( 259636 )  2025/02/03 16:25:59  
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裸婦像(画像:写真AC) 

 

 都市を歩けば、ふと目に入る彫刻がある。ブロンズや石膏でかたどられた裸婦像だ。商業施設の前、公園の一角、駅前のロータリー。無言のまま佇むこれらの像が、近年「時代遅れ」と指摘される場面が増えている。 

 

 静岡市や宝塚市での議論をはじめ、各地で裸婦像の存廃が問われるなか、本当に「現代の価値観にそぐわない」のかを再考する必要がある。 

 

 裸婦像の存在は、都市のあり方そのものと密接に結びついている。 

 

・都市景観 

・公共空間の役割 

・移動する人々の視点 

 

芸術と都市の関係を見つめ直すことで、この問題の新たな地平が開けるのではないか。 

 

裸婦像(画像:写真AC) 

 

 裸婦像が「時代遅れ」とされる背景には、価値観の変化がある。 

 

・ジェンダー意識の高まり 

・多様性の尊重 

・公共空間の利用目的の変化 

 

が、その主な要因だ。特にジェンダーの観点からは、 

 

「女性の身体を公共の場にさらすことが適切なのか」 

 

という問いが浮上している。かつては美術作品として無批判に受け入れられていたものが、今では異なる視点から再評価される時代になった。 

 

 静岡市の難波喬司市長は、 

 

「公共の開かれた目につきやすい空間に置くのではなく、作品の鑑賞環境に相応しい場所に置くのがよい」(テレビ静岡、2024年12月19日付け記事) 

 

と述べている。これは、裸婦像の芸術的価値を否定するものではないが、都市の景観が社会の変化を反映すべきだという考え方の表れだ。 

 

 一方、設置当時の市長である天野進吾氏(在任期間:1987~1994年)は、 

 

「『性的』と言うこと自体が未熟な感覚。『ヌードだから』と、いやらしさを感じるバカはいない」(同) 

 

とし、むしろ裸婦像を否定することこそが問題だと指摘する。こうした過去と現在の価値観の対立こそが、裸婦像をめぐる議論の本質を浮き彫りにしている。 

 

裸婦像(画像:写真AC) 

 

 裸婦像は、そもそも何のために設置されたのか。都市のモニュメントとしての役割を考えれば、単なる美術作品ではなく、街の象徴や景観の一部として機能してきたことがわかる。 

 

 都市空間におけるモニュメントの意義は、場所の記憶と密接に結びついている。歴史的建造物や記念碑と同様に、都市に 

 

「意味」 

 

を付与する役割を果たしてきた。駅前や橋、公園に設置された裸婦像も、その空間の個性を形成する要素のひとつだ。 

 

 しかし、現代の都市計画では「公共空間にふさわしいかどうか」がより重視される。利用者の快適性や利便性が優先されるなか、「裸婦像が不快に感じる人がいるならば移動すべき」という意見も出てくる。 

 

 では、裸婦像が都市の利用者に与える影響はどれほどのものなのか。静岡駅南口を訪れた市民の多くは「特に気にならない」(同)と回答している。この結果が示唆するのは、問題視する人の声が注目される一方で、大多数の人々にとっては関心の薄い存在である可能性だ。 

 

 

裸婦像(画像:写真AC) 

 

 裸婦像の存廃をめぐる議論は、 

 

「撤去か移設か」 

 

という二択で語られることが多い。しかし、この問題を単純な二元論で捉えるのは適切だろうか。 

 

 欧米の都市では、彫刻やアート作品にインタラクティブな要素を取り入れる動きが広がっている。デジタル技術を活用し、像の背景や芸術的意図を解説するAR(拡張現実)を導入すれば、現代の視点から再評価する機会となるかもしれない。裸婦像に限らず、都市のモニュメント全体のあり方を見直すことで、新たな価値を創出することも可能だ。 

 

 都市には多様な人々が行き交う。一部の人が不快に感じるからといって、すべてを撤去するのが最善策なのか。それとも、歴史や芸術性を学べる環境を整えることで、多様な価値観を受け入れる道を開くべきなのか。この問いに対する答えは、ひとつではない。 

 

裸婦像(画像:写真AC) 

 

 裸婦像の議論が浮き彫りにするのは、都市における芸術の役割をどう考えるべきかという根本的な問題だ。 

 

 芸術は、万人に受け入れられるものではない。それでも都市に存在し続けることで、文化の厚みを生み出してきた。しかし、公共空間に設置される以上、時代の価値観の変化を無視することはできない。 

 

 仮に裸婦像を撤去するのであれば、それは「時代遅れだから」といった単純な理由ではなく、都市のあり方を見直した結果であるべきだ。逆に存続させるのであれば、なぜその場にあり続ける必要があるのか、明確な説明が求められる。 

 

 都市の景観は、そこに住む人々や訪れる人々によって形作られる。裸婦像をめぐる議論は、単なる芸術作品の是非ではなく、都市空間における「共存」と「変化」のあり方を問いかけるものだ。 

 

 結局のところ、裸婦像は「現代の価値観にそぐわない」のか、それとも都市の文化として残すべきなのか。その答えを決めるのは、我々自身なのかもしれない。 

 

小西マリア(フリーライター) 

 

 

 
 

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