( 259086 )  2025/02/02 16:27:50  
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日をまたぎ10時間超に及んだフジテレビの記者会見(写真:共同通信社) 

 

 中居正広氏の女性トラブルに端を発するフジテレビ批判。1月27日に同社が開いた記者会見は10時間超えという異例の展開となり、メディアやジャーナリストのあり方にもさまざまな意見が出ている。過去にメディアが世間から激しい批判を浴びた事例として、1996年に起きたいわゆる「オウムビデオ問題」があった。TBSが「未放映インタビュー」をオウム真理教の幹部に見せたことが明らかとなり、それが教団を追及していた弁護士一家殺害の一因と指摘された問題だ。当時、TBSでキャスターを務め、現在はメディアリテラシーの訪問授業や企業研修に注力している下村健一氏は今回のフジテレビ問題をどうみているのか。前後編に分けてお届けする。(JBpress) 

 

 (下村 健一:元TBSキャスター、白鴎大学特任教授) 

 

■ 週刊文春の訂正は、些細かトンデモか 

 

 中居正広氏の「女性とのトラブル問題」は、「フジテレビ問題」から「メディア問題」へと延焼範囲を広げている。日々様相が変わる中、現時点ではやはり28日の週刊文春の訂正問題から考えたい。 

 

 事件当日の会食に被害者のX子さんを誘ったのは、文春第一報の「フジ編成幹部A氏」ではなく「中居氏」自身でした?  少なくとも私は、これを聞いた瞬間、全力で脱力した。 

 

 実際のところ、今や問題はその日以前の慣行や以後の対応という部分にまで拡大しているから、この特定の日のA氏の関与が誤報であっても「フジテレビ問題」が小さくなるわけでは全くない。だから、フジ追及の失速を恐れる人はこの誤報を「大したミスではない」と説くし、逆に文春の勢いを削ぎたい人は「これは世紀の大誤報だ」と唱える。 

 

 その狭間で私は、「当事者間の問題」が「フジテレビ問題」に拡大した“初めの一歩”が間違っていたんだから、(二歩目以降の正誤がどうあれ)これはやっぱりひどい誤報だよな、と思わざるを得ない。 

 

 当然文春側は、この件をなんとか「大した過ちではない」と装おうとしている。インパクトの重大さがわかっていないのではなく、わかっているからこそ、過ちを認める「訂正」を避けてシレッと続報の「上書き」で済ませようとした。 

 

 文春自身が指弾しているフジテレビ同様に身内を庇っていないで、同誌は編集長が記者会見し、なぜこのような誤報が起きてしまったのか、どう再発を防ぐのかを(10時間でなくて良いから)説明しなければ、読者の信頼も、続報の迫力も褪せてしまうのではないか。 

 

 特に、性的トラブルのような詳細を伏せざるを得ない出来事を報じる場合、読者には様々な憶測を招きやすい。伝聞情報を確定情報かのように書いて煽ることは、厳に慎まねばならない。 

 

 

 また、今回の件がそうだと断じているのではないが、一般論として、性的事件の被害者の気持ちは大きく揺れ動くことがあり得る(もちろんその揺れ動き自体が被害の表れであり、本人の責任では全くないが)。自身を襲った事件の受け止め方自体が変転したり、内緒の相談相手に突然敵意を抱いてしまったり、といったことは一般論として起こり得る。 

 

 だから、記者や「友人」が“ある一時点”でご本人から聞いた話を拙速に記事化して固定してしまうことは、ご本人や関係者を一つの流れの中に不自然に追い込んでしまうことにもなりかねない。今後も事件本体について続報を出すのなら、その表現にはもっともっと専門的配慮が求められる。 

 

 今の日本社会の中で、文春砲の破壊力には私は基本的に敬意を抱いている。かつて取材でタッグを組んだこともある元同業者としては、これからの奮闘に期待もしている。だからこそ、砲弾がクラスター爆弾のように散らばって周辺にまでコラテラル・ダメージを与えないように、より謙虚に精度を上げていってほしいと願う。 

 

■ オープン会見を荒らす“記者”たち 

 

 それにしても、あの10時間を超すフジ幹部らの記者会見は、何だったんだろう。 

 

 実数としては少数だったのだろうけれど、声高に演説したり、工夫の無い質問を繰り返したり、罵声を発したりする一部“記者”たち。その姿が延々と全国に生中継されたことで、「報道のヤツら、何様?」という反感を視聴者の人達に与えてしまったダメージは、大きい。真剣に臨もうとしていた多くの記者や視聴者を疲労困憊させ、パワーを削いだ罪も深い。 

 

 記者の基本として、質問は短いほど効果的だ。相手に逃げ道を考える時間的余裕を与えず、端的に突いてゆく。短く何度も、冷静に畳み掛けてゆく。反対に延々と自説を熱く述べるような質問は、回答者を内心でほくそ笑ませる。神妙に傾聴しているような顔をして「責められて可哀想な人」を演じながら、頭の中でじっくり言い逃れ方を組み立てられるのだから。 

 

 そうやってヒートアップした“記者”達は今、自分が結果的に会見者側を利する役回りを担ってしまったことを、自覚し悔やんでいるのだろうか。「皆の面前で吊し上げてやったぜ」などと自己満足を感じているのだとしたら、また何か注目事件で次のオープン会見が開かれる時にも、乗り込んで来て同じ振る舞いを繰り返すのだろうか。 

 

■ 自称“記者”のパフォーマンスで会見の質が落とされる 

 

 実はこの問題は、今回浮上したことではない。 

 

 例えば2004年4月、イラクで日本人ボランティアなど3人が武装勢力に拘束された人質事件のとき。解放されて帰国した3人の記者会見をオープン参加にするかどうかで、救援本部は苦悩した。 

 

 「自己責任」「税金泥棒」といった言葉で3人をバッシングする声がネット界(今よりはずっと威力が小さかったが)に飛び交う中で、無防備にブロガーなどを会見場に入れたら、暴力的な糾弾大会になってしまうのではないか?  身の安全のためにも、ここは所属の確かな大手メディア記者だけに、入場を制限すべきか?  

 

 そんなことを、皮肉にも普段は記者クラブ制度の閉鎖性などに批判的な考え方の弁護士や市民運動家で構成する救援本部が、議論しなければならないジレンマに陥っていた(結局その時は、発信実績等の条件付きセミオープンのような形で落ち着いたが)。 

 

 そして2010年、民主党政権が首相官邸の会見をフリーランスにも徐々にオープン化した時。内閣広報室が実は本音で身構えていたのは「馴染みの記者クラブ以外のジャーナリストに鋭く突っ込まれること」以上に、「自分の存在アピールが主目的であるような自称“記者”のパフォーマンスで会見の質が落とされること」だった。 

 

■ 20年越しの懸念が全国民に晒された 

 

 その両方の現場=人質救援本部でも内閣広報室でも内側にたまたま一員として身を置いていた私は、記者会見はオープンたるべしと思いながらも、何らかの外的規制に代わる《自律》の仕組みができていかないと、将来の会見場は果てしない荒地になるな…と大きな不安を感じていた。 

 

 20年越しのこの懸念が遂に全国民に晒されたのが、今回のフジの10時間会見だったのではないか。 

 

 しかしその限界の現場で、何人かの真っ当なジャーナリストが、一部“記者”たちの言動に対して諌めるような発言をしたと聞く。これが、秩序ある真に自由な会見への《自律》の萌芽となるのか、注目し応援したい。 

 

下村 健一 

 

 

 
 

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