( 259421 ) 2025/02/03 05:13:19 0 00 『御上先生』©︎TBS
現在放送中のTBS系ドラマ「日曜劇場『御上先生』」は、文科省官僚の御上孝(松坂桃李)が、私立隣徳学院3年2組の担任教師になり、令和の18歳と共に日本教育に蔓延る腐った権力へと立ち向かう、という大逆転教育ストーリーです。このドラマでは、実際の教育に関する問題も取り上げています。そこで、短期連載として、ドラマの教育監修も行っている西岡壱誠氏が、実際の教育現場への取材も踏まえて、このドラマから得られる教訓について解説します。
第1回:「御上先生」が問う“高学歴勝ち取った”後の人生
第2回:「御上先生」伝授“思い出す勉強法”で成績は伸びる
■日本はなぜディベートが根付かない?
『アメリカだと、授業でもなんでも意見を言わされることが多いんだよ。高校生はディベートの授業もあるし』
『でも、言いたいことは胸にしまっておかないと、空気が読めないヤツって嫌われる。この国は本音と建前の国なんだって思い知らされて、すごく怖くなった』
2月2日に放送された、日曜劇場『御上先生』第3話では、影山優佳演じる倉吉由芽という帰国子女の生徒が、日本の教育とアメリカの教育の違いを指摘して、このように話すシーンがありました。
確かにこのセリフのとおり、日本の中学や高校では、意見を求められる授業が少なく、ディベートを行う授業も頻繁にはありません。
社会に出てからはきちんと意見を述べることを求められる場合が多く、もっと積極的にディベートやディスカッションの授業を取り入れるべきだ、というのは何十年も前から言われていることですが、学校現場にはなかなか浸透していないのが現状です。
今回は、『御上先生』の教育監修で、元岡山大学准教授の中山芳一先生に、なぜ日本ではディベートの授業がなかなか浸透していないのかについて、話を伺いました。
――日本ではなぜ、ディベートの授業は浸透していないのでしょうか? 学校教育の中にディベートを取り入れるべきだという論調は多いですが、ディベートの授業はなかなか広まっていない現状があります。これは一体どうしてなのでしょうか?
実際、ディベートは日本人に向いていないんですよ。なぜなら、日本人は『発言と人格の一体化』ということをしてしまいがちだからです。
自分と相手の意見が相反するときに、『自分は相手とは相容れない』と考えてしまう人は多いですよね。人間、どんな主義主張を持っていようが、どんな考え方の人間だろうが、それとは関係なく、仲良くすることができるはずです。むしろ欧米の国々ではそういう考え方が主流ですよね。
でも、多くの日本人は、この部分を分離して考えるのが苦手です。ある意味で、人のことを感情的に見てしまう場合が多いのです。
本来、意見とはどの立ち位置で発言をしているのかによって変わるものです。親としての立場だとAだけれど、先生としての立場だとB、といった違いがあって然るべきです。
しかし日本では、それを許容しない人も多いですよね。ディベートが根付かないのは、むしろ当然かもしれません。
■学校でディベートを広めるべきではない?
――日本ではディベートは浸透しづらいわけですね。ということは、学校ではディベートは広めるべきではないということでしょうか?
私は、むしろ逆の見解を持っています。日本人はディベートが苦手だからこそ、日本ではもっとディベートの授業が広まるべきだと思います。
教育はそもそも、自分ができないことをできるようにする営みであるべきです。その点で言うならば、日本人は確かにディベートが苦手で、向いていない人が多いのですが、だからこそディベートをもっとしたほうがいいのではないかと。発言と人格は別でいいということを、小さいうちから学ぶ必要があると思います。
――そのほかに、日本でディベートが浸透していない理由はどんなものが考えられますか?
それはきっと、先生たちの中にある『経験の拘束』のせいなのではないかと、私は考えています。
つまり、先生自身が受けてきた教育の記憶が色濃く、先生がこれまで受けてきた教育の経験の中でしか、授業をすることが難しくなっているのではないか、ということです。
今の日本の多くの先生は、ディベートの授業を受けてきた経験が少ないです。ほぼ皆無と言ってもいいでしょう。
そんな先生たちが『ディベートの授業をしよう』と思い立っても、難しさがあるのではないかと思います。
これはディベートに限った話ではありませんが、教育において『こういう教育がいいよね』と少し話題になっても、文科省が『こういう教育を広めていくべきだ』と発表したとしても、そうした教育を受けた経験がない現場の先生はそれに対応できず、一過性のブームに終わってしまうという現状があります。
経験が悪い意味で連鎖してしまうわけです。そうした意味で、先生たちに求められるのは、『自分が受けた教育を断ち切る教育』かもしれませんね。
■教育業界には流行り言葉が多い
――『一過性のブームに終わってしまう』という点について、もう少し詳しく教えてください。
教育業界において、『流行り言葉』というものはとても多いです。例えば、『非認知能力』『ウェルビーイング』『個別最適な学び』、最近では『自由進度学習』なども該当します。このように、流行している概念として取り沙汰される言葉はとても多いのです。
これらは、言葉としてブームになり、『うちの学校では〇〇学習を取り入れています』などと、多くの場所で使われるわけですが、その一方で、定着はしない。『流行り言葉』になって、やがては廃れていってしまいがちです。
――確かに、一過性のブームになる言葉は多い印象がありますね。文部科学省が2014年ごろから提唱した『アクティブラーニング』も同じかもしれません。
そう、『アクティブラーニング』も同様ですね。でも、そもそも、『非認知能力』も『アクティブラーニング』も、まったく新しい概念というわけではありません。
昔から『数値では測れない人間力の養成は大事』だと言われていて、それに新しい名称として『非認知能力』という言葉を被せただけで、新しい概念ではまったくないんです。
アクティブラーニングも同様です。そもそも学びとはアクティブであるべきだし、学習者が主体であるべきですからね。これらの概念は、取り入れられたほうがいい大切な概念です。
しかし、多くの教育現場ではそう扱われてはいません。必要だからやっているのではなく、『今流行りだから』という理由でやっています。
『なんのためにやっているの?』と聞いたときに答えられない、『なんのために』が抜け落ちて、そうした流行りを実践しているというアピールができることに主眼が置かれてしまっている場合があまりに多い。手段が目的化してしまっているわけです。
――『ディベート』も同様だということですね?
ディベートも、一時期ブームになって、ディベートを取り入れた授業が多くの学校で広まった時期がありました。でも、その多くで手段が目的化してしまっている教育実践だったように感じます。
話し合いをさせてみただけで『ディベート』だと言っている、という学校現場も多かったです。これって、おしゃべりと何が違うんですか? というものも多かったんですよね。
■ディベートとディスカッションは違う
――おしゃべりするだけでは、ディベートではないですもんね。
そう、まさにそのとおりです。例えば、類似したものとして挙げられるディベートとディスカッションは、本来は明確に区別されたものです。
ディベートとは、決められたテーマに対して、『賛成側』『反対側』の役割にあえてわかれて批判的に意見を交わすことです。
一方で、ディスカッションは自由に意見を出し合いながら合意形成をしたり、創造的なアイデアを出したりすることが主眼となるため、賛成も反対もありません。私は、この2つの概念を区別して教育実践に取り入れられていた人たちが、果たしてどれくらいいたのか、と考えてしまいます。
――一過性のブームとしてではなく、しっかりと理解した上で教育実践活動が行われるようになるべきだ、ということですね。
そうですね。今回のドラマでも1つのテーマになっているように、今現在の学校教育には、矛盾する部分や時代遅れになってしまっている部分が多いと思います。それは、教育を提供している側も、『自分が受けた教育』をモデルケースとしてしまうからです。
本当に必要なのは、『自分が受けた教育を断ち切る教育実践』だと思います。今回のドラマが、そのきっかけの1つになればと思いますね。
西岡 壱誠 :現役東大生・ドラゴン桜2編集担当
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