( 252436 ) 2025/01/20 16:19:18 0 00 トランプ次期大統領(写真:ゲッティ=共同)
(朝比奈 一郎:青山社中筆頭代表・CEO)
■ 社会の底が抜けた
政治や選挙の結果というものは社会を映す鏡と言えます。候補者のどういう主張・スタンスがどれだけ有権者の支持を集めるかを見れば、大衆がどのような社会を望んでいるのかが見えてくるからです。
そしてほんの少し前まで、政治というものはより良き社会を作っていくため、さまざまな人たちの人権をちゃんと守り、国際平和を守るためにルールの下で機会の平等を図り公正な競争を維持し、さらには次世代のために環境問題を改善し、財政規律を守る――といったことが大事なテーマだというのが「常識」でした。
その常識が一気に吹っ飛んだのが2024年という年でした。特に印象的だったのは、アメリカ大統領選でのトランプの圧勝です。かつての常識・良識がないがしろにされる流れは感じていましたが、事前の予想を覆す「トランプ圧勝」という結果を見て、この流れが決定づけられたように感じます。
さきほど挙げた人権や世界平和、環境問題や財政規律に関して、トランプ次期大統領はかなり偏った主張をしています。たとえば、移民は入ってくるなと壁を作り、大統領になったら不法移民は強制送還するとはっきり言っています。そこには人権意識はほとんど感じられません。
また世界平和、グローバルな安定という面では、「アメリカ企業が被害を受けていたら許さん、関税をかける」ということで、中国やメキシコからの輸入品を狙って高い関税をかけるとし、「俺はタリフマン(関税男)」と言ってのけています。力で現状変更を試みているロシアやイスラエルに対してもかなり理解を示して露骨に強者寄りのスタンスを示しています。
環境問題については、「そもそも環境問題なんてない」というスタンスで、石油と天然ガスの産出をどんどん推し進めると主張。財政についても、「いま困窮している人がいるんだから」ということで、次代のことは思考から外して、大幅に財政支出を増やす決断をすることが予想されています。
こうした彼のスタンスを少し乱暴にまとめるのならば、「世のため人のため、世界のため、次世代ため」といった政治の常識を無視し、「今現在を生きている俺たちが大変なんだから、俺たちの利益を最優先に考えよう。社会全体や世界、次世代のために蓄えているカネがあるのなら、その分け前を俺たちのために使おう」ということです。トランプはそのスタンスを隠そうともせず、あからさまに公言していて、その彼を大統領選で有権者は支持したのです。これが民主主義や自由主義の盟主でもあるアメリカで起こったという事実に、私はある種、「社会の底が抜けた」といった感覚に襲われました。
■ 世界中に「自分さえよければ」の考えが
ただもう少し視野を広げてみると、他国でも似たような状況が現れていることが分かります。
たとえば中国。胡錦涛政権くらいまでは、国際的に協調しよう、世のため人のために、という“お行儀のいい”面があったのですが、習近平政権になってからは「中国のため」、もっと言えば「共産党のため」ということを最優先にし、貿易においても領土問題においても、自己中心的な言動が露骨になっています。
ロシアもそうです。プーチンは「国際平和のためなんていうのはまやかしだ、気づいてみたらわれわれの目と鼻の先までNATOが迫ってきているじゃないか、ふざけるな」ということでウクライナへの武力攻撃を始めました。
中東に目を向ければ、イスラエルのネタニヤフは、過剰防衛とも言える形で、連日、大量のパレスチナ人を殺害しています。「理想や平和、世のためなんて関係ない、これはイスラエル人が生きながらえるための自衛の闘いなのだ」といいうことで容赦ない攻撃を展開しました。かりそめの停戦が成立しましたが、トランプ政権が誕生すると停戦が成立するという形で、トランプに花を持たせるための合意にも見えます。実質的には、力で反イスラエル勢力を抑え込むということに変わりはないと思われます。
こうして世界を見渡すと、完全に「自分のため、自分たちのため」というのが為政者やそれを支持する大衆のマインドになってきているのが分かります。
この変化は資本主義の発展と関係しているように思います。建前上、「資本主義国」とは言わない中国も含め、世界はいま「資本の論理」で動いています。本来であればルールの下で公正に競争して努力した者が利益を得る、というのが資本主義の姿ですが、現在のそれは、どんな手段・手法を使ってもいいからより多くのカネを手にしたプレーヤーが勝ち――という感じに変質しています。「たくさんの利益を手にすることこそが究極の目的だ」という価値観が世界に広がっていった結果、「世のため人のため」とか「将来世代のため」という価値観はどこかに追いやられてしまったのです。
■ 夏目漱石が見抜いていた偽善と露悪の入れ替わりサイクル
この価値観の転換について、実は夏目漱石が『三四郎』の中で見事に喝破しています。
〈近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある〉
〈昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶(こえたご)で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない〉
この漱石の言葉で言えば、トランプは典型的な露悪家と言えるでしょう。そして漱石は、上記の引用のとおり、世の中は「偽善的社会」と「露悪的社会」の繰り返しだと説明しています。偽善的社会を今風に言えば、人権が大事、国際平和が大事、環境問題が大事、次世代のための財政規律が大切、といった考えが主流の社会です。やせ我慢をしながらも理想を追求しようとする偽善的価値観を貫き通そうとしても、いつかはその意地を張り通せなくなる時が来る。その時に出てくるのが「俺が俺が」の利己的な考え方で、これが主流になると露悪的社会となるわけです。
同時に、漱石は、露悪家ばかりになると互いに不便を感じてきて、極端に達した時に、また利他主義が復活すると言っています。それが世の中の流れだというのです。
■ 「美しい国」だった日本にも
ほんの少し前までは世界の中でも露悪的な価値観は極めて特異なものでした。ところがここ10〜20年でどんどん露悪的価値観が蔓延してきていて、現在は主流だった偽善的価値観と、徐々に広がり始めた露悪的価値観の間でメインストリームが入れ替わりそうな潮目に来ているように感じます。
そこでひるがえって我が国を見ると、少なくとも戦後の日本は「美しい国」だったと言えるでしょう。戦争への反省もあって、偽善かもしれませんが、「世のため人のため世界平和のため」を心に刻み、頑張る人が多い国でした。個人的に、途上国支援(ODA)を役人時代に担当することが多々あったこともありますが、日本は国際秩序の構築・維持に汗をかき、多額の資金を提供し、100点とは言いませんが、国内的にも、様々な方々の人権に配慮し、京都議定書などの形で環境問題にも目配せをし、また、大蔵省のエリート官僚などを中心に財政は次代のために極力抑制的にしてきました(結果としては、バブル崩壊後は諸外国と比べても極端に悪い財政状況ですが……)。私はそういう日本社会を誇りに思ってきました。
しかし日本にもどんどん露悪の波が押し寄せてきています。その典型が、やはり昨年の衆院選挙ではなかったでしょうか。
わずか7議席から28議席へと躍進し世間をあっと言わせた国民民主党の存在がクローズアップされた選挙でしたが、私はこの党はある意味で「露悪的」だと思っています。というのも、財政に関する主張を見てみると、財源不足については何の方策もないのに「次世代のためにとかではなく、カネがない人たちの税負担を軽くしろ。103万円の壁の撤廃だ」とアピールして、票を獲得したわけです。財源についてのアイデアを持たずに「税負担軽減」を主張するのは、次世代のことを何も考えていないのと一緒です。
こうした財政規律軽視、バラマキ推進のスタンスとは距離をおいて「身を切る改革」を主張した維新の会は議席も伸びず、低調でした。最近は維新も、教育無償化などの政策を全面に出し、今を生きる人たちに寄り添うという姿勢を明確にしつつあります。時代の流れには勝てません。
こういう状況を踏まえると、日本もついに偽善的社会から露悪的社会へ変わり始めているように思います。
しかし私はもう一度、日本の美徳を思い出したいと思っています。日本は世のため人のためという価値観が根強く、子や孫の世代、あるいは先祖、さらには世界の人々をも思いやることのできる「美しい国」だったはずです。確かにそれは偽善的だったかもしれませんが、真実とは結構歯切れが悪く、曖昧なものです。AかBかでぱっと割り切れるものではありません。
その曖昧さも含めて、他を思いやり、美しく生きるのが日本人の伝統であり美意識だったのではないかと思います。そこが外国から敬意を払われる部分でもありました。これが、分かりやすい合理主義や、行き過ぎた資本主義による損得勘定に飲み込まれてしまうのは、非常に残念です。日本人としてのアイデンティティの喪失ではないでしょうか。
偽善と言われようと、世のため人のため社会のためという精神は失ってはいけないものではないでしょうか。いよいよアメリカでは損得勘定で物事を考える“モンスター”が大統領になります。彼がこれから起こすであろうさまざまな波に日本人の価値観が飲み込まれないことを祈ります。
朝比奈 一郎
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