( 269541 )  2025/02/24 17:19:36  
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琵琶湖(画像:国土地理院) 

 

 筆者(碓井益男、地方専門ライター)は、これまで当媒体で「なぜここに橋を作らないのか」といった架橋に関する記事を執筆してきた。今回は日本最大の湖「琵琶湖」に焦点を当てる。 

 

 離島への架橋が進む現代でも、日本地図を眺めると「なぜここには橋がないのか」と疑問に思う場所は多い。琵琶湖もその一例だ。滋賀県の面積の大半を占める琵琶湖には、東西を結ぶ橋がわずか2本しかない。 

 

・大津市今堅田と守山市今浜を結ぶ「琵琶湖大橋」 

・大津市丸の内町と草津市新浜町を結ぶ「近江大橋」 

 

のみだ。琵琶湖の橋といえば瀬田の唐橋を思い浮かべる人も多いが、これは厳密には琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる橋である。東海道や北陸道など、古代から主要交通路が集中する琵琶湖周辺では、湖を横断する橋よりも、 

 

「湖上の水運」 

 

が交通の要として発達してきた。織田信長の安土城も、近年の調査で湖水を取り込んだ水城だったことが判明している。安土城は坂本、長浜、大溝といった城と連携し、琵琶湖の水運と東西交通の要衝として機能していた。 

 

 もし織田政権が続き、安土が大都市へと発展していたら、現代の琵琶湖北部にも橋が架けられていただろうか。歴史の「if」に思いを巡らせつつ、現代の交通インフラのあり方を考えたい。 

 

琵琶湖大橋(画像:写真AC) 

 

 琵琶湖の水深や技術的課題を考慮しなかったとしても、東西に橋を架けることは現実的ではなかった。その理由は、琵琶湖の水運が持つ独特の性質にある。近代以前、琵琶湖の水運は盛んだったが、それは単純に東西の港を結ぶものではなかった。 

 

『万葉集』に「八十の湊」と詠まれた琵琶湖の港の多くは、大津と密接に結びついていた。大津は京都へ物資を運ぶ中継拠点であり、各地の港から集められた物産がここに集約される仕組みだった。 

 

 琵琶湖には大小約460の河川が流れ込み、これらの水路を通じて運ばれた物資が大津で陸揚げされ、京都へと送られる流通ネットワークが確立されていた。つまり、琵琶湖の交通は 

 

「南北(各港から大津へ)」 

 

の流れが主体であり、湖を横断する東西交通の必要性は低かったのだ。 

 

 琵琶湖の東西を結ぶ交通の重要性が高まったのは、近代以降、とりわけ戦後になってからである。その背景にはいくつかの要因がある。明治期には汽船の登場で一時的に湖上交通が活況を呈したが、1889(明治22)年に東海道本線が全通すると、輸送の主役は鉄道へと移行した。その後の道路整備の進展により、湖上交通はさらに衰退していく。 

 

 問題は、新たな交通インフラの整備が一部地域に集中したことだった。これにより、滋賀県内の地域発展に大きな格差が生じる。特に水運の衰退によって湖西地域は著しく停滞し、県内の発展は極めて不均衡なものとなった。 

 

 

近江大橋(画像:写真AC) 

 

『滋賀年鑑』1962(昭和37)年版に掲載された1958年の県内地域の所得差から、当時の地域格差が鮮明に浮かび上がる。全県平均を100とした場合、各地域の数値は次のとおりだ。 

 

・湖南:118.7 

・湖東:86.9 

・湖北:101.1 

・湖西:76.5 

 

これらの数値からも明らかなように、湖西地域は大きく停滞していた。1964年に国立国会図書館調査及び立法考査局が作成した『地域開発の課題と方法(調査資料;63-7)』には、地域の実情が次のように記録されている。 

 

「この地域の就業人口の60%はいまなお農民である。(中略)第一種兼業37%、第二種兼業にいたっては30%しかない。この数字によっても、この地域が工業化からとりのこされていることがわかろう。従って湖西地域の生産所得構成は、第一次産業が50%であるのに対し、第二次産業は15%にとどまる」 

 

 高度経済成長期において、工業化による所得向上は国家的な優先課題だった。この背景の中、交通の障壁となっていた琵琶湖に橋を架け、アクセスを改善することで湖西地域の工業化を促進するという構想が浮上した。 

 

 これを受け、戦後、滋賀県内では架橋を求める運動が活発化した。事業主体を巡る議論はあったが、架橋地点については現在の琵琶湖大橋がある場所に一貫して計画が進められた。この地点が選ばれた理由は単純で、琵琶湖の東西を結ぶ最短ルートであり、水面幅が最も狭い場所だったからである。 

 

 とはいえ、「狭い」といっても橋の長さは1350mにも及び、1994(平成6)年に4車線化された新橋の最長部分は1400mに達した。現代の長大橋建設が進んでいる時代とはいえ、当時としては、北九州市の若戸大橋(627m、1962年完成)をはるかに上回る画期的な長大橋プロジェクトだったのである。 

 

琵琶湖(画像:写真AC) 

 

 1962(昭和37)年に着工した工事は、東京オリンピックに間に合うよう急ピッチで進められ、1964年9月に開通した。開通後の効果は目覚ましく、当初1日あたり2000台だった通行量は、右肩上がりに増加。最新の2022年の統計では年間総数1329万5275台(1日平均約3万6425台)に達している。 

 

 この驚異的な増加を受けて、1994(平成6)年には新たな橋を建設し、4車線化が実施された。潤沢な通行料収入により、当初2021年までとされていた料金徴収期限を待たずに無料化も可能な状況となった。しかし、滋賀県は橋の安全対策や維持管理を考慮し、2016年から料金を大幅に値下げした上で有料化を継続している。 

 

 通行料金の変化は次のとおりである。 

 

●開通時の料金 

・観光バス:700円 

・路線バス:500円 

・普通自動車:300円 

・小型自動車:200円 

・自転車:20円 

・歩行者:10円 

 

●現在の料金(現金) 

・普通車(普通車・中型):137円 

・大型I(大型車):182円 

・大型II(特大車):455円 

・軽自動車等:91円 

・原付(軽車両等):10円 

(現在、自転車・歩行者は無料) 

 

 この料金表を比較すると、興味深い事実が浮かび上がる。車種区分が変わったものの、1964年の開通当初よりも現在の方が実質的に安くなっている。開通から約60年が経過し、日本の物価が数倍に上昇したにもかかわらず、通行料金が下がるというのは極めて珍しい現象だ。 

 

 これは琵琶湖大橋がどれほど多くの人々に利用され、社会的・経済的に重要な役割を果たしてきたかを如実に物語っている。 

 

 

琵琶湖(画像:写真AC) 

 

 琵琶湖大橋の完成により、地域の交通網は大きく改善された。この橋を中心に周辺の道路網も整備され、湖西地域は国道一号線や名神高速道路と直結。京阪神・中京地域へのアクセスが格段に向上し、物流の効率化と観光客の増加を実現した。 

 

 観光開発も急速に進み、1967(昭和42)年には「びわ湖タワー」がオープン。その後、1992(平成4)年には巨大観覧車「イーゴス108」が設置され、京阪神から日帰りで楽しめる観光スポットとして確立された。 

 

 びわ湖タワーは2001年に閉園したが、観光開発とともに人の流れが活発になり、住宅地や商業施設の開発が進んだ。周辺地域は確実に発展を遂げたが、京阪神のベッドタウン化が進んだ堅田周辺とは異なり、高島市は消滅可能性自治体となり、琵琶湖大橋が目指していた均衡ある発展が実現したとは言い難い。 

 

 地域発展に格差は見られるものの、琵琶湖における新たな架橋計画は進んでいない。その理由は、現状の交通需要を十分に満たすことができているからだ。 

 

 現在、琵琶湖には琵琶湖大橋とその有料道路(2本目の橋)の2本の橋があるが、これら2本の橋で地域の交通需要はすでに十分に対応できている。周辺には大型商業施設やアウトレットモールが集積し、交通の要所として効率的に機能している。 

 

 さらに、大津市と草津市にはインターチェンジも設置され、高速道路網との接続も確保されている。このように、限られた架橋を核にした交通・商業ネットワークで、対岸間の交流は十分に確保されているため、「なぜ琵琶湖にはもっと橋がないのか」という疑問に対する答えは、技術面だけでなく、 

 

「現状で十分だから」 

 

という合理的な結論となる。 

 

琵琶湖(画像:写真AC) 

 

 琵琶湖大橋の建設と同時期、さらに野心的な交通インフラ構想が進められていた。それが 

 

「日本横断運河」 

 

計画である。この計画は、当時としては画期的なものであり、中京方面から揖斐川を経由し、運河を開削して琵琶湖に接続。さらに琵琶湖から敦賀湾まで運河を通し、3万t級の大型船が航行できるという壮大なビジョンが描かれていた。1964(昭和39)年1月、日本横断運河建設促進期成同盟会の広報誌『横断運河』第10号では、当時の滋賀県知事・谷口久次郎氏が 

 

「この時に今日話題を呼んでいる琵琶湖に通じる日本横断運河が計画されたことは誠に意義あるところであります」 

 

と記し、琵琶湖大橋と並ぶ一大プロジェクトとして熱意を示していた。 

 

 この運河計画は、日本の物流を根本から変える可能性を秘めており、実現間近とも思われた。しかし、計画の中心人物である自民党の重鎮・大野伴睦氏が1970年に急死すると、計画は求心力を失い始める。さらに1970年代に石油ショックが起こり、海運不況が訪れると、大規模な港湾や運河建設にかかる巨額の費用の経済的合理性に疑問が呈されるようになった。加えて、環境保全意識の高まりも影響し、この壮大な計画は徐々に勢いを失い、最終的には歴史の中に埋もれていった。 

 

 そして、21世紀に入って浮上した注目すべき架橋構想がある。それは琵琶湖に浮かぶ唯一の有人島・沖島(近江八幡市)と対岸を結ぶ橋の計画である。2012(平成24)年、離島振興法の改正を契機に沖島の将来像についての議論が活発化し、そのなかで島と対岸を橋で結ぶ案が検討された。この計画では、沖島と伊崎半島を結ぶ約1.4kmの橋が構想され、技術的には実現可能とされた。しかし、この興味深い架橋構想も、現時点では実現には至っていない。 

 

琵琶湖(画像:写真AC) 

 

 琵琶湖における架橋の歴史は、日本の地域開発と交通インフラ整備の変遷を象徴している。 

 

 水運から鉄道・道路へと主要な交通手段が変化するなかで、地域間格差の解消を目指した琵琶湖大橋は、その使命を確実に果たし続けている。 

 

 壮大な運河計画や新たな架橋構想など、実現しなかったプロジェクトもあるが、琵琶湖の交通インフラは常に地域の発展と深く結びついてきた。 

 

 今後も環境保全と経済発展のバランスを維持しつつ、この巨大な湖が人々の生活にどのように影響を与えるのか、引き続き注目すべきである。 

 

碓井益男(地方専門ライター) 

 

 

 
 

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