( 265866 )  2025/02/16 03:05:12  
00

小学校の体育のイメージ 

 

 「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」。こんな一文で始まるエッセーが体育専門誌に掲載されたことが、SNSで話題となった。寄稿したのは、音楽クリエイターのヒャダインさん。授業の残酷さや教育者の無理解を厳しくとがめる文章が、なぜ体育教員向けの専門誌に載ったのか。出版社やヒャダインさん、そして体育教育者側に、それぞれの思いを取材した。(時事ドットコム取材班キャップ 太田宇律) 

 

◇「そっとしておいてください」 

 

 このエッセーは、「運動が苦手な子どもが輝く授業をつくろう!」と題された月刊専門誌「体育科教育」2019年3月号に掲載されたもの。ヒャダインさんは「なぜあなた達体育教師は僕達にクラスメイトの前で恥をかかせようとするのでしょう?」と問い掛け、この号のテーマについても「『運動が得意な子は輝いている』と思ってるってことですよね?上から目線の差別意識丸出しじゃないですか」と切り捨てている。 

 

 今から6年前に掲載されたエッセーだが、24年12月にあるユーザーがX(旧ツイッター)で紹介すると、「名文だ」「一言一句同意する」と共感が広がった。自分も体育でつらい思いをしたと訴える声のほか、「掲載した出版社もすごい」「体育教師側のアンサーを聞きたい」という意見もあった。 

 

 私(記者)も運動が苦手で、小学校では体育にD評価を付けられた苦い思い出がある。チーム分けで押し付け合われたり、バレーボールで何度も失敗してクラスメートに責められたりと、恥をかいた記憶は思春期を通じて何度もあった。エッセーがどんな経緯で掲載されたのか興味を持ち、出版した大修館書店(東京都文京区)に取材を申し込んだ。 

 

◇刺激的な原稿、そのまま掲載 

 

 「体育科教育」は1953年創刊。大修館書店の編集担当者、川口修平さんによると、小中高校の体育教員や指導主事、体育科教育の研究者らが主な読者層だ。 

 

 「エッセーを掲載した19年当時も体育教育の関係者からかなり反響があったのですが、今回は一般の方にも広く注目されました。ここまでの反応があるとは、正直びっくりしています」と川口さん。体育は「好きな教科」のアンケート調査で常に上位に挙がる人気科目だが、「我々が思っている以上に、嫌いな人も潜在的に多いのだと改めて感じた」と話す。 

 

 テレビ番組などで体育嫌いを公言していたヒャダインさんに寄稿を依頼したのは、「運動が苦手な子どもをテーマにするなら、まず当事者の方の声をきちんと聞くべきだと考えた」ためだった。「ぜひ率直な思いを書いてください」と依頼したところ、届いたのは「かなり刺激的な原稿」(川口さん)だったが、編集部では「率直で尊重すべき意見だ」と一致。原稿はそのまま巻頭に掲載された。 

 

◇ヒャダインさん「人格形成の障害だった」 

 

 ヒャダインさんは当時、どんな思いで寄稿したのか。取材を申し込むと、オンラインでのインタビューを快諾してくれた。 

 

 ―寄稿の依頼が来たときはどう感じましたか。 

 

 正直に言いますと「我々にはこういう意見も受け入れる寛容さがありますよ」という体育教員っぽさを感じて、ちょっとむっとしまして(笑)。読んだ教員が反論できないように、あえて攻撃力の高い言葉を選んだんです。却下されるだろうと思いましたが、そのまま載ったので「すごいな」と思いましたね。 

 

 ―少年時代、体育でどんな体験をしましたか。 

 

 週に3回、体育のたびに大勢の前で恥をかかせられるのは、人格形成において障害でした。鉄棒やマット運動もそうですし、特にサッカーのような団体競技では、足を引っ張る存在として無視されるのが本当に嫌だった。チーム分けでは誰も自分を欲しがらず、「僕は価値がない人間だからしょうがないんだ」とみじめに言い聞かせる。体育が自習にならないかと、いつも雨を心待ちにしていました。 

 

 ―そうした気持ちに、教員も無理解だった。 

 

 運動が好きで、当たり前にできる人が体育教員になるわけですから、できない人の気持ちは分からないんですよ。僕が1人だけ走り高跳びを飛べないと、「できるまでみんなで見守ろう」なんて言い出す。できない人をさらし者にして、みんなが感動するコンテンツにしようとするんです。 

 

 

音楽クリエイターのヒャダインさん(提供写真) 

 

 ―エッセーはSNSで広く共感されました。 

 

 これから人格が作られる感情が柔らかな時期に、笑いものにされたり自己否定したりしなければならず、鬱屈とした人格を醸成されてしまったと嘆いている方が大勢いました。「自分のせいで嫌な記憶を思い出させてしまったのでは」という罪悪感もありました。 

 

 ―体育教育に携わる方に伝えたいことは。 

 

 人間は、自分が得意なことができない人のことを責めがちだと思うんです。体育教育のプロフェッショナルになったのなら、自分と同じように運動が得意な子だけでなく、苦手な子にもきちんと配慮してほしい。そして、自分が授業でやっていることが(人前で恥をかかせる)「公開処刑」になっていないか、思い返してみてほしいです。 

 

 ―体育を何とかやり過ごしている世代にメッセージをお願いします。 

 

 「大人になったらそんなこと関係ないぞ、こんなに活躍している同類がいっぱいいるぞ」ということをぜひ伝えたいです。体育では毎回恥をかいていても、漫画をたくさん読んでいるとか、歌がうまいとか、あなたには人と違った価値がある。そういう「自分の好きなこと」を寄る辺にして、襲い掛かってくる人格否定と戦ってほしいですね。 

 

◇「体育嫌い」の声、教材に 

 

 運動が苦手な生徒にどう向き合うべきかは、昭和の時代から議論されてきた体育教育の重要課題だ。2017年改訂の学習指導要領では、運動を「する」だけでなく、「見る・支える・知る」ことも重視する考えが打ち出され、教育現場には多様な生徒に配慮した意識変化が求められている。 

 

 中学校で27年間体育を教えた経験がある和光大の制野俊弘教授は、ヒャダインさんのエッセーを体育教諭を目指す学生向けの講義で教材にしている。自分ならこうした声にどう応えるか考え、ヒャダインさんへの手紙を書いてもらうことで、学生の「体育観」が見えてくるという。 

 

 「学生たちは最初『努力すればできるようになる』とか『分からないときは友達に聞こう』といった、ありきたりな答えしか出せませんが、教育実習などを経て、少しずつ変わっていきます。体育とは何で、何のためにあるのか。まずそこを明確化しなければ、教科としての存続も危ういのではないかと危機感を感じています」(制野教授) 

 

 講義では、漫画「ちびまる子ちゃん」の1巻に載った、故さくらももこさんのエッセーも紹介する。さくらさん自身が体育で恥をかいた思い出を振り返り、「人間形成において学校教育の中で取り入れなければならないほどの重要な役割をどのへんに秘めているのか」と疑問視する内容だ。制野教授は「体育は本当に必要なのか。なくても子どもは育つのではないか。重い問い掛けだと思う」と話す。 

 

◇「危険物」専門的知識で扱って 

 

 かつてのヒャダインさんやさくらももこさんのような生徒も取りこぼさない体育とは、どんな授業なのだろう。ヒントとして制野教授が紹介してくれたのが「8割走」という学習だ。50m走のタイムをそれぞれ測った後、「ぴったりその1.2倍の記録で走れた人が勝ち」というルールにし、最適な歩幅や走法を考えてもらう。それから「9割走」「10.5割走」と伸ばしていくと、どう走ればベストタイムが伸びるかを実感できるという。 

 

 制野教授は「運動の科学的原理をきちんと教え、単純に足が速い子ではなく自分の体を最後までコントロールできた子の方が評価されるような授業にしていくことで、スポーツの本来の面白さを知ってもらえるようになるはず」と説明。「授業から競争をなくせばいいということではなく、今より上手になる方法があることを可視化して、生徒に伝えることが大切なのだと思います」と話す。 

 

 いじめや不登校のきっかけにもなり得る体育の授業は「危険物のようなもの」と例えた制野教授。「近代スポーツには『力の強い方、素早い方、獲得点数が多い方が優れている』という側面がある。その危うさを教員一人ひとりが自覚し、専門的知識のもとに慎重に取り扱う必要があると思います」と語った。 

 

 この記事は、時事通信社とYahoo!ニュースの共同連携企画です。 

 

 

 
 

IMAGE