( 273716 )  2025/03/11 03:31:06  
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 東日本大震災に福島第一原発事故。その惨禍を俳句に詠み続けている高校教師が福島にいる。「俳句は、福島の記憶を伝え、現実を見据え、未来を考えるための強力なツールになる」。そう信じて、生徒たちとも、句作を通じて、記憶や思いをつないできた。だが、当時の記憶を持たない生徒が増えるにつれ、これまでのやり方では「響かない」と感じるようになった。どうすれば俳句の力を再び生かせるのだろう――。大震災から14年。最近、ある試みを始めた。(読売新聞福島支局 山口優夢) 

 

 「原発なんて爆発したらいいんだ」 

 

教壇から生徒に話しかける中村さん 

 

 一人の男子生徒が黒板に背を向けるようにして、その言葉を吐き捨てた。東日本大震災、そして福島第一原発事故で日本が揺らいでいた2011年5月。福島市の県立福島工業高校定時制で、国語科教師の中村晋さん(57)が、授業の始まりに、枕ことばのように「原発が心配だね」と言った時のことだ。 

 

廃炉作業が進む福島第一原子力発電所(2024年11月、読売ヘリから) 

 

 (何を言っているんだ……)。中村さんは頭に血が上りかけた。一瞬、しかりつけそうになったが、彼が職員室のパソコンを借りて、インターネットで原発事故についてよく調べていたことを思い出し、聞いてみた。「どうしてそう思うんだ」 

 

 「だって、今のままでは避難もできない。いっそのこと、爆発すれば逃げる理由ができる」。避難指示区域はだんだん拡大していたが、原発から60キロほどの距離にある福島市は含まれなかった。だからといって安心していいのかと言えば、判断材料となる情報もまだ乏しかった。実際、市内には局所的に線量の高い「ホットスポット」があることが徐々に分かってくる。 

 

 県外へ自主的に避難する住民も多かった。「逃げる理由」と「逃げない理由」を天秤にかければ、逃げられない人もまた多くいた。 

 

原発事故後、学校の放射線測定器で福島市内を測ってみると、0.205マイクロシーベルト毎時を示していた(中村さん提供) 

 

 中村さん自身、家族の「自主避難」をめぐって葛藤していた。当時44歳。自分は福島で高校教師の仕事を全うすると決めていたが、気がかりだったのは、妻と、まだ幼稚園児だった長男のこと。どうすれば、家族を守ることができるのか――。最終的に妻子を県外に自主避難させると決めたのは、男子生徒の発言の翌月、6月のことだった。決定的な「逃げる理由」があればもう少し楽だったのかもしれない。男子生徒の言葉を思った。 

 

 

 自分の心の中にも彼と同じようなモヤモヤがわだかまっていた。それに気づかせてくれたのは、あの言葉だ。「生徒に教えられた」。時に言葉は人の心を動かし、行動をも変える。それは中村さん自身が生徒たちに教えてきたことでもあったのだけれど。 

 

俳人の金子兜太(2017年6月撮影) 

 

 中村さんが、自己表現の手段として俳句を詠み始めたのは、20代後半のころ。新聞俳壇への投稿が縁で、選者だった戦後俳句の第一人者、金子兜太に弟子入りした。2019年には句集『むずかしい平凡』を出版している。 

 

 震災以前から俳句を授業に取り入れていた。その一つが「句会」だ。それぞれが作った俳句を無記名で持ち寄り、いいなと思った俳句を選んでいく。自分の句が何人から選ばれたかを競うゲーム性もあり、生徒たちは思いのほか熱中した。 

 

 教室の中ではどうしても固定化しがちな人間関係も、俳句をフックにするとうまくかき回すことができた。普段は嫌いなクラスメートの句を、そうとは知らずに選び、「選んじゃったよ」と笑い合う場面もあった。俳句は「五七五」の17音。短いがゆえに、言葉の意味を解釈して意見を話し合う余地が大きい。俳句の特性が、自主性をはぐくむ教育と、うまくかみ合った。 

 

津波で打ち上げられたとみられる魚の死骸(2011年3月、相馬市で)=中村さん提供 

 

 しかし、原発事故後、その「短さ」に中村さんは苦しんだ。「『放射線量』とか『ホットスポット』とか『自主避難』とか、自分が置かれた状況を説明するための言葉を詠み込みたいのに、俳句の短さではそれはできない」。放射線によって俳句に必要な季語すらも汚染されてしまった気がして、これまで通りに使えないようにも感じた。 

 

 試行錯誤を重ねるうち、ぽーんと一つの俳句が思い浮かんだ。 

 

 春の牛空気を食べて被曝した 

 

被災後の駅の跨線橋(2011年3月、相馬市で)=中村さん提供 

 

 福島では、避難指示区域内で飼育されていた牛が、処分されたり、餓死したりした。そのニュースに触れたことが、この一句につながった。 

 

 実は「元ネタ」がある。師匠の句だ。 

 

 猪がきて空気を食べる春の峠 金子兜太 

 

 元の句から、「空気を食べる」という言い回し、のんびりした春の感じを受け継いで、中村さんの句があっけらかんと描出するのは、「被曝」という深刻な事態。事態の重大さに気づかぬまま、春の牛の命運は一変させられる……。 

 

 

 「善悪とか自分の苦しさとかはいったん置いておいて、命そのものを書くことにすれば、俳句にできるかもしれない」。そんな気づきを得た一句でもあった。 

 

津波で折れ曲がったとみられる電柱(2011年3月、相馬市で)=中村さん提供 

 

 中村さんが、授業で「春の牛」の俳句を生徒たちに示してみせると、生徒たちはまず、ぬっと登場する「被曝した」という言葉の唐突さに、意表を突かれて笑う。だが、ほどなく笑いはやむ。のんびりしているうちに被曝しているのは、牛だけなのだろうか。人間は? 私たちは? 言葉を反芻するうち、教室が静まる。 

 

 次に赴任した福島西高校では、文芸部の顧問につき、震災や原発事故に関する俳句も作ってみるよう部員にすすめた。 

 

 原発事故をどうやって俳句に詠むべきか、生徒たちは最初、戸惑いを見せた。「フクシマがんばれ」と前向きに人を励ますような作品を書かなければならないと彼らは思い込んでいた。「もっと痛ましいもの、切ないものも書いていい」。中村さんの指導の中で、部員の一人がこんな句を詠んだ。 

 

 フクシマよ埋めても埋めても葱匂う 野村モモ 

 

 震災直後の頃に見た光景を、作者の野村さんは詠んだ。ネギがなぜ埋められたのかは、実際には分からない。しかしその頃、風評被害を含めた原発事故の影響で、福島産の農産物が大量廃棄されたのは事実だ。 

 

 「ずっと、こういうことが続くのかなあ」。野村さんは、外に出て遊ぶことも制限され、子どもながらに鬱屈した思いを抱いた。埋めても埋めても漂ってくる、すえたにおい。食べられずに腐っていくネギの断末魔のようなそのにおいは、26歳になった今も、彼女の鼻孔に残り続けている。 

 

 この一句は、第19回神奈川大学全国高校生俳句大賞で最優秀作品に選ばれた。 

 

 俳句は震災を伝え、考えてもらう上で強力なツールになる。中村さんは、そう思って指導を続けてきたが、震災から10年が過ぎた頃から、迷いが生じ始めた。 

 

 「春の牛」の句を授業で示しても、以前より反応が薄いと感じるようになった。震災当時はまだ小さかった生徒たちは、地震の揺れのことは覚えていても、被曝や放射線には関心が薄く、ほとんど記憶に残っていないようだった。 

 

 

俳句の授業に臨む中村さん。生徒のつくった俳句を読み上げた 

 

 そんな中で自分が経験した「被曝」への恐怖を生徒たちに語っても、押しつけがましく聞こえるのではないか。経験していない者に一方的に語ることが、果たして震災の記憶の継承になるのか。中村さんが「春の牛」の句を授業で示すことはなくなっていった。しかし震災を語り継ぐことを、あきらめたわけではない。 

 

 今年2月下旬のある日、中村さんは、再び勤務するようになった福島工業高校定時制2年生のクラスの男子生徒4人と、久しぶりに句会をやってみた。中村さんが選んだテーマは、「震災」や「原発事故」ではなく、「戦争」だった。 

 

俳句の授業で。中村さんは生徒の俳句に「それぞれ個性的な句ですね」と話した 

 

 その前の授業で、ガザの情勢やロシアによるウクライナ侵略について説明した上で、俳句を作ってくるように言った。 

 

 生徒たちは、たとえばこんな俳句を詠んできた。 

 

 おはようの中に原爆落ちてきた 高橋悠真 

 

 空爆 火の海で凪いだ 関根憲太 

 

 五七五でなくても、季語が入っていなくてもいい。それよりも、戦争の実際に想像力をめぐらせてほしい。それが、授業の狙いだ。「おはよう」と言い合う日常の中に急に落ちてくる「原爆」という非日常。それは、戦争という非日常の中にも、日常があることを想像するからできた俳句だ。「空爆」の句には、他の生徒から「戦争で爆発音はイメージしたけれど、静かで何もなくなってしまうイメージの俳句は想像していなかった」と驚きの声も上がった。 

 

 中村さんも、生徒たちも戦争を経験していない。互いに経験していない戦争なら、一方的に語るのではなく、ともに想像して戦場に思いを寄せることができる。そんな想像力が、震災の記憶の継承には必要なのではないか。「遠回りかもしれないけれど、地ならしをしているんですよ」 

 

 草青むここは校庭だっただっただった 

 

震災直後、中村さんが相馬市を訪れた際に撮影したタンポポ(2011年3月)=中村さん提供 

 

 中村さんが最近作った俳句だ。原発事故の影響で閉鎖された学校の校庭を訪れたことがあった。「だっただっただった」と、エコーが心の中に響く。ここが子どもたちの笑い声が広がる校庭だったと誰もが忘れ去ったとしても、俳人には、想像力という武器がある。悲劇を後の世代に手渡していくための、武器が。 

 

※この記事は、読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。 

 

 

 
 

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