( 290111 ) 2025/05/11 05:09:16 0 00 日本の人材獲得競争力が悪化している(写真:Ystudio/PIXTA)
「人手不足」が叫ばれて久しい日本。なかでも深刻なのが、技能労働者の獲得競争です。最近では、かつては考えられなかったような“敗北”を韓国に喫する事態も発生しています。その背景には、円安による実質賃金の低下や移民政策の出遅れといった、日本経済の構造的な弱点が潜んでいます。 本記事では、『日銀の限界』より一部を抜粋・再編集し、介護現場で進行する人材流出の現実、そして為替政策が与える影響について、具体的なデータとともに掘り下げていきます。
■1ドル=109円でないと、韓国に人材をとられる
2024年の5月、日本のある造船会社がインドネシアから技能工を採用する予定だった。提示した時給は1200円。ところが、韓国が1700円を提示して、結局、韓国に取られてしまった。担当者は、「昔はこんなことはなかった」と肩を落としたという(朝日新聞「働くなら日本より韓国?」2024年8月25日)。
これは、由々しき事態だと思う。
造船業において、韓国は日本の強力なライバルだ。そして、日本でも韓国でも、技能労働者の人手不足は大変深刻だ。だから、有能な労働者を韓国に取られてしまうのは、日本の造船業にとって死活問題だ。今後とも日本で造船業を維持するためには、この問題について真剣に考える必要がある。
問題は、造船業だけではない。さまざまな分野で、技能労働者の不足が深刻な問題になっている。そして、外国人労働者は、すでに重要な位置を占めるようになっている。
だから、この問題を解決できなければ、日本経済を維持することは不可能になるだろう。
前述の記事は為替レートの問題については触れていないのだが、実は、最も重要な問題は、為替レートなのである。2024年5月の円の対ドルレートは、1ドル=155円程度という円安になっていたので、それが人材獲得競争に影響した可能性は高い。
仮にもっと円高だったら、こうした事態にはならなかっただろう。では、そのときに、どの程度のレートだったら、日本が勝てたのだろうか?
冒頭で示した韓国の時給1700円は、日本の1200円の1.42倍だ。だから、韓国ウォンの対ドルレートが変わらず、日本円の対ドルレートが1.42倍だけ円高になれば、両国の賃金水準は等しくなる。
そのためには、ドル円レートが、現実のレートであった1ドル=155円ではなく、109円程度であった必要がある(注)。
もし実際のドル円レートがこれより円高であれば、日本は技能工獲得競争に勝てただろう。
■2、3年前なら、こんなことにならなかった
1ドル=109円とか110円という水準は、いま考えると、とんでもない円高に思える。しかし、2022年の初めには、実際のレートはその程度の水準だった。そして、2021年には110円程度だったのだ。
だから、「昔はこんなことはなかった」というのは、まったくそのとおりなのである。1ドル=110円がわずか数年前の為替レートだったことが信じられないほど、いまの為替レートは円安になってしまった。
1ドルが160円に近づくという異常な状態からは脱却したものの、110円までの円高が簡単に進むとは思えない。
今後の為替レートは、FRBがどの程度のスピードで、どの程度の水準まで政策金利を引き下げていくかに依存する。ただ、日本が漫然とそれを待っているだけでは、110円までの円高が進むことにはならないだろう。日本の金融政策を本格的に変更することが必要だ。
(注)正確に言えば、つぎのとおり。 24年5月の実際の為替レートは、1ウォン=0・11円程度であった。だから、韓国が提示した額(1700円)は、現地価格では1万5454ウォンだったことになる。
仮に、このときの為替レートがもっと円高で、1ウォン=x円なら、1万5454ウォンが1200円に換算されるとする。つまり、15454x=1200。これを解くと、x=0・0776円となる。つまり、円が1・417倍ほど円高であればよい。 対ウォンでは感覚的につかみにくいと思う人が多いかもしれないので、対ドルレートで言えば、1ドル=155円ではなく、109円程度であれば、日本は負けなかったことになる。
■円安は、製造業にとって望ましいわけではない
一般に、円安になると製造業の利益は増大する。だから、製造業は円安を歓迎する傾向がある。右に述べた「日韓人材獲得競争」は、そうした状況が、根本的に大きく変わっていることを意味するのだ。
円安が進むことによって、日本が必要な労働力を確保できなくなり、そのために国際競争から脱落してしまうという危険が、現実の問題として生じているのである。
製造業は、「円安になればよい」という安易な考えを改め、為替レートが製造業にいかなる影響を与えるかについて、もっと真剣に考える必要がある。
人材獲得競争に影響するのは、賃金の水準だけではない。もう一つの重要な要素として、永住権を得られるかどうかという問題がある。
途上国からの技能労働者の多くは、単に出稼ぎ労働をしようと考えているのではない。家族を帯同して一緒に生活したいと考えているし、できれば永住権を獲得して移住したいと考えている。
日本にも、「特定技能制度」がある。一定の条件の下で、家族帯同が認められるし、永住権の申請もできる。造船業は、この制度の対象とされている。ただし日本の制度の要件はかなり厳しく、この点でも日本は韓国に比べて見劣りがする。
だから本当は、賃金が同水準になるだけでは十分ではない。もっと高い賃金を日本がオファーできなければならないのだ。
■特定技能制度だけでは十分ではない
国際的な人材獲得競争は、いうまでもなく、造船業に限った問題ではない。さまざまな分野で同様の問題が生じている。前項で述べた特定技能制度は、この問題に対処するために作られたものだ。
ただし、この制度がうまく機能するためには、日本の賃金が高くなければならない。賃金が競争相手国より低いのでは、どんな制度を作っても人材獲得は困難だ。
日本国内での賃上げだけでなく、為替レートを円高に導くことによって、国際的な面での日本の魅力を増していくことがどうしても必要とされる。 これまで多くの日本人は、日本が認めさえすれば、外国から労働力はいくらでも獲得できると考えていた。確かに、ある時点まではそうだった。
しかし、韓国をはじめとして近隣国の所得が著しいスピードで上昇しているため、もはや日本が求めても外国人労働者が日本に来てくれないという状態になっているのである。
そして、円安の進行が、それに拍車をかけた。本章の冒頭で述べた造船技能工の問題は、こうした状況を象徴するものだ。
現在の日本で、人手不足が最も深刻な分野は、介護だ。介護を受けたくても人手が足りないという事態が、すでに現実の問題になっている。
この分野においても、外国人労働者が強力な支援になる。しかし、これまで述べてきたのと同じ問題がある。
しかも介護の場合には、人材を求めている日本の競争相手国が、造船業の場合よりはるかに多い。造船業の技能工を求めている国はそれほど多くはないが、介護人材が必要というのは、どの先進国でも同じだからだ。したがって、国際的な競争は造船業の場合より厳しいと考えるべきだろう。
従来はフィリピンから日本に来ていた介護労働者が、最近の円安のために日本に来なくなり、オーストラリアに向かっているとの報道もある。円安状態から脱却できなければ、この傾向はさらに加速してしまうだろう。
■いまや韓国や台湾は日本より豊かな国
日本が提示できる時給が韓国より低くなってしまうのは、韓国が日本より豊かな国になったからだ。
国の豊かさを示す指標としてしばしば使われるのは、一人当たりGDPだ。
2000年においては、一人当たりGDPで見て、日本はアメリカより豊かな国だった。
韓国や台湾に比べると、3倍、あるいはそれ以上に豊かな国だった。
しかしその後、日本の一人当たりGDPは停滞を続けた。2010年から11年頃の円高期に再びアメリカに近づいたが、それ以降は、日本のドル換算の一人当たりGDPは下落した。そして、2022年以降の円安の影響でさらに下落した。いまや、日本の一人当たりGDPはアメリカの4割以下でしかない。
韓国や台湾の一人当たりGDPも顕著な上昇を示し、2022年頃には日本とほとんど同レベルになった。そして、2024年においては、韓国と台湾の一人当たりGDPは日本を抜いた。
なお、以上の変化は、為替レートの変化だけで生じたものではない。自国通貨建てで見ても、日本の一人当たりGDPの成長率は低い。それに円安の影響が加わって、このような事態になってしまっているのだ。
野口 悠紀雄 :一橋大学名誉教授
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