( 255191 )  2025/01/25 17:34:18  
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車いす(画像:写真AC) 

 

 公共交通の利用をめぐる障がい者への批判、特に「わがまま」という言葉で片付けられる意見を耳にするたび、筆者(伊綾英生、ライター)はその視点の浅さに失笑を禁じ得ない。こうした批判は、公共交通の本来の意義や社会の成熟度についての誤解に基づいている。 

 

 障がい者が公共交通を利用する権利がどれだけ正当であるかを、歴史的背景、経済的視点、人間心理の観点から改めて考えれば、こうした批判がいかに的外れかがはっきりするだろう。 

 

 公共交通の役割は、全ての人に平等に 

 

「移動の自由」 

 

を提供することだ。「移動の自由」は経済活動や社会参加の基盤であり、それが保障されることで地域や国全体が発展していく。そのなかで重要なのは、 

 

「全ての人」 

 

に向けたサービスであるという点だ。健常者だけでなく、 

 

・高齢者 

・子ども 

・障がい者 

 

も含まれる。 

 

 さらに、バリアフリー化は一部の人への特別な配慮ではなく、すべての利用者の利便性を向上させる。スロープやエレベーター、音声案内の設置は、ベビーカーを使う親や重い荷物を持つ旅行者にも役立つ。これらの取り組みは 

 

「特別扱い」 

 

ではなく、公共交通の利用条件を公平に整えるためのものであり、社会全体の成熟度を高めるものだ。 

 

車いす(画像:写真AC) 

 

 障がい者が公共交通を利用することに対する批判には、いくつかの誤解がある。そのひとつが、配慮にかかるコストに関する認識の浅さだ。 

 

「障がい者への配慮には過剰なコストがかかる」 

 

という意見は短絡的であり、社会全体の利益を見落としている。障がい者を含めたすべての人が自由に移動できる環境は、経済の活性化や地域の持続可能性を高める要因となる。たとえば、地方で障がい者が移動しやすくなることで、地域経済への参加が促され、新たな価値が生まれる可能性がある。短期的なコストのみに注目せず、長期的な社会的利益を視野に入れるべきだ。 

 

 また、他者への寛容さの欠如も大きな問題だ。公共交通は、 

 

「異なる人々が空間を共有する場」 

 

であり、その存在自体が相互の理解と共存を前提としている。しかし、自分の快適さを最優先する考え方が障がい者への批判を生むことがある。他者を排除しようとする姿勢は、公共交通の基本的な理念と矛盾している。こうした自己中心的な思考が、社会全体の成熟度を低下させているともいえる。 

 

 さらに、公共交通の役割に対する理解不足も見過ごせない。公共交通は、ただの便利な移動手段ではなく、「移動の自由」を保障するための仕組みだ。障がい者が公共交通を利用するのは、特別扱いではなく基本的人権に基づいた正当な権利の行使である。 

 

「利便性と権利を混同する」 

 

ことなく、その意義をしっかりと認識することが求められる。 

 

 

車いす(画像:写真AC) 

 

 障がい者の移動する権利は、長い闘争と法整備の歴史を経て勝ち取られてきたものだ。米国では、1990年に制定された「障がいを持つアメリカ人法(ADA)」が大きな転機となった。この法律は、障がい者の移動の自由を法的に保障するもので、公共交通にバリアフリー化を義務付け、誰もが自由に移動できる環境を整備する画期的な内容だった。 

 

 このような法整備は、日本でも2000年以降に進んだ。バリアフリー新法の施行によって、駅にエレベーターが設置されたり、ノンステップバスが導入されたりした結果、障がい者だけでなく、高齢者や妊婦、小さな子どもを連れた親など、多くの人がその恩恵を受けるようになった。 

 

 一方で、障がい者に対して「わがまま」という指摘がなされる背景には、いくつかの心理的要因が隠れている。まず、人は 

 

「自分が経験したことのない困難」 

 

を理解するのが苦手だ。たとえば、車いすを利用する人が感じる移動の不安や、視覚障がい者が抱える情報不足の恐怖は、健常者には想像しづらい。そのため、障がい者が日常的に直面している苦労を軽視し、「わがまま」と受け取ってしまうことがある。さらに、公共交通の利用時に自分の快適さを最優先する傾向も無視できない。混雑した車内で車いすやベビーカーがスペースを占有していると、 

 

「自分の邪魔をしている」 

 

と感じ、否定的な感情が生まれることも少なくない。 

 

 加えて、障がい者への支援を「特別扱い」と誤解する心理も根強い。この誤解は、支援が障がい者のためだけのものではなく、全員が公平な条件で利用できる環境を整えるための手段であるという認識の欠如によるものだ。また、健常者が無意識のうちに持つ 

 

「自分は障がい者より優れている」 

 

という優越感も、一部の批判の根底にある要因だと考えられる。しかし、誰もが将来的に障がいを持つ可能性があることを見過ごしている点が問題だ。 

 

 さらに、社会全体のストレスも、このような偏見を助長している要因のひとつだといえる。社会的不安が高まるなかで、人々はその不満を 

 

「他者に向ける傾向」 

 

があり、公共交通の混雑や遅延といった状況で、目に見える存在である障がい者がその矛先となることがある。これらの要因が絡み合い、「わがまま」という批判が生まれているが、その根拠は極めて薄弱であり、こうした偏見を取り除く努力が必要だ。障がい者への理解を深め、公共交通がすべての人にとって平等で利用しやすい環境を整えることが、社会全体の成熟を促進する道となる。 

 

 

車いす(画像:写真AC) 

 

 障がい者への批判をなくして共存を実現するためには、さまざまな取り組みが必要だ。まず、学校や職場などで障がい者の生活や移動における困難を学ぶ機会を増やすことが大切だ。障がいを身近な問題として考えるきっかけをつくることで、理解と共感が深まるだろう。 

 

 さらに、車いすの使用や視覚障がい者の視点を体験できるプログラムを通じて、他者の立場に立った実感を得ることも重要だ。こうした体験は、偏見を減らし、思いやりのある社会を育む基盤になる。 

 

 加えて、メディアには障がい者の移動権が社会全体に与える利益を積極的に伝える役割が求められる。障がい者のためのインフラ整備が高齢者や子育て世代、観光客など、より広い層に恩恵をもたらしていることを伝えることで、偏見や批判を和らげる効果が期待できる。さらに、すべての人が利用しやすいユニバーサルデザインを推進することも欠かせない。エレベーターや音声案内などの設備は、誰にとっても便利であり、社会全体の利便性と公平性を向上させる。 

 

 公共交通の利用を「わがまま」と批判することは、その本質を理解していない考えだ。障がい者の移動権を保障することは、社会全体の成熟を示す行為であり、それによって得られる利益は障がい者に限らない。共存と共感を育む文化を築くことが、未来の公共交通が目指すべき姿だといえる。 

 

伊綾英生(ライター) 

 

 

 
 

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