( 263261 )  2025/02/10 16:57:02  
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自動車(画像:写真AC) 

 

 当媒体が以前配信した記事「「MT免許」4月法改正で存亡危機? 多くの若者が「AT限定」選ぶ現代、MT車の意味とは? 価値とは?」(2025年2月4日配信)に、興味深いコメントが寄せられていた。 

 

「昔のクルマは血の匂いがしていた」 

 

実に印象的なフレーズだ。これは単なるノスタルジーではなく、ある種の「覚悟」と「選別」をともなう時代の証言ともいえる。 

 

 かつて、クルマの走行性能や安全性は、運転者の技量に大きく依存していた。アクセルを踏めば機械式スロットルが開くだけで、電子制御は一切介在しない。変速機は手動、クラッチ操作を誤ればエンストを起こし、発進すらできなかった。ブレーキにもABSはなく、ロックすればそのままスリップ。下り坂ではフェードやベーパーロックのリスクを抱え、制動力を失うこともあった。 

 

 こうした特性ゆえに、運転には高い集中力と判断力が求められた。技量が未熟な者には扱えず、無理をすれば事故に直結する。クルマは 

 

「運転する覚悟のある者」 

 

だけが手にする道具であり、それができない者は自然と淘汰される時代だった。 

 

「血の匂い」という表現は、単に危険性を指すものではない。むしろ、クルマと人の間にあった厳格な関係性――「生死を左右する機械を扱っている」という緊張感を示す言葉として捉えるべきだろう。 

 

自動車(画像:写真AC) 

 

 現代のクルマは、電子制御技術の進化によって誰でも簡単に運転できるようになった。アクセルの開閉はコンピューターが最適化し、変速は自動、クラッチ操作は不要。ブレーキにはABSや衝突被害軽減ブレーキが搭載され、万が一の際にはエアバッグや衝突安全ボディが乗員を守る。 

 

 こうした技術の進歩により、運転スキルがなくても問題なくクルマを操れる時代になった。しかし、それは同時に 

 

「運転者の選別機能」 

 

が失われたことを意味する。かつてなら適性がないと判断された人でも、システムの補助によって運転が可能になり、その結果、リスクを過小評価する傾向が生まれた。 

 

 ここに大きな問題がある。人間は「自分ができる」と思うと過信する生き物だ。電子制御の恩恵を 

 

「運転スキルの向上」 

 

と錯覚したとき、補助システムの限界を超えた行動に出てしまう。例えば、運転支援システムを過信してスマホを見ながら運転する。ブレーキアシストがあるからと急ブレーキを軽視する。こうした油断が、事故の要因となる。 

 

 

自動車(画像:写真AC) 

 

 現代のクルマに「血の匂い」を取り戻すべきなのか。答えはそんなに単純ではない。 

 

 技術の進歩による安全性の向上は、これまで多くの命を救ってきた。ABSがなかった時代、雨天時に急ブレーキを踏めばタイヤがロックし、車両は制御不能に陥った。現在では、それをシステムが防ぐ。自動ブレーキがなければ発生していたであろう追突事故も、今は回避できるケースが増えた。こうした恩恵を否定する理由はない。 

 

 しかし、「血の匂い」があった時代の精神性――運転に対する畏怖や覚悟、そして適性を選別する機能――が失われたことで、新たな問題が生じている。 

 

 免許取得のハードルはかつてより大幅に下がった。電子制御が補助する現代のクルマでは技能試験の合格率が向上し、かつて「運転の適性がない」とされた人でも免許を取得し、クルマを所有することが可能になった。 

 

 さらに、自動運転技術の発展により、運転そのものが 

 

「人間の技量を前提としない行為」 

 

へと変わりつつある。完全自動運転が実用化されれば、誰もが移動の自由を享受できる。しかし、その過渡期にある現代では 

 

・運転の過信 

・システムの限界 

 

の狭間で、多くの事故が発生しているのが現状だ。現実的に、かつてのような「血の匂い」を取り戻すことは不可能だ。技術の進歩を逆行させることはできないし、するべきでもない。だが、運転者の意識改革は不可欠だ。 

 

 例えば、運転免許の取得基準を見直すことは一案だろう。技術の進化によって安全性が向上した今こそ、免許制度は「技術がなければ運転できなかった時代」の基準に縛られる必要がない。むしろ、運転に対する「責任感」や「適性」をより厳しく問う方向にシフトすべきではないか。また、自動運転技術が進むなかで、 

 

「人が運転することの意味」 

 

を再定義する必要もある。自動運転が一般化すれば、趣味やスポーツとしての運転は別として、「人が運転する」という行為自体が贅沢品になる可能性がある。そうなったとき、「運転する資格を持つ」ということは、特別な責任をともなう行為へと変化するだろう。 

 

 

自動車(画像:写真AC) 

 

「血の匂い」は、かつてクルマが運転者を選別していた時代の象徴だった。しかし、技術の進化によってその選別機能は失われた。だが、別の形で「クルマが人を選ぶ」時代が再び訪れる可能性がある。 

 

 自動運転が当たり前になれば、人が運転するための資格は今よりも厳格なものになるかもしれない。一定の技能試験をクリアした者だけが「運転する権利」を得る仕組みが導入される可能性もある。あるいは、 

 

「クルマを制御する意思のある者だけが運転できる」 

 

というルールが生まれるかもしれない。 

 

 そのとき、運転免許は「誰でも取得できる資格」ではなく、「運転する覚悟を持つ者だけが得られる証明」へと変わる。かつての「血の匂い」と同じ意味を持つ時代が、形を変えて訪れるのかもしれない。 

 

鳥谷定(自動車ジャーナリスト) 

 

 

 
 

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