( 251218 ) 2025/01/18 06:04:05 2 00 日本海軍で「最も活躍した戦艦」とは 最強の大和ではない!? 老艦なのに活躍できたワケは乗りものニュース 1/17(金) 18:12 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/5ab6edf8bf5d53091effb5bb63f684b10429dd8c |
( 251219 ) 2025/01/18 06:04:05 1 00 1911年に建造が始まり、第二次世界大戦中に活躍した旧日本海軍の戦艦「金剛」についての記事。 | ( 251221 ) 2025/01/18 06:04:05 0 00 第2次改装後の1937年10月、中国厦門(アモイ)港外で撮影された「金剛」。この時の改装で最大速力が30ノットに向上した(画像:アメリカ海軍)。
1911年(明治44)年の1月17日、旧日本海軍の戦艦「金剛」がイギリスにあるヴィッカース社のバロー・イン・ファーネス造船所で起工しました。同艦は明治期に進水した老齢艦ながら、第二次世界大戦でも数々の作戦に参加。約30ノットの速力を活かし、対地艦砲射撃や空母機動部隊の護衛、洋上決戦など、多くの戦いで活躍しました。
日本の戦艦の艦名は、「大和」や「武蔵」、「長門」など旧国名から付けられていますが、「金剛」は奈良県と大阪府の境に位置する金剛山にちなんだ艦名で、旧国名ではありません。元々、装甲巡洋艦をルーツとする巡洋戦艦だった「金剛」は、一等巡洋艦の山岳名に由来する艦名となっています。
ちなみに巡洋戦艦とは、簡単に言えば、戦艦と比べると防御力はやや劣るものの、速力は勝る大型の戦闘艦を指します。海戦では、敵の巡洋艦や駆逐艦を撃破する役割も期待されていました。ただ、次第に巡洋戦艦と戦艦の区別は曖昧になり、巡洋戦艦だった金剛型は戦艦に艦種を変更することになります。
日本は海軍を創設した明治以降、諸外国に発注した軍艦を輸入してきましたが、「金剛」はその最後の艦となります。建造は技術移転を前提としたもので、日本は技術者の派遣や設計図の入手などを要求し、ヴィッカース社はこれを承諾しました。
金剛型戦艦の2番艦「比叡」からは、建造に必要な資材をイギリスから輸入し国内で建造する、いわゆるノックダウン生産のような形となり、3番艦「榛名」と4番艦「霧島」では国産化率も徐々に向上していきます。一連の技術移転により、国産戦艦の建造能力は大きく向上し、最終的に史上最大最強の戦艦「大和」「武蔵」につながっていきます。
「金剛」は1913(大正2)年8月16日に竣工。南アフリカの喜望峰を回り、はるばる日本へ回航されてきました。基準排水量は2万6000トンあまり、世界で初めて35.6cm砲を8門採用するなど、当時は世界最大にして最強の巡洋戦艦でした。
竣工翌年に第1次世界大戦が勃発しますが、主戦場が欧州だったため「金剛」は大きな戦闘には参加せず、その威力を発揮するのは第2次世界大戦からになります。
戦間期、「金剛」は2度にわたる大規模改修を受けます。最大速力は約30ノット(約55km/h)へ、航続距離も9800海里(約1万8000km)へ引き上げられたほか、水中防御力の強化、対空火力の増設なども施され、空母機動部隊に随伴することが可能な高速戦艦として生まれ変わりました。
「金剛」の存在はアメリカ軍にとっても脅威で、後にアイオワ級戦艦が金剛型に対抗するために建造されることになります。
ただ太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月時点で、「金剛」はすでに最古参の戦艦でした。速力こそ速かったものの、戦艦としての攻撃力や防御力は国内外の主力艦に見劣りしたのも事実です。「大和」や「長門」などの強力な戦艦は、連合艦隊司令長官が直卒する第一艦隊第一戦隊に配備され、柔軟な運用ができず、大戦後半まで温存される形となりました。
一方「金剛」は、当初から最前線に投入されることになります。海戦の主役が戦艦から空母へ移った時代においても、速度性能を活かし、巡洋艦や空母と共に多くの作戦で運用されたことが「金剛」の活躍の幅を広げることになるのです。
開戦直後1941(昭和16)年12月、「金剛」は「榛名」と南方へ進出。マレー沖海戦でイギリス艦隊と対峙した後、クリスマス島(イギリス領)への艦砲射撃などを行いました。その後、1942(昭和17)年4月のセイロン沖海戦、6月のミッドウェー海戦に参加し、さらに北方作戦の支援へと向かいます。
10月にはガダルカナル島を巡る一連の戦いで、「榛名」と共に同島にあるアメリカ軍のヘンダーソン飛行場に対し、艦砲射撃を実施。大きな打撃を与えました。現地に展開していた陸軍の第17軍司令部は、この攻撃を「野砲千門に匹敵」すると評しています。
1944(昭和19)年に入ると、6月のマリアナ沖海戦、10月にはレイテ沖海戦に参加します。レイテ沖海戦では、栗田健男中将が率いる主力部隊に配属され、「大和」「長門」「榛名」などと共に、フィリピンのレイテ島へ上陸しようとするアメリカ軍の迎撃へ向かいます。
「金剛」は、フィリピン東部のサマール島沖でアメリカの護衛空母群と会敵、砲撃を加えます。俊足を生かし、アメリカ軍の駆逐艦が放った魚雷を回避しつつ空母群を追い、集中砲火を浴びせました。この戦いで「金剛」は、護衛空母「ガンビア・ベイ」や護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」の撃沈に貢献したとされています。
レイテ沖海戦後、損傷の修理が必要となった「金剛」は日本本土への帰投が決定、11月にブルネイを出港します。しかしその途上で、アメリカ軍の潜水艦「シーライオン」に発見されてしまいました。潜水艦は魚雷を発射、うち2本が「金剛」に命中します。
艦齢が30年を超え、満身創痍となっていた老体に、魚雷は致命傷となりました。しばらく航行は可能でしたが、艦内の浸水は徐々にひどくなっていきます。「金剛」はとうとう転覆、台湾北西部の沖合で大爆発を起こし沈没しました。被雷から沈没まで2時間もありましたが、乗組員の退艦が遅れたため、約1300人が犠牲となる惨事となってしまいました。
明治期に進水した老齢艦ながら、「金剛」は実に多くの海戦に参加しました。金剛型戦艦の4隻は、いずれも戦場で大きな活躍を見せましたが、その中でも大戦後半まで生き残った「金剛」の実績は群を抜いており、日本海軍で最も活躍した戦艦とも言われます。なお、その艦名は海上自衛隊のイージス艦「こんごう」に受け継がれています。
乗りものニュース編集部
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( 251222 ) 2025/01/18 06:04:05 0 00 =+=+=+=+=
金剛型戦艦で最も印象深いのは第三次ソロモン海戦第二夜戦で米戦艦サウスダコタとワシントンと主砲で撃ち合いをしたことですね。 この戦いでサウスダコタを撃破、ワシントンの40㎝砲弾を相当数被弾して最終的には沈没しますが、1,300名あまりの乗組員のうち1,000名以上が救助されています。 日本の戦艦で最も戦艦らしく戦い、散った戦艦と言えるでしょう。
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確かに防御力は劣るのだが、なんといっても空母機動部隊と同行できる足の速さが金剛級の最大の長所だった。真珠湾からほとんどの海戦に出撃し、ガダルカナルでは戦艦による艦砲射撃の威力を見せて、アメリカ海軍も戦艦の艦砲射撃の効果を見直したという。最後は戦艦同士の打ち合いの中で沈んでおり、艦載機になぶりものになって沈んでいった大和や武蔵に比べれば、実に戦艦らしい最後を飾った。
▲112 ▼9
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大和あたりは国威を示すため「不沈艦」が宿命づけられたから主砲の攻撃力もさることながら防御力、復元力を重視し、そして沈まないためにはおいそれと出撃もできなかった。末期には燃料すら足りなかったのもあるだろうけど。それに比べて金剛は速力もさることながら戦闘艦としてその攻撃力を使い倒されることを求められた。大和より余程、使い回しやすかったのだろうと思う。
▲103 ▼4
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第一次世界大戦勃発でイギリスは金剛の貸与を帝国海軍に要望していますね。もしそうなっていれば金剛は英国風の名前で就役しユトランド沖海戦に巡洋戦艦戦隊の主力として参加。下手をすれば帝政ドイツの巡洋戦艦に撃ち負けて撃沈されていたかもしれません。2度に渡る大改装で高速戦艦となった金剛でしたが竣工時から防御力には問題を抱えていた艦でもあり、大改装では主に防御力の向上が図られています。
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結果として最後となった大改装を行った時に、「比叡」「榛名」「霧島」は普通に作業が進んだが「金剛」だけは一部の装甲がドリルを受け付けない、という事案が発生し、技術将校が「英国は全部を明かしてくれた訳じゃないんだな」と言葉を漏らしたという話を何処かで読んだ。明治期に日本が最初に鉄道を敷いた際に、夏冬の寒暖差と梅雨で仏製、独製のレールはクラックが発生してダメになったが、英国製レールだけは長期使えたという話も有り「英国と鋼鉄」とは日本の技術者とっては長きにわたる研究テーマだったという話だった。
▲214 ▼4
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いろいろ理屈はあるけど、単純に金剛型はかっこいいのよ。主砲塔を6つにした扶桑、山城、伊勢、日向は何となくバランスが悪く見える。特に扶桑のあのくねった艦橋は好きになれない。(悲壮感のある最期は哀愁があるが。)長門、陸奥は金剛型と同じ主砲塔が4つだが、何となくすっきりしすぎている気がする。大和、武蔵は艦橋が中央より後ろにある姿が特別でカッコいいが、あれは特別と考えれば、八八艦隊までの思想で造られた戦艦まででは金剛型が一番かっこいいと思っている。もちろん、高速を生かして機動部隊の護衛につくことが可能だったことを含めて、歴戦の強者であることが、よりカッコよさを増していると思う。
▲118 ▼9
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金剛型は第2次改装後の外観が4隻共違って、一目で艦名が判るようになりました。 主砲もナックル付の艦と無しの艦かで2隻ずつに分かれ、特に艦橋は各艦特徴がありました。 最後に改装になった「比叡」の艦橋は後の大和型のテストケースとしてよく似た艦橋になりカッコ良かったです。 皮肉にも一番最初に沈没した戦艦なのは残念でした。
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私にとって金剛はある意味思い出深い。小学校4年の時初めて買ったのがニチモの「金剛」、当時300円だった。モーターライズでマブチモーターを入れたけど、単スクリューなのでローリングしてしまい、やられて片舷傾斜した状態で小さい浴槽をあえぐように航行した。懐かしいね。
▲102 ▼2
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金剛型二番艦の比叡は軍縮条約で一部火砲と装甲は外し、一時期練習戦艦になっていましたね。
で、その時期は練習戦艦としてのスケジュールの組みやすさから天皇陛下のお召艦としての栄誉を何度も賜っています。
更に軍縮条約脱退後に通常の戦艦に戻す工事の際、第一次と第二次改装に加えて当時開発&建造が進んでいた大和型戦艦の試験艦として一部大和型戦艦の技術と部品を試験搭載したりします。
(個人的には比叡の他の姉妹艦3艦と違う艦橋(大和型に似た一部塔型にした構造)が好きだったりします)
▲47 ▼2
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大艦巨砲主義から航空機優位の時代に移るときだったからね。 大和も〈不沈戦艦〉では無かった。 皮肉にもその先駆けはマレー沖海戦で英海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスを葬った日本の航空機だった。
本筋からずれるが、その二艦を葬った後、救助をする英海軍を一切攻撃しなかった日本軍、日本人の武士道精神は世界に誇れると言える。
一方で日本の軍艦並びに輸送船、徴用船は数多の船が連合軍に撃沈されたが、救助に当たる艦も攻撃され、海に浮かぶ生存者も躊躇無く機銃掃射された。
▲54 ▼14
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レイテでの被害は軽微じゃないのよ サマールでの追撃戦後の空襲で右舷バルジ全損の大被害なんだよ 1番砲塔下の右舷側至近で爆弾が炸裂してバルジが破断、舷側装甲も3cmの隙間ができる爆圧を受けてる この後も高速で回避運動を続けざるを得なかったので、破断部から後ろのバルジがほとんど剥がれてしまい、全損判定
この時点で金剛は右舷側には有効な注排水区画が艦底バラストタンクくらいしか無くなってしまう この状態でバシー海峡で敵潜の夜間浮上レーダー雷撃で左舷前部に魚雷を受けてしまう 右舷への注水も区画が少なく有効に機能せず転覆沈没してしまう
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金剛型は高速戦艦とも言われ、防御より速力を重視した為、文字通り「当たらなければどうと言うことはない」な戦艦だった。
老齢な戦艦が活躍出来たのは「金剛型は(古いから)駆逐艦の様に運用する様に」と命令が出た為、他戦艦からすると、色んな戦場に駆り出された事が、武勲が多い理由かと。
▲22 ▼5
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金剛型が第二次大戦でも立派に戦力となり得たのはその高速だけでなく主砲に14インチ砲を選んだことで、これによりアメリカの16インチ砲ともとりあえず戦えるだけの火力を維持したのもあります。もしそれ以下の12インチ砲など選んでいたら一方的にやられていた可能性もありますね。
▲0 ▼0
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俺の爺ちゃんは比叡で飯炊きやってたんだが、ソロモン海戦の後に出す予定だった飯は赤飯と鯛の塩焼き。小豆と餅米を蒸していたら艦が傾き蒸気停止。 半蒸しの赤飯と士官食堂用と高い酒を抱えて海水浴。 小豆をつまみに飲むシャトームートンロートシルトやラターシュ(現在でも無茶苦茶高い一本30万円くらい)は人生で一番美味い酒だったそうです。
▲53 ▼1
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なかなかわかりませんでした、実は親父が乗ってました船でした、船の歴史や速さに付いては話しは生前きいてました、また高野山に慰霊碑がある そこには父の名前もあると聞いてます 病気となり船を降ろされ、上官より生きろと言われたそうです、17歳で志願21歳で帰省母からは 生きていたのかと言われたそうです、仏壇には 戦死した兄の位牌、父の位牌があつたそうです 家には海軍通信学校、金剛乗組員全員の記念写真 があります、若く頼もしい青年でした 苦しくも82歳であの世に行き晩年は病気で苦しい中でも我慢強い親父でした。
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賛否両論はあるけど日本海軍で最も貢献したのが金剛型ですね戦闘にせよ造船技術にせよ
金剛型戦艦がなければ今日の日本の造船技術も無かったかもしれないし 日本の造船技術が飛躍出来たのは金剛型戦艦のおかげと言っても過言ではないと思う 少なくとも自分は
モノづくりに必要な知識と技術は簡単にはできないだろうし
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「金剛型に対抗してアイオワ級戦艦が建造された」いささか主語がデカい。 米海軍が30ノット近く出す巡洋戦艦・高速戦艦を脅威と捉えてたのは事実だけど、30年も時期に開きのある老朽艦のために貴重な新造戦艦の枠を潰すほどじゃない。当時のアメリカは金剛型の速力の見積もりを26ノットとして、不確かながら「30ノット出せるかも?」くらいだった。それに日本が建造中の新型戦艦(大和型戦艦)が30ノット以上出せる情報を得ていた。アイオワ級は日本が大和型を建造したことで本来新造戦艦の性能は3万5000tの主砲14インチ以下だった所を4万5000tの主砲16インチ以下に格上げするエスカレーター条項が発動したことで建造できたアメリカ軍の虎の子。 そうでなくても、世界を見渡せばドイツ、イタリア、フランス(一応イギリスも)アメリカが仮想敵とする国はどこも30ノット前後出せて金剛型よりも余程強力な主力艦を持ってる。
▲13 ▼0
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魚雷二発で沈められたように見えるけど、レイテ海戦での度重なる空襲で多数の至近弾を受けており、ボディブローのようにダメージが蓄積されてたこと、あとは被雷海域を早く脱したかったため高速航行したことで大量の浸水を招いたのが彼女の運命を決定づけた。
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大和級戦艦を建造するにあたり、ワシントン条約で廃棄された、土佐級戦艦の後継にするのか、天城級巡洋戦艦の後継にするのかで、意見が分かれたと言われています。 大鑑巨砲主義の正統からは土佐級ですが、金剛級巡洋戦艦の艦齢から、その更新として天城級を推す意見もありました。 主砲は18インチ(土佐は16インチ)でも、装甲は天城級(長門相当)垂直防御であれば、30ノットは可能と言われました。 しかし、結論は土佐級後継となりました。 しかし、大和級は装甲が重過ぎて喫水線下の装甲防御ができず、多数の防水区画のよるダメージコントロールを採用せざるを得なませんでした。このため、喫水線下にダメージを受けると速力(26ノット)が低下して、長門(24ノット)などとの主力艦よりも遅くなることが危惧されていました。 今思えば、30ノットの高速戦艦にしていれば、空母機動部隊と共に活躍できたと思います。
▲2 ▼4
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最も活躍したのが「金剛」なら、同型艦の「比叡」は不思議なほど昭和天皇と縁が深い艦でした。1933年の横浜沖大演習観艦式、1936年の神戸沖特別大演習観艦式、1940年の紀元二千六百年特別観艦式と3回の観艦式でお召艦を務め、他に1935年の宮崎・鹿児島行幸(ぎょうこう)時の御召艦と、同年の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)満州国皇帝の訪日に際しての御召艦を務め、1936年にも北海道で行われる陸軍大演習臨席のため昭和天皇を横須賀から小樽まで送り届けています。他の戦艦でこのような例は見当たりません。
「比叡」が沈んだという報告を受けた昭和天皇は「残念だがやむを得ないね」と漏らしたそうです。
▲17 ▼1
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仮に雷撃の応急措置がなってなんとか佐世保に逃げおうせても
中破で甲板も壊れ航行不可能の航空母艦隼鷹みたく、佐世保で修理すらも出来ず、ほったらかしにされてそのまま終戦。引き揚げ船や長門のようにビキニ原爆実験の標的用すらならずに海没処分
仮に修理がなったら大和の坊ノ岬沖海戦に参加。大和や軽巡洋艦矢矧と共に運命を共にして沈む
さらに呉に逃げおうせるも、呉大空襲で日向 伊勢にさらに姉妹の榛名と共に大破着底で終戦を迎える
どの運命をたどったんだろうか。
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金剛型戦艦の数々の武勇は幕末に最後までサムライらしく生き抜こうとした新撰組の存在を思い起こします。諸事情はあれどカッコばかりで前線に出なかった(出れなかった?)長門以上の戦艦達はどうしてもお飾り的なイメージを払拭できませんね。
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>日本は海軍を創設した明治以降、諸外国に発注した軍艦を輸入してきましたが、「金剛」はその最後の艦となります
「神威」は?当初は特務艦籍だけど水上機母艦としては軍艦籍だよね。
>「大和」や「長門」などの強力な戦艦は、連合艦隊司令長官が直卒する第一艦隊第一戦隊に配備され~
「長門」はともかく「大和」は第一艦隊に配備されたことはないはず。開戦前の41年8月に第一艦隊がGF直卒から独立して、GF長官が直率するのは第一戦隊(とその直衛部隊)のみになった。「大和」が就役するのはその後で、マリアナ沖海戦前に第一艦隊は解隊されて第一戦隊は第二艦隊に配属されてる。
▲13 ▼2
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親戚がガダルカナル砲撃作戦の時に航海長をしていて、生前にその時の話を聞きました。無事に帰って来れると思っておらず浅瀬に擱座して浮き砲台になり、乗組員を陸戦隊として指揮することになっていたと語っていました
▲7 ▼0
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日本が日清日露戦争に奇跡的に勝利出来た要因は日英同盟による要因が可成り大きい。三笠を始め英国によるサポートが無ければ、イタリアでの新造艦を購入し連合艦隊を結成する事は叶わなかった。この金剛もその流れで、まだ貧弱な日本の造船力を補填した。もしも日英同盟がそのまま継続してたら太平洋戦争は無かっただろう…
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山本五十六が盟友の堀悌吉の予備役編入について、巡洋戦艦戦隊一つと堀のどちらが大切か、と言ったのが、いつの間にか巡洋戦艦から巡洋艦に格下げされて、巡洋艦戦隊一つに変わってしまいました。 案外海軍の戦記物書く人でも戦艦と巡洋戦艦、装甲巡洋艦の関係をよくわかっていないようで、、、 巡洋戦艦の最盛期には戦艦より上位の扱いかと思わせることもありましたが、防御力の関係か、艦隊旗艦は戦艦であることが多かったような、、、
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「大戦後半まで生き残った「金剛」の実績は群を抜いており」 いやいや同じ金剛型の榛名が終戦まで生き残りましたでしょ それはともかく最も活躍した戦艦を上げるなら伊勢と日向かなと思う レイテの時に両艦あわせて百機以上の敵機を落し受けた損害はゼロ さらに北号作戦で見事に南方から物資を積み込み日本に帰還 金剛型のように戦いの先頭に立っていたわけでなくどことなく脇役だったけど多くの戦果を残ししかも生き残った
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巡洋戦艦・金剛を建造したヴィッカース社による、姉妹艦建造に際し締結された我が国への造船技術輸入協定に関しては、以前に建造した日露戦争時の聯合艦隊旗艦・三笠の活躍を誇りにした同社の心意気からの親密な関係を築き上げた結果でしたね。
(尚、現在でも英国のヴィッカース造船所がある街に「ミカサストリート」なる通りがあるとの事。)
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海軍は秘匿するのがお好きかな。あんなでかい戦艦なのに横須賀でも長崎でも秘中の秘匿とした。就役しても最前線には中々出さなかった。どう考えてもアメリカにはバレてるのにね。 これに対して陸軍は違う。新型戦闘機が出来れば「こんな凄い戦闘機造りました!こんなに高性能です、愛称をつけましょう!」と隼・鍾馗・飛燕と続け、疾風まで国民に呼びかけた。
▲35 ▼15
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「金剛」はイギリスのメーカーに「金は出すからとにかく最高の物を作ってくれ」と注文したら本当に最高の物を作ってくれた、と言う“奇跡”の艦ですよね(イギリスのメーカーにこういう注文の仕方をするとたいてい「どうしてこうなった…」と言うものが出来上がってくる)。 もっともイギリスから見れば当時世界最強だったはずの「ライオン」型より強い戦艦を日本と言う“外国”に売ったのですから「どうしてこうなった…」なのかもしれませんが。
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金剛は高速であったのを活躍の理由に挙げているけれど、老朽艦であったことから喪失しても長門型や大和型ほど痛くない、というのも理由である そうした理由で伊勢型戦艦も活躍を続けた 扶桑型戦艦は……画像検索してもらうと分かるけれど艦橋が違法建築じみた姿になるくらい詰め込みすぎて扱いづらかったそう
▲14 ▼3
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タイトル見て金剛だろうなー、と思ったらやっぱり金剛だった。全く異論ないです。 金剛級は舷側副砲など、太平洋戦争の二世代は古い戦艦だけど、機関更新で高速戦艦になったのが活躍の要因だと思う。 同級の霧島はもう少し頑張れても良かったかなと思うが…金剛は老体に鞭打ってあそこまで活躍したのは日本海軍戦艦中の白眉でしょう
▲3 ▼2
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金剛型は減価償却も済んでいるので惜し気もなく最前線に投入できたという事情もあるでしょう。最新鋭の大和、武蔵など日露戦争の初瀬、八島のように下手に沈められては目も当てられないので、日本海軍がガタガタになるまで後方にとどめ置かれました。
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アイオワ型が金剛型を越えているけどそれ以前ではワークスホークは金剛型だったんだよ ww2ではサウスダコタだか大和だとか言っても1番使えたのは金剛だったとおもうよ
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子どもの時に見た戦艦図鑑では「鬼の金剛」って紹介されてた。宇宙戦艦ヤマトの第一話では大和を見た老人が孫に「漢の中の漢の戦艦」と言っていたが、金剛にこそ相応しい言葉だなと思った。
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ガタルガナル島のヘンダーソン飛行場の艦砲射撃が一番印象に残ってます。もしその時長門級戦艦だったら飛行場の修理がもっとかかっていたと本で読んだけど
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4番艦の霧島は太平洋戦争中、唯一戦艦同士の打ち合いをした艦です。金剛と同様老朽艦なので出し惜しみせず最前線に配されたからですね。
▲30 ▼3
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戦艦でも巡洋戦艦は重巡洋艦と同じく山の名前が付けられてますね。 改装された空母加賀は元は正式戦艦で、赤城は巡洋戦艦からの改装でした。
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金剛の改装で取り外されたボイラーはビルの設備ボイラーとなり、昭和の終わり頃まで現役だったはず。 戦艦の心臓とも言える装備が、平和の時代を見届けた。
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豊田穰の4本の火柱と言う小説に、金剛、榛名、比叡、霧島の戦記が克明に記述してあります。読んで見てください。なぜ彼女らが活躍出来たか理解できますよ!
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巡洋戦艦で巡航速度が速く扱い易い艦だね wowsで使った印象だけど 金剛なのに何故か比叡の艦橋になってるみたいで 別に比叡もいるからおかしな事にw
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白黒写真だと古びた感じで見えるけど、リアルの戦艦は外見だけだと現役の戦艦と見間違えるほどに立派なんですよね。
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機動部隊の運用を発案した山本さんも、金剛型の汎用性までは気づかなかったはず。名艦ですね。
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足が速いから空母航空団とついていけた のが重宝されたし老朽化始まっているのでどんどんいけるけど 長門や大和は勿体ないし燃料代バカデカいからどんどんいけない
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具体的な戦績などは知らなかったが、タミヤかハセガワか、数十年前プラモ全盛期時代に、「金剛型高速戦艦 金剛」というのを覚えている。
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金剛型戦艦は金剛がイギリス製で他は国産でしたが、一番できが良かったのは金剛だったと言われています。
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1/700ウォーターラインシリーズの軍艦の模型にはハマったなぁ。金剛型は「青島模型」だったかな。
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ビッカース社の鋼鉄に日本のドリルでは歯がたたなかったとタミヤの解説にあったと思う。
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金剛型や駆逐艦とかに比べたら 大和ホテル、武蔵旅館など何の役にも立ってないよね 敵の格好の的になっただけ
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大和を温存してしただけでしょ。山本、永野、米内と近衛の悪事を明らかにしないと日本人は再び一等国になれないですね。
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「連合艦隊司令長官が直卒」→「連合艦隊司令長官が直率」 記事を書く人は、間違わずに書いて貰いたい! また、校正する人は、ちゃんと校正しろや
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交換した金剛のボイラー、長らく陸上で使われていたんじゃなかった?
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太平洋戦争で活躍した戦艦は無い、日本の戦艦で活躍したのはロシアとの戦艦での三笠などでしょう。
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そういえば太平洋戦争で撃沈されて見つかっていない日本戦艦は金剛だけかな。
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金剛型だけ、大量生産した方が、結局は、 強かったんだろう!
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その「こんごう」も、イージス艦の中では老艦になりつつありますね。
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叔父さんが乗ってた愛宕が魚雷喰らって沈没 何とか生きて帰りました。
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インド洋作戦時の金剛級一斉回頭は最高の絵になる。
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日本の軍艦は格好いい。
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「金剛デース!」っていうフレーズがどうしても真っ先に思い浮かんでしまう。
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金剛って金剛山から取ったの?
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汎用性が高った。
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ヤマトの主砲って敵に炸裂した事あるの?
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艦名の旧国名は戦艦から空母に変わりましたね。
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今までありがとう。
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戦艦金剛の模型持ってるもん(*'-')
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鬼の金剛
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鬼の金剛だね
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大和・武蔵は大事にされ過ぎた
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金剛より長門
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4年弱で連合艦隊の艦艇をほぼ無くしてしまった海軍上層部の無能さはあきれるばかり。
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大日本帝国万歳!
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国民の税金で買った、作った戦艦、戦闘機の話は、不愉快。
▲4 ▼45
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