( 269451 )  2025/02/24 15:35:12  
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デート中だった男女を暴行、その後2人をロープで絞殺した(写真はイメージです) 

 

 1988年の2月23日から25日にかけて、名古屋市内の公園で、交際中の若いカップルが6人組の男女に襲われ、執拗なリンチを受けた末に殺害される事件が発覚した。俗に言う「名古屋アベック殺人事件」である。被告は1人を除いて未成年。その凄惨な犯行が公判で明らかになるに連れ、彼ら彼女らへの憤りと、少年法の不備を訴える声が高まっていった。その翌年3月には東京・綾瀬で、4人の少年による「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発覚し、その声はより高まっていったのである。 

 

「週刊新潮」では「名古屋アベック殺人事件」一審判決直前、検察による冒頭陳述を基に残虐犯罪の一部始終を記している。また、「新潮45」(休刊)ではその後の加害者たちの人生も追っている。以下、それを抜粋し、改めて少年法の是非を振り返ってみよう。 

 

【前後編の後編】 

 

【前編】では、鉄パイプで被害者をめった打ちにした、6名の残虐非道な犯行について振り返った。 

 

 被害者は、愛知県東浦町の理容師見習、B子さん(20)と同じ理髪店で働く大府市朝日町のA男さん(19)。2人は親も認めた恋人同士だった。 

 

 2人を襲った6人のうち成人に達していたのは暴力団組員の中原一郎(仮名、以下同じ)(20)1人。主犯格の藤原和彦は19歳のとび職、同じくとび職の犬丸公一は17歳、18歳の佐竹安雄は無職、横寺恵美、筒見英子はともに17歳の無職少女だった。 

 

 6人が金品を強奪すべく、名古屋市南区の大高緑地公園第一駐車場で2人を襲ったのは2月23日。凄惨なリンチを加えた後、発覚を恐れ、2人を殺害することを決意した6名は、被害者を連れて愛知県弥富町のドライブインに入る。 

 

【後編】では、「週刊新潮」1989年7月6日号を一部編集の上再録し、被害者の最後の言葉と、それを無視した残虐極まりない殺害場面、そして「新潮45」が報じた加害者の「その後」を詳述する(以下、凄惨な事件についての記述があります)。 

 

 *** 

 

 

 23日夜を待って殺害を実行すると決めた犯人たちだが、A男さんとB子さんを同行するのが重荷になってきた。昼間は人目につきやすいとホテルで過す。中原は自宅に戻り、佐竹も刺青を入れる予定があったので、夜再会することを約束して別行動をとる。 

 

 午後5時、藤原ら4人は被害者を連れてホテルを出る。以後は喫茶店、コンビニエンスストアなどを転々とするが、翌24日午前1時40分頃、佐竹に電話をした藤原は、「もう待てん、俺らでやる」と伝える。筒見のアパートにあるスコップを取りに寄り、コンビニエンスストアでビニール製の洗濯用ロープを購入。愛知県長久手町の公園墓地に到着したのは、2月24日午前4時半頃であった。 

 

〈藤原、筒見は右ロープをライターで半分ずつに焼き切った。犬丸は藤原に言われてA男の手を引っ張って下車させ、その両手を前で合わせ、ロープで縛った。A男は「助けてください」と言った。筒見はA男の口にガムテープを貼り付けた。藤原はA男を車から2メートル程連行し、「正座しろ」と言ってA男を正座させ、「お前、今からどうなるか分かっているだろう」などと言った。A男は「助けてください」と言った。藤原はA男が哀願するにもかかわらず、ロープを2重に巻きつけA男の後で交差させ、一方の端を犬丸に渡した。ロープの両端をそれぞれ持ち、綱引きするようにして両方から力一杯引っ張って首を絞めた。2人で、タバコを吸いながらロープを引っ張った〉 

 

 一方、目隠しをされていたB子さんは異変に気がついて、「お兄さん(=A男さん)、どこへ行ってるんですか。やめて下さい」と哀願する。しかし少女2人は彼女の口にガムテープを何枚も貼りつけた。B子さんが絞殺されたのは25日の午前3時ごろ。場所は三重県大山田村の山中。中原も加わり、メンバーは佐竹を除いた5人となった。男たちは2人の死体を埋める穴を1時間がかりで掘る。 

 

〈横寺はB子に「最後にしてほしいことがあるか」と聞いたところ、B子は「お兄さんの顔が見たい。お兄さんと一緒に埋めて」と言った。中原、藤原、犬丸が車両に戻ると、B子は目隠しをされたままほほに涙を流していた。犬丸はB子に握り飯と缶ジュースを渡し、食べるように言ったが、「これを私と一緒に埋めて。殺されるんでしょ。お兄ちゃんと一緒に天国で食べますから。お兄ちゃんが死んじゃってるのに、私だけ生きていてもしようがない。死ぬ覚悟は出来ている」などと言った。B子は更に、「最後にお兄ちゃんの顔を見せてください」と言ったところ、藤原は「顔を見せてやるで安心しや」と申し向け、犬丸に「見せてやれ」と指示した。犬丸はB子の目隠しを外し、懐中電灯でA男の死体を照らした。B子は声を押し殺し涙を流しながらA男の死体を見ており、その両手を縛ってあったロープを解いた。そして両手を合わせて握っているA男の両手を離そうとしたが、硬直していて出来なかった〉 

 

〈藤原は「それじゃ殺ろうか」などと言った。B子は「こんなことしても、やがて警察に逮捕される」と言った。藤原ら男3人はB子を先程掘った穴の近くに連行した。B子は尻を地面につけ、両膝を立て、これを両手で抱えて座った。B子は「やるなら早くしてください。一気に殺してください」と言った。中原が照らす懐中電灯の光の中で、藤原は左側に立ち、犬丸は右側に立って、その首にロープを2回巻き付けた。藤原の「引っ張れ」と言う言葉を合図に、ロープの両端をそれぞれ力一杯引っ張った〉 

 

 中原はタバコを吸いながら、にやにやしてその様子を見ていたとされる。 

 

 

 2人の死体を埋めて彼らは名古屋に戻ったが、車の塗料などから警察は藤原を割り出し、2月27日に藤原ら5人、翌日中原も逮捕された。 

 

 初公判は1988年7月18日。被告側が事実関係のほとんどを認めたため、わずか5回の公判で結審している。1989年1月の論告で、検察側は藤原に死刑、犬丸と中原は無期懲役、残る3人には懲役5年以上10年以下を求刑した。 

 

 判決を前に、B子さんの父親は、 

 

「第1回公判には行きましたけど、娘がどんなことをされたか読み上げられると、自然に耳が聴かんようになって…。2回目は途中で退廷しました。犯人が捕まってからは、どうやったら6人一度に殺せるだろうか、と考え続けてました。でも、兄弟も親戚もいるので思いとどまりました。私の気持ちとしては、こんなむごたらしい殺し方をした奴らは、全員死刑にしてやりたいですよ」 

 

 と、心境を語った。 

 

 *** 

 

 1989年6月28日に下された一審判決では、藤原に死刑、犬丸に無期懲役、中原に懲役17年、佐竹に懲役13年、横寺と筒見には懲役5年から10年の不定期刑が言い渡された。少年に死刑判決が下されたのは、永山則夫以来10年ぶりのことであった。 

 

 しかし、続く高裁判決(1996年12月16日)では、藤原は無期懲役、中原が懲役13年に減刑された。藤原の減刑理由は、「控訴審の公判でも、人の生命の尊さ、犯行の重大性、一審の死刑判決の重みを再認識して、反省の度を深めていることなどの事情が認められる」とのものだった。上告は行われず、刑は確定した。 

 

 事件から15年後の2003年、「新潮45」10月号では、ジャーナリスト・中尾幸司氏が、加害者たちのその後をレポートしている。その時点で6名中、4名が出所し、うち少なくとも3人は結婚、子どもももうけていたという。 

 

 一方、遺族のA男さん、B子さんの両家は6名とその家族に対し、損害賠償請求調停を申し立てた。が、事件から15年経ったその時点で支払われていたのは、請求のうち、A男さんの両親に対して半分、B子さんの両親に対して3分の1程度の金額であった――と記事は伝えている。また、その時点でA男さんの父は孤独死し、B子さんの母も59歳で病死していた。 

 

 事件から28年後の2016年、「新潮45」9月号は、共同通信記者・佐藤大介氏によるレポートを掲載。そこには、無期懲役となった藤原との面会の様子が記されている。それによれば、藤原は岡山刑務所で服役し、日中の刑務作業では、金属加工工場で数値制御装置が付けられた「NC旋盤」の操作を担当していたという。 

 

 決してこの世に戻ることはない被害者と、「その後の人生」を生き続ける加害者。37年前の「名古屋アベック殺人事件」は今なお、少年法の抱える矛盾を我々に問いかけているように見える。 

 

【前編】では、鉄パイプで被害者をめった打ちにした、6名の残虐非道な犯行について詳述している。 

 

 関連記事「『名古屋アベック殺人』主犯少年のいま、無期懲役の身に置かれて」では、藤原和彦の獄中での様子が記されている。 

 

デイリー新潮編集部 

 

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