( 255596 )  2025/01/26 16:20:45  
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駅弁(画像:写真AC) 

 

 2025年1月、滋賀県米原市の老舗駅弁業者「井筒屋」が駅弁事業からの撤退を発表した。1889(明治22)年の創業以来、135年以上にわたり、東海道本線と北陸本線が交わる米原駅で駅弁を販売してきた井筒屋の決断は、大きな注目を集めた。 

 

 8代目当主の宮川亜古代表取締役は、撤退の理由について公式サイトで 

 

「昨今の食文化は娯楽化がもてはやされ、誤った日本食文化の拡散、さらには食の工業製品化が一層加速し、手拵えの文化も影を潜めつつあります」 

 

と述べ、「そのような環境に井筒屋のDNAを受け継いだ駅弁を残すべきではないと判断致しました」と説明している。 

 

 この決断に対して、『震災と鉄道』『「民都」大阪対「帝都」東京 思想としての関西私鉄』などの著作がある鉄道史研究者の原武史氏はX(旧ツイッター)で 

 

「井筒屋は近江牛とか醒ヶ井の鱒とか、地元産の食材にこだわっていた。東海道本線から北陸本線が分岐する米原でしか味わえない駅弁にこだわっていた。この挨拶文は、東京駅でも買える駅弁ばかりになってしまったいまの駅弁文化に対する、渾身の一撃になっていると思う」 

 

とコメントしている。原氏の言葉からは、井筒屋の撤退が単なる経営判断を超えて、日本の駅弁文化の本質が浮かび上がってくる。 

 

井筒屋「駅弁事業からの撤退のご挨拶」(画像:井筒屋) 

 

 駅弁が現在「衰退産業」であるのはいうまでもない。衰退は1990年代から顕著になっている。コンビニエンスストアの台頭がその大きな要因とされてきたが、単なるコンビニ弁当との競争だけで説明できるものではない。そこには、より複雑で構造的な問題が絡んでいる。 

 

 その構造的な問題を示す具体例がある。1991(平成3)年9月9日付『朝日新聞』夕刊には、 

 

「旅の道連れ主役交代 コンビニ弁当に押され福岡・二日市から駅弁消える」 

 

という記事が掲載されている。この記事は、太宰府天満宮の玄関口であるJR鹿児島線・二日市駅での駅弁販売終了を報じている。この駅では、1969(昭和44)年から佐賀県鳥栖市の業者が駅弁を販売しており、国鉄の民営化後も駅構内にコンビニエンスストアが出店し、そこでも駅弁が販売されていたが、最終的に撤退を余儀なくされた。 

 

記事はその理由について、次のように指摘している。 

 

「コンビニ店では駅弁が姿を消したあとも、四百円台が中心の電子レンジで温められる弁当類は引き続き人気を得ており、駅弁の不振は七百円を超える値段と、「冷たいご飯」が原因らしい」 

 

 この点からも興味深い事実が浮かび上がる。すでに1991年の段階で、電子レンジで温められる400円台のコンビニ弁当が支持を集めていた一方で、700円を超える冷たい駅弁は、車内での食事として消費者に選ばれなくなっていた。このことから、駅弁は価格と品質の両面で、実用的な車内食としての地位を失っていたことが伺える。 

 

 

駅弁(画像:写真AC) 

 

 駅弁の競争力が低下するなか、JRの民営化が追い打ちをかけた。 

 

 JR各社は駅という利便性の高い場所を商業施設として最大限に活用し、駅構内の商業化を進めた。この動きは1990年代から始まり、2000年代に入るとさらに加速した。結果、駅構内の空きスペースや連絡通路には新たな店舗が次々と開設され、駅は単なる交通拠点からショッピングモールのような商業空間へと変わりつつある。 

 

 東京駅の例では、「駅弁屋 祭」に全国各地の駅弁が揃う一方で、「今半」のような老舗料理店の支店も並び、多様な軽食店が出店している。選択肢が広がったことで、従来の 

 

「駅で弁当を買うなら駅弁(定番は幕の内)」 

 

という単純な図式は崩れ去っている。地方の主要駅でも同様の動きが広がっている。筆者(昼間たかし、ルポライター)も北海道でその実態を体験した。 

 

 札幌から稚内まで特急宗谷に乗車中、旭川駅で駅弁を探そうとしたが、ホームにはセブン-イレブンの自動販売機しか見当たらなかった。駅弁売り場は改札外にあることを知り、特急停車時間では間に合わず、駅の商業施設化が本来の顧客である乗り換え客や長距離列車利用者を置き去りにしている現実を実感した。後から鉄道ファンに聞いたところ「車内で電話するとホームまで来てくれる」そうだ。 

 

 かつては各地に存在した駅弁売り場も、現在ではJR鹿児島本線の折尾駅や、今回撤退を決めた井筒屋など一部にしか残されていない。 

 

駅弁(画像:写真AC) 

 

 駅弁産業は以前から衰退の道を歩んでいたが、業界としてはただ立ち尽くしているわけではなかった。特に1990年代、コンビニエンスストアとの競争が激化するなかで、駅弁業界は従来の経営モデルから脱却を図り始めた。その代表的な取り組みが、駅構内店舗の大胆な業態転換である。この時期の駅弁業界で特に注目されたのが、 

 

・通勤客へのターゲット変更 

・仕出しの強化 

 

であった。例えば、大手駅弁事業者「日本食堂」(現在はJR東日本クロスステーションに吸収合併)は1994(平成6)年6月に仙台駅構内の「あ文字や」を大胆に業態転換し、弁当のほか、文房具や雑貨を取り扱う100円ショップ付き店舗に変更している。また、この時に同駅のハンバーガーショップもベーカリーストアに変更し、新たな客層の開拓を試みた。 

 

 JR九州管内では、「にっしょく九州」が異なるアプローチを試みた。主要駅の駅弁店をおにぎり専門店として再出発させる一方で、企業向けの仕出し(ケータリングサービス)にも参入し、多角化戦略で業績を回復させることに成功している。 

 

 千葉駅の「万葉軒」では、観光地ではない立地を逆手に取り、早くから通勤客や法人向けの仕出し事業に転換を進めていた。1992年時点で既に売上の6割を仕出し事業が占めており、日本食堂のような大手企業が消えていくなか、地場の中小企業である万葉軒が今なお健在である事実は、この戦略の有効性を証明している。 

 

 

「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」の様子(画像:京王百貨店) 

 

 しかし、この生存戦略にも条件があった。それは十分な人口と駅利用者数という「市場」の存在だ。 

 

 例えば、前述の折尾駅で伝統的な立ち売りを続ける東筑軒も、観光資源として注目されているものの、立ち売りだけで収益を確保できているとは思えない。むしろ、同社の駅での収入の多くは各駅の店舗であろう。筆者もたびたび訪れているが、九州では資さんうどんと並ぶ美味さである。 

 

 このように、従来型の駅弁販売からの脱却は、それぞれの駅の立地条件や市場環境に応じて、異なる形で模索されていった。特に利用者の限られた地方駅の駅弁業者たちは、商業施設や催事での販売に活路を見出していく。その代表的な存在が、京王百貨店新宿店で毎年開催される 

 

「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」 

 

だ。1966(昭和41)年に始まったこのイベントは、当初わずか30種類ほどだった駅弁が、現在では300種類を超える日本最大の駅弁催事へと成長。多くの駅弁業者にとって、全国展開への足がかりとなっている。 

 

 こうした駅利用者以外をターゲットにした戦略において、群馬県の信越本線・横川駅の荻野屋は、成功を収めた好例だ。同社の看板商品「峠の釜めし」は、かつて碓氷峠越え列車の停車駅として賑わった横川駅の名物として知られていた。 

 

 しかし1997(平成9)年の信越本線横川~軽井沢間廃止により、駅での販売に頼れなくなった荻野屋は業態転換を余儀なくされた。今でも、横川駅には店舗があるものの、メインは催事出店や、商業施設での販売・出店である。なによりも、日本橋高島屋にも店舗があることは興味深い。 

 

駅弁(画像:写真AC) 

 

 駅弁業者が駅以外での販売を積極的に展開する中で、「駅弁」という言葉の意味合いも大きく変化してきている。かつての駅弁は、文字通り「駅で売られている弁当」を指していたが、今や 

 

「伝統的な駅弁スタイルを継承した弁当」 

 

というニュアンスが強くなっている。横川駅の「峠の釜めし」や、森駅の「いかめし」は、もはや駅以外でも広く販売されているが、「駅弁」という物語性を付与し、新たな商品価値を獲得した商品といえる。ただし、この変化は井筒屋が撤退表明で警鐘を鳴らした 

 

「食文化の娯楽化」 

 

に他ならない。確かに、駅という場所から解放された「駅弁」は、日本の食文化を代表する存在として新たな価値を確立しつつある。だが一方で、 

 

・その土地でしか味わえない 

・その駅で出会える 

 

という、本来の駅弁が持つ特別な価値は失われつつある。「どこでも買える駅弁」は、皮肉にも、井筒屋が大切にしてきた「手作りの文化」や「地域の味」という本質から遠ざかっているのかもしれない。 

 

 この「駅弁」の変容は、果たして望ましい進化だったのだろうか。井筒屋が撤退表明で指摘した「食文化の娯楽化」と「工業製品化」は、駅弁が直面してきた本質的な問題をいい当てている。駅で売られ、車窓を眺めながら味わう。その土地ならではの食材を、その土地の作り手が丹精込めて作る。そんな「駅弁」本来の姿が、今、確実に失われつつある。 

 

はやせ淳、櫻井寛『駅弁ひとり旅』(画像:双葉社) 

 

 この変化の速さは、2005(平成17)年から連載が続く漫画『駅弁ひとり旅』の足跡をたどれば明らかだ。 

 

 全国各地の駅弁を訪れ、その土地ならではの味と物語を紹介してきたこの作品も、連載から約20年経った今、紹介された多くの駅弁が姿を消している。駅弁を求めて旅するという物語自体が、すでに懐かしい時代のものになりつつある。 

 

「駅弁」という言葉は、これからも生き続けるだろう。しかし、それが私たちの記憶のなかにある「駅弁」とは、すでに異なる存在になりつつある。その土地の味、その駅での出会い、そんな 

 

「駅弁本来の価値」 

 

は、もはや追憶のなかにしか見出せないのかもしれない。 

 

昼間たかし(ルポライター) 

 

 

 
 

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