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最低な「ごんぎつね」の感想文? 小学生の回答に先生から“厳しい指摘”「国語嫌いになっちゃう指導の仕方だ」とSNS上で批判も…

集英社オンライン 3/2(日) 11:02 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/b0be99eb79278e652b2261704b038e98fbfcdd0f

 

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小学4年生の国語の教科書に掲載されている児童文学『ごんぎつね』について、SNSで教師の厳しいコメントが話題になった。

感想文に対して先生が厳しい指摘をしたことに対して、批判が起こっている。

一方、教師や現役小学校教諭は、感想文には正解があると主張しており、多様性を尊重する姿勢との間に意見の相違がある。

時代が変わっても国語の教育方針は変わらず、教師のコメントが過去と今では異なることが示唆されている。

(要約)

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先生からのコメントが辛辣すぎる? 

 

小学4年生の国語の教科書に掲載されている児童文学『ごんぎつね』(新美南吉)。多くの人が読んだことがあるだろうが、先日この物語に関する“感想”がSNSで大きな話題となった。 

 

「ごんぎつね」とは、イタズラが好きなキツネ・ごんと、村の青年・兵十に関する物語だ。 

 

ごんはある日、兵十が川で採ったウナギをイタズラ心で盗んでしまう。その後、村で兵十の母親の葬式を行なっているのを見たごんは、兵十が床にふしている母親のために、うなぎを採ろうとしていたに違いないと気づく。 

 

兵十に悪いことをしてしまったと反省したごんは、自分と同じくひとりぼっちになった兵十のために、栗やマツタケを山で拾っては、こっそりと兵十のもとへ運んでいく。 

 

そんなある日、ごんが家の中に侵入しているのを見た兵十は、うなぎを盗られた恨みを思い出し、ごんを火縄銃で撃つ。倒れたごんの近くに栗が落ちているのを見て、栗を運んでくれていたのはごんだったことに気づく。 

 

火縄銃を落とし、がっくりと気落ちする兵十。その筒口からは青いけむりが細く出ていた……という話だ。 

 

多くの人が知っているだろうこの物語について、〈小学校の頃の最低ごんぎつね感想文〉と、約25年前に書いた小学校時代の国語のノートをXに投稿したのは、いかそーめんさん。 

 

いかさんのノートには、最後のシーンのごんの気持ちについて「あやまりたかった。うなぎをとったこと」と書いている一方で、兵十の気持ちについては「ああ、うたなきゃもっとくりをもらえたのかなぁ」と書いている。 

 

この感想文に対して、先生からは赤いペンで「こういうふうに思うかなぁ。もう一度ごんぎつねを読んでください。先生はちょっとがっかりです」と指摘がされていた。 

 

するとこの投稿に対して、先生を批判する声が上がっている。感想文ならどう書こうと問題はなく、どんな答えでも正解になるべきだという意見だ。 

 

〈小学生の国語ぐらい誘導せずに色々な解釈があってもいいと思う〉 

 

〈感想文に正解など無いです、国語嫌いになっちゃう指導の仕方だなぁ〉 

 

〈失礼ながら、先生のほうが凝り固まった、つまらない発想だなと思いました〉 

 

〈まったく問題ない回答だと思いますが。先生の意見と違うからといって、誤答とは限りません〉 

 

 

そこで実際に関東在住の現役小学校教諭にこの投稿を見てもらったのだが、「残念ながら、この感想文はテストで回答したら“×”ですね」とバッサリ切り捨てられてしまった。 

 

「兵十がごんを撃ったことを後悔しているという指摘までは正しいのですが、その後悔の理由は、罪の償いのためにごんが栗を届けてくれていたことを知らずに撃ってしまたこと、ごんとは独りもの同士、話せば仲よくなれたかもしれなかったのに……という後悔です。 

 

素直に読めばその考えにいきつくと思いますが、もっと文章の“テクニック”的な面から話すと、最後の『筒口から青いけむりが細く出ていた』という一文。ここが悲しみを現した表現になっています。 

 

私が授業をしていたときも、この投稿した方と同じような感想を書いた生徒がいましたが、他の子の感想を聞いて考えを変えてくれていましたね」(30代・小学校教諭) 

 

先生の言うことはもちろんわかる。しかし“多様性を尊重しよう”という考えが強いこの時代。読書の感想や考察を、一つの正解に導く方針は、今回のSNSの反論のように時代錯誤とも指摘されかねない。保護者から「これも正解だろ!」とクレームをつけられないのだろうか。 

 

「物語文の読解ですと、作者がそこに言及している作品を国語の教材として扱うことが多く、『ごんぎつね』もそんな作品の一つで、明確な正解があると言えます。 

 

また、『ごんぎつね』のように小4くらいの国語で扱う物語は、読解の仕方を学ぶ上での分かりやすい教材が重視されるために、結末を読者にゆだねるオープンエンドなものより、きちんと作者が答えを提示している物語が採用されています。 

 

確かに読み方は人それぞれかもしれませんが、ある程度の定石を学ぶのが学校の授業です。そのため、子どもの間違った回答には否定はしないけど肯定もせず、正解に導くようにしています」(同・教諭) 

 

時代が変わったとはいえ、国語の教育の仕方は今も昔も大きくは変わっていないようだ。 

 

ただ一方で、先生の赤字コメントについては、「コンプラやハラスメントがうるさい時代なので、今の教師はこんな否定的なコメントは残さないと思います」とのことだ。 

 

投稿者のいかさんに聞くと、このノートは25年ほど前のものであった。ただ、先生とは確かな信頼関係があったうえでのやりとりだったとも明かす。 

 

「当時、私はやんちゃな小学生で、授業もいい加減だし宿題も忘れてばかりでした。これも元々は宿題をまとめて消化したやつなのですが、たぶん途中で飽きてふざけたのを見透かされたのかなあと思います。 

 

『ちゃんとやればできる子なんだから、真面目にやりなさい』的なニュアンスもあった気がします」(いかそーめんさん) 

 

いかさんは「あのときは先生、ごめんなさい」と語りながら、先生との思い出も話す。赤ペンでコメントをくれたのは、自分の母親よりも年上くらいの女性の先生。不真面目ないかさんのことを強く怒ることはせず、いつも穏やかに接していてくれていたという。 

 

また、そのころ、いかさんの母親が妊娠していたのだが、お腹が大きくなっていく様子を先生に話したところ、「○○くんもお兄さんになるんだねえ」と親身になって聞いてくれていたことが印象に残っているそうだ。 

 

SNS上では先生に対して批判の声が寄せられていたが、いかさんと先生との関係性を聞くと、イメージがガラッと変わる。また、いかさんは当時、国語が大好きだったとも語っている。 

 

今回の投稿だけを見て、一方的に先生を叩いていた人こそ、読解力が足りていないのかもしれない。 

 

取材・文/集英社オンライン編集部 

 

集英社オンライン編集部 

 

 

( 271530 )  2025/03/03 03:39:57  
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この記事では、小学校の国語の教科書に載る作品に対する感想文についての議論がなされています。

一部の意見では、作者の意図や物語の背景を読み取ることの重要性や、多様性を尊重しつつも、教科書の指導の中での適切な解釈の重要性について言及しています。

一方で、子供の感性や考え方を尊重すべきだとする意見もあります。

 

 

また、教師と生徒との関係やコミュニケーションのあり方、教育の在り方などについてもさまざまな意見が寄せられています。

感想文としての自由さや正解の有無、教育の目的や方法論などに関する議論が展開されています。

 

 

最終的には、教育の中での多様性と正答の両立、子供の感性と教師の導きのバランス、文章の理解力と個人の感想表現など、諸々の観点からの意見が述べられています。

 

 

(まとめ)

( 271532 )  2025/03/03 03:39:57  
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=+=+=+=+= 

 

確かに人間によって感情の振れ幅はありますが、この作品の中で描かれている範囲で考えたときに「栗が欲しかった」という答えを導くことはできないと思います。テキストから外れすぎた読みを許容はできませんね。トランプ、ホリエモン、ひろゆきなどはまさにこういう「歪んだ読み」を普通にしています。そしてそれを熱烈に支持する方も同類です。彼らは表面に現れるテキストさえ理解していません。テキストの背景(コンテキスト)さえ想像できません。こういう人間を産まないためにも文学の力が大事なのですが、今の学習指導要領では文学が排除されています。この国の未来はどうなるのか。非常に危惧しています。 

 

▲4870 ▼601 

 

=+=+=+=+= 

 

一般的な感性、常識的な理解というものが共通感覚、共通概念を生み出して、共感的理解や他者理解に結びつきます。 

先生の「がっかりです」という表現の仕方には確かにガッカリで、残念な先生だと現代的な教育の視点からは思うものの、子どもの感覚に対して、一般的な見方、考え方、感じ方を教えてるという思想そのものは納得できます。 

多様性の時代だからと、個性のみに着目し、文化に通じる国民性とも言える「共通性」「共通感覚」を児童期に正しく伝えていかないとコミュニケーションに困難を感じ、社会で生きにくさを感じながら生きなくてはならないことに繋がります。 

あくまでも基盤としての「共通性」を「知識」として教えた上での、それとは違う感覚、感性を認めて磨くことにより、輝く個性となるのではないでしょうか。 

 

▲26 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

国語の教科書に載せるような小説は、作者のテーゼが明確に反映されたものが多く、『ごんぎつね』のラストに出てくる銃口の煙のような抽象的な描写で登場人物の心理を表現している、要するに読み手を作者の狙いに誘導する仕掛けが盛り込まれているもの。私は『羅生門』が印象深い。 

 

▲11 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

小学生対象ではないですが採点する側です。「感想ならなんでも正解。誤答はない。」というのは、読むべきポイントを外すことはしてないのに、それでも解釈が分かれるような場合は当てはまります。 

読むべきポイントを外してつっぱしっただけのものなら、評価は当然下げます。0点にはしないだけで。 

25年前、しかも先生とのやりとりが積み重なっての「がっかり」明記は、まあさほど不思議じゃないなと思いました。 

 

▲2865 ▼161 

 

=+=+=+=+= 

 

現役国語教師です。中学校ではこんなものではないビックリ解答がたくさんありますよ。 

それをあーでもない、こーでもない、根拠がここだからこう読む方が適切だ、と学んでいきます。この解答を書いたのが、クラスで学んだ後だとしたら「全然聞いてないな」ということで、先生は「がっかりした」と書いたのでは?と思いました。アイメッセージで届けてくれて20年以上前の先生の割には良い方だと私は思いましたよ。 

 

▲1686 ▼92 

 

=+=+=+=+= 

 

感想は人それぞれ色々あっていいというのは分かるが、筆者の込めた意図や思いを読み取る学習であるという意味では先生の指導が正解だと思う。 

 

>最後の『筒口から青いけむりが細く出ていた』という一文。ここが悲しみを現した表現になっています。 

 

大人になった私はこれは兵十の頬に伝う涙を連想させるとは思ったけど、小学生にはなかなか難しいと思う。 

 

愛知県半田市の新見南吉記念館と、すぐそばの矢勝川の彼岸花は行ってみる価値はありますよ。 

 

▲936 ▼78 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃は素直に読んでいたが、今の私なら、鰻を取られたせいで母を亡くしたらゴンを一生恨むかもしれない。 

また、どんぐりがもっとほしいと思う人もいるかもしれない。 

だけど、兵中は違うし、この教材は、ゴンの謝罪の気持ちを理解し、撃ってしまったことを後悔している、という人の気持ちの動きを表現した文章の学びを促している。 

 

自分にはない感覚の持ち主がいる、ということは、子供の頃から知っておくべきライフスキルであり、国語の勉強で、それを学ぶことも多くある。 

 

▲1215 ▼125 

 

=+=+=+=+= 

 

物語を読んで人の心を理解し、人との共感性を養う授業だと思います。先生は生徒と素直な気持ちで向き合っていたのに、叩く人がいるのが不思議だ。多様性ブームで、いろいろな考え方を何でも認めろと言う風潮だが、小学生の多感な時期に人の気持ちを理解させる事は大切だと思う。先生の残念な気持ちを理解できる人になれればいいよね。先生は子供が傷つかないように表面的に指導すればいいと思う人がいるのかな。子供の頃に人の心の痛みを理解出来れば、大人になっても特性的に人の気持ちが分からない人でも、多くの人はこう考えるのだと覚える事は大切だよ。 

 

▲899 ▼72 

 

=+=+=+=+= 

 

一般論として、テキストの解釈は多様だ、という意見は正しいですが、学校の国語の教材はどんな感想でもいい、という訳ではないと思います。 

 

物語の「文脈」、悲しみの比喩を踏まえて登場人物の感情を想像するという、基礎的な「トレーニング」なんですから。 

 

「みんな違ってみんないい」「多様性の時代なのに」といって「トレーニング」で十分な効果が得られないのをよしとするのは、それこそ国語指導の「文脈」を無視した意見ではないでしょうか 

 

もちろん、子どもの発達にあわせた教師の適切な言葉遣い、という意味では、アドバイスの文章ににもう少し寄り添う工夫があってもよかったでしょうが。 

 

でも、それもこの投稿者と当時の先生の関係性の「文脈」がわからない以上、簡単に批判はできません。実際は投稿者からみて「言い方は少しきつい時もあるけど、いい先生だし、何を言おうとしてるかは分かるよ」という信頼関係があったかもしれませんし 

 

▲707 ▼42 

 

=+=+=+=+= 

 

当時の環境ではなく、現代人の感覚からしたら、ウナギ盗まれたのに栗だの何だの程度では埋め合わせは出来ないので打っても「だから何?」みたいな感想が出て来たりもするだろう。 

もちろん「当時の環境を推測する」「登場人物の心情を推測する」という学習としては不適切な回答だが、個人個人の感性や考え方で見れば、様々な回答があっても良い。 

 

ただしテストは別。テストは「読み取って推測せよ」なので、「回答者個人の思想は関係ない」ので。 

ただ、多様性や個人の個性をと叫ばれる現代だが、自分が他と違うことを隠せないような奴はやはり白い目で見られるものだよ。 

 

▲130 ▼27 

 

 

=+=+=+=+= 

 

感想を書くこと自体の問題はないが、物語の言いたいことと違うのであれば、それを指摘するのは先生の仕事。小学生の自分の解釈が定着していってしまうリスクの方が怖い。いろんな考え方があることは理解するが、将来的に自分本位で好き勝手に自由になるのとは違う。普遍的な考え方について、一定の方向性は示すべきかと。 

 

▲730 ▼41 

 

=+=+=+=+= 

 

多様性は本来、私の自由や文脈と他者ほ自由や文脈を互いに理解した上で折り合いをつけていくことまでが含まれるはずだ。 

そうでなければ、私の解釈を他者に押し付けるだけになる。 

 

兵十がごんを撃ったことの後悔と悲しみを理解した上で、自分はごんの気持ちより食べ物の方が良いと思うのは自由だ。しかし、兵十の気持ちを文脈から読み取れないのでは、他者との交流が出来ない。なぜなら、それは自分の視点で他者を解釈しているだけで、他者の気持ちを理解しようとはしていないから。 

 

多様性の時代は、均質的な時代より他者の理解により複雑さが増す、ある意味面倒臭い時代だ。加えて私の自由や文脈こそが認められるべきや今まで無視されてきた少数者こそもっとも配慮受けるべきなどの考えも加わり、よりややこしくなる。 

 

その時代の中でまずは小説(他者)の文脈を正しく読み解くという基本はより大切になると思う。 

 

▲449 ▼27 

 

=+=+=+=+= 

 

小学生の頃、音楽の授業で、校歌を一人ずつ歌わされた試験がありました。 

 

一人歌い終える毎に先生が感想を言ってくれるのだが、自分が歌い終わったときに、「うーん、気持ちは分かるんだけどね」の一言にとても傷つき、人前で歌えなくなりました。 

 

図画工作では、自分は得意分野としてクラスの係にもなり、授業の準備や先生のお手つだいも積極的にやっていました。 

 

あるとき通信簿の成績が落ちていたので、先生に尋ねると、「あなたは絵や工作が上手だからと天狗になっていたから、ちょっと鼻をへし折ってみました。」と言われて、それ以降、学校に対して不信感を持ち、中学、高校でも学校行事が嫌いになりました。 

 

学校の先生は、平気で人が傷つくあだ名を生徒につけたり、そうした行為をするので信じられません。 

 

▲397 ▼258 

 

=+=+=+=+= 

 

自分がごんぎつねを教わっていた頃はちょうど中学年でお調子に乗りやすく、ウケ狙いでバカなことを言ってたりしたため、こういう感想文を書く気持ちはわかる。ウケ狙いじゃなくても損得で考えたときにこういう考えが出ることも理解できる。しかしこれらはやはり間違いであると指導されるべきだ。それを曖昧に伝えたのでは伝わらない。子どもに曖昧な内容は伝わりにくいから。そういう意味でも「先生はがっかりした」というコメントは、感想を書いた子に直接的に響いて、何かしら考える時間を再度与える、素晴らしい教育的コメントだと思う。 

 

▲241 ▼34 

 

=+=+=+=+= 

 

新美南吉の名作がこれだけ知られているのがすごい。 

光村図書で育ったアラフィフですが、「手袋を買いに」もご存じの方は多いと思います。 

どちらの作品も動物と人間の異種間交流です。お互いに意識のすれ違いから敵対になるが、本質は皆優しいと思わせてくれる作品です。 

それだけに「撃たなきゃもっと利益が転がり込んだ」と思われるのは、作者にとっても残念に思われる内容です。 

 

▲367 ▼21 

 

=+=+=+=+= 

 

物語を読む場合、その作者の意図をどう読み取るかも大切です。何でもかんでも読んだ人の感想が正解とはならないと思います。作者の意図にも気づかせるのが授業であり教育でしょう。これは人としての生き方を学ぶことでもあると思います。ただ興味深かったは当事者両者の「真実」を見抜けずに何でもかんでも批判する人たちがいかに多いのかでした。 

 

▲194 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

子供の頃、国語の授業が嫌いだった。算数のように一つに決まらない曖昧さについていけない気がした。大人になりAIでテキストマイニングするようになり、読解力の大事さを知った。何に注目して、どう感じたか、バリエーションと妥当性についていつも考えさせられる。この先生みたいに、対話で再考させて深みを持たせる思考プロセスが大事なんだと思う。 

 

▲102 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

>先生の言うことはもちろんわかる。しかし“多様性を尊重しよう”という考えが強いこの時代。読書の感想や考察を、一つの正解に導く方針は、今回のSNSの反論のように時代錯誤とも指摘されかねない。保護者から「これも正解だろ!」とクレームをつけられないのだろうか。 

 

多様性は大切なことですが、多様性を逆手にとってこういう難癖をつけるような人間がいることで、多様性の大切さが形骸化していく。 

 

こういうのは多様性を尊重しようと主張している人々がいう意見ではなくて、多様性を否定的に考えている人間による考え方ですね。人種差別を否定する意見に対して、「人種差別をする人間を差別するのはいいのか」と真顔で詭弁を言う人間の類です。 

 

▲284 ▼25 

 

=+=+=+=+= 

 

この記事を全文読むと、特に問題が無い採点の仕方だと分かる。 

 

日本語の読解力に乏しいと、極論を述べるのではなかろうか。 

国語の採点は、文章から論理的に推測できうるかどうかで判断されるものである。 

また、小学校の教員はほぼ全教科を教えるので、全ての教科に完璧な指導を望むことは厳しい。 

 

また、多様性、ということは何でもあり、ということではない。より精確かつ最適な答えを探す、ということと両立する。 

 

冷静な議論を望むものである。 

 

▲30 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

50年以上も前に小学校の国語の時間に学習しました。今だに物語の全て文言が頭の中に残っているのは、小中高の国語の教科書で「ごんぎつね」のみです。 

いろいろな意見が飛び交っていますが、それだけ、色々と世代を超えて考えることのできる教材ということではないでしょうか? 

世の中は目まぐるしく変化していますが、今後も教科書に残していって欲しいと思います。 

 

▲54 ▼12 

 

 

=+=+=+=+= 

 

たまに物を書いたりします。作品は手を離れた時点で、読者のものだと思っています。意図が伝わらないのは作者の力不足。 

ですが、教科書に載るような作品は正解があるものです。ごんぎつねなんかは、相手の気持ちを思いやる心を物語から読み取ることで、現実でも相手の気持ちを理解してコミュニケーションを取りましょうと言うコンセプトです。この場合は正解に導いてあげるのが教育だと思います。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

小学校の国語は意味を読み取るだけでなく、人間社会にあるべき感性を身につける過程でもあると思う。ニュース文の中に多様性という言葉もあるが、何でもありという意味ではない。この答えはただ感想を書いただけの点しか与えられず、本来感じてほしい気持ちよりも欲望が上回ることを大人が正しいと言うことになってしまう。今はこれも正解と言う声の方が多いなら、このような世の中になったことを憂う。 

 

▲34 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

読解力というより人間性の問題に思うけれど。このレベルに成ると個性とはいえ社会性という点でちょっと致命的になり得る範囲になるので。 

共感性障害かあるいはその方向の発達が他の子より少しゆっくりなのか(単に面倒で横着しているだけかも知れないけれど)、一人遊びではなく他のお友達ともっと良く遊ぶ機会を増やそうとしか言えない。 

 

誰でも不都合の幾つかなんて抱えているものだから、如何にも成りそうに無かったら他の事で頑張ろうに成るのだけれど、この手の苦手は結構苦労が多くなるんだよね。可能なら小さいうちに克服して置いた方が将来が楽なので、多様性とか嘯いて看過しない方が良いと思うよ。 

 

▲48 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

大昔の話ですが、高校の古文の授業で正解とは違う解釈をあえて先生に答えた。 

すると意外なことに先生は驚きのまなざしで、君の答えはテストでは0点だが実は先生の解釈と同じです。 

その後、君とは詩を語らうことができるね。と言ったので、 

私は回とは違いますよ。と答えた。 

周りは誰も理解できない会話を楽しめた至高の瞬間でした。 

 

▲16 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

「ごんぎつね」は教科書の題材としてよく選ばれるくらいだから作者の意図ははっきりしているのだけど、作者があえて正確をぼかして読者に自由に解釈させる余地を残している作品も多いですからね。 

そういう作品は国語の問題としては不適切なので、最初から文章の読解力テストの題材としては選んではいけないし、正解はないという事ですね。 

昔、小学校の国語の授業の題材として使っていた「消えた2ページ」というのも正にそんな作品で、色々な解釈が出来そうな不思議な終わり方をした作品でしたね。 

 

▲4 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

感想は自由、多種多様考え方があっていい、というのはそうなのかもしれないけれど、他方でこれは小学校の国語の授業であり、「学ぶ」場。そして、否定的な書き方に多少の問題はあったとしても先生のおっしゃることは、自分の利益のことばかりを考えないで他人の思いをわかる人間になってね、ということ。集団生活や国語などでの学びを通して、利己的な考えから脱却して社会性を身に付けることが大切な時間。 

 

〈小学生の国語ぐらい誘導せずに色々な解釈があってもいいと思う〉 

 

〈感想文に正解など無いです、国語嫌いになっちゃう指導の仕方だなぁ〉 

 

〈失礼ながら、先生のほうが凝り固まった、つまらない発想だなと思いました〉 

 

〈まったく問題ない回答だと思いますが。先生の意見と違うからといって、誤答とは限りません〉 

 

これらの意見は一見良いように見えるけど、これらに従ったばかりだと利己的な人間が増えてしまう恐れもまたあります。 

 

▲21 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

センター試験(大学入学共通テスト)の国語の小説で得点できるように対策を立てて勉強してきた方であれば、「ごんぎつね」の著者が伝えようとしていることを正しく理解することができるだろう。 

 

物語の解釈(著者の考え)には正解がある。もし正解がないのであれば、試験の題材にすることなどできないからである。 

 

たしかに今回は感想文でのことであり、大目に見てもよい部分はあると思うが、小学生の読解力向上を考えると、先生の指摘は正しく、何ら批判されるべきことではない 

 

▲28 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

学校の教科書に載っているものである以上、 

「こういう感性を身に付けてほしい」 

という意図があって、採用されていることは確かだと思う。 

(教育実習に行ったことがあるが、 

 まぁ事細かに目標やらなんやら言葉にしなければならず大変だった) 

正解はなくても、その「意図」とかけ離れていたのでは、 

せっかく学習をした意味も薄れるのではと先生は考えたのだろう。 

よいところは、「もう一度読んで考えよ」と生徒に促したこと。 

生徒自分の力で別の解釈に導こうとしたことは、 

先生の愛情なんじゃないかなぁ。 

 

▲4 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

私は読書感想文では、原稿用紙3枚とか5枚を埋めるため、物語のあらすじばかり書き、時々「かわいそうと思った」とか「すごいと思った」とか書いていました。何時間もかかって 

 

テストで兵十の気持ちを問われたとすれば、撃った後にごんの気持ちを知ったことで生まれた無念さなど後悔の気持ちを書かなければならないのでしょうか。採点もなかなか難しそうですね 

この投稿者の方はごんの気持ちに関して、「あやまりたかった。うなぎをとったこと」と書き、小学生ながら高い読解力をお持ちだったように見えます 

なので、兵十の気持ちに関しては悪ふざけに見えます 

テストで、評論などであれば明確な答えがあるはずで、昔、大学受験の際予備校講師から、「作者の思いが必ずしもテストの答えと同じになるとは限らない。問題文に書かれたことを正しく解釈したことが答えだ」と言われ、ちょっと感動しました 

作者がテストを受けて不正解となったら面白いですね 

 

▲3 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

その生徒は大人が考えるようなセコい理由ではなく、本当にそう思ったんだろう。 

それを踏まえた上で、個人的には俺もこの解答には良い点を上げたくないな。 

記事中では多様性だ何だと理屈をこねているが、これは文章の読解力を試す問題であってフリー回答じゃない。 

生徒が見逃していたその伏線を、直接教えるか本人に考えさせるかは教師の腕の見せどころだが、少なくとも「正解」にしちゃいけないと思う。 

 

▲4 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

国語の授業って子供の頃はなんであるのかと思ってた。 

漢字やことわざ等を覚えることは必要だと子供ながらに理解できても、どう思ったかなんて正解はないとやはり思っていた。 

 

でもそうじゃない。 

大人になると国語力が全てにおいて1番大切と言っても良いくらい大切だと気付いた。 

文章の前後から相手がどう思っているかを読み解く力や、何を意味しているのか、真意は何かなど、コミュニケーションの最も重要なツールである母国語をしっかり読み解けないと、外国語もできないし全ての問題を読み解けない。 

 

以前高校生と話してて相手は日本語話しているのに、何度聞いても何言ってるかわからなかった。 

主語や述語などの基本的な日本語が崩壊しているから。 

今思えば発達があったのかも知れない。 

 

 

 

この場合も「あなたならどう思うか」なら良いけど、兵十がどう思ったかと言う点ではやはり間違いだと思う。 

 

▲5 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

「自分だったらこう思う」じゃなくて、兵中とはどういう境遇でどう感じているのかを物語の「描写から読み取る」のが読解だと思う。 

 

おっかあが死んで、「しおれた顔をしてる」んですから、元気がなく落ち込んでる。「おれと同じひとりぼっち」で孤独であることがわかる。 

栗を持ってきているのが誰だかわからないが、「神さまがあわれにおもわっしゃって」くれている、自分に心を向けてくれる神さまに「お礼をいう」気持ちになっている。 

落ち込んで孤独に生きる村人、その村では葬式が日常に行われ、みんなぎりぎりで生きているであろう物語のトーンが読み取れる。 

少なくともあつ森やドラクエの村人のように陽気で生きてはいない世界なわけで。 

そうすると孤独な生活の支えになっていた、お礼を言っていた対象が実はごんであった衝撃と、撃ってしまった後悔が読み取れると思う。 

→とは言え、私は「仲良くなれたのに」は違和感ありますが。 

 

▲73 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

記事にも書いてあるが、国語には論理的、常識的に読んでいっての正解はあります。 

時折、国語に答えは無いというような論調を見かけることもあるが、言い換えてるのはどれか、指示語が示しているものは何か、比較相手は何か、比喩表現が表しているものは何か、 

等を答えるのが国語の問題です。 

理系ならば国語はそんなに重要で無いと考えている方もいるかもしれませんが、論文や報告書を書くときには、主語と述語は正確に対応しているか、曖昧で無い表現か、指示語や接続詞は適切か等のように国語力が求められます。読む時も同様です。 

今になって思えば国語の問題はものすごく理屈に基づいていて論理的なものであったと思います。 

 

▲9 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

学校授業での物語文は、その物語の主題や登場人物の気持ちを想像しながら話し合ったりする中で読解の仕方を学ぶ。理解が足りなかったり間違えている場合は文脈から正しい方向性を導き出す。ごんぎつねの初発の感想ならどんな感想があっても良いが、何時間も授業で話し合った後でのこの感想なら先生は残念と思うのは分かる。読みが何にも深まってないわけだから。 

 

▲5 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

先生は、この返答を間違っているとは言っていないようですね。今回の先生の指摘がなければ、この生徒は、自分の考え方が一般的ではないと知ることが出来なかったかも知れないです。一般論を知って、自分の考えと比較してみる事も大切でしょう。物語の趣旨をこの生徒が理解できたか確かめるためにも、この先生の今回の指摘は重要だったと思います。 

 

▲13 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

子供らしい回答ですが、作品の筋を読み誤っていると思うので、テスト的には✕だと思います。国語力の大事な所は、読解を通して考えを深めていく事だと思う。私も子供の頃、このお話悲しすぎて嫌いでした。理由は単純に、それまでハッピーエンドな童話にしか触れてこなかった事、世の中の矛盾や悲しみを、ごんぎつねを通して子供なりに初めて味あわされたからだと思います。ごんと兵十は、心が通い合えば、きっと良い友達になれたのに。お勉強で、なんでこんな悲しいお話読まなきゃならないの?確か、そんな思いでした。でも世の中って、実際、理不尽や誤解は多い。それに小さいうちから少し触れる事で、感受性の免疫に、ごんが役立ってくれたのかも?と気付いたのはもう少し大きくなってから。人には色んな考え方がある。まだ小さい子達には、思いやりというのも、親御さんやお友達との経験を通して、ゆっくり考えていけばいいと思います。 

 

▲3 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

幾通りもの解釈が可能、それが文学の魅力なのだと思います。 

たった一つの解釈だけが正解で、他は全部間違っている。 

そんな発想は、文学に限らずあり得ません。 

ただ「いくらなんでも、それって酷くない?」という極端に走った意見には、やはりそれを指摘することも必要ですよね。 

例えば、先日も陥没した道路に転落したトラック事故を、揶揄して笑った動画配信者がいらっしゃいました。 

この場合も「どんな意見も自由だ」と許容しますか? 

この感想文に戻りますと、私から見ても「こんな感想を抱く感性は、ちょっと問題がある」と思います。  

「もう一度読み直して下さい」という教師の指導は真っ当なものであって、批判されるものとは思えません。 

 

▲35 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

伝え方、受け取り方の問題ではないかと思います。 

考えさせ、本人に気が付かせることが大事なのだから、子供の解答に短絡的に否定コメントをするより 

栗をもらえなくなったことを後悔したのかな。 

もう一度兵十になったつもりで初めから読んで考えてみよう。 

とした方がよいかと。 

その子自身が考えついたことは事実なのだから、そもそもそれを間違っているとバツを与えるという国語の読解テスト自体に疑問符がつきますけども。なぜなら考え方に正解も不正解もあるのかと。 

その子の思いは事実なのだから、今回の問題としてはがっかりするという伝え方や表現では人格否定ということになってしまい、国語嫌いの原因となる可能性もあるので。 

今までの国語教育が正しいとするならば、LINEで短文読解でも良いとされる文化なので。 

それはそれでどうなのと。 

 

▲0 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

小学生の時に先生から受けた仕打ちは大人になっても覚えていて、結構自分の行動に影響しているものだ 

カチンと来て納得出来なかった事は、特に覚えている 

色々あるけど、この記事に近いエピソードでは、クラス皆で劇や合唱を練習して発表する学習発表会というのは今でもあると思うが、それが終わった後個々でどう思い感じたかの感想文を提出した際、おれは正直な自分の気持ちを嘘偽りなく認めて提出したら、担任の先生に名指しはされなかったが「クラスの気持ちは残念ながら1つにはなりませんでした、ただ1人感動出来なかった人がいました」とクラス全員の前で言われた事がある 

これで学んだ事は、本心は誰にでも明らかにしてはいけないという事 

今でも、そう言うんなら感想文なんて書かせるなや!と思ってるけど、 

経緯はともかく「本音」と「建前」の使い分けは大事で、それが小学生の時点で分かったことは役には立っている 

 

▲15 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

国語の問題では、指示語や接続詞をきちんと丁寧に追って行くことが重要だし、そうしないと正解がバラバラになってしまうから解答が成り立たなくなってしまう。大学受験でも指示語や接続詞を丁寧に追っていき、解答に必要な複数の要素を満たす記述が正解へとなるように作成されている。そして、本件の感想文って国語の問題というよりも、“どうぞご自由に読んで思ったことを書いてください”ってことだから正解も不正解も無いと思う。「くりをもっともらえたかな」確かにその通りといえばその通り。ただ、そこに教師の思惑・義務教育の定石とやらが入ってくるならば、自由な感想文としては成り立たなくなってくるよね。定石に基づいた感想文になっちゃう。 

 

▲2 ▼10 

 

 

=+=+=+=+= 

 

私は小さい頃から「ごんぎつね」を読んでいたし、アニメも見たことがある。 

昨年は作者の新美南吉の故郷である愛知県半田市にも訪れた。 

しかし、私は小さい頃から文を書くのが苦手で、読書感想文もあらすじの説明ばかりで、感情を移入したり、登場人物の立場に立って考えたりするのができていなかった。 

だから、当時の私の感想文も、今回の先生のようなコメントが多かったな、と思った。 

 

さて、今回の「ごんぎつね」の読書感想文であるが、兵十が狐のごんを、親の仇(かたき)だと思い込んで火縄銃で撃ってしまったが、実はごんが、兵十の親を亡くしてしまったのは自分のせいだと思い込んで、その「罪滅ぼし」に、兵十の家に栗や松茸を置いていったのに、そのことを知らないで撃ってしまったことを後悔しても、どうにもならないことを、先生は伝えてほしかったのではないか、と言いたかったのだろう。 

だから、先生を責めるのは間違っている、と思う。 

 

▲14 ▼16 

 

=+=+=+=+= 

 

面白いですね。まずは「ごんぎつね」に関する本人の素直?な感想に先生からガッカリと言われた事への不満とSNSでの批判。しかし、その後に先生と本人との関係を改めて知る事でまた揺さぶり戻される人々の心の動きがとても面白いです。「ごんぎつね」と「先生と自分」という二つの話と、周りのSNSの反応を全てひっくるめて一つの話となってますね。「心の動き」というのを学び考える教材とするなら、この記事自体など良いのでは? 

さて、ごんぎつねですけど・・。国語って点数もあるのでしょうが、それと同時に「通常ならどう思うか?」を問いかけてるんじゃないですかね?償いをしてくれていた狐を撃ってしまった猟師の後悔という「心の動き」を察する事が出来るかどうかが重要であり、この国語という点で奇抜な発想は即ち・・時にサ〇コパ〇的な思考だと判明してしまう事もあると言う事。 

奇抜な発想、個性は結構ですが、国語に関しては違うのでは? 

 

▲40 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

小学生相手にどこまで文章を深く読ませるかですね。 

ご指摘の通り、この文章のパーツから作者が込めた意味を表現している部分を拾い出して、ここはこういうことを作者は言いたかったというのは、解答として生徒に示してあげるべきでしょう。考え方の違いとか多様性ではなく、文章の表現には意味があって、そこを読み飛ばすと間違った理解をして、損をするということを指導すべきと思います。 

さて、そのうえで、敢てそこを読み飛ばすか、曲解して自分が言いたい方向へ捻じ曲げてももっていく(一種の詭弁)のはさらに高等なテクニックで、トランプが得意とするところ。今や国際的な交渉では必要なテクニックでそこまで教えてくれる先生はいるのかな? 

 

▲9 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

テキストの読みが自由であるという話と、学校の国語の授業における読解とは別の話でしょう。授業を離れた場では自由に読めばよいですが、授業で求められている読解のあり方すら理解できないのは最低限の読解力もないだけです。 

「一方的に先生を叩いていた人こそ、読解力が足りていない」というのはそのとおりでしょう。 

 

▲85 ▼7 

 

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昭和末期採用の小学校教員です。 

担任を離れて国語の物語文の授業を客観的に眺めることができるようになった頃からは、「指導者が誘導する感想ってどうなんだろう」と疑問に思い始めました。物語を読んだ後の感想は人それぞれでよいのではないか?学級全員の感想を同じ方向に「統一」する必要はあるのだろうか?感動する場面も各自異なってはなぜいけないのか?などです。 

当時同じ職場にいた初任者指導の先生(大先輩)にこの疑問について話したところ、その先生は 

「教科書に作品が採択されることの多い作家さんが『学校の先生方は私の作品について、山場とか感動する場面とか指導しているようですが、私はそんな小難しいことを考えて書いたことはありません。読み手それぞれがどのように感じるかは自由なんです。』と言っていたわよ。」 

とおっしゃいました。 

まさにその通りだと思いました。 

でも、テストだと×なんでしょうね。 

 

▲18 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

これは自分がどう思ったかではなく文章の意味や何を表現しているかを読み取るための問題なんですよね。感想ならこの回答でもいいんでしょうけど… 

大人でも単語なら分かるけど文章が理解できないという人、本当に多いです。 

前後の流れを全て無視して、目に付いた単語だけで激しく逆上する人を見たことがあるのでは。 

文章を読み取る能力を養うのは「国語」として重要だと痛感しています。 

それとがっかりは確かに強い言葉ですが、その後のご本人の補足によると先生との普段の関係から「あなたは本当はできるのだから、ふざけていないで真面目にやりなさい」という叱咤激励で、ご本人はそれをきちんと理解していたようです。 

それができたのは先生の国語の授業が身についていたおかげかと思います。 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

感想文を個人の感想ととらえれば何を書いたって満点だということになります。 

作者は登場人物がどう考えてなぜそのような行動をしたと想定したのかヒントを文章の中にひそませています。 

それを読み取る訓練をせよ、というのが教科として国語の一分野としての感想文で、そう思ったということを自ら構築して自由に綴るのは作文です。 

 

▲7 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

この記述は許容範囲を超えているので認められないという主旨のコメントは理解はできます。ただ、がっかりですという一言は余計です。肝心の自分の授業はどうだったのでしょうか。教育のプロならば、そのようや感想しかもたせることができなかった自分の授業力にも少しは思いを馳せてほしいものです。 

 

▲5 ▼10 

 

=+=+=+=+= 

 

多様性も尊重されるべきですが、言葉そして文章は、ある程度の共通認識が形成されないと言葉として通じなくなります。 

同じ文章を読んだとき、同じような認識を持つ。 

少なくとも、小中生の間の国語の授業は、全部が全部とはいいませんが、そういう面もあるべきでしょう。 

 

▲4 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

小中学校の読書感想文や弁論などありましたが、この種の課題は子どもとはいえ本人の主観なので誤字脱字、文法の誤りを除いては内容についての指導は非常に困難な学習かと思われます。教員にとっても負担が大きいはずです… 

ゆえに、ディスカッション形式にして作者の考えや想いを読み取ったり、ストーリー上の課題解決を話しあったりロープレする方が有意義に考えます。 

ちなみにですが、当時これらの宿題が出たときは面倒だったので巻末の解説やあらすじ書いて原稿用紙の枚数ノルマこなしました。 

多分そうしてる子は今も相当いると思います… 

 

▲14 ▼18 

 

 

=+=+=+=+= 

 

これ、なかなか深いですね。 

子どもの感想に完全否定することは良いとは言えないが、この物語を読んで、正解許容の感想に辿りつけないとしたら、少し共感性に欠けると言えるのでは。本当に共感したのかは別として理解もできないのは少し問題。それを完全否定せずに、正しい方向へ導き学ばせることは大切だと思います。 

人の感情を読むのが苦手な発達障害児へ行うSSTは、これに近いと思います。 

 

▲7 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

小学校は情操教育の場でもある。 

「君の意見はそれか」「そういう考え方もあるのか」と互いの受取り方や感じ方を交換するのでなく作者が伝えたかったことを言われなくとも理解出来る能力を養う場だと思う。 

この生徒の感想は損得だけの感情で情緒の欠片もない。 

先生よりも親ががっかりし、この感想文をその後の教育を見直すきっかけとすべきだろう。 

 

▲7 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

この答案に「がっかり」と書く先生ががっかりな先生であることは確か。そんな感情的な問題じゃない。読解の問題だから。 

栗がもっと欲しかったとするのは確かに無理だから正解にはならないけど。 

国語教育には客観的な読みは必要だけど、文学作品において根拠に基づく客観的な読みの指導をせずに先生の感想に基づく押し付けを正解としたことがたぶん論理的な理系タイプの子を中心に国語嫌いを生み出したと思う。 

客観的な読みと個人の主観を分ける教育をすべき。 

 

▲1 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

正確な記憶はないが、白洲正子の家で長年働いていたお手伝いさんが死んだ時白洲正子が最初に思ったのは「このお手伝いさんがいつも作って(届けて?)くれたおいしい食べ物がもう食べられなくなる」ということだったが、そう思ったことに罪悪感を抱いたようなことを自分で書いている。他人を自分にとっての利用価値で判断するということは割とありそう。老親への愛情を持っているがその年金に頼っている子の、親が死んだ場合の感想はどうか?試しにこのような文学作品と全く同じ状況に100人の被験者を置いてどう思うかを尋ねる心理学実験をして、1人でも記事の回答者と同じ答えをしたら、その答えが間違いと言えるだろうか?国語の問題の答えの正しさをこういう方式で調査したらいいんじゃないか?授業で生徒が教師の意図を「忖度」して正解するのが悪いように言われるが、「正解」は作者への「忖度」の産物ではないのだろうか? 

 

▲5 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

この先生の指摘がどうかは、記事だけでは分かりませんが、私が子供の頃の先生は、息子達の先生より親身に寄り添ってくれたように思います。ちなみに私がアメリカの大学で学んでいた時の政治学のテストで、ガンジーと毛沢東のどちらがいいかという問題がありましたが、理由付けがきちんとなっていれば、どちらでも単位取得の点数はもらえました。 

 

▲6 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

確かにどう思うかは人それぞれだけど、この作品において、作者や人として何を言いたいのかは正しくフォローする必要はあると思う。漢字の書き取りとか、単純に物語を読むだけでなく、そういう面も教育だと感じる。そういう意味では、無難に流すことなく、あえて、指摘する先生の姿勢は間違ってないと思う。 

 

▲4 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

多様性の重視というのは、作者の意図がわかりやすい話をちゃんと読めたうえでの話でしょうね。 

同じごんぎつねで少し前にネット上の議論がありました。庭先で大鍋の調理をしている様子を見てごんが葬式のあることを知るシーンで、「鍋で調理されていたのは何か」という設問(これが既に変と言えば変ですが)に対して、一部の子どもが「しんだおっかあを煮ていた」と答えた!という話。 

より問題なのは、その回答を「テキストは多様な解釈の可能性に溢れている」だのと称賛する意見がちょくちょくあったこと。びっくりしました。 

ごんがそれで葬式だとわかるのですから、鍋の中身はふるまいの料理に決まっています。これは知識の範疇ですが、これを知識として教えないまま「多様な解釈」なんてもて囃すのは笑止千万の空論でしかありません。わたしはこれ以降、多様性論者に対しては眉に唾して臨むようになりました・・・。 

 

▲4 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

栗を自分に持って来ていたごんぎつねの気持ちに涙する場面で、この「うたなきゃもっと栗もらえたかな」という実利的感想、笑ってしまいました。正直です。 

大人でも、そういう思考をする人は沢山います。 

ただ、やはり日本人の情緒性として、「もののあはれ」というのは、心の隅に欲しい。 

このなんとも言えないデリケートな心の動きも理解し、少し自分のものに出来ると人生を生きていく途上で、見えてくるものが増えてきます。 

国語の読解で、「もののあはれ」はキーワードです。心を耕す訓練になります。 

無くても生きては行けますが… 

先生にがっかりなんて言われるとツライですが、かと言って、ごんぎつねの心情理解、共感する能力というのも、なかなか難しいところです。 

小学生の読解、道徳の授業…とんでもない事を言い出して、呆気に取られるような同級生もいました。だからこそ、読解や道徳は必要かもしれません。 

 

▲16 ▼13 

 

=+=+=+=+= 

 

感想としてそう思ったのなら仕方ないし、回答として幼いなと思う。 

でも学校の教師として指導する側からしたら、正解不正解で言ったら不正解でしょう。 

なぜかと言うと、ごんぎつねはすれ違ってしまった思いと行動による悲劇を理解するための教材だと思うからです。 

 

読み手としてそこの切なさを感じないといけない、同調できなくても理解はできないとダメなんだと思います。 

 

病床のお母さんにあげようとしていたうなぎなのに盗ってしまってごめんなさいというごんの気持ち、お葬式を見て亡くなったのを知ったごんの受けるショック、申し訳なくて栗を届け続けたごんの行動、それを知らずにごんを殺してしまった兵十、知らなかったごめんよ…という兵十の慟哭。 

取り返しのつかない行動が積み重なる悲劇を読み手として感じないといけない。 

「殺さなかったらもっとくりをもらえたかなぁ」は、作品のキモを理解できていないととらえられてしまうかと。 

 

▲10 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

この結末で「撃たなければ栗をもっと貰えたのになぁ…」って感想を持ったならば、自分の利益しか考えてない発想でちょっと末恐ろしく思えた。 

変に賢い子は、物語の深いところにわざと目を背けて斜めな回答をする場合もあるから、なんとも言えないけど。 

真面目にそういう感想を持ったなら、このまま人の気持ちに寄り添えない子に育ってしまうのかと心配になる。 

国語が嫌いになる前に、自分は何故先生をがっかりさせてしまったのか、考えられる様になれば良いかなと思う。 

 

▲76 ▼8 

 

 

=+=+=+=+= 

 

これは私の素直な感想です。 

敵討ちしてやったと思ったキツネが実は後悔の念から届け物をしてくれていたと知って「ごんのことを打たなければもっと栗が貰えたかも」と思う人とは距離を置きたいです。 

自分の子どもがこんな感想をこぼしたら、動物殺しているにも関わらず強欲な様子に育て方間違ったかなとさえ思います。 

これはあくまで私の感想です。 

 

▲6 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

確かに、なんでも好きな意見を書いて(それが本音とは限らないが)、 

全てほめて終わり、では教育とは言えないし、 

国語の「そもそもの趣旨」に反する。 

 

この場合の「そもそもの趣旨」とは、 

「文章を読み取る力」や「ひとの気持ちを察する力」を養い、 

育てることである。 

 

もちろんいわゆる「型にはめる」ことは、 

全くいいと思わないが、 

単に「ちょっと変わった発想」を持ち上げるだけでは、育たない。 

やはりスタンダードな考え方を理解する力をまずは基礎に持つことで、 

ぶっ飛んだ発想も生まれると思う。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

記事をよく読んだうえで違和感を持ったのは、25年前の子どもでも当時の先生でもなく、この件で意見を求められた関東在住30代の先生に対してでした。「他の子の感想を聞いて考えを変えてくれていましたね」の「変えてくれた」の部分。本当にこう発言したのならその考えは危険。くれる、ということは変えてほしかった=先生の価値観の押しつけです。「他の子と考えを交流し合う中で変わっていた」ならまだわかる。そして現代の時代要領ではそういった児童同士の伝え合いや他者参照により学びを深めることが求められています。多様性どうこう抜きに、それこそ筆者や教科書会社の意図する考えに近づけたいのなら、そう感じる発問や展開をするべき。むしろ押しつけるのではなく、そういう意見があるよと示して、それに対してどう思うか議論させるのもありかな。 

 

▲8 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

読書は自由に感想をもてばよい。 

学校の国語は読解力の向上を目指している。 

読解力とは記事にあるように 文中の青い煙という表現をどう読み解くのかということ。 

その違いが分からないから、国語は答えが曖昧で分かりにくいと子どもたちは考える。 

親世代もそう教わらずに大人になるから、なぜこの感想が肯定されたり、否定されたりするか分からない。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

豊かな感性を育てる、と言えば聞こえはいいかもしれませんが…。 

少なくとも小学校の国語って多少は「道徳」が被っているような気もします。 

なので罪滅ぼしをしている相手を害してしまった人間の感覚を「もっと栗がもらえたのかなぁ」と感じたことを「がっかり」という形で先生がやんわりとたしなめるのは全然非難されることではないと感じました。 

逆にいま保護者をはじめ「叱らない子育て」と言いつつ子供がとんでもない暴言や常識から著しく外れた行動を躾もせず野放図に成長させ、結果周囲に迷惑をかける類の大人になっているケースが散見している気がします。 

豊かな発想や創作力も大事ですが、それより「他者を思いやる想像力」を真っ先に子供に教える教育であってほしいと思います。 

 

▲4 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

先生の「がっかりです」は不要なので、それは批判されても仕方がない。 

ただ、読解力をはかるテストで この生徒の回答が誤りなのは間違いないですね。 

 

「この解答(もっとくりを食べたかった)も正解」と主張する第三者の方は 

「考え方は人それぞれ」という認識なのかもしれませんが 

学校では一般的な読解力を学んでいるということを理解したほうが良いかと。 

それを身に着けないまま社会に出ると苦しむのはその生徒ですから… 

 

一般的な読解力を習得したうえで「◯◯という可能性もある」と 

思考を巡らせるのは悪いことではないと思いますが。 

 

▲7 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

「ちょっとがっかりです」と「ちょっと」を付けているのを見逃してはいけない。「美しいものは何ですか」という問いに「雲」と少年時代の芥川龍之介が答えたときにその答えを否定した教師は駄目だと思うが、この教師は「決めつけ指導はよくない」と分かったうえで、絶妙な匙加減で道徳的要素を指導に加えて、気をつかいながら評価を書いている。 

この指導が「最低な指導」などと批判されるようだと、ワガママでモラルの欠片もない子供がますます増えていくだろうね。 

私はこの先生を支持する。 

 

▲6 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

テストや宿題が終われば次の課題が始まり、こんなことすぐに忘れてしまいます。 

しかしそこで終わらず、撃って殺して損と言う考えもあれば、青い銃口の煙を読み取る人もいる事を皆でフィードバック出来れば考えが深まって多様性で良いと思います。 

仮にふざけた回答だとしても、撃って殺して損というのもなかなか現実的な発想ですよ。どれが正解ではなく、フィードバックで色んな考えが身に付く。 

 

▲3 ▼11 

 

=+=+=+=+= 

 

実際は、授業でそういう読み取り方を説明していると思うし。記事の通り、青い煙の描写とかがヒントなわけで、間違いなのはその通りと思う。 

テストの解答よね、回答ではなく。こういう答えを求めてるんだな、というのも重要なとこ。主観と客観の使い分けというか、コミュニケーション力の大事なとこで、そのための訓練でもあるでしょ。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

個人の感想はともかくとして、きちんと記述の根拠がある読解の定石は抑えておくべきだと思う。 

 

あと、もっと貰える系の発想からでも、後悔には至るわけだし、その結果の描写でもの悲しさにも行けると思う。 

 

解答の文字数制限で書かないようにされているだけで、おそらく数割はそう言う発想を中間にしての記述を書きうると思うよ。 

 

どの系統であっても、文字数制限と要点を抑える点で、収束するからこのテーマが残っているのだと思う。 

 

そういう意味では、心情的な拘束がかけられていると誤認してしまう方が問題かもね。 

 

書いてある通りに読め。 

ならば、中間部分は消すべきだけれども、その実、人生における解釈の幅は中間状態の幅で読みの深さは出るのではないかな。 

とか思わなくはない。 

 

▲1 ▼2 

 

 

=+=+=+=+= 

 

これに問題ないとか発想は自由とか言っちゃう人って 

最低限の読解力すらないんだろうか。 

そりゃ作者の意図なんて書いた本人しか分からないし 

あいまいな表現を先生が勝手にこういうものだって決めつけはダメだけど。 

これは兵十がごんに対しての後悔としないと 

作品自体がなりたたなくなるし 

その道筋を教えるのが国語の授業であって 

大喜利じゃないんだからさ。 

 

▲10 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

多様性で色んな感想が出るのと、意図を読み間違えても良いことは違う。 

きっと筒口から細く煙が出ていたと言う件も、なぜ悲しみを表しているかを説明されてもその気持ちが理解出来ないと思う。 

読解力とか行間を読む力って大切だと思った。 

 

▲3 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

これは凶暴性のある回答なのは間違いなくこれは否定しなくてはいけない。これを否定しないのであれば、「お金がない、だったら強盗をはたらこう」という今の闇バイトの問題や特殊詐欺の問題を肯定しするのと同じだよ。この場合は、ちゃんとダメなものはダメということが最良だと思います。 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

ものごとを「どう考えなければいけないか」をとくに小学校の授業は誘導します。マインドコントロールといってもいいかもしれない。 

その場の意見と違う考えを持つことをタブーとする、空気を読んで沈黙を守るのを美徳とする、上の言うことはなにも考えずに従う、といった日本人の国民性はここで作られていると思いますよ。 

この子は正直な子。私はどういう感想を書けばおとなのウケがいいかで書く内容を選んでいたから、躊躇せずに思ったことを言えるのがうらやましい。 

 

▲6 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

教科書に掲載される『ごん狐』は、雑誌『赤い鳥』に昭和7年に掲載されたものです。新美南吉が投稿した元原稿の『権狐』が後に発見され、本誌の経営者である鈴木三重吉の手がかなり加えられたことで知られます。特に最後のシーンは、南吉が「権狐は、ぐつたりなったまゝ、うれしくなりました。」と書いたところを「ごんは、ぐつたりと目をつぶつたまゝ、うなづきました。」と改作しています。ごんの心理描写を曖昧なものにすることで、読者の解釈可能性を高めたねらいがあるといわれます。このように多面的な解釈をねらった開かれた文学作品ですから、まずは子どもたちの素直な解釈をしっかりと認めた上で、前後の文脈をしっかり把握した国語的な解釈も導き、それらの違いを味わう対話の「余裕」は欲しいところです。「浅い読みだから」と子ども解釈を切り捨てては、「教科書を暗記すれば良い」と考える正解主義に子どもたちが陥ることを防ぐのは困難です。 

 

▲3 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

国語を生業としているサブスクです。文法、漢字はもちろん、説明文の指示語や構成、古文の意味など正確に理解が必要な分野もありますが、小説や詩の解釈はそこに「なるほど」と思える根拠があれば、「間違い」とは言い切れないものです。その読み取りの違いを言語体験の異なる子供たちが自分の体験、思い、教科書の叙述に注目しながら意見を戦わせることが国語の醍醐味だと思います。授業をしていると正直生徒の方が深い理解をすることもしばしばあります。残念なコメントですね。「栗がもっともらえる」人間の率直な思いですし、歴史君なら当時の食事情にも触れるでしょう。自分の考えや体験が否定され肯定される中で子どもは自分を見つめ、言語を豊かに人とのかかわりも深め、思いもよらぬ発見に学びの楽しさを知っていくのです。今の「はい、班で話し合い。〇分になったら代表が発表」というえせアクティブラーニングにはない学びができたはず。 

 

▲6 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

読者感想文ではないけど小学生の頃に太平洋戦争時の日米の戦力差のグラフを見せられそれによって戦争がどういう結果になったかというのを書きなさいという授業があった 

当時からプラモなど作ってミリオタだった俺は 

「戦争初期は日本のほうが優れた戦闘機を作り数も勝っていたが戦争後半になるとアメリカが質も数も逆転した」 

と書いたらバツをもらった 

正解はというと「日本は当初よりアメリカと圧倒的な戦力差、技術差があり戦争ができるような状態じゃなかった」というものだった 

確かに生産力の差を考えると結果そうなるのかもしれないが実際零戦が優れていて数も多かったのは事実 

それを先生に言うと 

「あの戦争は絶対やってはいけなかった。勝てたかもなんて思っては駄目だ!」 

と返された 

今にして見れば「ああ、これが日教組の教えか」と理解できるが小学生の頃はなんで怒られたのかわからなかった 

なんでも教本通りに教えるのは違うと思うよ 

 

▲28 ▼20 

 

=+=+=+=+= 

 

この問題は、単に国語の教科書ではなく、道徳の要素も含んでいる、と思いました。先生としては、生徒の感想を否定するやり方では無く例えば、「あなたの家にあなたの寝ている時に強盗が忍び込みました。強盗は人を殺すのが目的ではなく、金品を盗むのが目的でした。しかし、強盗が帰る前にあなたは目を覚ましてしまいました。強盗は『お金の隠し場所を教えて、それを渡して、この事を誰にも言わなかったら命だけは助けてやろう』と言ったところで、あなたが拒否し、射殺されました」さてこの物語りの感想として「強盗の目的を理解出来ずに金品の在処を教えなかったあなたが悪い」という感想をどう思うか?と問いかけたら分かってもらえるかもしれません。命はものより何倍も大事だよ、という道徳の問題です。 

 

▲1 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

何故、ウナギを取ったのはゴンだと思ったのだろうか?ゴン以外の狐若しくは他の動物の可能性もある。広い土地です。盗んだところを見てもいないのに狐だと決めつけるのは良くない事だと思ってしまった当時の自分を思い出しました。ひねくれてますね 

 

▲9 ▼10 

 

=+=+=+=+= 

 

「がっかり」は無いですね。 

確かに「撃たなければもっと栗が貰えたかなぁ」の感想ってちょっとがめついイメージがあるけど… 

先生なら「ここは「いっぱい貰える」だと自分中心の答えだけど、例えば「せっかく鰻を盗んだ罪滅ぼしをしてくれていたのにすまなかった」と考えてみるのはどうかな?」とか、違う答えを引き出すとか理解させる教え方の方が良いんじゃないかなぁ。 

 

▲1 ▼5 

 

 

=+=+=+=+= 

 

何でもかんでも多様性という便利な言葉で済ますから、人の感情や気持ちが読み取れない子供が増産されるんじゃないの? 

撃たなきゃまた栗がもらえたのかな?とか、考えなきゃいけないポイントはそこじゃねぇというのは子供のうちに教えないとダメだよね。先生の言葉も少し尖りすぎてるけど、この作者が意図していること、訴えたいことに対して、曲がった考え方を矯正するのは大人(教師というより本来は親)の役割だと思う。 

 

▲3 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

あの場面で、兵十が、自分が撃って(恐らく死んで)しまった旧知のごんを前にして、ああ栗が…と思っているとしたら、それは相当ブラックなオチですよね。それはそれで文学の面白さかもしれませんが、小学生の教え子がもし真顔でその答えを出してきたら心配になりますね。 

もしSNSで同じような感想を呟こうものなら、動物蔑視だ!とか、命を何だと!とか、サイコパスだ!とか炎上しそうな気がしますけどね。 

これを書いた小学生の子の普段の性格など諸々踏まえて、他者への配慮を学ぼうよ?というつもりで先生がこう書いたかもしれないし、ほんとのところはわかりませんが。 

なぜ先生ががっかりなのか?考えるのも多様性学ぶことかもしれないですね 

…と書いていて思いましたが、兵十は母の希望をごんのせいで叶えられなかったから憎しみがかっていたかもしれないし、そもそも火縄銃は狩りに使うものだろうから、動物を撃つことに抵抗はなかったのか…? 

 

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私は現職教諭では無いけれど、コメントを書くなら「先生は〜と思ったよ。友達にも感想を聞いてみよう!」と書いたり、テスト返却後少し時間を取ってパワポなどで感想を羅列して共有し合う時間を取れればいいなぁと思った。望ましい倫理観を育てたり情操教育をする事と個性を大事にする事のバランスが特に昨今難しいんだろうなぁ。 

私は40近いけれど昔先生に言われた嫌な事を未だに覚えている。その時にもう少し言い方を変えてくれてもいいじゃんって思ったし、大人になった今でもそんな言い方しなくても良いよねって人をよく見るから反面教師にしつつ気をつけている。 

 

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社会人になって気づいたことですが 

仕事でもなんでも「相手のパスに的確に応えられる」ことが必須になります。 

例えば指示を正しく理解していなくて見当違いな作業をして怒られるとかがそう。 

そこで必要なのが読解力を鍛えること。 

この記事で国語の先生がおっしゃっているように 

書き手が意図していると思われる回答ができることが目標。 

高学年なら尚更ですね。 

 

「感想文」というから自由記述でいいと 

思いがち(私もそうでした)で、なんで自分の解釈が否定されるんだ!とふてていましたが 

「論述文」とか?何か別のネーミングだと 

しっくりくるのかもしれませんね。 

 

子どもたちと周りの大人へ 

一定の答えのある文章には正確に回答しましょう! 

 

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新見南吉が生きていたらどう対応しただろうね。 

 

教育素材や文化として長い年月をかけて生活に浸透していくものは、子どもの姿との呼応を経て、グリム童話のように時代と共に徐々に原典から変わっていったものもあると思う。ここを読めばこの人の気持ちが分かるというものは書かれていた方がよかったのかもしれない。 

 

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良い記事ですね。 

最後まで読むと試されていたのは自分だと気付かされます。 

最近は提示されている事だけが全てだと思う人が増えています。 

でも本当は提示されていない事の方がたくさんあるのです。 

大事なのは提示されていない部分に思いを馳せる事ではないでしょうか? 

 

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国語科は道徳ではありません。 

もちろんテストのような答えが一意に定まるように作られたものでは文章に書いてあることのみから感情を答える必要がありますが小説などの文学では感想や想像は個人が思うままにすればいいと思います。今回の一件は少し内容が道徳的ではないというだけです。 

ただし、文章に書いてあることやその文脈から推察できる力を養うことも大切なことだと思うのでそこはバランスだと思いますし、難しいことだと思いますがそこも指導力だと思います。 

 

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他の国の母国語の授業というのがどういうものかわからないけど、日本の場合こういう何かストーリーを読んでそれについてどうこう、という形の国語の授業ははっきり言って「空気を読めるかどうか」みたいな所の学習になってるなと感じます。こういうような事は自分が小学生時代も考えていたけど、言葉には出来ずとも何となく先生という存在・その先生達の性質みたいなのを子ども達は敏感に感じ取っていて、意地悪な言い方をすれば「こう答えればあいつらは正解をくれる」と想像付くものが正答になる。 

結局は大人になった時にほとんどの人達は国内で働くのでそういう斜のかかった学びというのも寧ろすごく役立つ部分ではあるけれど、それを母国語の授業として組み込むのは本当に優秀な才能を引き出す教育とは逆行してるなと思う。 

それはある種平均点、平均値をいかに取れるかみたいな学習だと思います。 

 

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多様性を履き違えた人間が多くなりましたね 

多様性を論じるためにはまず画一を理解しなければなりません 

ここで言う画一は「作者の意図」ですね 

「作者の気持ちを答えよ」という使い古されたネタもありますが、こと国語においては大事なことだと思います 

ほんとに文字が読めない(読まない)人が多くなったんだなって・・・ 

某〇〇エモンさんとか、〇〇ゆきさんとかの影響も大きい気がします 

 

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社会人になってわかるのが 

同級生で小学校の教員してる人って だんだん命令口調になるし 

世間に疎くなるし 自分の考えを押し付けようとしてくる・・ 

接客業してる人なら解ると思うが 会ったとたん受付とかでも 

高飛車で命令口調で頓珍漢な事を言う人の中で 

学校の教師の確立は高い  

そして遠回しな指摘とか案内とかすると ほとんどがそれを理解しないで 

こちらが説明下手とか会話下手と見下す 

子供の時は気が付かないけど 社会に出たら 学校の先生って 

かなり非常識な態度や思考の人が多い 

 

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