( 262491 )  2025/02/09 04:40:10  
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寂れた商店街のイメージ(画像:写真AC) 

 

 ある地方都市の駅前に立ち寄ったとき、街は閑散としていた。シャッターを下ろしたままの店が並び、歩いている人の姿も少ない。その一方で、郊外型ショッピングセンターの駐車場は満車で、家族連れや若者たちが賑やかに買い物を楽しんでいる。この光景は、今や日本全国で見られる現象となっている。 

 

「商店街の衰退は時代の流れだから仕方がない」 

 

と考える人は多い。確かに、経済的な観点から見ると、郊外型ショッピングセンターの方が利便性が高く、低コストで効率的な運営が可能だ。駐車場も完備され、広いスペースで天候に関係なく買い物ができる。一方、駅前の商店街は老朽化し、車でのアクセスも悪いため、維持が難しくなった。 

 

 しかし、この現象を単なる「時代の変化」として片付けてしまってよいのだろうか。 

 

 本稿では、駅前商店街の衰退と郊外型ショッピングセンターの台頭によって、私たちがどんなものを得て、どんなものを失ったのかを考え直したい。結論から言えば、私たちが最も失ったのは「街の文脈」「街の色」だ。そして、この喪失こそが、地域の未来に深刻な影響を与えている。 

 

寂れた商店街のイメージ(画像:写真AC) 

 

 商店街には、それぞれの店が独自の個性を持っていた。八百屋が選び抜いた旬の野菜や、老舗和菓子屋の季節限定銘菓、雑貨屋の隅に並ぶ手作りの小物など、各店は地域の歴史や文化と結びつき、独特の空間を形成していた。 

 

 しかし、郊外型ショッピングセンターでは、全国チェーンが中心となり、商品もどこに行っても似たようなものが並ぶ。東京、名古屋、福岡など、どの地域でもイオンやイトーヨーカドー、ユニクロ、ニトリなどおなじみの店舗が並び、地域性は薄れてしまった。 

 

 この変化は、単なる商業施設の進化ではない。商店街は、各店が「この地域ならではのもの」を提供し、買い物客もそのなかで地域の特色を感じ取ることができた。しかし、郊外型ショッピングセンターの普及により、「その街ならではの買い物体験」が急速に失われつつある。 

 

 確かに、ショッピングセンターは快適だ。広い駐車場とワンストップで完結する買い物の利便性は大きな魅力だが、その便利さの代償として、「街の文脈」「街の色」を失っているのではないかという点も考慮する必要がある。 

 

 

寂れた商店街のイメージ(画像:写真AC) 

 

 駅前商店街には、もうひとつ重要な役割があった。それは、地域コミュニティーの中心的な存在であったことだ。 

 

 商店街では、店主と常連客が顔見知りであることが多く、買い物を通じて自然と会話が生まれる場でもあった。 

 

「おばあちゃん、今日はおまけしとくよ」 

「この魚、新鮮だからおすすめだよ」 

「最近、孫が生まれたんだって?」 

 

といった何気ないやり取りが、地域の絆を育んでいた。 

 

 しかし、郊外型ショッピングセンターでは、こうした人間関係が生まれることはほとんどない。レジの自動化が進み、店員と客の接触は最小限に抑えられ、買い物は単なる取引として処理されることが多くなった。 

 

 また、買い物のための移動手段も、コミュニティーのあり方を変える要因となった。商店街が賑わっていた時代、人々は徒歩や自転車で買い物に行き、道端で知人と立ち話をすることが日常的だった。しかし、郊外型ショッピングセンターへはほとんどが車で向かうため、他人と会話を交わす機会は格段に減少した。 

 

 この変化がもたらした影響は深刻である。かつて商店街が担っていた 

 

「見守り」 

 

の機能が失われ、高齢者の孤立や地域社会の分断が進行している。買い物は単なる消費活動にとどまらず、人間関係を形成する場でもあったのだ。 

 

寂れた商店街のイメージ(画像:写真AC) 

 

 商店街の衰退と郊外型ショッピングセンターの台頭により、私たちの移動の仕方は大きく変わった。 

 

 かつて、商店街は人々が「歩く」ことを前提にした買い物の場であった。駅を降りて商店街を歩きながら、自然に気になる店を覗き、「ついでに寄る」という行動が日常的だった。多様な店舗が徒歩圏内に並び、利便性が高かった。 

 

 しかし、郊外型ショッピングセンターは車での移動を前提に設計されている。広大な駐車場に車を停め、決まったルートで買い物を済ませるスタイルだ。ここでは偶然の出会いや予期しない発見が生まれる余地が少なく、自由な探索が難しくなった。 

 

 都市計画においても、この変化は大きな影響を及ぼしている。郊外型ショッピングセンターの発展とともに、ロードサイドには大型店舗が立ち並び、駅前の空洞化が進行した。歩行者中心の街づくりから、車を中心とした街づくりへとシフトし、「歩く文化」は失われつつある。 

 

 その結果、歩行に優れた街が減少し、車を運転できない高齢者や子どもにとって不便な都市環境が生まれている。 

 

 

寂れた商店街のイメージ(画像:写真AC) 

 

「八百屋が選び抜いた旬の野菜や、老舗和菓子屋の季節限定銘菓、雑貨屋の隅に並ぶ手作りの小物」などが郊外型ショッピングセンターによって代替されているという意見もある。確かにその一部は実現されているが、完全に代替されているわけではない。 

 

 商店街には、地域に密着した「選び抜かれた」商品が並んでおり、その背後には地域の文化や伝統、店主のこだわりが息づいている。例えば、八百屋が取り扱う季節ごとの野菜は、地元の農産物の旬を知り尽くした店主によって提供され、地域の自然の恵みを消費者に体験させることを目的としている。しかし、郊外型ショッピングセンターでは、地域の特色や農産物の「個性」が希薄になり、どこでも手に入る大量生産された商品ばかりが並び、地元の魅力を感じ取ることが難しい。 

 

 また、老舗和菓子屋が作る季節限定の銘菓には、その土地の伝統や季節の移ろいを感じる楽しみがある。これは商店街ならではの文化的な価値だ。郊外型ショッピングセンターには確かに全国チェーンの和菓子店も存在するが、その商品ラインナップは全国的な流通を意識したものであり、地域ならではの特別感や季節感を味わうことは難しい。 

 

 さらに、商店街の雑貨屋で見かける手作りの小物もまた、郊外型ショッピングセンターにはない魅力のひとつだ。これらの小物は、店主が心を込めて手作りし、その思いや温もりが消費者に直接伝わる。しかし、こうした「手作り」の要素が薄れ、大量生産された商品ばかりが並ぶため、商品の背後にある人間的なつながりを感じることはできない。 

 

 結局のところ、商店街が提供してきた「個性」「地域性」「文化」は代替できない要素だ。それは消費者にとって、その地域ならではの「体験」を提供する場であり、これを失うことが、地域社会のつながりや文化の喪失へと繋がっているのではないだろうか。 

 

寂れた商店街のイメージ(画像:写真AC) 

 

 郊外型ショッピングセンターの台頭は、経済合理性の観点から見れば、間違った選択ではない。消費者にとっては、利便性が向上し、効率的に買い物ができるという大きなメリットがある。 

 

 しかし、「効率」を最優先した結果、私たちは多くのものを失った。 

 

 商店街が消え、代わりにどこでも見かける光景が広がることで「街の文脈」「街の色」が失われた。その土地特有の個性や歴史を反映した商店街がなくなり、画一的な都市景観が生まれた。また、店主と客との関係が希薄化し、地域の絆も薄れてしまった。さらに、歩行者中心の都市設計から車を前提とした街づくりへと変わり、高齢者や子どもにとって住みにくい環境が生じた。 

 

 これからの都市のあり方を考えるうえで、私たちはこの「喪失」に真摯に向き合わなければならない。商店街が消えたことをただ嘆くのではなく、 

 

「街とは何か」 

「移動とは何か」 

 

といった問いを新たな視点で見直す時が来ている。 

 

伊綾英生(ライター) 

 

 

 
 

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