( 275836 ) 2025/03/18 06:30:53 0 00 衆議院予算委員会に出席し質問を聞く石破茂首相(資料写真、2025年2月26日、写真:つのだよしお/アフロ)
(川島 博之:ベトナム・ビングループ Martial Research & Management 主席経済顧問、元東京大学大学院農学生命科学研究科准教授)
備蓄米の放出があっても米価高騰はなかなか鎮静化しない。スーパーの店頭も品薄状態が続いている。前回(「“優秀な官僚”もコントロールし切れない「令和の米騒動」の本当の原因」)に続いてこの問題を考えてみたい。
十分な供給があるのに米が店頭で不足している理由について、次のような情報が飛び回っている。(1)流通業者の買い占め、(2)農家の売り惜しみ、(3)農協(JA)が故意に流通量を減らしている、(4)中国人やベトナム人が転売目的で買い占めている、などである。これらは部分的には事実であろうが、騒動の主因ではない。
■ インフレが招いた1918年の米騒動
推理小説ではないが、真犯人は全国民である。多くの場合、食糧高騰の原因は国民がつくる。米が不足しているとの噂が流れると、人々は心配になって通常より多く買う。いつもは1袋買っていた人が2袋、3袋と買う。米は備蓄が可能だからこのような現象が起きる。
これは第一次石油ショック(1973年)の際にトイレットペーパーがなくなった現象にそっくりである。政府が紙の節約を要請するとトイレットペーパーがなくなるとの噂が流れて、多くの人が買い占めに走った。その結果、店頭からトイレットペーパーが消えた。
だがトイレットペーパーは十分に生産されており、騒動が一段落すると多くの家庭に大量のトイレットペーパーが残ることになった。
米は日本人の主食であり、その不足は生命に関わる。そのため人々はコメ不足に敏感に反応する。それは江戸時代の「打ち壊し」や1918(大正7)年の米騒動の原因になった。
1918年の米騒動は、米価が高騰した際に富山県の漁村の住民が、米の県外流出を阻止しようと立ち上がったことが発端とされる。米どころである県内の米が関西や関東に流出することを阻止しようとしたのだ。運動の中心に主婦が多かったことから「越中女房一揆」などと報道されて、それを契機に民衆が米問屋を襲うなど、江戸時代の「打ち壊し」さながらの現象が全国に広がった。政府は警察力で騒動を鎮圧したが、これを受けて時の寺内正毅(てらうち・まさたけ)内閣が瓦解した。寺内はこの心労もあってか翌年に死去している。
1918年は凶作ではなかった。米高騰の原因は第一次世界大戦に伴うインフレであった。1914年に戦争が始まると日本は英仏側に立って参戦したが、戦場から遠いこともあって武器などの供給基地の役割を担い、産業界は好景気に沸いた。それがインフレを招いた。
今回の米価高騰も1918年によく似ている。凶作が原因ではない。真の原因は経済の基調が、バブル崩壊以来続いていたデフレからインフレに変わったことにある。
■ 戦中戦後の混乱期に米価高騰を防いだ食管法
このような騒動を避けるには、どのような方法があるのだろうか。それを最も真剣に考えたのが東條英樹内閣(1941〜44年)だった。
東條内閣は1942(昭和17)年に食糧管理法(食管法)を制定した。
その背景にはこんなエピソードも存在する。米騒動時の首相である寺内正毅は陸軍軍人であったが、その息子の寿一(ひさいち)も陸軍軍人であり、太平洋戦争中に南方軍総司令官を務めるなど陸軍の重鎮であった。寺内親子は日本で唯一共に元帥になった。そんな陸軍では「米不足が政情不安につながる」との意識が広く共有されていようだ。東條も陸軍出身である。
農家の自家消費以外の米は国が全量管理し国民に等しく分配する。それによって戦中戦後の混乱期に米価高騰を防ぐことができた。この陸軍主導で作られた厳格な食管法は日本人の心情によくマッチしていた。
ただこの法律を実行するためには大量の人員が必要だった。戦前は農林省外局の食糧管理局、戦後は名称を変えて食糧庁に大量の人員を配置しなければならなかった。農家が米を隠して闇米として販売することを防ぐために警察力も必要になった。また米生産量を正確に把握するために農業統計部門にも多くの人員を配置した。現在でも農水省の統計部は他の省庁に比べて多くの人員を抱えているが、それは食管法の名残である。
今回の米価高騰を受けて、「政府は米価をもっと厳格に管理すべきだ」との意見も聞かれるが、それは最終的には食管法に行き着く。
食管法は戦時立法であり無駄の塊と言ってよい。だが平等を好む日本人の心情には合っていたようだ。戦時立法の廃止は昭和後期から平成初期にかけての大きな政治課題になり、紆余曲折を経て、食管法は1995(平成7)年にやっと廃止された。
■ 石破内閣はなぜ米価高騰に鈍感なのか
結局のところ、米価格は厳格に管理するよりも市場によって調節することが最も効率が良い。ただ忘れてはいけないのは、日本人が米に対して特殊な感情を抱いていることだ。平成になって細川護熙内閣の時に米を輸入することになったが、それは大きな政治問題になった。日本人はトウモロコシの自給率には無頓着だが、米の自給率には敏感に反応する。
しかし石破茂内閣は米価高騰に対して鈍感である。それは、石破首相も森山裕幹事長も選挙区が地方であることと無縁ではないだろう。両人は農水大臣経験者であり農水族である。JAなど農業団体と深く関係しており、米価高騰は両人にとって好ましい。そのために米価高騰に対して、積極的な対策を打ち出さないのだと思われる。対策を打ち出すことで米価高騰が今以上に話題になり、それがJAの在り方などに波及することを恐れているのかもしれない。
「打ち壊し」が起きた江戸時代や米騒動があった大正時代に比べて現代は格段に豊かになり、米の以外の食品も容易に入手できることから、米価高騰は日本人の生活にとって致命的に大きな問題ではない。だが、日本人の遺伝子は米不足に敏感である。そのために、いくら米は足りているとの報道があっても高騰が続き、スーパーの店頭で品薄状態が続く。
石破内閣がなんらかの手を打つとしたら、もはや食管法の時代ではないが、ガソリン価格の高騰に対して岸田内閣が打ち出した補助金のような対応は可能であろう。補助金行政は好ましくないが、政権の人気取りとしては有効である。
■ 日本人の心情を理解していた東條内閣
東條内閣は石破内閣より米不足に対して感度が良かった。
食管法は1942年2月に制定された。太平洋戦争は1941年12月に始まったが、食管法が制定された時点において日本軍は東南アジアで快進撃を続けていた。日本の南方進出は石油などの資源確保が目的であったが、当時から東南アジアでは米が大量に生産されており、そこを確保すれば米不足も解決できると考えられていた。
それにもかかわらず東條内閣は食管法を制定した。それは寺内内閣が倒れた記憶から、主婦層が米価に関して敏感であることをよく理解していたからだろう。
石破内閣は東條内閣より日本人の心情への理解が足らないようだ。石破内閣がいつまで続くか分からないが、この7月には参議院選挙がある。その選挙で国民が米高騰に無関心だった自民党にどのような審判を下すか見物である。
川島 博之
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