( 278726 )  2025/03/29 06:56:05  
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(※画像はイメージです/PIXTA) 

 

1990年代、日本の消費は大きな転換点を迎えました。象徴的なのが、外食チェーンの値下げ競争。価格競争が激化する中、企業は「安さ」だけでなく「顧客満足」も追求し始めました。本稿では、デフレが生んだ「顧客第一主義」の背景について、北海道大学大学院経済学研究院准教授の満薗勇氏が、『消費者と日本経済の歴史 高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中央公論新社)より詳しく解説します。 

 

1980年代後半からバブル景気に沸くなかで、海外旅行者の増加、スキーリゾートの賑わい、高級車ブームなど、人びとは旺盛な消費意欲を示した。しかし、バブルが崩壊して1990年代から長期経済停滞の時代に入ると、一転してそうした明るさは失われた。 

 

ポストバブルの時代には、外食チェーンが相次いで値下げを発表し、デフレの象徴とまで呼ばれるようになる。たとえば、𠮷野家の牛丼(並盛り)は、1990年に一杯400円であったが、2001年には280円にまで値下げされ、マクドナルドのハンバーガーも、1985年に210円だったところから、2000年に65円まで値段を下げている。 

 

長期経済停滞のもとで雇用不安が広がり、2008年の年末には「年越し派遣村」が東京・日比谷公園に開設された。米国の投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻を契機とする不況、いわゆるリーマン・ショックの影響により、仕事や住む場所を失った非正規労働者を支援する取り組みであった。一億総中流とまで言われた中流意識の広がりは過去のものとなり、日本社会を格差社会と見る認識が広がっていく。 

 

この間、少子高齢化が急速に進展し、2000年代には人口の増加が頭打ちとなって、人口減少社会へと転じた。財政面では、社会保障支出の増大につながり、1989年には、安定財源の確保を狙いとして消費税が導入された。 

 

税率3%からのスタートであったが、1997年に5%へと引き上げられた。その後も経済の低迷により、財政健全化に向けた取り組みが困難に直面してきた結果、2010年代にさらなる消費税率の引き上げに至っている(2014年に8%、2019年に標準税率10%・軽減税率8%)。 

 

 

【図表】消費者物価指数の推移(1947-2023年) 出所:満薗勇著『消費者と日本経済の歴史 高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中央公論新社、2024年) 

 

1985年のプラザ合意で、アメリカの対外不均衡の原因であるドル高の是正が先進五カ国の間で合意されたことを受けて、以後、ドル安・円高が急速に進展した。1986年の円高不況から回復した日本経済は、88年頃から景気過熱へと向かい、株価と地価の急騰によるバブル状態となった。 

 

これに対して、1989年5月から公定歩合が段階的に引き上げられるとともに、90年4月から土地取引に対する総量規制が実施された。それにより、地価と株価が急速な下落に転じるとともに、設備投資は縮小して景気後退へ向かった。バブルの崩壊である。 

 

以後、1990年代初頭からの日本経済は、長期経済停滞の時代を迎えた。GDP実質成長率は、1990〜94年平均で2.2%、1995〜99年平均で0.8%、2000〜04年平均で1.5%、2005〜09年で0.0%と低迷を続け(橋本寿朗・長谷川信・宮島英昭・齊藤直『現代日本経済 第3版』有斐閣、2011年)、「失われた10年」と呼ばれた停滞状況は「失われた20年」へと延びていった。 

 

【図表】が示すように、消費者物価は1990年代に入る頃から上昇しなくなり、戦後日本における物価上昇の時代は歴史的終焉を迎えた(「2020年基準消費者物価指数」)。価格破壊や価格革命といった言葉が踊り、デフレ基調への転換という新しい時代へと突入したのである(橋本寿朗『デフレの進行をどう読むか 見落とされた利潤圧縮メカニズム』岩波書店、2002年)。 

 

産業構造も大きく変わり、製造業の比重が低下し、第三次産業の比重が高まった。就業者で見れば、製造業が1990年には1,464万人で、全体の23.7%を占めたところから、2015年には908万人へと減少し、構成比も15.4%へと大きく低下した。第三次産業の就業者は1990年に3,642万人で、全体の59.0%とすでに大きな比重を占めていたが、2015年には4,007万人、構成比で見ると68.0%へと、さらにその比重を高めている。 

 

このように、広義のサービス産業である第三次産業の比重が高まる変化は、サービス経済化と呼ばれる。一般に、サービス産業は製造業に比べて生産性が低く、持続的な経済成長を牽引する力が弱い(武田晴人『日本経済史』有斐閣、2019年)。対人サービス分野では、技術革新による労働生産性の上昇に限界があり、生産性上昇の努力は、雇用条件や賃金水準の切り下げに直結しやすいため、安定した雇用を創出する力も弱い。 

 

高度経済成長期の機械工業化が、「投資が投資を呼ぶ」メカニズムをもって日本経済の成長を力強く牽引したことに比べれば、サービス経済化の展開に、持続的な高成長をもたらすメカニズムを見出すことは難しかった。 

 

製造業の分野に即して見ても、グローバル化の進展に伴い、東南アジアや東アジアが急成長を遂げるなかで、工程間分業の国際化が進んだ。グローバル化が国内産業の空洞化をもたらすとともに、グローバルな低賃金競争の圧力が国内にも強く及んだ。 

 

 

長期経済停滞のなかで、経済政策としては、市場メカニズムの重視による経済システムのトータルな見直しが進んだ(浜野潔ほか『日本経済史1600―2000 歴史に読む現代』慶應義塾大学出版会、2009年)。 

 

1つの契機は1980年代からの日米貿易摩擦である。貿易摩擦が深刻化するなかで、アメリカは規制緩和による市場開放を強く要求した。これが財政赤字の解消を目的とする行財政改革と結びつき、やがて構造改革として取り組まれていく。 

 

企業経営のレベルでもさまざまな改革が試みられ、株式持合の解消、メインバンク関係の弱体化、株主利益を重視する経営などが進められた。金融自由化やコーポレートガバナンスをめぐる制度整備も進んだ。雇用システムの見直しも進められ、非正規雇用が広がる一方で、正規雇用にも成果給・業績給の導入が図られた。 

 

満薗勇 

 

北海道大学大学院経済学研究院准教授 

 

満薗 勇 

 

 

 
 

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