( 264343 ) 2025/02/12 18:26:41 2 00 自動改札機で失われた“駅員の職人芸” 「大阪駅にはタンゴのリズムで改札バサミを空打ちする駅員がいる」《関西私鉄の秘話》NEWSポストセブン 2/12(水) 10:53 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/2ee8d676ac2cdf842211affb803dbc9b7ee36a20 |
( 264346 ) 2025/02/12 18:26:41 0 00 近鉄の2階建て特急電車「ビスタカー」
「私鉄王国」と呼ばれるほど、阪急、阪神、京阪、南海、近鉄の五大私鉄の存在が大きい関西圏。私鉄各社の歴史は、スピードやサービスなどの競争の連続だったが、その競い合いの中で“日本初”のサービスも誕生した。
大阪出身の元全国紙新聞記者・松本泉氏が、関西五大私鉄の歴史を綴った『関西人はなぜ「○○電車」というのか─関西鉄道百年史─』(淡交社)より、関西私鉄から生まれた日本初をお届けする。(同書より一部抜粋して再構成)【全5回の第4回。第3回を読む】
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近鉄といえば二階建て電車「ビスタカー」だ。
VISTA(ビスタ)はスペイン語で「眺望」を意味する。1958(昭和33)年に近鉄が導入した日本初の2階建て電車だった。
オレンジ色の車体に濃いブルーのラインが入ったビスタカーは長い間、近鉄のシンボルであり、日本初の2階建て電車は関西人のご自慢でもあった。
香港の2階建て路面電車や、ロンドンのダブルデッカーにみられるように、“2階建て”はスムーズに大量の乗客を運ぶことを目的に開発された。2階からの眺望は付け足しのようなものだった。
しかし近鉄のビスタカーは違った。最初から「すばらしい展望」を売りにした“2階建て”だった。
1950~60年代、大阪‐名古屋間は近鉄と国鉄東海道線、関西線の3つどもえの激闘が繰り広げられた。ビスタカーはその熾烈な戦いの中で誕生した。
近鉄には決定的な弱点があった。
3社が合併した後遺症で、大阪線と名古屋線で軌間(レールとレールの間の幅)が違っていた。大阪‐名古屋間の直通運転とはいうものの、途中駅の伊勢中川駅(三重県)で車両を乗り移らなければならなかった。ずっと座ったままで大阪から名古屋まで行けないことが利用客には決定的な不満の種だった。
その弱点を突くように、国鉄はスピードアップを仕掛けてきた。所要時間が変わらなければ、やはり途中駅での乗り換えなんて面倒にしか思えない。乗客は国鉄にシフトし始めた。
いったん乗客が動き出すと、その動きは加速し、ほかにも影響が広がっていく。大阪-名古屋間だけではなく、近鉄の独壇場だった伊勢神宮への参拝客も、国鉄はその速さと使いやすさを売りものにして奪い返し始めていた。
「このままでは名阪間はもちろん、伊勢への乗客もごっそりと国鉄に奪われてしまう」
近鉄の危機感は大きかった。
「国鉄にはない近鉄ならではの魅力をつくれ」と2階建て電車の開発を指示したのは、近鉄の“中興の祖”といわれた社長の佐伯勇だった。佐伯は、戦後の復興から経済発展へと転じる中で、合併を重ねることで生じたひずみを是正し、高度経済成長にふさわしいサービスの拡充に辣腕を振るった。
佐伯の指示で始まったさまざまな取り組みの中でも、ビスタカーは大当たりだった。
「日本初の二階建て」と「日本一の眺望が楽しめる」のキャッチフレーズは、関西人をはじめ全国の観光客の心を大きく揺さぶったようだ。
2階建ては近鉄の“専売特許”になった。
1962(昭和37)年には団体専用電車「あおぞら」にオール2階建て車両がお目見えした。
「あおぞら」は主に修学旅行で使用されたため、関西の小中学生にはなじみ深く、思い出に残る電車だ。
1960~70年代の大阪の小学生の卒業文集を見ると、「あおぞらに乗って伊勢志摩に修学旅行に行った」という記述であふれている。
大阪-名古屋間は東海道新幹線の開通で、国鉄が圧倒的な優位に立った。スピード競争では国鉄に勝てなくなった近鉄は、「安くて快適、そしてぜいたくな鉄道の旅」へと舵を切る。ビスタカーはその中核となった。
昭和の駅の音は「カチ」「カチ」「カチ」だった。
「カチ」は、切符に切り込みを入れる改札バサミの音。
「大阪駅にはタンゴのリズムで改札バサミを空打ちする駅員がいる」とか、「天王寺駅の音は8分の6拍子だ」とか、どうでもいい噂が流れた。
時代は移り変わり、駅の音は「カチ」「カチ」から「ピッ」「ピッ」というICカードの電子音に変わってしまった。
大阪万博が開かれるちょうど3年前の1967(昭和42)年3月、日本で初めての自動改札機が、阪急電鉄の北千里駅(大阪府吹田市)に設置された。
改札のほか券売機まで、すべての機器が自動化された「世界初の全自動化駅」だった。万博の会場に近く、未来都市として建設が進む千里ニュータウンの中心部だったことから、“壮大な未来実験”として注目を集めた。
当時、鉄道駅の抱える大きな課題の一つが、改札口で人流が滞ることだった。特に朝のラッシュ時はひどかった。改札口を増やすのも限界があり、駅員の職人芸でスピードアップを図るしかなかった。
ここに目を付けたのが立石電機(現オムロン)だった。立石電機は近鉄と共同で自動改札機の開発を進め、導入へあと一歩というところまでこぎつけた。ところが国鉄線との乗り継ぎにどうしても対応できず断念したという経験があった。
次にチャレンジしたのが、開発が始まったばかりの千里ニュータウンだった。「これからの街には、これからの技術がふさわしい」と阪急電鉄と共同で、新設される北千里駅への設置を決めた。
ただ、クリアすべき問題点は残ったままだった。
切符と定期券に同時に対応できる自動改札機はまだできなかった。パンチカード方式の定期券用、バーコード方式の切符用、自動改札に対応できていない切符用の3種類の改札口をつくらざるをえなかった。
全自動化駅は華々しくスタートしたものの、トラブル続きだった。
切符用の自動改札機に間違って定期券を投入してしまうというようなトラブルの頻発はまだ想定内だった。
定期入れに入れたまま機械に投入してしまう人。 紙幣を投入口から入れてしまう人。 硬貨を投入口へジャラジャラと入れてしまう人。
今では考えられないような“初歩的なトラブル”が多かった。大きな荷物を抱えたり、赤ん坊を背負っている人を2人と読み違えて、自動改札機の扉が“ガシャン”と閉まってしまうアクシデントもあった。
駅員の手作業に頼っていたときよりも、処理能力は3~4倍高くなったが、トラブルへの対応のために、駅員が一日中改札口に張り付いていなければならなくなった。「全自動化のおかげで駅員を余分に配置しなければならなくなった」という皮肉な事態まで起こった。
駅に苦情が殺到してもおかしくない状況だったが、「お客様からのお叱りはほとんどなかった」という。
乗客のほとんどが、完成したばかりのニュータウンに入居した若い人たちだった。万国博覧会が開かれる街で近未来を体験しているという夢と希望にあふれていたからだといわれている。
北千里駅への設置を皮切りに、関西の私鉄では自動改札機の設置が急速に進んだ。さまざまな改良が加えられ、乗客が自動改札に慣れてきたこともあって、トラブルは急減していった。1975(昭和50)年末には、関西の五大私鉄と大阪市営地地下鉄への導入が完了した。
首都圏では、1971(昭和46)年に東急東横線の3駅で導入された。しかし、相互直通運転が多いことから、乗り継ぎのための切符の共通化などに手間取り、自動改札化は遅々として進まなかった。
首都圏で自動改札機が広がっていったのは1990年代からで、関西圏より10年以上も遅れてしまった。
(第5回に続く)
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( 264347 ) 2025/02/12 18:26:41 0 00 =+=+=+=+=
小さい頃 阪急は自動改札でJRはまだ駅員さんのハサミでしたが、あのハサミで切ってもらう切符に憧れました。就学前はタダなので切符を持つ事が出来なかったからです。 憧れてたのはきっとみな同じで子供のおもちゃでハサミと切符がセットになってるものもありましたね。 小学生になってからは切符を切ってもらうのが大好きでした。なので阪急を使うときは味気なかったですね。 大人になると自動改札はICOCAなどで乗り越し精算も不要だし本当に楽ですね~。
▲45 ▼2
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ちょうど自動改札に変わる時期に駅員をやっていた。 鋏の切り口によって、切れ味の良いのと悪いのがあった。 基本的に先が尖っているのは切れ味が良く、四角いのは切れ味が悪い。 冬は、かじかむ手をストーブで温めながらやっていた。 懐かしい思い出。 ヤフオクで懐かしさから、改札鋏を買ってみたが、当時のようには手が動かないものだなと思った。
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近鉄沿線のある田舎町で暮らしていた小学生のころ、週二回学習塾に通っていました。自宅最寄り駅は近鉄でも乗降客の少ない駅で、駅員さんとも顔馴染みになりました。駅名スタンプが捺された11枚綴りの紙の回数券に鋏を入れるとき「がんばってな」と励ましてくれたり、帰ってきて回数券を渡すときは「おかえり」と言ってくれました。もう半世紀近く前の懐かしい思い出です。
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確かに昭和時代は改札口に駅員が立っており、リズミカルに改札鋏を鳴らしていたのを覚えている。
因みに、現在では自動改札を通すと入場情報が磁気情報エリアに書き込まれて、時間や乗車駅が記録される。
当時はその様な高度な情報は無いため、改札鋏の形を変えてキセルの摘発を行ったりしていた。 改札鋏の形状は三角や四角など当時の国鉄では50種類ほどの形があり、通常はその一種類が各駅に割り当てられていた。 時々、例えば午前中だけ異なるデザインの鋏に変更して、従来の鋏のきっぷを出した人を呼び止めて事情を聞く… と言う事があったらしい。
▲51 ▼5
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改札口係員の鋏捌きは子供が憧れるものの1つだったよね。 ただカチカチ鳴らしてるだけじゃなく、軽く上に投げてクルッと一回転させた改札鋏をキャッチしたと同時にまたカチカチとかw 1人で改札担当している時なんかは片手で切符を切り、片手で乗り越し運賃を受け取ったり大変な作業だったね。
▲30 ▼2
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大阪阿部野橋駅に昔、定期券だけが通れる「自動改札」がありました。 あおぞら…近鉄20100系は先頭車は電動車で、2階建ての為に真ん中の車両にパンタグラフや制御機器や抵抗器を載せた車両で冷房はなかった。 その頃の伊勢への修学旅行の際は「あおぞら」と「一般車」の組み合わせ(往復どちらか)で一般車には2200系、2250系、2600系、2610系+2410系等(大阪線では)が使われていました。
▲11 ▼0
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「1975(昭和50)年末には、関西の五大私鉄と大阪市営地地下鉄への導入が完了した」 ↓ 確か回数券はまだスタンプ押しだったような。 私が大阪市営地下鉄の通学定期を持っていた頃、定期券そのものは改札機に通せたけど、回数券は通せなくて。 私の定期券では梅田に行けないので、梅田(正確には東梅田)に行くときは精算、帰りは回数券を使っていたと…どちらにしても係員のいる改札口を通っていたと記憶します。
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>首都圏で自動改札機が広がっていったのは1990年代からで、関西圏より10年以上も遅れてしまった
→これはホントのこと。 1980年代後半に大学生になった自分は単独旅行や就活で何度か東京に行ったけど、関西の駅がほとんど自動改札になってるのに、東京は渋谷駅あたりでも駅員がハサミを持って客がいようがいまいがカチカチいわせてたのを覚えてる。 しかしその後進歩はめざましく、JR東日本が導入したSuicaは交通系ICカードの先駆けとなり、今や日本各地の鉄道事業者が導入していて一枚のカードでどこでも利用できるようになっている。
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新宿駅の京王口は近年(と言っても2005年位)まで 有人改札が残ってましたね。 当時発売したての北海道東日本パスを京王の駅員さんが、 20秒くらいじっと「なんだこの切符?」って感じで 見ていたのは良い思い出です。
▲5 ▼0
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地元は阪急沿線で、大学まで奈良や和歌山行く時も近鉄か南海。 国鉄、JRは鋏と認識してましたが、就活で首都圏に行った時に私鉄や地下鉄も鋏で、ビックリしましたね。 あの通勤者の量を人力で捌いていましたから。
▲8 ▼1
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大阪に住んでいると自宅と学校や職場がJR沿線じゃないと本当にJRに乗る機会が無い。 大阪メトロ沿線で生まれ育ったので、松坂世代だけど生まれた時から自動改札が当たり前。 だから親に連れられて梅田に行った時に大阪駅の有人改札が珍しくていつも前で眺めていた。
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いまの時代でもきっぷ投入口にICカードを突っ込む人や硬貨を突っ込む人は少なからずいます。 ICカードはつっこまれたら取り出すのが大変で、場合によってはカードの情報を記憶するチップが壊れて再発行になる場合もありますね。
▲8 ▼2
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昔地下鉄博物館で見た お金を投入すると棒が回って向こうに行けるタイプの改札?
地下鉄博物館では「日本初の自動改札」と書いてあった気がするが、この頃は自動改札に含めて貰えてない気がします。
▲1 ▼0
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国鉄時代の京都駅にも自動改札がありました。 新幹線ではなく、地下改札口に。 裏が茶色い切符を使う事が細やかな優越感に浸る事が出来ました。 この改札機は現在、京都鉄道博物館に展示されています。(水色の改札機。昔の駅展示の近く)
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関西在住の私は、幼少のころから「私鉄と地下鉄は自動改札機で、国鉄は駅員がハサミ」が当たり前の環境で育っていたんで、 学生バイト(新幹線の車販)を始めた90年代に営団地下鉄やその他関東の私鉄に乗ろうとしたらほぼすべての改札がハサミだったことに、 少なからずカルチャーショックを受けました。 懐かしいですね。
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「南海電車はボロ電車、近鉄電車は2階建て~」 「○○電車乗ってはよ帰れ!」という電車野次が飛ぶ、近鉄バファローズのプロ野球観戦でしたからねw 今は看板特急も複数ある近鉄ですが、当時はとにかくビスタカーで、 野次で使われるくらい、近鉄民の誇りだったのでしょう。 「○○電鉄」と言わず「○○電車」と言う辺りも、ああ関西。
その「阪急電車乗ってはよ帰れ!」と言ってた後継チームと合併になって早20年。 ビスタカーには、いつまでも元気に走っていて欲しいものです。
▲16 ▼1
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関西圏は首都圏と違い相互乗り入れが少ないことが自動改札機のスムーズな導入の要因の一つでしょう。
国鉄→JRは平成の初期まで改札できっぷにスタンプを押してました。
▲16 ▼1
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改札バサミの音で駅員さんがベテランかそうでないかがわかる。
あの音のおかげで視覚障害者の方々が改札の位置を把握できたんだよね。 自動改札機になってから「ピ〜ンポ〜ン」っていう電子音で位置を把握できるようにしたんだよね。
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近鉄ビスタカーは、10100系の頃から知っていた。幼少のころ、あの2階建ては非常に斬新に思った。昭和50年代前半に今の30,000系が登場。何度もリニュアルされているが、未だに現役なのには驚く。
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昭和の頃は改札で切符にハサミをいれるのが当たり前の光景で、子ども向けに改札ハサミのおもちゃも売ってました。今ではそれも骨董品となってコレクターが喜ぶ大人のおもちゃとなっています。
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自分は阪神沿線で生まれ育ったけど阪神電車は物心ついた時には自動改札機だったから稀に国鉄に乗ると切符にハサミ入れる行為が尊い行為の様に見えた。 国鉄がJRになってハサミがスタンプに変わった時が妙に寂しかったなぁ
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平成初期頃に初めて東京に行った際地下鉄もまだ鋏で切っていたのを見て驚いたな。 関西の私鉄ではその頃既に自動改札が定着していた。 その後の進歩は目まぐるしかったが…
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関東で自動改札機が導入されたのは関西と同じ昭和40年代だけど、鉄道各社が本格的に普及させたのは平成に入ってからのような気がする。
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一部2階建ての初代ビスタカーが産まれた1958年の翌年、近鉄は名古屋線(近鉄名古屋〜伊勢中川)のレール幅改造を実施して名阪間の直通運転を実現、新幹線開業までは名阪間をほぼ独占していました。お忘れなく。
▲16 ▼1
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パチパチするの最後に見たのは高松駅でしたね。 今じゃあの琴電すらピッてやるやつなんですかね。 地元は阪神の淀川駅なんですが昔は分からなかったら駅員が発券してくれたんですが、今や駅には決まった時間以外駅員が居ないみたいです。なんか悲しい
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駅の改札がハサミだった頃は、改札の足元は切符切った破片の紙屑が雪のように積もっていた。 駅員による改札がハサミの時代から自動改札になるまでのスキマの期間にはスタンプの時代もあった。 ボール紙の硬券切符はデパートの大食堂の食券などもあった。 みんなもう覚えてない?
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おもちゃであったよね。パンチと切符が入ったなんとも昭和な。 当時を思い出すと、床屋さんのはさみの扱いに似ていると幼心に思いましたね。 ある意味、名人芸。
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>自動改札機で失われた“駅員の職人芸” 「大阪駅にはタンゴのリズムで改札バサミを空打ちする駅員がいる」《関西私鉄の秘話》
《関西私鉄の秘話》で進んでいるのに旧国鉄、JRのことをわざわざタイトルにするのは紛らわしい。記事中も近鉄の特急車両のことを触れる前に大阪~名古屋間が直通運転できない最大の問題であった線路幅が広軌に統一されたことを書かないのもわかりにくい。
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入れたことはないけど、ICカードを改札機の投入口に入れた人いるんだろうね、昔は「ICカードは入れないで」と書いてたことがあったし。 そもそも入れたらどうなっちゃうんだろう…ICカードが割れるとか?
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鶴橋の乗換用キップ窓口の数と改札に横一列ズラリと並んだ駅員。圧巻でしたなあ。懐かしい。客と客との間にもカチカチカチカチいわしてたなあ。
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当時、国電の改札口はひたすらカンカンカンカンと空打ちする音が響いていた。むしろを切符に入鋏する時が、一瞬の静寂だったように覚えている。
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上京して通勤時に乗り換える五反田駅の東急池上線の乗り換え改札でカラランカラランと空打ちしてたなぁ。 しばらくして自動改札になったけど、懐かしい。
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ダブルデッカー(二階建て車両)は京阪にも導入されていますが、 二階建ての階下席におじさんが一人で乗ると変な目で見られる。 駅に停車時に、ホームを歩くミニスカートの女の子のスカートの中が見える。 と・・・・、偶然狙いでの痴漢行為! だから私空いていてもダブルデッカーの階下席には座らない、京阪沿線在住のおじいちゃんのたわ言。
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>団体専用電車「あおぞら」にオール2階建て車両
3両編成だったけど中間車両は1階が機器室だったので客席は2階だけで一部では「2階だけ車両」とも言われてました。
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ハサミの時代はまだガキやったからあまり覚えてないなー 近鉄特急で難波から伊勢神宮に行ったら外人だらけ ほんの数年前まではガラガラやったのに
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改札ハサミは今もおもちゃタイプで売ってるんかな。 子供の頃、持ってたのを覚えてる。
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1995年くらいまでJR大阪駅はまだ切符きってたような気がする。
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昭和の駅員は瞬時にキセルや不正乗車を見抜く技も持ち合わせていた。
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人のふんどしで相撲をとる雑誌
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南海電車はボロ電車 近鉄電車は2階建て
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