( 259420 ) 2025/02/03 05:13:19 1 00 このテキストのコメントをまとめると、日本の教育においてディベートや論争を行う文化が根付いておらず、議論や多様な意見を受け入れられる能力が不足しているという指摘が多く見られました。
(まとめ) |
( 259422 ) 2025/02/03 05:13:19 0 00 =+=+=+=+=
中高の友人たちは議論好きが多くて、修学旅行でもあれこれ言い合って楽しんでいました。 大学では、ゼミの教授が「トーカティブであれ」と求める方でした。毎週、時間ギリギリまで激論。ゼミ対抗のディベート大会は圧勝でした。楽しかったなあ。 でも社会人になると、理詰め人間は煙たがられるんですよね。だいぶ大人しくなりました。
ディベート教育、すごく大事だと思います。ディベートができるようになるのも大事ですが、「一つのテーマで意見が違っても友情を維持できる」という体験をさせることが重要と愚考します。 でもディベート教育が成功したら、そしてディベートできる子が社会人になったら、浪花節やら飲みニケーションやらで仕事できてた世代は辛いでしょうね。大人世代がディベート強者を怖がるから、ディベート教育は進まないのかも。
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社会科の時間講師ですが、基本的に自分が受けてきた教育を受け継ぎ実践するつもりは一切ありません。理由は面白くなかったから。 そこで必死に教材研究をして(12年くらい)、今の活動型授業を実践するに至りました。ただ多くの先生が実践しないやり方をすると、必ず批判が来ます。這いまわる社会科、活動あって内容なし。これらは典型ですね。そういう批判をする先生の授業を見ると、昔ながらのチョークアンドトーク。またはワークシート形式の穴埋め授業。私は拙いながらも、新しい教育実践にチャレンジしている先生の方が、より魅力的な授業ができる可能性は広がっていると思っています。努力はウソをつかない。過去16年間で、同僚教員、保護者、校長から何度も先生の授業が楽しい、面白いと生徒が言っています。と聞かされました。良い授業とは、いろいろな教材研究の上で、成り立った工夫ある授業だと思います。在野の先生の奮起に期待しています。
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私は退職間もない元小学校教員です。 確かに現職のときの私の指導方法は、昭和中期に私が受けた小学校の授業方法が基盤になっています。 まだテープレコーダーもなく、音楽は蓄音機、テレビは白黒の4本の脚がついた初期型、視聴覚機器はほとんどありませんでした。 そんなアナログな道具で教育を受けたものが教員となり、今は情報教育でパソコンでのプログラミングを教える立場にあります。 はっきり言って子どもたちの方がよく知っています。 物心ついたころからパソコンに触れていますから、もう日常言語のようにパソコンを使いこなせるのです。 だから教員自身のバージョンアップは必要ですが、これに以上の研修三昧は激務に拍車をかけます。 教員は常に自身がかつて受けた教育と現在必要とされている教育には、何十年かのタイムラグがあることを知らなければなりません。 しかし、またアナログ教育が見直されている現状は皮肉なものです。
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ディベートは純粋に技術的な方法論だ。弁護士のやっていることに少し似ていて、自分の主義主張を必ずしも展開し戦わせるとは限らず、それどころかむしろ逆で、賛成反対の論戦形式で賛成側についたら、個人的には反対の立場でも賛成の妥当性を論理的に主張し相手を論破することを目指す、一種のゲームとも言える。「根付く」の意味は曖昧だが、別にこのゲームを主観的に好きになる必要はなく、あくまで身につけるべき技能やたしなみの一つとして、浸透させていくことには意味があると思う。それにはやはり一過性で終わらせず、根気よく指導を続けるよう教育側の上層部が手綱を握るしかあるまい。
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ドイツの大学で授業を受けたことあるけど、教授が喋ってるときでも普通に手を上げて(ドイツはヒトラーの影響あるからオークションみたいな上げ方)、質問したり意見したりする。間違えたり的外れなこと言っても気にするそぶりはない。人前で喋ることに抵抗が全くない人が多いと感じた。 現地に住んでる日本人に聞いたら、小さい頃から、自分の意見を言わされる教育を受けるらしい。たとえば、幼稚園でも、外で遊びたいか中で遊びたいか選択させられるとのこと。 対して日本は、自分だけ周りと違うことを言ったら協調性がない、と言われる。 文化の違いといえばそれまでだが、共感や協調を重視する日本の教育ではディベート能力は育たないだろう。
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そもそもほとんどの大人が意見と感情を切り離す訓練をしていない。 自分の意見を否定されたと感じると感情的になり不機嫌になってしまう人も多い。 好きな人が言ったからとか、意見を否定したら傷ついたり気分を害したりするから、とか考えたら何も言えない。 子どもの頃からの訓練は必要だと思うけど、教員自体が子どもの好き嫌いの色眼鏡で意見を聞いているのだからなかなか浸透しないのもわかる。 それ以前に、意見を言わせても感情主導で深く考えることを断固拒否する層の子供達が実際に一定数存在するのも事実。 ディベートの授業実践はそんなに簡単なことではない。
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「意見と人格の一体化」はまさにその通り。 ディベートはmindでやるものでheartでやってはいけない。しかし日本語ではmindもheartもどちらも「心」だ。日本人の中ではこの2つが分離せず一体化している。だから意見の対立がすぐに人格的対立にエスカレートし感情的になってしまう。こうなると人間関係か壊れ修復が困難になる。だからできるだけ議論を避ける文化が出来上がった。 日本の学校や会社での会議では最初はみなさん空気を読んでいてすぐには発言しない。最初に発言して、その意見が少数派になってしまったらいじめや左遷の危険があるからだ。だからどの意見が多数派になるかどうか慎重に見極めようとしている。大勢が決したと判断したらそれに沿った発言をやっとする。会議は長くろくな結論は出ない。 生徒は学校では少数派にならないように慎重に行動している。少数派になってしまったらどんないじめにあうかわからないからだ。
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私は日本で育ちましたが、欧州の文化を知る父から、自分の意見を伝えるよう幼少期から躾けられました。
両親にも、兄や姉にも、臆することなく言いたいことを伝えるのは当たり前で、理不尽なこと、不愉快なことには猛烈な抵抗もしました。
悪意も悪気もない差別を感じることもあり、何が嫌なのか、どうして欲しいのか、自分は何を欲しいのか、何をやりたいのか、具体的に言語化することが日常でした。
親に言いたいことを言えていたので、学校でも担任の先生に自分の考えを伝えることに抵抗はありませんでした。
学校教育も大切ですが、やはり、幼少期から学童期の家庭での日常会話は重要と思います。まずは、両親、祖父母、おじおば等、異なる世代の身近な人々との交流を経験すること、喧嘩したり仲直りしたり同世代との意見の衝突を乗り越える経験も貴重だったと実感しています。
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学校の先生は国語の教科書に載ってる分はディベートだろうが話し合いだろうがやっている。それ以上やらないのは、やると決まっていないのと、やっても、自分にも生徒にも得にならないと思ってるからだ。ディベートやるくらいなら、学力テスト対策やった方が全国学テも入試の成績にもつながるし、学校にも生徒にも喜ばれると思っているからじゃないかな。
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ディベートが苦手である、とマイナスの表現から入るのは違和感があります。 たしかに日本人はディベートが苦手です。けれどその裏には「慮る」「察する」という文化の良さがあります。子供たちにはまず、そのことをきちんと教えてあげてほしいです。陸続きの国は文化や言語が異なる者同士が交わる可能性が高く、自分のことを知ってもらう必要があり、必然的に主張する習慣が根付いたのではないでしょうか。 そういった背景を考えずに主張することだけ教えると、過剰な合理的配慮や言った者勝ちのハラスメントが増えて生きづらくなると思います。加えて情報機器によるコミュニケーション力や読解力の低下も大きな課題です。主張の仕方と相手の受け入れ方のバランスを身につけるために、必要なのは「対話」な気がします。
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脚本か監修をしてる人がかなり今の教育に対して想いを持ってるんだろうなと思いました。
この主張ばかりが正しいと判断するのは危険だとは思いますが、楽しく見させてもらっています。
それと同時に、新しく分かったことと、新しくできた謎がいろいろあって、サスペンス部分もしっかり面白い!
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単純な二項対立化させて議論することが既に時代遅れではないか。白か黒かは与条件によって変わるだけで、それを明らかにする過程にこそ最も価値がある。人を殺せば罰せられる世界もあれば、勲章をもらえる世界もある。人を殺すというとても大きな事象でも、社会や時代などの環境によって判断が変わる。相手を言い負かすことに重きを置くのではなく、その事象に対する自身の判断は、何によって支配されているのかを知り、その反対側には何が隠れていて、そこにも一理があることを理解することを訓練して欲しい。古今東西、ディベートの成れの果ては二項対立による分断を産むだけ。
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日本人は、意見と人格の一体化をする。 的を得てますね。 英語好きがこうじてアメリカの大学に留学しましたが、日本人的受け身で授業に単に出席しても単位は取れない。 レポート提出やテストはもちろんだけど、ディスカッション参加しないと不在と思われる。スピーチやディベートも普通にありますし。 子供の頃からやっていない日本人には心理的にハードですが、出来ないと落第点ですから、必死でやりましたよ。 そのうち好きになり、ディベートクラブに入りました。
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ディベートは競技であり、勝敗を決めるもののはずだ。単なる話し合い活動ではない。多くの人が、大きな誤解をしているようだ。
そもそも、40人学級で、あの教科書の学習量で、話し合活動が浸透するはずがない。字面だけを追っかけても、既定の時間には終わらない。教科書の量を半分にして、大学入試にディベートを入れれば、すぐにうまくなると思う。
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大事な視点が抜けていますね。書いてあることは正しいと思うけどそれが大学の入学試験に出ないから高校で真剣にディベートを学ばないのです。世界の教育のトレンドになっているリベラルアーツや汎用的能力なども大学の入学試験に出ないのでまともに取り組んでいません。まず大学の入学試験のあり方を変えないとなにも変わりません。
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自分が受けた教育を断ち切るのが必要な場面もあるが、過去のものが全て悪いわけじゃない。ただ、ここで挙げられている様な新たな試みは、実際にそれをやった事も見た事もほとんどない先生達が話だけ聞いても上手くできない。なぜなら自分が知らない事やイメージできないことは教えようがないから。少々研修を受けたくらいじゃ、形だけの真似事で終わってしまう。だから、流行りだからと何となくそれっぽいけど似て非なる事をして、当然のことながら大した成果もないので廃れていく。 以前、「うちはオールイングリュで授業しています」と胸を張る方がいたので興味津々でやり方を聞いてみたら、やる活動をいくつかのパターンに限定して、どのパターンをやるのかの指示を英語で出しているだけだった。英語のみで授業するってそういう事じゃないだろうに…。でも、自在に英語を喋れる教師陣を揃える事なく強制だけしたら、どうしてもそうなりますよね。
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元教員です。日本では「言わなくてもそれぐらい分るだろう」とか「それぐらい察しろよ」「場の空気が読めない鈍い奴」「忖度しろよ」など、多くを語らなくても伝わるだろうと言う習慣が根深く残っています。学校も同じで、授業中よく発言するのは小学生ぐらいまでで、中・高校生になると自分の意見を言うのをためらいます。そして、皆の前で恥をかきたくない、笑われたくない一心で発言を控えるのです。そこにディベートを持ち込んでも低調に終わるのは明らかです。だから、日本人は議論が苦手ということにはなりません。これが日本の文化なのです。
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どうしても学校教育は学習指導要領というのがあり、そこから逸脱しないことが最重要任務と信仰しているところある。信仰の世界ですよw そこしか神は世界を作られてないと完全に思い込んでいる。
これを変えなくてもいいが、それ以外の世界はあるんだよと言う為にはたとえば科学のでんじろうwのように、本当にそういう目の前で実演して教える先生が欧米でも次々生まれていて、教え方はもっと他にもあっていいんだとなってる。既存の授業でも先生は取材や調査旅行とか実は結構されている。 だから本当に準備した先生のは別格に授業が違う。
マニュアルはあくまでマニュアルや指針であって、教育目標に適ってたらOKだという事は現行でも本来であれば保障されている。先生が独自に計画して準備して実施していいんだ、と先生自身が気付かないとあかんね。 あとは学生さんが良い先生を探すしかない。学校外で。全部価値を知る自分しかそれはできない事。
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30年ほど前にブームがあって小中学校でもさかんにやった。 その後オウム真理教事件があって、幹部の一人がディベートの天才だったとかで、一気にブームは去ってしまった。 もっとも立場を与えられたら、信念に反することでも徹底的に主張して相手をやり込めるトレーニング。子どもたちの性格が悪くなるみたいで、何か嫌だった。 日本人は合わない。少なくとも小中学校からやることはないと思う。 とりあえず、自分の信念に従った行動が取れるようになってからでも遅くない。
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この記事の内容とは全然違って、話し合って決める文化じゃないからだと思います。 思いで決まるのではなくて、自然の摂理で決まると考えている人が多いのでしょう。 いわゆる理に適っているというものです。 逆に、西洋はよく社会が成立しているなあと感心してしまいますよね。
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ディベートについては大学の英語の授業で初めて経験した。 自分が賛成してない立場での何故を英語でプレゼンさせると いう授業でした。 次は立場を入れ替えて反対の意見を述べる。 このようにすれば、ディスカッション後に、意見の衝突が 相手の好き嫌いとは関係なくなる。 その場限りの意見の対立にできる。 当時、これは凄い方法だなと思った。 自分の信条とは違う立場の意見擁護するというのはとても 良く考えないと理路整然とプレゼンしにくいものだった。
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江戸幕府が儒教朱子学を重視した影響でしょう。 儒学の中でも、朱子学を重視した。 上には逆らってはいけない。 とくに上下関係による礼節を重んじていたので幕府は朱子学こそ儒学の中でも学ぶべき学問と定めていき、朱子学が武士の学ぶべき学問とされた。 5代将軍の綱吉のころ、幕府は武士に儒学を学ばせる学校を江戸に開き、 昌平坂学問所を開いた。 寛政2年 (1790)には 幕府の学問所である昌平坂学問所でも朱子学以外の学問を学ぶことを禁じた。 官吏登用でも儒教朱子学を学んだ者のみとした。
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今はミニディベートの授業はあるみたいですね。でも、お子さんの学校公開の国語の授業で「ディベート」ということでやってるのを見てびっくりしたという話も聞いたことがあります。
文学作品の解釈で、根拠も示さずほぼ頓珍漢な独自見解を滔々と述べた子が勝ちということになったのですが、先生が論の立て方を指導するとか、解釈について見るべき観点を示すとかいうこともなく、そのまま授業が終わってしまったのだそう。
その方は某難関大法学部出身で、「ディベート」が何なのかということはよく知ってる方なので、「日本の教育って何やってるんだろう」って思っちゃったそうです。
その話を聞いて、新しいことをやるのは良いとして、先生方にはそのために研究したり研修を受ける時間をちゃんとあげてくださいって思いました。
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たぶん日本人のメンタリティとして、その場での論理だけで物事に白黒つけようとするディベートは合わないってことだよ。歴史的には、論理よりも集まった人が思いを述べて時間をかけて「納得」するのが日本的やり方。人の言う論理以上に、受け止めて内省化する「時間」が必要ということ。白黒と割り切れない灰色をじゃあどうやって納得するかって、時間をかけて不可逆的な落としどころを探るのよ。それを怠ると後から問題が噴出する。だって(心底から)納得してないのだもの。 でもゲームとしてなら、ディベートもいいんじゃない。外人と「外交」をするための準備として。素養としては必要かな。
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ディベートというのは自分が正しいと信じているか否かは関係なく、相手を言い負かすことを目的とする議論のことです。記事を書いている人は意味が分かっているのだろうか。
そして、相手を言い負かすことに成功したとして、それで相手が心底こちらの主張に同意するとは到底思われない。むしろ言い負かせば言い負かすほど、相手は反発してこちらの主張に従わなくなるものです。だから、ディベートなんてほとんど意味がない。
相手をして自分の主張に共感させ、こちらの味方にしてしまうような話術こそが有意義な議論のしかた。これは論理というより、心理です。相手の気持ちを推し量り、戦略的に言葉を選択して紡いでいく力。ディベートなどというお遊びとは根本的に異なる話術をこそ高校生には学ばせる必要がある。
そういう話術が身についていないから、メディアに登場する大人達は年中失言したり揚げ足とられたりして失敗しているではないですか。
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現職ですが あの指導要領で目指す「主体的・対話的な学習」ってまさにディベートなんですよね。。笑 「生きる力や個性の伸長を図る」ってまさに倉吉(影山優佳)が海外で経験した学習です あのクラスのように日本の生徒たちは自分の考えを伝えるのを抑え、意見で戦う習慣も意欲も薄く 目指している指導要領の内容と乖離している事を表す何とも皮肉な回でした
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仕事をするようになれば、意見を求められるし、話し合って決める場面はある。 学校だって、学級会とかあったけどね。 「どうやっていきましょう」みたいな話し合いがね。 今は自分の意見も言えない学校になってしまっているのか? それは心配だな。 俺達の頃はみんな言いたくてうるさかったけどね。 ただ大人になっての話し合いも、実際は上司の意見に引っ張られ、その流れに沿わない意見は取り巻きから否定され、結果有りきな部分は多い。 みんな面倒くさくて意見を言わないってのはあるしれない。 あと人を馬鹿にする文化が広まり、馬鹿にされるから知識を重要視しない人も増えている感じ。 学校文化が変わってきたんじゃないかな? 寧ろ昔の方が良かったような。 まぁ社会情勢が大分変わったし、実際は分からんけどね。
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「発言と人格の一体化」もそうだと思うけど、日本含めアジア人は処罰感情も高い。 ディベートで敗退したら、カーストの低下を招く。
恥の文化もあり、なかなかその場かぎりの敗退や間違いを受け入れがたい。 将棋・囲碁やスポーツでもかなりの精神的な覚悟をもって勝負に挑む人も多いだろう。
同じメンバーで話し合う時、Aの案件では話し合いで負けた(もしくは多くの欠点を指摘され恥をかいた)人の意見を、Bの案件での議論で真剣に考える日本人は少ない。
各個毎の議論が日本人は出来ず、職場の会議もガチで意見をぶつけ合うことはなく、事前の根回しやヒエラルキーで結論が決まる。
良い面もあるとは思うけど、難しい民族の気質だね。
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日本は単一民族国家に限りなく近いから多様性というものに欠けるのは仕方ないのかも知れない。 ディベートにしろディスカッションにしても「察しろ」ってお国柄。 民族入り混じって価値観の違いまくる人間を相手にする大陸系の国とは成り立ちが違う。 あと最近でこそ薄れてきたが、儒教の教えとかも関係するだろう。 目上の人を尊敬して尊重するような教育が長く続いてきたからね。 国民性なんて簡単に変わるものではない。時間がかかるのは当然の事なんだよ。
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良い悪いは別として、日本人には「お互いの価値観を尊重する」国民性があるようです。相手の価値観に過剰に踏み込むことは避けますし、踏み込まれることも嫌がります。
国連が行った”世界価値観調査”でもこの傾向は表れていて、日本人は「意見の異なる人とは積極的に付き合わない」という点で寛容性が低い、と言われてるのですが、逆に「意見の異なる人を拒否しない」という特性も示しています。 ようするに”来るもの拒まず、去る者追わず”という姿勢なのです。
この日本人の国民性と真逆の価値観を持っているのが「インド人」で、意見の異なる人とも積極的に交わると言いながら、意見の異なる人は拒絶するというものです。 一見矛盾していますが、ようするに相手の価値観にズケズケ踏み込んでねじ伏せる(論破する…笑)、うまくいかなかったら遠ざけるという態度です。
日本人が備える「寛容性」は、世界でも特殊なもののようです。
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ディベートの中で最悪だったのは、小学校高学年の同級生とその担任でした。 同じ発言も、A君が言えば称賛、Bさんが言うと批判される。 甲か乙か?の違う主張も、「好きなAが甲だから、甲へ行く」「乙に嫌いなBが居るから、甲へ行く」、そして口達者なAの腰巾着が大人しいBさんの友人を詰めて泣かす。 要は好き嫌いや差別、反対の考えに感情的で「そんな奴だったなんて知らなかった」と失望感で相手を貶す要素がより強かったのです。 そして朝生のように白熱すると担任がキレる。この担任も自分と同じ一律しか認めない奴だったので、次第に担任受け多数派を求めていくようになる。 私は「発言しろ!」と怒られましたが、晒上げられる予感から、帰りの会と同じくディベートも大嫌いでした。 この担任に愛され卒業した人たちの多くは地元中学で著しく荒れて、私はそんな連中と嫌なことがあり決別転校。私の体験からは浸透は難しいと思います。
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ディベートが根付いている国は人権意識が高い代わりに暴動も多い。根付いていない国は人権意識が低い代わりに独裁主導の抑圧社会が多い。 「どちらが優れているか?」の二元論では無く、一長一短の社会文化の違いと認識すべき。その上で、自分が生きている社会にはどう在って欲しいかを考えれば良い。 社会は自分一人で構成していないんだから、自分の願い通り・自分が信じる「正義」の通りになんかなりはしない。多数派が構成する社会の中で息苦しくもがきながら生きるか(殺されるか)、楽に流されながら生きるか、それは各自の自由選択だろう。 「善悪・優劣・正誤」なんてのは無い。好み・適応性の問題。
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こういう能力の欠如は日本のネット世論にも影響を与えている気がする 「議論」ができないので正義や感情のぶつけ合いになる。例えば右と左の政治厨の争いは、もはや終わりの無い宗教戦争の様相を呈している。彼らにとって「右か左か」は「敵か味方か」という事であり、故に右と左に分ける事に拘る。個々の議題について話し合うという事はしない。
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戦後教育において、討論は発達します。 しかし、学生運動の激化に伴い、こういう討論を「巧みに避ける指導」が広まりました。真っ向から論ずると、社会は矛盾だらけです。ましてや日本は敗戦国で、「筋の通らないこと」も、飲み下さなければならない状況でした。正論では勝てないから、逃げたのです。 当時の学校から、討論を奪った結果です。
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日本では明確に結論を出すことを嫌う 問題が起きた時も、よくいえば喧嘩両成敗だが、平たくいえば、悪者や犯人を作らない隠すことを目的にしてる。 そんな中で意見など言ったところで何か変わる訳でもないのだから、カリキュラムに入れたところで身につかない
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田舎で農業や漁業を営んでいる高齢者を思い浮かべると、議論ではなくてみんな仲良くが基本であるように、それが日本のお国柄であり文化。 ここから一歩向こうは敵国のような外国と違って日本は島国なので、どこかガラパゴス的な楽園風土がある。それが日本の良いところであり、懸念されるところでもあるんだろう。
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日本の討論番組は『討論をしていない』のも問題。 あれは「相手の話を聞かず、(話をさえぎってまで)自説を垂れ流す」だけの番組。 あれを討論だと思われては害がある。
ディベートでもディスカッションでも『相手の話を聞く』のは基本。 日本人は高学歴でも低学歴でもこの『相手の話を聞く』が、とにかく出来無い。
ディスカッションでもディベートでも、どちらでも良いから教えて、相手の話を聞く訓練をした方が良い。 訓練は早いほど良いから、義務教育段階で教え込んだ方が良いと思う。
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日本の学校でディベートが広まらないのは、多様な考え方を受け入れられない教員が取り入れたくないだけだと、現場に身を置くものとしては感じます。自分自身の価値観に対峙する子供は、本能的に認めたくないのではないでしょうか?
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ディベートってようは喧嘩ですよね。楽しいですけどね。職場でよくケンカしますよ。何がダメかお互いに知るのに手っ取り早いし、周りで見てる人も楽しいと思って、楽しませる喧嘩を心がけてます。
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ディベート自体はやろうと思えばできますが、議論を交わすために調べる時間も必要になります。 となると授業時間が足りないです。 そして学ばなければならない事項が多すぎます。
個人的にはディベート、やりたいです。 やれるとしても3月末とかですね。
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こんなの少なくとも数十年前から言われ続けてることで、別に真新しい話でもないかな。 難しいのはこれを管理する側の問題で、論理的に公平にジャッジできる者がいないと教育としては難しい。
自分が小学生のときに、修学旅行前の授業の一環で「核兵器は善か悪か」というテーマでディベートしたときに、クラスのお調子者の子が「原爆は悲惨で許せないけど、日本にも反省すべき点があるんじゃないか」と言ったら、先生がブチギレて皆の前で思想矯正されてたのを今でもずっと覚えてます。 それまで「アメリカ=完全悪」だと刷り込まれてた小学生の自分には結構響いたんですよねー。
まぁそのおかげで、先生も残念な人はいるんだなぁって気付けたので良い経験だったんですけど。
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私の場合大学時代に夜を徹してまでも友人たちと議論した。それが当たり前の時代だった。 社会に出て議論のできない方たちが多くびっくりしたのを思い出す。 いろんな経験が少ない方が多いとは感じた。 日本人はシャイな方が多いんですね。
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温故知新 全てはこれだと思います。 何でもかんでも新しい方法がいいとは思いません。読み書き算盤はこんな時代だからこそ大切にすべきだと思います。 それと同時に時代に合わせて新しいこともしていかないといけません。 バランスですよね。
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議論と討論の違いを子供はおろか大人も理解している人が少ないからでしょう。
議論は納得の結果を得るまで話し合う事で討論は議題に対して賛成か反対のどちらにするかで言い争うものですからね。
▲2 ▼0
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国民は従順である方が都合が良いと 考える勢力もあるんでしょうね。 税金の使い方や年金運用はては政治に いたるまで、国民が勉強したり、意識が 高まったら困る政治家や官僚、経営者が いると想像します。
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ディベートは嫌いですね、基本的に。ディスカッションでありたいと思っています。ディベートは闘いであり相手を打ち負かすためのもの。論戦です。日本で馴染まないのはそのためでしょう。
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「なぜなら、日本人は『発言と人格の一体化』ということをしてしまいがちだから」
「なぜなら〜」ではなく「“なぜ„日本人は『発言と人格の一体化』ということをして“しまうのか„」を解き明かさないと、良い方向に向かうことはない。
▲1 ▼0
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福沢諭吉?かもしれないが 明治時代の論客の指摘
日本の場合「意見の食い違い」の 決着はイコール「命の奪い合い」と 同じことだ、つう主旨で 批判してたかと 日本において、つう前提で 意見の食い違いで決着するのは 目前の問題への解決ではなく 「飼い主と奴隷の関係になる」か それが嫌なら「斬るか斬られるか」に 発展するか、の両極端しかない これでは伸びる才能も どこかで潰されてしまい いづれ日本は滅びるだろう、つう 内容だったと記憶してる 日本人に必要なのは 議論のテクニック論より前に 「議論の勝敗」と「現実の人間関係」を 切り離して考える思考だ、と まとめてたかな
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日曜劇場は毎回拝見しております 今回の御上先生は前回の海に眠るダイヤモンドとかとガラッと変わりインテリばかり出てくるので内容が難しく、早くも脱落しそうです
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発言と人格の分離が出来ないから炎上しやすいんだよなぁ。 意見を否定しているつもりが人格否定に及んでしまっていたり、 逆に、意見だけを否定されているのに人格否定されたと受け取ったり。
▲3 ▼2
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日本では理屈っぽい人間は嫌われるんだよ。みんな親から「理屈を言うな!」と怒られたことがあるだろう。ディベートが必要なのは検察官や弁護士くらい。ディベートの授業なんかやったら子供が理屈っぽくなるだけ。
▲1 ▼5
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昔家族で節電するべき、するべきでないで意見を戦わせたんだが、 ムキになった父親は家中のウォシュレットや冷蔵庫のコンセントまで抜き始めた。 まぁ日本人にはディベートというか討論自体が向いてないんだよ。
▲6 ▼1
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『でも、言いたいことは胸にしまっておかないと、空気が読めないヤツって嫌われる。この国は本音と建前の国なんだって思い知らされて、すごく怖くなった』>
これってどっちの国を指してるんですかね?
一見記事的に日本の事を指してるようですけど、アメリカのことかな?
差別がひどいからこそ向こうは差別に対して敏感ですからね 建前と本音はどこでもあります その出方が違うだけ
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意見と人格を同一視する傾向にあります。 なのでいまだに意味のないことを堂々と外でやってる人がいることの裏返しです。
英会話スクールをやってて思うのがなぜ日本人が英語ができないかを如実に現してます。 もう時代遅れも甚だしいです。
▲2 ▼3
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日本語と言う言語が論理的じゃないから。途中で主語が何だったかわからなくなる話、よくありますよね。最後には責任の所在さえ分からなくなる。よくありますよね。
▲1 ▼4
=+=+=+=+=
合理性より私的感情を優先し そこを否定する人間へは孤独と言う私刑を 集団で仕向ける社会だから
何より、今の自分のキラキラが極上と言う 何の生産性や協調性を無い、そんな物を 激推しした既得権益オールドメディアのせい。
▲3 ▼2
=+=+=+=+=
海外では、面とぶつかっての罵倒大会だったりしますが、我が国で「海外での議論」とされるシーンは冷静な討論の映像が多く流されます。(´・ω・`)
▲1 ▼0
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>人間、どんな主義主張を持っていようが、どんな考え方の人間だろうが、それとは関係なく、仲良くすることができるはずです。むしろ欧米の国々ではそういう考え方が主流ですよね。
むしろ欧州のほうが仲悪くて戦争ばっかりしてきてるじゃん
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ヤフコメでもディベートをあえてやりたい方がいるならば、立場とディベートをやるとかちゃんと言えば良いのかもね。
▲0 ▼0
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なぜディベートが日本に根付かないといけないのか、そこのところを明確にしないと、ディベートは根付かない
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学級会でみんなで結論だすことはしてても、ディベートをしたことはなかったから大学で急にやれって言われたときはどうしていいかわからなかったな
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ディベートは、技術であってそれ以上でもそれ以下でもない。日本で流行らないのは、やり方をみんな知らないだけ。
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否定されたら感情丸出しで人格否定するような大人ばかりだし 国会中継なんて人の話最後まで聞けないじじいばかりじゃないですか
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内申書制度を廃止すれば、生徒は堂々と自分の意見を言うことができる。
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たまにはやってるんじゃないかな。その程度でいい。
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令和版金八先生の意図を感じるドラマ
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日本は「和をもって貴しとなす」だからな…
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ディベートを避けるんでしょうよ笑 日本人は笑
要は向こうの文化というのは何も言わないのは、 存在しないのと同じなんだよね。笑
だから夫婦喧嘩で無視とかありえない。
でも割と日本は無視するでしょ、女性とか笑
その裏にはね、甘えの構造があるの笑 そう、母性社会ってやつ。
その背後にはアニミズム。
向こうは一神教でしょ? 一神教の文化というのは、割とはっきり主張する笑
要は甘えがあるか甘えがないかの違い笑
何も言わずに、相手に理解してもらえるっていうのは甘え笑
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