( 250808 ) 2025/01/17 15:23:13 2 00 【やさしく解説】阪神大震災はどんな災害だったのか◆通電火災、タンスが凶器に―教訓を振り返る #知り続ける時事通信 1/17(金) 9:00 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/23c949d6b3ebb4d847773fecf0804f06c6b9a222 |
( 250811 ) 2025/01/17 15:23:13 0 00 波打つように倒壊した阪神高速道路=1995年1月17日、兵庫県神戸市東灘区(時事通信社ヘリより)
兵庫県を中心に大きな被害をもたらした、1995年1月17日の阪神淡路大震災から30年を迎えました。最大震度7の激しい揺れが早朝のまちを襲い、建物の倒壊などによって6434人が犠牲となりました。電力復旧が原因で起きる「通電火災」や家具の下敷きによる死亡といったリスクは、この地震をきっかけに初めて広く知られるようになりました。改めて被害の特徴や教訓を振り返り、残された課題を探ります。(時事ドットコム取材班 川村碧)
◇初の震度7、「体が浮いた」証言も
3連休明けの火曜日で、多くの人がまだ寝ていた午前5時46分、神戸市を中心に激しい揺れに襲われました。震源地は淡路島北部で、マグニチュードは7.3。震度7を記録したのは観測史上初めてのことでした。
企業や行政機能が集中する都市部を直撃した「直下型地震」。わずか数十秒の揺れで、高速道路やビル、住宅が倒壊し、水道・ガスなどのライフライン網が破壊されました。当時の住民は「下から突き上げられて、体が浮いた」と揺れのすさまじさを証言しています。
6434人が犠牲となり、負傷者は4万3792人に上りました。約24万棟の住宅が全壊、半壊となり、兵庫県内では約31万6000人が避難生活を余儀なくされました。
◇8割が「窒息死・圧死」
地震被害を直接受けて亡くなった人の約8割が窒息死や圧死でした。自宅の倒壊に巻き込まれてがれきや家具の下敷きになったケースが多く、特に1981年以前の古い耐震基準で建てられた木造家屋に被害が集中。犠牲者の半数は高齢者でしたが、大学が多い地域ということもあり20代の死亡率の高さも指摘されています。
道路や水道・ガスといった「生活インフラ」も大きく被災。阪神高速道路が635メートルにわたって横倒しになった光景は人々に衝撃を与えました。主要な高速道路や国道が通れず、渋滞も起きたため救助や支援物資の配送に影響しました。兵庫県内では、電気は約1週間で復旧したものの、ガスや水道は復旧に3カ月近くかかりました。
◇電力復旧で火事に、消火追い付かず
地震発生直後から、揺れが激しかった地域を中心に火災が発生し、約7500棟が焼損しました。木造家屋が密集し、人手や水の不足で消火が追い付かなかったこともあり、大規模な火災につながりました。
火災の半数以上は地震直後に起きましたが、残りは時間がたってから出火したことが判明。電力が復旧した際に、電気ストーブなどから出火する「通電火災」が原因とみられ、大震災をきっかけにリスクが知られるようになりました。
◇避難者31万人、プライバシーなく
避難所には、ピーク時で約31万6000人が身を寄せました。体育館や教室のほか、廊下にも人があふれ、床で雑魚寝状態。プライバシーを守ることは難しく、慣れない共同生活で被災者はストレスを抱えました。水が流れないトイレには排せつ物がたまり、感染症の原因に。トイレに行かなくて済むように食事や水分を控えたり、体を動かさなくなったりしたことで健康状態が悪化した人も多かったのです。
地震当日の昼頃には、被災自治体に支援物資が届き始めましたが、人手や保管場所の不足で仕分けができず、山積みとなりました。一方で、避難所にはわずかな食料や物資しか行き渡らず混乱。炊き出しや食料の分け合いなど住民同士の協力で乗り越えた場面もありました。
阪神大震災の教訓と対策・課題
阪神大震災は、見過ごされていた災害時のリスクを浮き彫りにしました。30年後の今、教訓はどのように生かされ、いまだに残る課題はなんでしょうか。
(1)耐震化、家具の固定が一般的に
建物の崩壊が多くの命を奪ったことを踏まえ、震災後には、耐震改修促進法で1981年以前に建てられた病院や学校などに耐震診断が義務付けられました。国土交通省によると、一般住宅の耐震化率は2018年時点で約87%に上るものの、約700万戸は耐震性が不十分と推計。耐震化が進まない事情として、手間や費用の問題から高齢住民が対策をあきらめている場合があり、ハードルを下げる取り組みが必要とされています。
住宅自体が無事でも、タンスや本棚が倒れてけがをしたり、避難路がふさがれたりしたケースもありました。激しい揺れによって家具が凶器になるリスクが広く認識され、大型家具を壁に固定することや、倒れる危険性のあるタンスなどは寝室に置かないことが呼び掛けられるようになりました。
(2)身近な「通電火災」防ぐには
出火原因が分かった火災の約6割が電気によるもの。電力が復旧した際に、倒れた電気ストーブや損傷した電源コードなどから発火したとみられています。電化製品に囲まれて暮らす私たちにとっては身近なリスクといえ、実際に東日本大震災でも火災の原因となりました。
電気はガスと異なり、地震が起きても自動で止まる仕組みではなく、住民の対策が求められます。一定の揺れを感知すると自動で電気を遮断する「感震ブレーカー」の設置が解決策のひとつ。マンション・戸建て向けに、ブレーカー付近に取り付ける簡易タイプや、分電盤工事が必要なタイプなどがあり、費用は3000円~8万円ほどです。ただ、2022年の防災に関する国の世論調査によると、大地震への対策として感震ブレーカーを設置している割合は5.2%にとどまり、認知度不足がネックとなっています。
(3)避難所、どう変わった?
阪神大震災やそれ以降の災害の教訓を踏まえ、避難所では間仕切りやテントで被災者のプライバシーを確保する取り組みが広がっています。冷えや感染症の予防として段ボールベッドの導入も進み、保健師らが巡回して避難者の体調変化を見逃さないようにしています。国は自治体に対し、食料や携帯トイレ、紙おむつといった必需品は避難所に備蓄するように求め、アレルギー対応食品も用意されるようになりました。
改善は進んでいるものの、不衛生なトイレや栄養の偏った食事が続くことは近年の災害でも繰り返し起きています。被災後に生活環境の悪化やストレスが原因で亡くなる「災害関連死」は阪神大震災で初めて認められた概念ですが、その後の災害でも後を絶ちません。
イタリアでは、過去の災害の教訓をへて災害発生後、速やかにトイレや温かい食事、ベッドを被災者に届ける仕組みを国が構築。日本も2024年1月の能登半島地震を踏まえた避難所の運営指針で、「トイレは20人に1基」とし、避難所開設時から間仕切りや簡易ベッドを設置することを自治体に促しています。ただ実践できるかは自治体任せで、まだ課題は残されています。
(4)救助・医療で全国から力結集
当時、被災地の消防隊だけでは救助活動に限界がありました。そこで、大きな災害が起きた際は全国の消防隊が被災地に駆け付ける「緊急消防援助隊」が1995年6月に創設されました。発生後すぐにヘリや重機による捜索活動ができるようになり、これまでに40回以上出動しています。
また、地元の病院も被災する中、十分な医療を受けられず亡くなった人がいたことを受け、国は2005年、大災害発生から48時間以内に動ける「災害派遣医療チーム(DMAT)」を発足させました。専門的な訓練を受けた医師と看護師、業務調整員による少人数チームが治療に当たり、熊本地震などでも活躍。病院での混乱を避けるために、けがの程度に応じて治療の優先度を決める「トリアージ」の必要性も広まりました。
(5)「ボランティア元年」復興の力に
被災地には全国からボランティアが駆け付け、避難所の運営や炊き出しに奔走。1年間で延べ約137万人が活動し、「ボランティア元年」と呼ばれました。一方、多くの人が初めてのボランティアで、行政側も受け入れ経験がなかったため、申し込みが殺到したり被災者ニーズとのずれが生まれたり、さまざまな課題も見えました。
その後に起きた災害では、被災地に「災害ボランティアセンター」が設置され、被災者のニーズと個人ボランティアを結び付ける仕組みが誕生。被災地に行く際に必要な装備や心構えも周知されるようになりました。
しかし、被災自治体が外部からの支援をうまく活用する土台づくりには課題が残ります。道路が寸断した能登地震では、被災地入りを控えるよう石川県が求めたメッセージがSNSで拡散され、ボランティアの自粛ムードが高まりました。県が受け入れ態勢を整えた後も、ボランティアの活動は広がりを欠き、「細く長い支援」をどう実現するかが問われました。個人ボランティアだけではなく、被災地支援のノウハウがある専門ボランティアが復興への力となるため、各ボランティア団体と行政の「顔の見える関係づくり」が日頃から求められています。 この記事は、時事通信社とYahoo!ニュースの共同連携企画です。
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( 250812 ) 2025/01/17 15:23:13 0 00 =+=+=+=+=
阪神淡路大震災で震度7を経験しました。幸い、家が倒壊したり出火することもなく家族とともに無事でした。 両親は早朝から起きていたのですがあとで見たらタンスが布団の上に倒れていました。もし寝ていたら骨折していたかもしれません。 あと、阪神淡路の時は、地震の加速度が非常に早かった為、横方向(うちでは東西方向)へ激しくスライドしたことにより、タンスが側転しました。 南を向いていた冷蔵庫や食器棚は前転しましたが、重いタンスが側転したことによりリビングのドアが開かなくなりました。倒れるのは「前」とは限りません。固定方法も前後左右に耐えられるよう工夫が必要だと思います。
▲430 ▼11
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このような経験や教訓を、中学生の頃の私にも教えてあげたかった。 東日本大震災の時に何をしたらいいのかさっぱり分からず怖くて泣きそうになっている中、親が扉を開けに行ったり、倒れそうなタンスをおさえたりしていました。 現在は自分が親になったので、自分の子ども達にも自分の命を守れるような行動を教えたいなと思います。
▲433 ▼31
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家具の固定は阪神淡路大震災からですね。冷蔵庫や食器棚には必ずつけていますし、テレビも飛んでくると言いますから、液晶テレビも固定しています。 対策グッズは、100円ショップで売られているほど身近に手に入りやすくなりました。 揺れと同時に倒れるのを防ぐことができるだけでも、命を守る事になります。 近年は家の倒壊で亡くなる人もいます。住宅の耐震化は命を守る以外に、救助や避難行動に支障が出ないためにも大事な事です。今は情報がアップデートされ続けています。防災ではなく減災につながる事が今は求められています。それは自分だけでなく家族や大切な人も守ることになりますね。
▲99 ▼3
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親戚が伊丹の家で寝ている時に被災して、会うたびに「背の高い家具はなるべく置くな。置くなら固定しろ」と言っていた。 親戚は寝室にいくつものタンスを置いていて、それが全部倒れてきたそうだ。 幸いにも、両サイドから同時に倒れたタンスが途中でつっかかる形で止まっていたので自分たちに当たらずに済んだと。
昔は嫁入り箪笥とかそれなりに重量感あって大きなタンスが家中にあったよね。親戚の友人知人もそれで亡くなった人が何人もいる。 親戚の言う通り、今の我が家に自分の身長を超える家具は冷蔵庫以外、置いていない。 その冷蔵庫もしっかり固定しているし、背が低い家具も固定している。軽いと吹っ飛んでくるらしいから。
▲160 ▼9
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ここに書き漏れている事項の一つに報道ヘリの問題があります。 火災現場などを上空から撮影するため各テレビ局等がヘリを被災地に飛ばすのですが、そのヘリの騒音が原因となり、生き埋めになっている方の声が聞こえなく救助に支障をきたすという問題もあります。 昨年の能登地震でもその様相はあまり改善されていないように感じました。 救助に向かう自衛隊ヘリはやむを得ないものですが、報道のヘリは自粛することが必要だと思います。
また、「一人の命を救うために多くの方が犠牲になった」というような反省点・教訓もありましたね。今アメリカでは大火災が発生していますが、非常時の救助の方法についてしっかり整理することが必要と思います。
▲136 ▼8
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我が家は今どきの家なのでタンス無し。食器棚と本棚がそれぞれ1つだけ。それらと冷蔵庫を壁の柱や梁に金具固定しています。55インチテレビも床に固定した重量級ボードとボルト留めしたフレームに据え付けて、転倒もぶっ飛びもしないようにしています。 災害にもいろいろありますが、我が家は地震よりも台風直撃のほうが怖いです。いつくるか、自分の所にピンポイントに来るか分からない大地震よりも、西日本特有の頻繁にやってくる激烈台風のほうが現実の脅威です。どちらも「備え」としては共通する部分もあるので、地道に準備しています。
▲66 ▼3
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私も経験しました、木で作られた重くて立派タンスで上と下の引き出しが分かれてるタイプでした。大きい方の上が倒れてきました、子供で小さかったのですき間があり大きな怪我はありませんでしたがそれでも重くて揺れが収まるまで動けなかったのを覚えています、隣で寝ていた父は朝早く出かけていていなかったのですがタンスは父の方へ直撃してました。私の地域は崩れた屋根や立体駐車場が下に落ちていたりしました、テレビをつけたら高速道路が倒れたり想像以上の被害をみて衝撃をうけました、あの日のことは一生忘れないでいきたいです。
▲41 ▼2
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最近はニトリといったお店でも家具の転倒防止の製品が目につくようになりましたね。 注意したいのは家具の転倒防止だけでなく、倒れる方向にも注意が必要です。倒れた先がベッドではないこと意外にも、ドアを塞いでしまう可能性もあります。 自分の家の場合、冷蔵庫置き場がお風呂のドアの向かい側なので、入浴時に冷蔵庫が倒れたらお風呂から出られなくなる配置でした。冷蔵庫の上に突っ張り棒を配置しました。突っ張り棒は手前より壁の近くのほうが効果があるそうです。
▲73 ▼3
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阪神大震災で自宅は全壊しましたが、家族全員無事でした。建物が全壊してなくてもタンスや上から物が落ちてきて亡くなられた方がたくさんいます。タンスは固定。重い物は自分の頭より上に置かない。地震が来ればそれが凶器と化します。ちょっとした気遣いが命を守る事につながると思います。
▲62 ▼2
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色々意見があると思いますが、あくまでウチの場合は上に突っ張りするのは何の役にも立ちませんでした。逆に横にスライドする事で助かりました。木造2階建てでしたが畳の部屋のタンスは倒れ、フローリングにカーペットひいた寝室の部屋のタンスは横に滑って倒れなかったので助かりました。ピアノもテレビもレンジ台も全てキャスターのおかげで倒れることは有りませんでした。挟まれる危険もあると言われますが、あくまでうちの場合は引き戸も全部抜けるぐらい上下に歪んで突っ張りは役に立たずでした。思うのはワイヤーで壁に固定するのが転倒防止になるかもしれませんが、でも多分千切れるかなあ。。
▲20 ▼0
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須磨区の南部で被災した者です。早朝だったのでまだ寝てました。背中を2回ドンドンと叩かれたような衝撃で目覚め、すぐにグルグルと全体が回ったような感覚でした。最初は寝起きドッキリで洗濯機に放り込まれたと錯覚したものです。 家族と住んでいたボロアパートは幸い壁や屋根瓦が落ちたものの、柱が耐えてくれたおかげで無事でした。周辺の同じような建物は軒並みペシャンコ、中学時代の同級生を一人亡くしました。隣の区画は全焼、消防車がいち早く駆け付けてくれたものの断水で消火できず、隊員が近所の川まで水を汲みに行ってました。震度7クラスの地震が発生したら、どんなにインフラが整備されてても歯が立たない。 自分もタンスは倒れこそしなかったけど、引き出しが全部飛び出して来て頭にぶつかりました。それ以降、今までタンスは買ってません。洋服はハンガーに吊るすか押入れケースに収納しています。
▲33 ▼3
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当時、私は、神戸に大学短大がある附属の高校に通う1年生、16歳でした。学校の先生達が、その大学短大に進学した先輩達を心配していたのを思い出しました。そして、私達にテレビを見て情報を知りましょう、と午前中で帰宅したのを覚えています。何日かして、その先輩達が、私達の高校に来て、無事ででしたよと先生達とハグをしていたのも。先輩達の話しを聞いていて、大変な事になっている、地震は怖いなの気持ちでした。週1回の宗教の時間で、この地震をきっかけに命の大切さを感じました。あれから30年。いろいろ経験して、さらにこの年齢になり、その重みを感じます。朝目覚める、健康で元気に過ごせる、当たり前ではないと気づかされる日々です。東日本大震災、能登半島地震などの状況を知るたびに、東京に住んでいる私は、防犯グッズを準備しようと意識を持つようになりました。
▲6 ▼1
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新築するなら家具は作り付けが一番安全。
造り付けは高いと思ってる人も多いけど、それは高い扉を付けるからだ。 クローゼットに高価な扉など付けなくていい。 扉代わりにカーテンをつければ安い。 大切な服だけは防虫カバーを掛ければいい。
お金をかけなくても、見た目をまあまあオシャレにしつつも、工夫すれば安価で安全を手にすることができる。
東日本大震災の時、我が家はそれで被害が少なかった。
一番動いた家具家電は、冷蔵庫とピアノだった。揺れで 1メートルほど移動した。 これは造り付けできないから不可抗力だ。 できる範囲でやるしかない。
▲88 ▼8
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直下型で揺れは強いといえど、他の地震に比べると死者数が多い気がします。 この時代でも新しい建物なら大丈夫なんだろうけど、この時代である程度たってる建物は耐震弱いだろうし、この時代は、家具も固定してないだろうからね。 この地震が教訓となり、後の地震で助かった人もいるしね。 やはり備えは必要だよね
▲1 ▼0
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震災は忘れた頃にやって来るので怖いです。
私の家は親の代の(1984年築)を引き継いだので、木の重い家具がいくつもありました。箪笥、本棚がそれぞれ複数個。
でも、最近は箪笥をプラスチックの軽い衣装ケースに次々と取り換えました。背の高い本棚も処分する計画です。衣類や本の選別処分には時間がかかり、こちらの方が大変かも。
照明は吊るしの大きい丸形蛍光灯(チカチカする古いタイプ)が各部屋にありましたが全て最近のLEDのに交換しました。ガラスの傘の40W電球照明が、浴室・脱衣場・廊下・トイレの基本でしたが、全てLEDのプラスチック製のガラス無しの軽い照明器具に交換しました。
残るは沢山ある大きな窓の、ガラス割れ対策としてのフィルム張りですが、面倒に感じられて今も貼れないままです。
ベッドの下には丈夫な厚底の運動靴を置いています。ガラス飛び散り時の床歩き対策です。これが飛んだら困ります。
▲4 ▼0
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私は、不幸にもタンスの角が頭に直撃し、血が噴出しました。電話も不通になり救急車を呼びたくても呼べず。 2時間後にやっと救急車が来てくれましたが、病院に着いても、意識があるので後回しにされました。治療を受けたのはお昼前でした。あの時は死を覚悟しましたね。 阪神大震災以来、タンスなどの背の高い物がある部屋では寝ないこと、タンスは倒れないように部材を取り付けることなどを徹底してます。
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阪神淡路大震災を知らない世代も多くなっているが、能登半島地震も去年起きた。 地震が多い日本は、地震がどんなものであったのかなど起こった体験を語りあう事で、人の心は繋がっていくと思うし、今後起こりうる地震への備えへの意識も持てるとつくづく感じた。
▲9 ▼0
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朝方に今まで経験したことのない、長い揺れ 今のように携帯ですぐに情報が入るわけでも無ないのでとりあえずテレビをつけると長田町の火事が飛び込んできた。高架の道路は横たわりバスが落ちそうになってたのが今でも覚えています。あれから30年ですか その間に東日本大震災が起きて、次は南海トラフが不穏な動き 防災意識をしっかりもっていつ大地震が起きても対応したいと思っとります
▲6 ▼0
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当時高校生。物持ちのいい我が家では、学習机をまだ使用していました。昔の立派なタイプの学習机です。自分では完全に無意識でしたが、揺れが収まるまで学習机の下に隠れていました。心配して部屋を見に来た親が「いなくなった」と思ったそうです。 震災以来、家具を壁にビス止めしたり、突っ張り棒で天井と固定したりがはやりましたが、最近はどうなのでしょうか。 また常識も変化しています。昔はトイレが柱の間隔が狭く安全性が高い扱いでしたが、最近では閉じ込められる危険性の方が大きく言われるようになりました。またガスの元栓を締めるくらいなら、先にドアを開放したほうがいいともいわれます。 地震大国であるである以上、防災や避難の情報は常にアップデートしないといけないですね。
▲7 ▼0
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被災経験者です 大人になった今でもフラッシュバックします。 経験から学んで実践していることは ∗高さのある家具は置かない(作り付けのクローゼットだけを活用する) ∗頭より高い位置に物を置かない ∗食器棚は置かない ∗割れる食器は引き出しに収納 ∗寝室にはベッドだけ ∗頭の位置に落ちる危険のあるものは置かない ∗寝室に緊急用の飲料水と毛布、防災リュック ∗貯水できる雨水タンク ∗子供にGPS、災害手帳携帯
数え上げればキリがないですが、やり過ぎるくらいが丁度いいです
▲37 ▼1
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物が捨てられないお宅は、 とにかく収納を増やすために背の高い家具を部屋中に幾つも置いてある。 地震や火事の時に押し潰されたり、ドアや窓を塞ぎ避難経路の妨げになったり、 大量の物が火災の燃料となり家中が真っ赤な炎に包まれるなんて想像していないのだろう。 怖い怖いと思いつつも、家族の命よりも溢れかえる物を大切にするのだろう。
▲5 ▼6
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阪神大震災で被災しました。 私の身内、友人は幸い命は無事でしたが、全壊、全焼、倒産等それぞれ皆大変な目にあいました。 ボランティア元年と言われ、ボランティアの支援はまだまだ未成熟で、ボランティアに来た人が被災者に寝床や食事をどうしたらいいですか?って聞いてくるような事があちこちでありました。 企業や被災地外の自治体による支援も今ほどスムーズではなく、一般から送られてくる救援物資はボロボロの服や食べれない食料(期限切れ、腐敗、カビ等)が多数混じっており、仕分けも大変でした。 大きな避難所は人が多すぎ入りきれず、小さな避難所や公園にテント村がたくさんできました。 今ほどスムーズな支援体制がない分、当時は被災者自身が知恵を出しあって自分達で協力して立ち上がらざるを得ませんでした。 あの震災を教訓に様々な支援体制が考えられ、大規模災害時の早急な支援に繋がっている事を願います。
▲26 ▼1
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6434人死亡という悲惨な地震でしたね。 能登の地震とは桁が違います。 阪神淡路大震災は場所的にも重要拠点であり、復興を急ぐ必要性がありました。 私の祖母も被災しました。 住めないのでそのままです。 電気も無しで、雨漏りしている状態でビニールシートを屋根瓦にかけてるだけです。 最近、能登の地震の事で復興を急ぐように要請が政府にも自治体にも頻繁に行われているようですが、私は、現地の人々のお気持ちはわかりますが、あの場所は復興してもまた、再び大地震が起こり津波が発生すれば同じ事に繋がりかねない。 道路はともかく、宅地等については個人で私的に家をそれでも承知の上で建てたいという思いなら、自治体に頼らず自分で崩れた家を解体して建てるしかないのでは? 海岸部に近いところは津波が発生すればそういう被害に遭うであろう事は想定できるはずですよね? 南海トラフ地震も30年以内に80%の確率で発生予測との事…
▲20 ▼20
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東日本大震災より数十年前、宮城県沖大地震というのがあり、仙台で体験した。揺れる本棚を手で押さえながら奥の部屋を見るとタンスの上のガラスケースの人形が動いて落下していた。後で本棚の上のスピーカーが落ちて頭を直撃するところだったと知った。他の家ではタンスがバタバタ倒れた。震度5である。 仙台では「タンスが危ない」と学校でも教える事態となり、親はタンスの上に天井にフィットするダンボール箱を詰めた。後年東日本大震災で、ダンボール箱は面で揺れを吸収、タンスは倒れなかった。ぜひタンスの上の空間を棚やダンボールで埋めて欲しい。
▲5 ▼0
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当時小2で子供部屋に敷き布団で寝ていましたが、周りを背の高い家具で囲まれており、それらが全て私に倒れてきました。布団に頭から潜って寝る癖があったおかげで、アザだけ済みましたが親は生きた心地がしなかったそう。それ以降は背の高い家具は必ず固定するようになりました。
▲12 ▼0
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当時は阪神間に住んで大学受験生でした。今では考えられないでしょうが、自衛隊が派遣されるのに一週間かかりました。また いろんな噂話もありました。現在のようなインターネットが普及していなくてもです。 そこから学んだことは地域のコミュニティの大切さです。また、スーパーやコンビニに物がない時に 個人商店のおやじさんがお米を代金はある時払いで持ってきてもらったり、普段からのお付き合いは大切だと知らされました。
▲11 ▼0
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タンスは見た目はいいのに重くてずらすだけでも苦労する。 倒れたら一人で起こすのはほぼ不可能で、仮に自分の上に倒れてこなくても家具の配置次第では入り口が塞がれて逃げ遅れ、火災や倒壊に巻き込まれるなんてことも考えられる。
転倒防止も家具を傷つけたくなくてマットや突っ張り棒タイプを選ぶ人が多いが、確実に防げるわけじゃない(両方使えば少しはましになる)ので、タンスが多いであろう高齢者がいる家では特に注意が必要だろう。
▲3 ▼0
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あの時の被災者に聞いた話だけれども「タンスやテレビが宙を飛んでいた」と言っていた。玩具の「達磨落とし」で、「寝ている自分が弾いた小槌」で、上にそのまま宙に留まっているピースがタンスやテレビだった感覚とのこと。 朝6時前から始まったラジオ放送では、京都方面から駆け付ける記者からの実況だった。「揺れは大きかったけれども、比較的平穏」的な話で、一瞬安心した。「大丈夫だったのか?」と誤解していた。職場についてテレビを点けたら高速道路が横倒しになっていて、あちらこちらで煙が上がっているの感じだった。あれを見て「大変なことが起こった」と理解した。 断層の横ズレ地震の怖さをまじまじと見せ付けられた気がした。まず個人的な最初の対策は家具の固定化と、寝室から背の高い家具を排除だった。今でも、その点は注意している。
▲43 ▼4
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たしかに家具転倒のリスクがクローズアップされたのはこの時からかも。建物にダメージがなくても死に至るというところまではなかなか考えが及んでいなかった。 それと転倒家具に挟まれたものの無事救助された…と思われた人が数時間後に容態が急変して亡くなる、クラッシュ症候群を知ったのも阪神淡路大震災がきっかけだった。
▲7 ▼0
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阪神大震災ではないですが、同じ直下型の中越地震に遭い 物凄い縦揺れで、まるでシェイカーに入れられ上下に振られているようでした。
寝室に行ったら、引き出しタンス(大型で、上下に分かれているタイプ)の 上部分だけが、天地を逆にしてベッドの上にどーんと落ちていました。 一瞬何でこうなった?と思いましたが、残る下部分を見てみると、 上部分とジョイントして固定するツメの部分が折れていませんでした。 つまり一旦タンスの上部分が宙に飛び上がり、勢いで天地が逆になって ベッドの上に落ちてきたものと思われます。
タンスは奥行が浅く背の高い物が地震で倒れてくるのだと思っていましたが、 まさかの出来事でした。 直下型地震の恐ろしさを思い知らされました。 高さがそこまでなく、奥行きが深い引き出しタンスも、このように飛んでくる可能性があるので 直下型地震の来る地域ではぜひ突っ張り棒で固定して頂きたいと思います。
▲13 ▼1
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この地震をきっかけに地震対策の流れが変わったことを記憶しています。 自然豊かだが地震大国でもある島国日本に住んでいて、いつどこにいても見舞われる可能性のある自然災害に一個人として出来ることをやっていきたいですよね。 まずは備蓄の管理や、避難所の確認などかなぁ。今の時代スマホアプリを活用するのもありですよね。
▲3 ▼1
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当時神戸のマンションの8階に住んでいてエレベーターがしばらく止まりました。その間8階まで徒歩で上りました。水道も止まったので東京から来た水道局の給水車からもらった水をポリタンクに入れて8階まで上りました。今高層マンションがたくさん建てられてますが高層階の住人の人は地震の時の覚悟はどの程度あるのかと思います。
▲46 ▼1
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右に寝返りを打っていて本棚の直撃を逃れた友人がいる。 反対に寝返り打っていたらと思うと…
それから教訓として。 今もそれなりにある公衆電話。 硬貨は10円と100円は使えるけど、50円と500円は使えない。
もう一つ。 公衆電話の中にある硬貨の箱が満タンになると使えなくなる。
なので、出来るだけ100円玉を用意した方がいい。 私は常に10枚はカバンの中に入れている。
▲31 ▼2
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あの日は朝7時のニュースで地震の発生を知りました。当時東京に単身赴任中だった私ですが、当日午後の大阪本社での会議に呼び出されていました。 とりあえず羽田空港までは行きました。飛行機は飛んでましたが、大坂方面への移動手段は保証出来ないと言ってました。 結局、大坂本社とは連絡が取れず、とぼとぼと東京の勤務先に戻る羽目になりました。 大坂本社ビルでは外付け階段が落下するなどの被害は有ったそうですが、壁・天井を含む大きな損壊は無かったそうです。 むしろ私の上司・同僚の自宅が相当やられたと聞きました。中には神戸のマンション住まいの人が、隣の部屋のテレビが壁を破って飛んで来たと言ってました。 想像しただけでも身の毛がよだちます。
▲7 ▼0
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昔は嫁入り道具にタンスやら化粧台やら…が、普通でしたが今は変わりましたね。家具のおろし屋さんもほとんどみかけることはなくなりました。我が家は東日本大震災の時に夫の実家が足の踏み場もないような状況になりました。でも、被災地に比べたら全然で。夫が家を買い、新生活の準備に気を付けたことは、納戸以外の場所に私の背丈よりも高い家具は置かないというのには気を付けました。ベッド回りは特に。なので我が家には背丈よりも高いものは冷蔵庫と壁についているエアコンと天井の照明器具、キッチンの吊戸棚です。大きな揺れの際にはラッチで閉まるようなものがついてはいますが、それでもしまうものには気を付けてはいます。それでも大きな揺れの際にはいろんなものが飛び出て床に落ちてはいるんでしょうね…
▲4 ▼0
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最近の若い方には関係ないかもしれませんが、昔は重い桐のタンスなどが嫁入り道具として一般的でした。
今でも実家の和室などに大きな茶色いタンスが置いてあるケースは少なくないのではないでしょうか。
当時は高価だったため、今でも捨てる事ができず、使わない着物類などが入ったまま置いてある場合もあります。
しかし、亡くなったら結局は処分されるのですし、本人が生きているうちにありがとうを言って処分したほうが良いと思います。家具だって何十年も使ったら、十分役目は終えています。リサイクルに出すか、捨てるか、処分したほうが地震の際に自身やご家族の身を守れると思います。
▲45 ▼8
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もう30年経ちましたが、私は大阪でしたがそれでもあの揺れの衝撃と当時の事はっきり憶えています。 友人も沢山被災しました。 家が潰れる前に箪笥や冷蔵庫が飛んできてその下敷きで身動きができなくなって亡くなった方が多数いたと、その後明らかにもなりました。 うちは重たい家具は固定しています。 冷蔵庫もバンドで固定しています。 インフラではあれから、水道はでっぱなしになるから蛇口のレバーは上下規格が反対になったようです。 色んなところで社会の技術も工夫もあれから変わりました。 あの時のこと忘れずにいたいと思う。
▲27 ▼1
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ダンスの隣で夫婦で寝ている。 阪神淡路、東日本を経て、家中のタンスや食器棚の転倒防止金具を付けるようになった。
ただ、市販品で気になるのは天井との突っ張り棒を震災対策として売られていること。 大概の家屋の天井板は、天井裏ではぶら下げる様な作り方。建築的には、天井板が落ちないように長ボルトなどで吊り下げているものも多い。 決して、下から押し上げられた時に対する耐力は無い。人の手で押したくらいでは天井板は持ち上がらないと思うが、タンスが倒れるのを防ぐだけの強度ほとんどない。
売る方も、もう少し考えて欲しいと思う。
▲32 ▼13
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実際に阪神淡路大震災で被災しましたが、住んでいたアパートが半壊し 住人で声を掛け合いアパートから避難しようとしたら 隣のおばあちゃんが出てこなかったので、むりやり部屋のドアを開け中を確認してみると 実際に倒れてきたタンスが布団の上に覆いかぶさっていて動けずにいました いつ余震がくるから分からないので、おばあちゃんをアパートの皆で助け出し 避難した後は、おばあちゃんの怪我もなかったので近所に住んでいたお孫さんのところへ避難してもらいました 被災したのが日が昇る前だったので停電で真っ暗になり、部屋もぐちゃぐちゃになったので今は懐中電灯だけは寝床の近くに常備してあります
▲9 ▼0
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もう三十年、あの日の事は今でも、ショックです。朝TVのニュースで地震の映像に釘付けでした。当時中学生だった息子も、しばらくは、子供ながらに夢に見る出来事だったみたいで、初めて災害に、向き合う様になった悲劇でした。その後私の住んでいる福岡の西方沖地震があり東日本の地震で私たちは地震国に、生活している備え心したいと思います。
▲3 ▼0
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もはや家具の固定は当然にしても、最近の家には箪笥はあまりないと思う。うちは結婚した18年前、新居に箪笥がなく(今もない)、義両親に驚かれた。義実家は同じ間取りのマンションだったが覚えているだけで大中小合わせて10棹あった。食器棚は別で。高齢者こそ、プラケース・引き出しとかで良いのにと思う。
▲11 ▼1
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兵庫との県境の大阪でしたが5強くらいでたまたまタンスなど大きな家具を置いていた方向がよかったのか倒れたのは小さな棚くらいでした。しかし怖かったのはブラウン管のテレビが半分前に落ちていて、冷蔵庫がズレたのではなくポンと2センチほど移動していた事をCFの床が物語っていた事です。実家は築40年の木造だった為、2階で体を揺すると家がユラユラ揺れる状態。梁か筋交いが外れたんでしょうね。建替えを余儀なくされました。近所のお屋敷の大屋根から瓦が半分くらいずり落ちていたり、ブロック塀が倒れていたり。その時お腹が大きかったんですが、買物に行っても食材があまり入荷してなくて、長蛇の列に上の子をベビーカーに乗せて並んだのが辛かったです。それからは買物は少し多めに早めにする事を肝に銘じました。
▲4 ▼1
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母親は今でも家具を配置する時、枕元には棚とか絶対に置きません。私が一人暮らしした時も鏡の位置を決める時、ここにおくと倒れたら大変、寝る時は次の日着る服を枕元に置いておくとか言われました。ドラマとかみていても本棚がベッドの上にあったりすると、これは危ないぞとか言ってます。普段の時は何もいいません。震災の事も話したりしませんが、たまにの行動に震災の影響を感じます。
▲15 ▼1
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ブレーカー問題も重要だけど、あまり問題視されないよね。電気復旧時にショートして火事とか…電気も侮れません。 なので避難の際はブレーカーを切る。でも生き埋めになったら切ることもできない… 感震ブレーカーへの付け替えに補助金が出る市町村もあるから、積極的に活用して欲しいですね。
▲4 ▼3
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自分は家を建てる時に、この震災の特集で家具が危険と学んだので、家の家具はほぼ全て倒れる心配のない扉付きの造り付け家具にした(扉には地震ストッパーも付けた)。対策はしてあるが、倒れる心配があるのは冷蔵庫とTVと洗濯機ぐらい。 寝室にはベッドのみ。避難経路はガラスが飛ばないよう窓から離れるように動線をつくり、ガラスはペアガラスかトリプル。
家が倒壊したらどうしようもないけど、南海トラフ地震が必ずくる地域だから、できることをして備えるしかない。…でも、やっぱり地震は怖いなぁ〜。
▲1 ▼0
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当時は中学2年生で母親に叩き起こされ食器棚押さえてって言われて言われるまま抑えていたけど食器棚が倒れてきたら死ぬまではなくともケガはしていただろう。 でも当時は被災のことや物が落ちてきたり倒れてくる事への備えは全くと言っていいほど頭にはなかった。 今は全て壁に備え付けで倒れてくるような棚などはないが水や避難できる用意はある程度している。それを持って外に出れるかどうかもわからないが備えはしすぎる事はないのでいずれくる南海トラフではうちは浸水地域に指定されているので子供にも集合はここでって決めている。
▲12 ▼2
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当時高校生で前日遊んでいた友人が犠牲となりました。毎年集いで黙祷するたびにあの日の事を思い出します。家も前回となり8月までテント暮らしでした。地震が起きて数日は高校生という事もあり、良くも悪くも行き場のない体力を役立てれないかと、叔母が生き埋めになっていた近隣の人を周りの人達総出で崩れた屋根をバール等でこじ開けながら助けてたりしてました。怖く、分からず、不安な日々を過ごしていましたが、忘れてはいけない記憶なのでこの思いを抱えながら亡くなった友人の為にも生きていきます。長文失礼いたしました。
▲18 ▼1
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部屋の広さに余裕がある方は 寝具の上に倒れない様に家具を配置した方がいいです 緊急速報や揺れを感じたら出入り口は開放に ドアでもガラス窓でも 私も阪神淡路大震災の被災者でした 会社の移動で神戸市長田区へ転勤中に被災 朝方の地震だったので整理タンスの下敷きに 家族に救出されました運良く打撲で済んだのですが それ以降家具類は置かない部屋で就寝する様にしてます
▲3 ▼0
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10年前に長田の商店街でのイベントに行きました。20年のイベントです。アイドルを見るのが目当てでしたけど。被災者の、タンスの前では寝ないように、それだけで命が救われるというコメントが胸に残った。しっかり実践してます。
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当時は岐阜で高校生でした。 まだ起きるには早く寒いので布団の中でくるまっていた時に、ゆーらゆーらと大きく揺れました。古い日本家屋だったのでガラスがビリビリと音を立て、ただごとではないとすぐに起きてテレビをつけました。 関西が大変なことになっているという状況だけを把握して登校、当時はスマホもネットもないので帰宅するまでその後の状況はわからぬままでしたが、帰宅してテレビをつけてあまりの惨状に呆然としました。 あれから30年、あちこちで大震災の頻度が高くなりいつどこが揺れてもおかしくない状況。環境的な備えはしているつもりですが、地震の少ない地域で育ったので咄嗟に動ける自信がありません。
▲1 ▼0
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震災の一カ月前に父の転勤で東京に引越しました。テレビを観ていたら、住んでいた六甲のマンションが映っていたのを覚えています。
自分たちがそこにいてもおかしくなかったのに、テレビ越しに観る映像はなぜか他人事の様でした。あまりに非現実的な映像の為か、テレビ越しだと映画の様に錯覚して現実味を失ったのかもしれません。
あれから気が付いたら随分と時間が経ちました。あっという間に…。
氷河期世代真っ只中で、いま思い返してみても、世の中的にも自分的にもいろいろとありました。
今が幸せかと問われたら、正直わかりません。ただ、今の世の中では幸福を噛み締めて毎日生きている人はそんなにいないと思います。そう思うと、決して不幸ではないのだとは思います。
だってまだ生きていますから。
▲14 ▼0
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阪神淡路だけではなく、中越地震などでは10畳の和室(居間)に置いていたテレビや電子レンジ反対側の壁まで飛んで壁に突き刺さった状態の家を何件も応急危険度や罹災住宅などで調査したよ。その部屋に人が居たら大怪我していたと思うよ。朝方で寝ていたら被害は甚大だと思うよ。
▲6 ▼0
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阪神淡路で、家財が無茶苦茶になりました。一番驚いたのは、とにかく歩いて大阪に避難してテレビを見たら、自分の家の向かいが燃えていたこと。私物らを家に置いたままにしていたから、翌日必死に現場に駆けつけて無事を確認。インフラは半年回復せず家に戻れない。壁際の家具らは倒れ中身が散乱。無事だったのは大きめのベッドや重いテーブルら重量がある物だけ。タンスや本棚ら背が高い家具はあまり買わない方がよいと学びました。動線を塞いで逃げられない、横長の背の低い家具がマシ。また、ガラスは凶器になること。厚みがある割れたガラスで指を深く抉ったのが皮膚に段差のような膨らみを発生させ、まだ残っています。ガラス食器やガラスが入った棚らはあまり買わない、高い位置に置かない方が良いでしょう。一番良いのはミニマリストになり、箱物らは部屋に置かず、ベッドらのみ。空間を広くしておくことかな
▲11 ▼0
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30年前自分は大学生で古い学生寮に住んでおり、一瞬で建物が倒壊して下敷きになった。火が回る寸前に脱出したが全焼。住んでいた東灘区は最も死者が出た地域で、特にうちの周りは空襲を受けたかのように一面焼け野原となった。うちの隣のアパートは逃げ遅れた住民がおおぜい焼死し、お母さーんと叫んで中に入ろうとする女性、それを止める我々、等々、地獄絵図の状況だった。 あまりに悲惨だったので、慰霊プレートが現地に設置されている。 人生ではじめて遺体というものを見た。10歳くらいの女の子で、横で母親が泣き叫んでいた。30年経っても時折夢に見る。 それ以来旅行でホテルに泊まると、必ず非常口を確認し、災害時はどう避難しようかと考えるようになった。防災意識というよりトラウマである。
▲141 ▼3
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我が家は箪笥を置かなくなりました。 ウォークインクローゼットに服は収納しています。 2階に置く背の高い重量物は、冷蔵庫だけにしています。 そして、自宅の重心が高くならないよう、重いものは出来るだけ1階へ。洗濯機やお風呂も1階にしました。効果はあるのかわかりませんが、あると良いな。
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30年前の出来事 私はまだ生まれていないので 全く分かりませんが 「1995年は大変な年だったんだよ」 という話は母からよく聞いていました!
テレビなどでは 30年前の震災の映像や 地下鉄サリン事件の映像などが流れたりして こんな大変な事になっていたのか…と 痛感しました。
東日本大震災が起こった2011年 私は中学3年生で テレビでは ACジャパンのCMや、津波の映像など そればっかりで 今でもよく覚えています。 当時は うざいと思っていましたが 大人になり改めて津波の映像などを観ると 本当に心が痛み、地元民ではないですが 涙が出てきます。
忘れてはいけない出来事 ずっと心から祈りを授けます
▲6 ▼0
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8割が「窒息死・圧死」の教訓は、家具の固定は勿論なのですが、揺れが大きくなりにくい『地盤の良い場所』に住むことが最も大事だということです。 揺れるから家は壊れ、家具は倒れます。 地盤の良いところと悪いところで、震度が1以上違うこともあるので、地盤の良いところを選ぶのが“一番の防災”です。 国土地理院地図(の土地条件図)やJ-SHIS Map等が参考となります。
▲18 ▼2
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当時、部屋のタンスが全部倒れて向かいにあったベッドは下敷きになっていた。たまたま体調不良で階下の別室で寝ていたので無事だったが、本当に運が良かった。以来タンスの置き方には細心の注意を払っている。
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その年の正月だが年末には千島列島で地震が相次いでいたころで、ここ(神戸)は地震がなくて良かったねなどと家族で話していたころだ。父はこの震災で寝ていた時にタンスの下敷きになったのだが寝ていた方向が頭と足で逆だったので大したけがをせずに済んだ。それにしても耐震補強をしていない家が多すぎないか?能登地震でも半数は耐震補強をしていれば助かったはずだ。
▲0 ▼0
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30年も経ったのか。 当時は関西に住んでました。今は都内の鉄筋コンクリートマンションに住んでます。
避難所は区民全員が入れる前提になってないし、家をなくした人優先になるだろうから我が家は入れないだろうと思って準備しています。
一番心配なのは火事。 テレビで見ただけですが、阪神の地獄のような光景やエピソードが頭にこびりついてます。
都内はまだ木造が密集してる地域が多い。 風がある日だったら糸魚川の火事のように一瞬で焼き尽くすだろう。 行政も補助金など対策しているがまだ足りない。 持ち主不明の空き家は更地にして防災公園にするなど施策を進めてほしい。
▲1 ▼0
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阪神淡路大震災からもう30年になる。建物の倒壊などによって約6400人が犠牲となった。震災による火災や家具の下敷きによる圧迫死によって多くの人が亡くなったと記憶している。それから寝室・ベッド周りにはタンスなどの大きな家具を置かない様に注意して、他の部屋の家具には倒れるのを予防するつっかえ棒などをするようにした。
▲31 ▼4
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当時大阪の自宅で被災しました 私は父、弟と川の字で寝ていたのですが、たんすの上の棚が落ちてきました 私と父は地震前からなぜか目が覚めていて、父めがけて落ちてきた棚を避けていたのを横で見ていたのを今でもはっきり覚えています 食器などの物が壊れただけで助かりました しかしあのときのドンと突き上げるような揺れ方は本当に異常でした
▲1 ▼0
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当時、大阪の大学で音楽を学んでいました。 自分は無事でしたが、寝ている顔の横に炊飯器が落ちてきたぐらいでした。
後に音楽関係の知人からグランドピアノのある家では、ピアノが壁を突き破って隣の部屋にあったという話を聞きました。 あんなものに曳かれたら大変です。
▲3 ▼0
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自分の地元である広島は安芸灘地震があり、震度6弱を観測しました。 実家のある地域も5強を観測。 自分は仕事で島根県にいましたが、就業中に地震発生でその日の作業は残業が6時間組まれていた中、設備点検のため定時退社となりました。 他にも鳥取県西部地震のときも同じことになったのを覚えています。 自分は有給休暇だったのですが、13時30分くらいに松江市に遊びに行っていて地震に遭いました。 怪我をした方々が多少なりともいらっしゃったのを覚えています。 自分は派遣でいろいろなところに仕事に行っていて、派遣先で大きな地震に遭っていますが怪我をしていないことが幸いです。
昨年の能登半島地震、2011年の東日本大震災、熊本県地震などもそうなのですが、どれだけ被害に遭われた方々が大変な思いをされているのかと思うと悲痛でなりません。 早く被災地の復興が進みますように願っております。
▲0 ▼0
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阪神淡路大震災から、30年が過ぎようとしています。街は、復興して震災の傷跡は、見当たりません。 しかし、何十年過ぎても心の傷が癒えない人もいます。あの日のまま時が止まっています。 生きているから、前向き自分の人生を歩ないといけないけど、心の傷が癒えるのには、人それぞれと思う。
▲1 ▼0
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阪神大震災は想像を超えた地震でこの大震災に遭われた聴いた話では地獄の様相だったと言って居ました。家族の人生は一回の地震で一変してしましたらしです。マイホームは全壊してローンだけが残り勤め先も全壊して新卒からの仕事も失い、復旧もままならず失意の生まれ先の岡山県児島に帰っても中々仕事が見つからず震災被害者には冷たく足なわれ苦労した話でした。街は見違える程変わりましたが心の傷は消えませんですからね。日本人にとり地震は昔からの災害でいつ自分の人生に起きても不思議では無いですからね。自分事と考える日ですね。
▲9 ▼0
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今はまずないだろうけど,当時は固定されていないブラウン管のテレビというものが飛んできただろうと思う。 通電火災のリスクは上がったと思う。リチウムイオン電池が充電中につぶされたら,通電再開で出火するだろう。
▲17 ▼3
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犠牲になった方々に、哀悼の意を表します。
尊い犠牲により,耐震化、通電火災、避難所の問題、救助活動の問題点が浮き彫りになりました。
尊い犠牲を無駄にしない為にも、さまざまな課題に真摯に取り組む必要があると思います。
▲1 ▼0
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阪神大震災と熊本地震は、両方とも都市直下型で共通点が多いですが、死者数は2ケタ違う。その最大の原因は通電火災です。じつは地震では人はそんなに死なない。耐震基準ばかり議論になるのは、建築業界に踊らされてる面があります。火事を防ぐことが、死者数を減らす要諦なのです。 だから大事なことは、家がぐちゃぐちゃの状態で、すぐ元の生活レベルに戻そうとしないことです。家が暗くても、冷たいご飯でも生存に問題ありません。カセットコンロを勧める防災アドバイザーとかいますが、火事になったら消防車が来れないので、大火になる可能性が高い。LEDのランタンと水と乾パンと寝袋で凌ぎましょう。
▲2 ▼1
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私の家も大阪でしたが、当日はタンスが倒れてきて母が寝るはずの布団を直撃していました。
本来なら母が下敷きになっていましたが、幼かった妹が夜泣きして起きていた為布団には誰にもおらず奇跡的に助かりました。
▲4 ▼0
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当時借家住まいで部屋が狭まくタンスを両サイドの壁際に置いていた、その間で母が布団を敷いて寝ていた、両サイドのタンスが倒れたが偶然タンスの上に置いていたティッシュの箱が挟まり空間ができたので母はタンスの下敷きにならず無傷だった、防災意識が高まった今となってはとんでもないタンスの配置だと思う、当時はなんの根拠もないが関西には大きな地震がこないと家具を固定する認識もなかった。
▲2 ▼0
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今も30年前もそうだけど家が倒壊する家屋って明らかに見た目がもろい作り。 神戸の長田区もそうだけど横揺れがきたら1発でアウトな作りの家ばかりが並んでました。 木造で密集して火事が起きたら周りに広がる建て方。
これから生き残っていくにはやっぱり耐震構造がしっかりしてる家に住まないと家族は守れないよ。
危ない危険!だと言われてもまだまだ裏山がある場所や、耐震なんてまるでない平屋に住みつづけるしかない人も沢山いる。
実際に自分の身に命の危険を感じないと人間って動かない。 どこにいても安全なわけではないけれど「安心」を一つ増やすだけでも違うと思うよ。
▲8 ▼1
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阪神大震災から30年、東北や能登の大震災を見ても災害関連死が災害死を上回っていることから、いまだに行政は学びと対応行動の周知が出来ていないと思います。 災害前の対策はまあまあ周知されてきている様ですが、災害時と災害後のサバイバルハウツーは周知されているように思えません。特に災害関連死は劇的に減らせる事が出来たと思うと残念です。
▲1 ▼0
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タンスはそれほどでもない。当時一番の凶器はガラスや食器、次いでブラウン管テレビだった。
真っ暗な中リビングの床が割れた窓ガラスや食器の破片で埋め尽くされ、揺れの最中は阿呆ほど重いテレビが突っ込んできた。当時のニュースではテレビを見ていた女児がテレビに押しつぶされ、胸部陥没30cmと報道されていた。子供の胴体の奥行きなんて30cmもないからペシャンコだったんだろうなと戦慄した。
あれからテレビは液晶で軽量化されたし、食器棚は地震の時に開かないようなものも出てきた。少しづつではあるが教訓が生かされていいる部分だね。
▲0 ▼0
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最近は南海トラフのことばかり心配されているが、人間の予想出来る所に直近の地震は来ないと確信している。 それより関東大震災の方を心配すべきと思う。 実際阪神大震災が来る前までは、関東の方ばかり心配されていて、関西をいう人はいなかった。 関東、中でも東京、静岡の辺りが危ないばっかり言われた。まさに今の関西の南海トラフの状況と同じ。 何か地震があれば南海トラフとの関連を調べるとか、何か見当違いな気がする。
▲1 ▼0
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最近起こった台湾での地震の後、テント等スグに設置したいたのが、印象的でした。災害があった時、自治体が機能しない事を前提とした、事前準備ができていました。 対岸に中華があるから、常に危機感を持っているからこその準備ですね。
▲2 ▼1
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あの当時はブラウン管テレビ、ディスプレイが凶器だったね。居間にあれ程の重量物は他に無い。 あとは雨漏り対策ね。雨が降ったら後始末が10倍増える。被災から降雨まで時間との勝負です。
▲15 ▼0
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大みそかの引っ越しで大阪に移動し、1995年新年から大阪勤務で、いきなり地震に遭遇した その年は営業でどこに行っても地震の話 96年も復興が進む中、地震の話は途絶えず、引きずっていた
かなりの揺れで、壁にへばりついていた 無理に出勤するな、ってことになって会社は休み 歩いて出社した人もいたが 私は自宅で、社会人大学院の修士論文の仕上げに時間が取れて、これ幸いってことでとりくんでいたなぁ ほどなく、いろんなところのボランティアに駆り出されることになり、惨状を目の当たりにした
▲0 ▼0
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もう30年も経ったんですね。うちは神戸からは遠く離れていますが当日揺れる前にゴーと音がしてすぐガタガタと揺れました。隣で寝ていた夫はなかなか起きないタイプですが飛び起きて部屋のドアを開けました。 長女は大物で全く起きる気配がなく当時存命だった祖父母に今度大地震が来たら下敷きになって知らない間に死ぬなと言われたもんです。もちろん元気に生きております。 神経質な次女はすぐ目を覚ましました。しかし、その後病気で亡くなりました。皮肉なもんです。 地震での教訓と言えばシングルタイプの水道の蛇口です。当日下に降ろすと水が出るタイプが多かったと聞いてます。だから上から物が落ちてきて水がでっぱなしになったとか。その後は上に上げると水が出るタイプが増えたとか。 今住んでいるところの町内の共用スペースの蛇口が古くレバーを降ろすと水が出るタイプでみんな思い切り水を出してしまい周りがびしょ濡れになってます。
▲2 ▼1
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地震のことが有るから、マンションを買うときに収納の多いマンションを選び、食器棚やリビングの収納棚は建付けにしました。 箪笥や本棚をあとから買い足してポンとおいておくのは怖いので。 突っ張り棒も、逃げる時間を稼ぐためのもので絶対倒れないものではないですし。
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震災時たまたま起きてたけど、敷いてあった布団のちょうど頭の位置にタンスが地震で倒れてた タンスの角の位置だったから、もし寝てたらよくて大けが、悪けりゃ死んでたかもと思ってる あれ以来、背の高い家具は転倒防止器具をつけるようにしたり、重いものを上に収納しないようにしてる
▲15 ▼0
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亡き母親が糖尿により入院していた時であった。たまたま隣のベットが空いていて一人の70代ぐらいの女性が神戸から着の身着のままで来た。この震災の被災者であった・・大阪の病院も満杯で遠く東京までらしい。息子夫婦は東京在住で後に様々な衣類を渡したのだが、この老夫婦の相方はこの地震で亡くなってしまい毎日ベットで泣いていたのを覚えている。津波こそなかったが、リビングのテレビが庭にまで転がるという凄まじい揺れという話を後日聞いた。連日テレビでは犠牲者の数が表示され5000人を突破したのを覚えている。あれから30年・・その間に東日本大震災など震災続きで有るが、自分としては初めての震災経験として忘れられない記憶として今でも鮮明に残っている。
▲39 ▼1
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昔は地震といえば北海道でした 私は十勝沖地震も浦河沖地震も経験しました その時の地震対策が今話題になってますが、昔の地震災害地の記事も参考にしたら良いと思います
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思い出すなぁ。当時芦屋に住んでいた職場の同僚の家が半壊。 大阪市内北部に住んでいる自分はそいつを自宅で飯を食べさせて 風呂に入れてやり、芦屋まで車で送り届けた。 普段なら往復2時間もかからない国道2号線は信号も停電、大渋滞。 午後8時に出発したら帰宅は午前4時。国道の沿道は怪奇だった。 30年たった今でも当時の光景が目に焼き付いている。 命の大切さ、当たりまえの生活の大切さに感謝したい。 風化させてはならない1.17、3.11、1.1等々。 我が国は国土強靭化が最優先だとこの日に思う。
▲9 ▼0
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腰の高さより高い家具を持っていません。 落ちるもの、倒れるものを設置してません。
軽いものが落ちたり倒れたりするくらい。
割れ物は引き出しに。洋服はポールにハンガー掛け。
部屋に飾り物を置かない。 これは東日本大震災より前から徹底してやってます。
ヘルメットや避難時の靴、各部屋に懐中電灯。 停電時に明かりのつくタイプも。
▲7 ▼2
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高校生の時に被災しました。 親戚のおうちはガレージを残して全壊。 全員亡くなって車だけが残った辛い思い出があります。 ボランティアにも行きましたが、報道のヘリが飛び回り、生き埋めになった方の声が聞きずらく大変な思いをしました。 報道の在り方にも注意してほしいです。
▲5 ▼0
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自分は当日は東京に居たが… 暫く後に大阪オフィスに立ち寄った時に(部署内に被災者も居たので、状況確認と打合せの為)ビルのコンクリ壁や柱にヒビやタイル欠けが有った。 驚いたのは、事務所の部屋の天井に物がぶつかって出来た穴で、聞いたら「(腰位の高さの)棚の上に有ったプリンターが当たって出来たらしい」との事。 当然、棚もひっくり返って居たそうだが、あんなに重い物があの高さまで跳ね上げられたのに恐怖した。 早朝だからオフィス内に人は死傷者は無かったが、日中だったら死傷者が出る。
▲1 ▼0
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うちはタンスじゃなくて本棚だったなぁ。倒れた本棚が学習机にひっかかって直撃はしなかったけど文庫本が足の上に落ちて飛び起きたわ。それ以来寝る場所に対して倒れてきそうな棚関連は設置してないな。動線を塞ぐような配置もしなくなったなーと振り返って思う。
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わが家では冷蔵庫と洗濯機以外、高さ90cmを超える家具は無くしました 食器棚は120cmの壁への据え付けの引き出し仕様で少しは対策出来てると思うんだけど。
問題は義両親の部屋。 台所は食器棚、部屋は書棚、飾り棚、花のための棚と四方を150から180cmの家具で囲まれ、その中心に布団を敷いて寝ています
何度も地震のとき危ないから処分して片付けたほうがいいと言っても必要なものしかないから処分できないと聞きません
私たち子世代の身体が動くうちに手伝おうと思っても聞かないのでどうしようもないですね
▲3 ▼1
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阪神大震災の死因は圧死•窒息が77%です。 一階が押し潰され、建物の二階が一階になっていました。親戚は二階に居て助かりましたが、一階の方は亡くなりました。 被災した身としては、なるべく一階を避けて、二階以上に済んだ方が良いと伝えています。自分なりの伝承ですが、参考になれば幸いです。
▲4 ▼0
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