( 281061 )  2025/04/07 06:31:58  
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戦車(画像:写真AC) 

 

 日本にとって戦車は必須ではない。島国では死活的価値をもつ戦力ではない。政府や防衛省もそのように考えている。だから戦車保有数の削減を進めている。 

 

 しかし、軍事オタクは 

 

「それは『戦車不要論』だ」 

 

と口角泡を飛ばして反発する。その内容は誤謬(ごびゅう。論理的な誤り)だらけであり現実では通用しない。それにも関わらず全く同じフレーズを口にする。 

 

 なぜ、軍事オタクは通用しない理屈を振り回すのか。 

 

 思考の抽象度を調節できないからだ。軍事オタクは兵器に興味を持つが、戦力としての客観視ができない。抽象化が苦手だからだ。そのため戦車戦力の削減方針を理解も受容もできない。そこで「それは『戦車不要論』だ」と不愉快な現実を否認しようとするのである 

 

戦車(画像:写真AC) 

 

「それは『戦車不要論』だ」は、いつから始まったのだろうか。 

 

 起源は1980年代である。鈴木善幸内閣以降の海空戦力優先論があり、そのなかで自民党幹部の「今どき戦車を持ち出す時代ではない」との発言や、それに基づく戦車削減の主張があった。それに対抗するための言説として登場した。 

 

 最初の形態は「侵攻のハードルを低くする」である。 

 

「陸自の戦車がなければソ連の対日上陸侵攻は容易になる。苦労して重いT-72戦車を運ぶ必要がなくなる。PT-76のような軽戦車で済むからだ」 

 

との理屈である。当時の陸自が考えたのだろう。 

 

 それをふたつの戦車趣味誌が反復した。ライターは「戦車軽視は誤っている、なぜなら」と、こすり尽くした。そうしないと読者は喜ばないし、自分が書いている戦車記事も価値を強調できない。 

 

 そして、ネットにおける論破と左派批判の風潮と一体化して「それは『戦車不要論』だ」は完成した。そういえば戦車削減は「論破」できる。さらに 

 

「戦車削減は軍事を知らない左派の妄言である」 

 

と斬り捨てられる。そう信じ込んだ結果、軍事オタクに膾炙(かいしゃ。広く知れわたること)したのである。 

 

 

戦車(画像:写真AC) 

 

 ただ、現実世界で通用する主張ではない。実際に、戦車見直しの方針が揺るぎもしなかった。政治も実務者も一顧だにしていない。なぜなら、誤謬の塊だからだ。日本では通用しない机上の論難にすぎない。 

 

 ひとつめには、 

 

・大陸国 

・島国 

 

を意図的に混同する誤りである。 

 

「それは『戦車不要論』だ」は、戦車を最強の兵器と規定している。歩兵の対戦車兵器では勝てない。撃破できるとしても非効率と主張している。 

 

 だが、それは陸戦で最強というだけの話だ。陸戦が全てとなる大陸国なら耳を傾けるかもしれない。だが、島国からすればどうでもよい。 

 

 そして、日本は島国である。陸戦の優先順位は低く、当然ながら戦車は死活的価値は持たないのである。その点で 

 

「見当外れの主張」 

 

なのである。 

 

戦車(画像:写真AC) 

 

 ふたつめは、仮想敵国の日本本土侵攻を必至とみなす誤りである。 

 

「それは『戦車不要論』だ」は、仮想敵国による日本上陸戦を前提としている。かつてのソ連であり、いまは中国が日本本土に攻め込むところが出発点である。 

 

 しかし、その蓋然性(事象や主張が起こりうる確率)は低い。 

 

 日本本土への上陸侵攻は難しい。自衛隊単体でも強力であり、しかも日米同盟も存在すしている。旧ソ連では不可能であり今の中国にも厳しい。 

 

 そもそも、対日上陸戦の雰囲気もない。かつてのソ連にはその準備はなかった。むしろ日本による北方領土奪還を警戒していた。今の中国にも日本本土侵攻の予兆はない。これも「それは『戦車不要論』だ」の誤りである。根底には 

 

「敵国は日本を滅ぼそうとしている」 

 

といった宗教的な国難思想がある。だが現実世界はそうなってはいない。 

 

戦車(画像:写真AC) 

 

 三つめは、防衛政策の焦点を理解しない誤りである。 

 

 日本にとっての想定戦場はどこだろうか。海と上空である。仮想敵国中国なら東シナ海であり、さらに西大西洋と南シナ海である。実際に日本はこれらの海とその上空で中国と対峙している。 

 

 そこで活躍する戦力は何か。軍艦と航空機である。特に 

 

・軽空母 

・駆逐艦 

・フリゲート 

・潜水艦 

・補給艦 

 

といった外洋艦と、 

 

・哨戒機 

・艦載ヘリ 

・艦上戦闘機 

 

といった海洋航空機だ。戦車はそこに入らない。陸上戦力でも水陸機動団や対艦ミサイル、対空ミサイル、は活躍の余地はあるが、内陸決戦戦力、そのなかでも戦車と自走砲には使い道はない。 

 

 この三つが「それは『戦車不要論』だ」の誤謬である。いずれも防衛政策の前提を見誤っており、見当違いなのである。 

 

 

戦車(画像:写真AC) 

 

 ではなぜ、このように誤謬だらけの主張を軍事オタクは振り回すのだろうか。それは 

 

「抽象度の調節ができない」 

 

からだ。そのため、いま進めている戦車削減について理解も受容もできない。 

 

 軍事オタクは具象(具体的で形のあるもの)から離れられない。その多くは 

 

・模型 

・カメラ 

 

の趣味を主発点としており、そのモチーフである個別の兵器に異様に執着する。戦車と飛行機はその傾向が強い。 

 

 そのため戦車以下の兵器から離れた話はできない。戦力や防衛力といった水準の話をしているのに、出てくる兵器の名前に拘泥(こうでい。強くこだわりすぎて、柔軟に対応できなくなること)する。日本の鉄道政策や交通政策の話をしているときに 

 

「電車ではなく気動車」 

 

だと鬼の首をとったように指摘する。そのような鉄道オタクと同じである。 

 

 裏返しとして捨象はできない。個別の兵器から機械的な特徴を取り去り、戦力として見るといった抽象化ができない。戦車は陸上戦力の一要素にすぎず、その陸上戦力も防衛力の一要素であり、さらに防衛力も安全保障の一要素に過ぎないといった整理はできない。 

 

 実際のところ、日本の安全保障では戦車は1%の価値もない。仮に、日本の安全保障力を100パワーとしよう。そのうち日米安保が7割の70パワーを占める。つまり自衛隊以下の実力が占める価値は30パワーである。そして、その9割方、ざっと27パワーは海空自衛隊と海保の力量である。 

 

 陸自の価値は100のうちの3パワーだ。最初の消費税程度の規模でしかない。しかもその7割方は 

 

・水陸機動団 

・対空・対艦ミサイル 

 

が負う。内陸決戦戦力の貢献は1パワー程度である。つまり、戦車の価値はコンマ1パワーもない。陸自戦力の一部分である内陸決戦戦力の、さらに一要素にすぎないからである。 

 

 だが、軍事オタクはこれを理解し、受容できない。抽象的思考を苦手とする上、戦車への執着から客観的な観察を拒絶する。 

 

 だから「それは『戦車不要論』だ」を振り回す。それにより現実を否認する。厳しい社会の現状と、 

 

「ボクが大好きな戦車が役立たずな訳がない」 

 

といった認識の間にある心理的矛盾を解消しようとするのである。 

 

文谷数重(軍事ライター) 

 

 

 
 

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