( 256931 ) 2025/01/29 05:40:30 0 00 渡邉美樹(わたなべ・みき)ワタミ代表取締役会長兼社長CEO。1959年、神奈川県生まれ。明治大学商学部卒。84年に有限会社渡美商事(現・ワタミ)を創業。2013年に参議院選挙に当選し議員に。19年議員退任後、経営に復帰。21年より現職。
■取材中に見せられた宴会メニューに愕然
「渡邉さんが議員を辞めて経営に戻らないと、もう融資できない」
参議院議員になって2年半、議員会館に銀行の方々が次々にやってきて、こう告げられたときほど衝撃を受けたことはありませんでした。
ワタミの役職をすべて退いて参議院議員になったのは2013年です。就任当初、私は全社員を集めて「経営には100%戻らない」と宣言しました。自分が会社に残ると、新しい経営陣が「後には渡邉がいる」と甘えてしまう。すっぱり断ち切ることで自立してもらうことが宣言の狙いでした。
実際、それから2年半はノータッチでした。ところが経営が急激に悪化して、15年3月期に128億円の赤字を計上。銀行の方々が議員会館に詰めかける事態になったのです。
振り返ると予兆はありました。議員活動で忙しくしているとき、ある取材で「今のワタミのメニューを見てほしい」と頼まれました。12月の宴会メニューでしたが、パッと見たところ価格に釣り合っているように思えない。その場にいた関係者に原価率を聞いたら、驚くほど低かった。自分が見ていたときにはありえない設定であり、愕然としました。
なぜこんなことになっていたのか。後を託した社員たちは、過去の遺産で食いつないでいて、新しいことを何もやってきませんでした。その結果、その年は4月から売り上げが低下。飲食業は12月がかきいれどきです。経営陣はそれまでの売り上げ減の影響を取り戻すため、粗利益率を極端に高くして帳尻を合わせようとしたのです。
その事実を聞いても、「戻らない」宣言をした以上は経営への介入を控えていました。ただ、銀行から融資を止めると言われたら話は別です。私は26歳のとき社員の幸せをテーマに起業しました。創業オーナーとして、会社を潰して社員を路頭に迷わせるわけにはいきません。まずは私個人が持っている株式をすべて担保に差し出しましたが、それでも財務上の危機を脱するには足りませんでした。
銀行が望むように、議員を辞めて経営に復帰する選択肢もあったでしょう。ただ、6年間の任期の途中で議員を辞職すれば、選挙で投票してくれた有権者を裏切ることになります。
そこで決断したのが介護事業の売却でした。介護事業は「自分の親が施設にいたらどうしてもらいたいか」と考えて始めました。以前はよく施設回りをしていて、みなさんから我が子のように私をかわいがってもらえた。本当に思い入れの強い事業です。
しかし、背に腹は代えられなかった。私たちと同じ姿勢で入居者様7000人を守ってもらうことを条件に譲渡先を探して、共感してくれた損保ジャパン日本興亜ホールディングスと話を詰めていきました。
譲渡がほぼ決まった段階で、施設をもう一度回りました。
私たちを信じて入居してくれたおじいちゃんおばあちゃんに、この話をどうやって説明したらいいのか――。
みなさんの顔を見てそんなことを考えていたら切なくなってきて、帰り道に現在の副社長に「やっぱり売るのをやめようか」と弱音を吐いてしまった。経営のことで私が迷ったのは、あとにも先にもこのときだけです。
■「役員会に1カ月準備」ムダが蔓延する社内
無事に譲渡が終わり、財務面では危機を脱しました。ただ、同じ経営を続けていたら会社がまた傾くのは明らかです。幸い参議院議員は月曜日に時間ができやすい。議員活動に支障が出ないよう、それ以降は2週間に1回、経営をチェックし始めました。
状況は想像以上にひどかったですね。たとえば外食事業と宅食事業で同じおかずをつくることがあります。それを同じ地域に運ぶのに、それぞれの納期に合わせるためトラックを別々に出して配送していた。「外食は早めに受け取る」「宅食は遅くまで待つ」とお互いに少しずつ我慢すれば物流費は半分になるのに、それぞれの事業部が自分たちのことだけを考えていたのです。
取引先にも迷惑をかけていました。新メニューに合わせて器を10万個規模でつくってもらうことがあります。在庫責任は我が社が持ちますが、財務を平準化するために納品分だけ毎回支払いします。ところがあるシーズン、取引先に「以前の器は捨てていいです」といって在庫責任を放棄してしまった。
取引先は「この会社は潰れる」と感じたのでしょう。支払いサイトをどんどん短縮するように求めてきました。普段から在庫管理をきちんとやっていたら、大量に余るほど発注していないはずです。同じことは食材でも起きていて、ロスが大量に出ていた。私がいない間に、そんな基本的なことすらできていない会社になっていました。
会社の雰囲気も変わっていました。我が社は労働問題を機に働き方改革に取り組み、健康経営優良法人を取り続けています。ホワイトな環境で働くことは大変いいことです。しかし、むしろ働かないことがいいことだという空気が蔓延していて、会社として戦う体を成していなかった。その様子を見て、議員が任期満了したら自分で直接指揮を執ろうと決めました。
会長として復帰し、本部社員を集めて挨拶したときの光景は今も忘れられません。以前はワンフロアに本部約300人が収まっていました。しかし、その日はフロアに入りきれないほどの人がいた。売り上げは減っているのに、本部は550人まで膨らんでいました。
本来、本部にそれほど多くの人は要りません。ところが月1回の役員会のために、経営企画部という肩書の本部社員が2人張りついて、1カ月間準備するといったムダなことばかりしていた。大きな本部は経費が掛かるばかりで誰も幸せにしないのに、それがまかり通っていました。
■なぜ社員たちはワタミで働く誇りを取り戻せたか
ムダの多い経営状況を建て直そうともがいているタイミングで私たちを襲ったのがコロナ禍です。ワタミはふたたび赤字に転落。この危機から抜け出すには、自分が全権掌握して120%やるしかない。そう考えて、21年に社長に復帰しました。
コロナ禍では中国から即撤退を決め、店舗で働いていた人の雇用を守るために人材派遣会社を設立しました。守りばかりではありません。私がいない間、ワタミは何も新しいことをやってこなかった。そこで居酒屋業態を見直すと同時に、唐揚げや焼肉、寿司などの新業態に挑戦。3日に1店を閉め、5日に1店を出店していました。
危機の中でこれらの施策ができたのは、社員自身がやる気を取り戻していたからでしょう。
実はコロナ初期の20年3月、休校中の子どもたちに50万食の無料弁当を配布する大規模プロジェクトを実施しました。私たちには健康的なお弁当を大量につくる力や、ラストワンマイルにお弁当を届ける力がある。今ここで社会貢献すべきだと考えて決断しました。オペレーションは大変でしたが、社員は一丸となってやり切ってくれました。
労働問題以来、社員はワタミの一員であることに自信を持てなくなっていました。しかし、社会的意義のあるプロジェクトを完遂して、誇りを取り戻せた。それが「自分たちの会社を守ろう」という思いにつながったのです。
現在はコロナ禍を乗り越えてふたたび黒字に。社員は新しいことに取り組んでいるし、組織再編で事業部を超えて協力する意識も芽生えてきました。
前回の継承がうまくいかなかったのは、私自身が後継者育成に失敗した結果でした。こんどは「88歳まで経営をやる」と宣言しています。時間はたっぷりあるので、しっかり人を育ててバトンタッチしたいですね。
※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年11月29日号)の一部を再編集したものです。
---------- 渡邉 美樹(わたなべ・みき) ワタミ会長兼社長CEO 明治大学商学部卒。2024年に創業40周年を迎えるワタミグループの創業者として、外食、宅食、有機農業、再生可能エネルギー事業などを展開し独自の6次産業モデルを構築。2011年、東京都知事選出馬。2013年~2019年、参議院議員を一期6年務めた。郁文館夢学園理事長兼校長として教育者の顔も持ち、政府教育再生会議委員なども歴任。公益法人「School Aid Japan」代表としてアジア3地域で350校を超える学校建設や孤児院を運営する。『大暴落』(プレジデント社)、『夢に日付を!』(あさ出版)ほか著書多数。 ----------
ワタミ会長兼社長CEO 渡邉 美樹 構成=村上 敬 撮影=宇佐美 雅浩
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