦争を組織によるものと簡略化して、個人の影響や要素を限りなくそぎ落としているのだから。
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クラウゼヴィッツの戦争論は難解すぎて挫折した。孫子兵法は割とサクッと読めて意味もまずまずわかりやすい。 記事には時の概念の欠如とあるが孫氏兵法には「兵は久しきを貴ばず」「人の国を破るも而も久しきに非ざるなり」「兵は拙速なるを聞くも未だ巧久なるをみざるなり」など時間に関わる言及はそこかしこにあると思うが。
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孫氏の兵法は、ぶっちゃけ曲解され過ぎで、その曲解は謎に儒教思想が色濃くなって現代に継承されている。これを分かりやすく言うと「正義は勝つ」みたいな安直な感覚だ。 例えば、「正々堂々」も孫氏の示した戦法であるが、これは決して「卑怯な手で戦うな」という意味ではなく、自分より弱い敵に対して「もっと強そうに見せて敵の戦意を喪失させろ」という意味だ。 そんなわけだから、曲解された正々堂々という戦法でもないモラリズム的な言葉を掲げて戦っても勝てるわけがない。
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孫氏の代表的な文言に「兵は拙速を尊ぶ」があって記事中にも出てくるわけだが、それは時間の概念には含まれないのか? というのが一つ。 信玄の目的に上洛があった事は確かだが、その道中に際して語るなら信長より先に斎藤家の話が必要だろう、というのが一つ
三国志の人物の中で最も大きな成功を収めた人物と言えるであろう曹操をして「でも曹操は天下統一出来なかったよね?」と評するのはちょっと乱暴過ぎるというのが一つ
という事が気になった記事でした。 まあ注釈程度に。
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うん・・20世紀末にこれ出せばもうちっと賛同を得られてたかもしれないね・・ でも今は2025年。この四半世紀で戦国史研究は劇的に進んだ。信玄は人気者だから研究も盛んで、その行動原理は田中義成氏が評した頃とは全く違うのが判明してる。つまり『上洛して覇者になる』なんて死ぬまで思ってなかったという事。孫子で天下取れるなんて妄想するわけない。
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武田信玄は天下なんて目指してなかったし そもそもあれだけ自分から裏切りやっていたから 最後は周囲敵だらけでした
勝頼が悪いのではなく 信玄の信用の無さが武田を滅亡に追いやった主要因です
孫氏の兵法とはあまり関係ないね
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ワイは、よくある運命の女神は前髪しかなく、稚拙であれ掴む時にはその時に掴まないとモノにできないという説は、実は否定的なんだがw でも天下をとるということは稚拙でもそれが一番大事で、およそ兵法やる人は原理的にそれができない。一部同じように稚拙でも兵は早きを尊ぶとあるが、兵法をやる本質的なものは基本的には消極策であって、自分が負けたり消耗しない事を前提に考えるからできない。 記事にもあったが武田信玄は最後にそれに気付いて孫子兵法は時間が無限wや吸血鬼wじゃないと天下取れない仕組みだったかと焦ったと思う。その時やろね。徳川家康がちょっかい出して返り討ち遭い、脱糞して逃げ帰って絵を描かせたのも。 取りに行く時は稚拙でも取りに行かないと天下はとれない。でもそれをやったら滅びや敗北もついてまわるので、人間社会は難しい均衡の上にあり結局天下は与えられるものに与えられるという古代からの結論になるのかも。
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>信玄が即時動員をかけ、東海に兵を入れれば敗走する今川軍は壊滅し、駿河国・遠江国はむろんのこと、三河国も、そして今川勢力圏となっていた尾張国の一部までをも瞬時にして併合することが可能であった。
無理ですね、机上の空論です 現実には兵站をどうするのかという大問題があります いくら動員掛けようとも兵糧の準備、輸送の手段が準備出来なければどうにもなりません、兵が増えれば増えるほど負担は膨大になるのです 兵糧は銭出したらいくらでも買えるというものではないのです
信玄もそれを理解しているから限界をわかってるからこそ、その範囲でしか兵をだしていないのです
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曹操が天下を取れなかったのは同じ時期に劉備という英傑が存在したから。武田信玄は生まれてた国の経済力の無さ。それに孫子の兵法の根本は戦わない事であり長期戦を避ける事。
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平野がほとんどない山深い甲斐を本拠とする信玄と広大の濃尾平野を本拠とする信長。運も実了のうちとはいえ、スピードを比較するのは、いささか違くはないか。
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孫子はその冒頭に「兵は国の大事なり、死生の地、存亡の道、うんぬん」とあるように、「戦争は国家と人間の運命の重大な分かれ道である」というところから戦争論を説いていきます
そして、戦争をすれば勝っても負けても今よりも悪い結果になることが多いから、なるべくならやるな、やるなら前もって徹底的に彼我の戦力を調べ上げて確実に勝てるときだけやれ、そして短期でカタをつけろ、と説くのです
その点、孫子に時間の概念がなかったわけではなく、「勝ち」の定義を長期に設定していただけとも言えます
信玄の死後、結果的に武田家は滅びます 信玄の死がすでに崩壊の始まりだったとする意見に異論はありませんが、武田家が決定的に傾くのは勝頼が孫子的な原理原則から離れて、版図拡張策を取り、死生の地、存亡の道を踏みまくったからでもあります
武田家がほろんだのは孫子のせいではないと思いますよ
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>信玄の最終目標は、上洛して覇者になることである。
これは筆者の勝手な推測では? 各種の史料からは、武田信玄はあくまでも室町幕府という仕組み中で武田家の勢力拡大を目指していたように理解てきると思いますが。
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孫子は天下統一を目的としていたわけではない。天下を治める「帝王学」ではなく生き残りと繁栄を目的とした「処世術」を説いているからこそ現代でも活用されている。
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孫子は兵法を知らない相手には通用するがそうじゃない相手にはそれほどじゃない気がする。 曹操も後半になると精彩を欠くのは同じく兵法を学んだ人達が出て来たからじゃないだろうか?
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武田信玄が上洛して覇者になることを目標にしていたという通説を未だに信奉する人がいるとは…その時点で兵書が必勝マニュアルであると勘違いしていることと同様にライターの問題を感じる
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信玄さんは金がなかったから、そんなに戦が出来なかったんでしょう。 あと、信長さんの事は相当怖れていたようで 永禄12年 1569年
「信玄事者、只今憑信長外又無味方候。此時聊も於信長御疎略者、信玄滅亡無疑候」 (信玄には信長以外に味方いません。信長を粗略に扱えば、信玄が滅亡するのは確実です)
元亀2年 1571年
「縱扶桑国過半属手裏候共、以何宿意、信長ヘ可存疎意候哉」 (たとえ日本の過半を支配するような事があっても、信長に敵意は持たないし粗略にもしない)
信長さんにへつらう手紙を送っています。
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この人の意見は個人的なつぶやきコメントと理解したい。孫子のみを頼みにして金科玉条に戦う武将はまったくいません。孫子は判断材料の一つの参考に過ぎない。なぜこういうまとめになるか不思議。
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この武田信玄の評価軸で言うなら、織田信長だって尾張統一に無駄な時間を費やしたあげく人心掌握に失敗して部下は裏切り続きで、あげく反乱されて戦死して天下統一できなかったグズという評価になるんじゃないの?
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孫子の兵法書の要点は「surviveの勧め」ここの筈。win < survive この重要度の不等式が孫子の兵法書の要点のはず。
勝ちまくったから天下人になれるわけではなく、生き残ったから天下人になれる。(項羽は勝ちまくったけど天下人にはなれなかった。生き残る事ができなかった)
日本史なら源頼朝や徳川家康がsurviveして天下人になった人であり、surviveさえ出来ていれば、周辺の強者は盛者必衰の理で落ちぶれていく。
喧嘩を売るのは周辺の強者が弱体化してからでも間に合うわけで。
武田信玄は孫子の兵法を愛読していただけあって、武田家のsurviveに成功しています。
息子の勝頼が長篠・天目山を除いてwinしてるけどsurviveできていないわけで。
武田勝頼が父の信玄を模倣して孫子の兵法を愛読していたら武田家はsurviveできたかもしれません。
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「孫子の兵法」=天下取りのマニュアル、ではありませんので。 「無駄な戦いをするな、戦うなら必ず勝て。」と言っているわけで、最も良いことは「戦わずして勝つ」ことだとも言っているんです。
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>その万全で計画的な行動の中に、自分の寿命という要素がなかったからである。
この筆者、本当に「孫子」を理解出来ているのかな。 孫子は「拙速」をしっかり説いている。 それに天下を獲るための書ではなく、国家を安定させる為の書。 そんなの「孫子」読んでたら分かる事じゃん。 具体的な事が書いてないって、地形篇とかに書いてあるじゃん。 何より世界最古の兵法書は「六韜」じゃなかったっけ?
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孫子は読めば今では当たり前のようなことばかり書かれているが、要はそこに気づきがあり、それを己にあてはめ実践できるかどうか。
頭じゃわかってるけど体がついてかなくてよ。
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>>「孫子」の体現者であった武田信玄が天下を取れなかったのは、その万全で計画的な行動の中に、自分の寿命という要素がなかったからである。
それならば「織田信長が天下統一を目前して本能寺で倒れたのは、その万全の計画的な行動の中に臣下の謀反と言う要素がなかったからである」とも言える。なんとでも理屈はつけられるが、とうてい学説ではない。せいぜい大河ドラマの脚本である。ざんね~~ん。
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孫子の兵法書は、文字通り「戦争のマニュアル」であって、 「天下統一のマニュアル」ではない。
そして、「天下統一のマニュアル」は、いまだこの世に存在せず、 運よく、(当時の)天下が取れてしまった人、が数人いるだけなんだ。
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時代が変われば価値観も 行動パターンも違ってくる 軍事の面では尚更、 国が違えばさらに顕著になる 参考にしたこと自体が間違いのもと
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大きな勘違い… 信玄は天下を取ろうと思って無い。 信長に裏切られた足利将軍に頼まれて上洛しようとした。 信玄は僧侶であり分相応という立場だった。
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信玄だって家康並みに長寿だったら上洛できたでしょうよ。謙信のような不摂生してれば別だけど、そうでなけりゃ寿命は運だからね。
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そもそも孫子をまとめたのが曹操だろ? 漢中押さえたとき蜀まで行くべきだったとは確かに思うねケイロク言わずに骨まで喰らうべきだった
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風林火山。 孫氏の「形態編」は、風林火山雷陰だよ。 「動くこと雷霆の如く、知り難きこと陰の如し」が抜けている。 旗に文句が入らなかったのは、わかるけどさ。
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濃尾平野の豊かさと甲信の土地を比べてもねぇ(笑) ただただ生まれた時代と場所が悪かった、としか言い様が無かったようにも思えますけどね。
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結局何が言いたいのかよくわからん記事だった わかったのは「孫子や武田信玄の問題を指摘できる俺頭いい」という承認欲求強い人だなということ
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本に書いてある通りやったけど、上手く行かなかったのは本が悪い、ってコト? そんなに人の人生は単純じゃないし。 著者はマニュアル世代かな? ハンバーガーショップじゃないから、人は。
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笑っちゃうぐらい戦国武将みんな天下目指してた説ですね。最近の研究にも目を通したほうが良いのでは?
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そら当時の中国の価値観によって書かれるのは仕方ないのでは・・・ 思想的なのも多分に交じってるし 抽象的なのもそりゃそうでしょうとしか・・・
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武田信玄が そもそも 天下取りという 目標を持っていたのか それすら定かではないのでは
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ところで最も「孫子」を理解しているであろうNPO法人孫子経営塾は、いつ天下を取るのか教えて。
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比較対象を間違えてますね 信玄で比較したければ家康辺りと比較するべきでしょう
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俺とかなり孫子の解釈が違うな。孫子経営塾なんてやってるなら、俺より詳しいんだろうけど。
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いくら今川義元が死んだ所で武田信玄がすぐさま駿河侵攻なんてできるわけないだろ…
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そもそも、武田信玄は天下をとりたいと思っていたのだろうか?
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そもそも呉が天下を取れてないという。覇権は握ったけど。
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読み手の読解力 同じ文章でも何を感じるか生かすも殺すも人それぞれ
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二俣城攻略は1572年だ。ちゃんと校閲しなさい。
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細かい事を言うが、元亀3年1527年じゃないよ 間違えるなよな
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戦国大名の全員が「孫氏の兵法」を活用してんじゃね?
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読みづらい記事だなぁ
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個人的には用間篇が面白い。
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孫子の兵法=準備しなさい、勉強しなさい と教わったよ?
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元亀3年は1572年ではないでしょうか? (1527年)?
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絶対に天下をとれるならいいがそうじゃないでしょう 過大広告
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孫子に時間の概念がないって、こいつ本当に孫子読んだのか?w
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極論と結果論を織り混ぜた稚拙な記事
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孫子の兵法で言えば、プーチンは『愚』なのだろう。
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がんばれ、気合を入れろ、みたいなもんか
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兵法本はHowTo本じゃないってこと?
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>わずか20日で上洛した織田信長
これこそ孫子では・・・
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尊師の兵法は戦略書じゃなくて戦術書でしょ。
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何言ってんの?信長、謙信に囲まれてあれだけ奮戦できた人間は他にいないだろ。好き勝手、よく言うね。それから、マニュアル化されたものなんか、簡単に破れるだろ。頭がよろしくないんだね。
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この記事を書いた人が賢くないのが良くわかる
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