( 262276 ) 2025/02/08 17:19:46 0 00 鉄道(画像:写真AC)
鉄道やバス、ミリタリーに関する記事を書くことを避けるライターも少なくない。その理由として、「オタクが面倒だ」という意見がよく聞かれる。今回は特に鉄道オタクに焦点を当て、筆者(昼間たかし、ルポライター)の実体験をもとにその背景について考えてみたい。
筆者も当メディアに寄稿を始めてから、その理由を徐々に理解できるようになった。SNSでの反応を見ていると、時に批判的なコメントを目にすることがある。例えば、地名や車両の型番を誤った場合には謝罪が必要となるが、それだけが問題となるわけではない。
「○○に触れていない」 「○○の視点が不足している」
など、限られた文字数で指摘されることもあり、時にはその表現が厳しいこともある。このような指摘は単なる批判にとどまらず、しばしば意図的に攻撃的なニュアンスが含まれていることがある。そのような現実に直面することが、ライターを萎縮させてしまう原因のひとつではないかと思われる。
多くの著作がある、某ベテランライターは、
「鉄道オタクは、鉄道会社が「絶対正しい」と信じている人が多い。鉄道趣味は宗教的な側面があるとも感じている。鉄道ニュースが難しい理由は、こうした熱心なオタクにとって、自分が知っている内容が書かれると「内容が薄い」と批判し、逆に知らない内容が書かれると「そんなことはない」と否定されることが多いことだ。異なる意見に対しては、徹底的に反論する態度が見られることも多い。鉄道ニュース、特にネットでの記事執筆は、手間がかかる割に得られる成果が少ないと感じる」
とぼやいていたと聞いた。
実際のところ、筆者は過激な言動を繰り返す鉄道オタクに実際に出会ったことはほとんどない。むしろ、筆者が知る鉄道に詳しい人々は、その知識を惜しみなく共有してくれることが多い。
例えば、当媒体にも寄稿している歴史学者の嶋理人(りひと)氏がその一例だ。長年の友人である彼は、SNS上で一部の過激なオタクから敵視されることもあるが、本人はそれをあまり気にしない。彼は
・豊富な知識 ・実証主義(歴史学の基本!)
に基づいて、わかりやすい解説をしてくれる。例えば、熊本駅がなぜ市街地から離れているのかを調査した際には、貴重な資料を提供し、わかりやすく説明してくれた。
同じように印象的だったのが「田切ネットワーク」のメンバーたちだ。長野県のJR飯田線田切駅(飯島町)には、「アニメ聖地巡礼発祥の地」という石碑が立っている。この石碑は、1991年に発売されたマンガ『究極超人あ~る』のOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)がきっかけとなり、2018年に有志の手によって建立されたものだ。
このアニメでは、主人公たちが飯田線全駅の駅スタンプを集めながら、最終日18時までにゴールの伊那市駅を目指す。途中、田切駅で下車した彼らは、自転車で伊那市駅を高遠経由で目指すことになる。このシーンを見たアニメファンが田切駅を訪れるようになり、もともと鉄道オタクにとっては名所でもあったこの駅で、アニメオタクと鉄道オタクによる「田切ネットワーク」が生まれた。
2012(平成24)年には伊那市駅開業100周年の企画として、伊那市役所自転車部が田切ネットワークの協力を得て、アニメのシーンを再現するイベントが行われた。田切駅から伊那市駅までを1時間で走るという過酷な条件にもかかわらず、100人以上が参加し、その後も毎年恒例の行事として続けられている。筆者も最初からこの活動に参加し、田切ネットワークのメンバーと長い交流を続け、駅清掃にも何度か参加している。
鉄道(画像:写真AC)
職業や年齢が異なる彼らに共通しているのは、知識を持っていることへの誇りと、それを他の人と共有することへの喜びだ。初心者に対しても非常に親切で、「にわか」と呼ばれる人々が増えることをむしろ歓迎している。そのため、ネット上でよく見かける「にわか」批判や「誤った情報だ」と過敏に反応する人々を見て、筆者は不思議に感じることがある。彼らはいったいどこで、どのように知識を得たのだろうか。自分たちもかつては
「初心者」
だったはずなのに。なぜ、彼らはここまで攻撃的になってしまったのだろうか。
その背景には、知識を通じた承認欲求の問題があるのではないかと考えられる。ネット上で「自分が一番知っている」という優越感を示し、限られたコミュニティでの称賛を得ることが目的となっているようだ。特にSNSの普及により、この傾向はより顕著になっている。
「いいね」やリポストといった数字で評価が可視化され、過激な言動が注目を集めやすくなる。そして、その「評価」を求めるあまり、建設的な対話が置き去りにされ、知識は他者を貶めるための道具に変わってしまう。
SNSでの攻撃性は、単なる罵倒で終わらないことも多い。自分が精通している分野のニュースや投稿を見つけると、しばしばとげのある言葉を投げかけられる。筆者もそのような経験をしたことがある。鉄道行政に関する記事を書いた際、ある読者が執拗に攻撃的なコメントを繰り返していた。特に気にも留めていなかったが、ある日、知人の鉄道オタクと会った際に
「あのアカウントの人は鉄道会社の現業職の方ですよ」
と教えられた。
この話を聞いて、さらに不思議に感じた。現場で得た知識や経験があれば、記事の内容を深める建設的な意見を述べることができたはずだ。それにもかかわらず、なぜ攻撃的なコメントが多くなってしまうのだろうか。
SNSでは、議論が極端な方向に流れやすい傾向があるように思える。冷静な指摘や建設的な意見よりも、批判的な言動が注目を集めやすいからかもしれない。その結果、貴重な現場知識が、他者を攻撃するための手段として使われてしまっていることがある。
こうした傾向は鉄道に関する議論全般に見られることだ。特に、車両のスペックや技術的な細部に強くこだわる人々がいる。彼らにとって知識は、理解を深めるための手段というよりも、他者を攻撃するためのツールとなっているように見える。
典型的な例は、車両に関するニュース記事への反応だ。誤記があれば、
「こんな初歩的なミスをするな」 「記者はちゃんと取材しているのか」
といったコメントが見受けられる。また、メーカー名が正しくても、
「○○について触れていない記事に意味があるのか」
といった、過度に専門的な要求が出てくることもある。ここに見られるのは、記事の本質とは関係のない技術的な細部に過度にこだわり、それを知らない記者や読者を見下す態度だ。彼らにとって知識は理解を深めるためのものではなく、他者を攻撃するための手段となってしまっているように感じる。
鉄道(画像:写真AC)
このような態度は、特にローカル線問題や鉄道行政に関する議論でしばしば見受けられる。技術的な正誤とは異なり、これらの問題にはさまざまな立場や視点が存在するはずだ。それにもかかわらず、「○○の視点が欠けている」などと、一方的な見解を強調することがある。
興味深いのは、こうした批判を繰り返す人々が、実際の行政や運営に関わっているわけではない点だ。政策決定に関与できる立場でもなく、地元の住民でもないことが多い。それでも、自分の視点が正しいと主張し、それを強引に押し付けようとすることがある。地域の実情や経営の現実については、さまざまな視点があるはずだが、そうした多様性を受け入れようとせず、持論に固執する傾向が見られる。
こうした状況において、彼らは鉄道そのものの何を楽しんでいるのだろうか。攻撃的な発言を繰り返すことで、本来の楽しみを見失ってしまっているのではないかという疑問が浮かぶ。
本来、知識は世界を広げ、新しい発見や出会いをもたらすものだ。しかし、インターネット上では、その知識が逆に世界を狭める手段として使われることも多く見受けられる。
特に目立つのは、「正しい鉄道オタク」を自称する人々の態度だ。例えば、撮り鉄のマナー違反が話題になると、「SNSのせいで、基本も知らない人が増えた」という意見が出ることが多い。そして、必ずと言っていいほど、「自分は違う」と自分を差別化するコメントが加えられる。
ここで注目すべきなのは、彼らが語る「知識」が、必ずしも車両のスペックや路線の歴史など、具体的な情報を指すわけではない点だ。むしろ、「自分こそが正しい鉄道オタクである」という、
「根拠のない優越感」
が隠れていることが多い。この意識を正当化するために「知識」という言葉が使われているに過ぎない場合がある。
以前、あるテーマの記事を書いた際、特定のアカウントから「無知だ」と批判を受けたことがあった。その後、イベントの取材で現地を訪れた際に、
「あのアカウントはあそこにいるアイツですよ」
と教えてくれる人がいた。相手もこちらの顔を知っているはずなのに、近寄ってこなかった。まさに
「ネット弁慶」
だといえるだろう。匿名性に守られた画面の向こうでは強気な言動をするが、実際に顔を合わせると何もいえなくなる。結局、彼らの「知識」は、ネット上での自己満足のための道具として使われているのかもしれない。
こうした人々は、どこにでも現れる。何度かSNSで偶然、自分を批判しているアカウントを見かけ、そのプロフィールを興味本位で見てみると、大学の教員になっていると書かれていたこともあった。
ここからが本論だ。
オタクと呼ばれる人々は、特定の分野において非常に深い知識を持っている。しかし、その知識が
・社会的評価 ・経済的利益
に直結する場面は、あまり多くないのが現実だ。例えば、学校や職場で「このアニメの設定について詳しく語れる」「この鉄道の歴史を詳しく知っている」といった知識が、直接的に評価されることは少ない。
このような状況は、オタクにとって少なからずジレンマを生んでいるのではないだろうか。時間と労力をかけて得た知識が、現実社会では十分に評価されないということは、寂しいことだ。
では、その知識はどこで活用されるべきなのだろうか――そのひとつの答えとしてインターネットが挙げられる。オンラインの世界では、現実の社会とは異なる基準で評価されることがあり、知識の豊富さが「権威」として認識され、発言力を持つ要素となることがある。結果として、一部のオタクは「知識こそが自分の価値だ」と考え、知識量を競うようになる。
ただし、この競争が時に攻撃的なものになってしまうこともある。知識を持たない人を「にわか」と見下したり、誤った情報を発信する人を「無知」と決めつけたりすることで、自分の優位性を強調しようとする傾向が見られる。こうした行動は、ネット上での議論をしばしば対立的なものにしてしまうことがある。
鉄道(画像:写真AC)
オタクの議論が激化しやすい理由のひとつに、「正しさ」への強いこだわりがあると考えられる。オタク文化では、細部にわたるこだわりが重要視されることが多く、アニメの作画ミスやゲームの設定の矛盾、鉄道のダイヤの誤認、歴史の解釈の違いといった些細な誤りが許されないことがよくある。
その背景には、知識の正確性が「専門性」や「オタクとしての格」に大きく関わるとされる点があるかもしれない。間違った知識を持つことは「未熟さ」や「浅さ」を示すと見なされ、それを指摘することが自己の立場を強化する手段となる場合がある。このため、誤りを正すこと自体が目的ではなく、時には相手を打ち負かすことが優先されることがあるように感じる。
さらに、インターネットの匿名性が攻撃的な態度を助長することもある。現実社会では、知識を持っていても相手を面と向かって非難することにはためらいが生じることが多いが、オンラインでは相手の表情や感情が見えないため、対人関係の調整が難しく、知識を巡る対立が激化することがある。インターネットでは、知識を披露することで承認を得られる機会が増えることがあり、SNSや掲示板では、詳細な知識を持つ人が「いいね」やリツイート、コメントで称賛されることがある。このような承認欲求が、さらに知識を披露することを促進する場合がある。
しかし、承認を得るための競争が激化する中で、「より強い言葉を使うこと」が評価されやすい傾向がある。穏やかな指摘よりも、強い言葉で相手を批判する方が目立ち、支持を得やすいことがあるため、議論が次第に攻撃的な雰囲気に包まれることがある。また、ネット上には「間違いを正すことが善である」という文化が根強く存在し、誤った情報の修正は大切ではあるが、それが目的化すると、「間違っている者を糾弾すること」が価値ある行為とされ、議論が過熱してしまうことがあるように思われる。
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