( 290186 )  2025/05/11 06:35:59  
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Photo:Bloomberg/gettyimages 

 

 トランプ関税を「課される側」の日本が受けるのは、典型的な負の需要ショックである。今、日本経済に求められているのは、利下げによる金融緩和で円安を促し、財政出動によって物価と景気を下支えする戦略だ。だが、トランプ関税という非常事態でも、日銀は利上げ姿勢を崩していない。日銀が利下げに転換せず機会主義的な姿勢に終始すれば、「賃金と物価の好循環」が失速し、かつての慢性デフレに逆戻りしかねない。(ナウキャスト創業者・取締役、東京大学名誉教授 渡辺 努) 

 

● 賃金・物価の好循環は終わるのか 

 

 トランプ関税を巡る日本政府、日本銀行の政策論議が迷走気味だ。 

 

 もっとも、大統領本人の姿勢が一貫せず、何をしでかすか分からない以上、混乱が生じるのも致し方ないのかもしれないが、それでも目に余る。パンデミック初期に見られた政策対応の迷走を想起させるほどだ。 

 

 本稿の目的は、「賃金と物価の好循環」という視点から、議論を整理することである。日本の賃金と物価は、2022年春から正常化へと向かい、今春闘でも高い賃上げが見込まれている。岸田・石破両政権が中核的なスローガンとして掲げてきた「好循環」の定着がようやく見えてきたところだった。しかし、関税ショックはその流れを一変させた。 

 

 こうした中で、日銀の植田和男総裁は5月1日の会見で、「好循環」がいったん足踏み状態に入るとの見解を示した。市場関係者やエコノミストの間では、「好循環はこれで終わった」という厳しい見方も浮上している。 

 

 以下では、トランプ関税はどのような仕組みで「好循環」を妨げるのかを整理した上で、「好循環」を維持するにはどのような政策対応が必要かを考える。 

 

● 関税がマクロ経済に及ぼす影響 

 

 関税ショックがマクロ経済に及ぼす影響を整理するところから始めよう。高関税を課す国と課される国では影響が大きく異なる(図1を参照)。 

 

 まず関税を課す国(例えば米国)では、輸入品の国内価格が高くなるので、消費者や企業は国内品や、関税のかからない第三国からの輸入品への代替を迫られることになる。例えば、ある企業が中間投入として使用していた自動車部品に高関税が課され、やむなく国内品への代替を余儀なくされるといったケースが想定される。 

 

 当然ながら、こうした国内品は、生産効率やコスト競争力において輸入品に劣っている。だからこそ、これまで輸入品に市場を奪われてきたのである。 

 

 このように、生産効率で劣後する部品への切り替えがさまざまな品目について起きると、経済の資源配分効率が悪化し、その結果、マクロの生産性が悪化する。それに伴い限界費用が上昇するので、総供給曲線は上にシフトする(図1の左図を参照)。新しい均衡では、国内価格は上がり、国内生産(実質GDP)は低下する。まさにこれが、米国で今起きている、あるいは今後起きると予想されていることだ。 

 

 一方、高関税を課される国の事情は大きく異なる。日本は報復関税を実施しない方針とされているので、課される国の典型例だ。 

 

 課される国では、国内生産の資源配分効率に直接的な影響はないので総供給曲線は不変だ。一方、関税によって輸出が減るので、総需要曲線が左にシフトする(図1の右図を参照)。その結果、新たな均衡においては、国内物価と国内生産(実質GDP)のいずれも低下することになる。 

 

 

● 実質GDPとCPIへのインパクト 

 

 では、日本の物価と生産への影響は量的にはどの程度なのか。参考になるのが、IMF(国際通貨基金)の予測である。 

 

 図2の左図は日本の実質GDP成長率の予想であり、トランプ関税発表後の25年4月時点での予想(赤線)を、24年10月時点での予想(青線)と対比して示している。2025暦年については、前回予想との対比で0.5%ポイントの下振れ、26年は0.2%ポイントの下振れとなっており、大幅な落ち込みが見込まれている。 

 

 25年4月時点の予想には重要な特徴がある。 

 

 第一に、成長率が低下するとされているものの、その水準は25年も26年も0.6%にとどまっており、日本の潜在成長率と同程度である。したがって、産出量ギャップは悪化するとはいえ、その度合いは限定的とみられる。 

 

 第二に、成長率は25年と26年に鈍化するものの、27年以降は前回予想の軌道に戻る見通しとなっている。つまり、IMFは関税ショックの影響を一過性とみている。ただし、27年に何が起きるのかについては、現時点で確たる自信を持って語れる者はいない。大きな不確実性があるのは事実だが、それでも現時点における最善の予想としては、成長率の鈍化は2年程度で終了するということだろう。 

 

 成長率がこのように鈍化する中で産出量ギャップが悪化する結果、CPI(消費者物価指数)のインフレ率も下振れが見込まれている(図2の右図)。25年は足元の実績値が強いことを反映して前回予想より改善となるものの、26年は大幅な下方修正で、日銀が掲げる2%を下回る1.7%まで低下すると見込まれている。 

 

 ただし、成長率と同じく、インフレ率の低下も一過性で、27年には目標値である2%へと回復し、それ以降はその水準を維持すると見込まれている。 

 

● 財政政策と金融政策のポリシーミックス 

 

 以上を整理すると、日本でこれから起きることは総需要曲線の下方シフトであり、しかも、その下方シフトが続くのは約2年である。つまり、典型的な負の需要ショック、しかも持続期間がさほどではない需要ショックである。 

 

 であれば、処方箋は明らかである。総需要の刺激だ。その手段としては、政府による歳出拡大や減税といった財政政策、そして日銀による金融緩和が有力な選択肢となる。 

 

 ここからは、財政政策と金融政策の両方の対応を検討するが、その前に両者をどのように組み合わせるか、つまりポリシーミックスについて整理しておきたい。 

 

 財政にせよ金融にせよ、総需要刺激がGDPと物価に及ぼす影響は同じであり、いずれも上振れ要因だ。しかし、為替レートへの影響は対照的である。金融緩和による総需要刺激は金利を下げるので、自国通貨を減価(円安)させる。一方、財政出動による総需要刺激は金利を上げるので、自国通貨を増価(円高)させる。 

 

 総需要曲線が左にシフトした理由は高関税だ。円安は、ショックの源泉である高関税の効果を一部消し、それによって総需要曲線のシフトそのものを小幅にする。ショックの火種を消火するという意味で円安は望ましい。これに対して円高は高関税の効果を増幅させ、総需要曲線のシフトをさらに大きくする。 

 

 このことを踏まえると、総需要刺激策を財政と金融の両面から講じるとしても、為替への影響を考慮すれば、相対的に金融緩和により重点を置くべきということになる。 

 

 ただし、トランプ大統領は自国通貨安(ドル安)を望んでいると伝えられており、日本が円安に向かうとすれば抵抗するかもしれない。その点は対米交渉では重要かもしれないが、少なくとも日本側のロジックに基づけば、高関税が課されている期間は金融緩和に重点を置き、円安を志向すべきである。 

 

 

● 日銀は利下げに向かうべき 

 

 ここからは、金融政策と財政政策のそれぞれについて、詳しく検討していきたい。 

 

 まず金融政策だが、日銀は5月2日に公表した「経済・物価情勢の展望(展望レポート)」において、26年度のCPIインフレ率(コアCPI)の見通しを1.7%へと下振れさせ、目標である2%を下回るとの見通しを示した。ただし、27年度には再び2%近傍(1.9%)に戻るとしており、IMFと同じく、関税ショックは一過性との見方を示している。 

 

 26年度のインフレ率が2%を下回るのはなぜなのか。次のようなメカニズムが考えられる。 

 

 まず、関税ショックによって輸出が減少し、貯蓄投資バランスが崩れる(貯蓄超過)。そして、その解消のために自然利子率(完全雇用の下で貯蓄と投資を一致させる実質の金利水準)が低下する。 

 

 一方、実質利子率(日銀の政策で決まる名目利子率からインフレ予想を差し引いたもの)は、日銀がしばしば指摘するように、現時点で低く、26年度も低い。しかし、26年度は、関税ショックによって自然利子率が低下する結果、実質利子率が自然利子率との対比で高過ぎる状況、すなわち意図せざる金融引き締めという状況が生じてしまう。そのため、インフレ率が2%の目標値を下回るのである。 

 

 日銀が昨年3月以降に進めてきた利上げのロジックは、実質利子率が自然利子率に比べて低過ぎるので、その差を縮める調整が必要というものだった。 

 

 しかし、26年度はそのロジックがもはや通用しない。関税ショックによって自然利子率が低下し、実質利子率が相対的に高くなるからだ。したがって、日銀はむしろ利下げによって、意図せざる金融引き締めという状況を解消する必要がある。 

 

 では、日銀に利下げの余地はどの程度残されているのか。 

 

 現在の政策金利は0.5%であり、利下げの余地が十分にあるとは言い難い。しかし、それでも今後2回程度の利下げは可能だ。これは昨年春以降、3度にわたって実施された利上げの成果だ。今後、関税ショックの影響が深刻化するとみられる25年度後半から26年度にかけて、GDP成長率とCPIインフレ率の実績値を見極めながら、段階的な利下げに踏み切る選択肢が現実味を帯びている。 

 

 もちろん0.5%の利下げでは足りない可能性もある。その場合は、量的緩和やマイナス金利といった、非伝統的な金融政策手法に頼らざるを得ない。 

 

 幸いにも、日銀はこれらの非伝統的手法について、失敗も含め多くの経験をしてきており、定量的な知見も豊富に蓄積されている。 

 

 例えば、昨年末に日銀が公表した「金融政策の多角的レビュー」は200ページを超える大部であり、そこには日銀の誇るリサーチ部隊の俊英たちが全力で取り組んだ知見と分析が凝縮されている。 

 

 筆者の理解では、非伝統的手法で日銀が犯した失敗の多くは、低過ぎるインフレ予想を、政策的に無理やり引き上げようとしたことに起因している。 

 

 しかし現時点では、家計や企業のインフレ予想はかなり高まっており、当時とは事情がまったく異なる。前回のような無理筋の政策対応は不要なので、着実な効果が期待できる。 

 

 

● 日銀は機会主義から決別を 

 

 日銀は、昨年3月以降の利上げ局面において、自ら積極的に動くことでインフレ率を引き上げ、それによって利上げの環境を整えるということはしてこなかった。むしろ、インフレ率が外生的な要因で上がるのを静観し、インフレが訪れると間髪入れずに利上げに踏み切るという、いわば機会主義的な戦略を取ってきた(日銀の機会主義については、『植田日銀の利上げ手法が「日銀への信認」を揺るがしかねない理由』を参照)。 

 

 5月1日の植田総裁の記者会見を見る限り、日銀は今回の局面でも、外生的な力によってインフレ率が2%に戻ってくるのをじっと待つ作戦を取ろうとしており、これまでと同様、機会主義的だ。 

 

 しかし、今必要とされているのは「待つ」ことではない。日銀自らが積極的に行動し、利下げによってインフレ率を引き上げるべき局面だ。ここで日銀が利下げをためらえば、「好循環」の勢いが失速し、かつての慢性デフレに逆戻りするリスクが高まる。そのような事態は何としても回避しなければならない。 

 

● 財政はインフレ税の活用を 

 

 筆者は、3月10日に開催された経済財政諮問会議において、「好循環」が実現すれば、これまでのインフレ率ゼロ%の経済から2%の経済へと移行することになり、その際に恩恵を受けるのは債務者であると指摘した。中でも、日本で最大の債務者である政府は、約180兆円の利得、いわゆるインフレ税を手にすることになる(試算の根拠は「賃金・物価・金利の正常化:2040年までの展望」、SBI金融経済研究所所報、2025年2月を参照)。 

 

 ただし、「180兆円も儲かるのだから、その分を大盤振る舞いしてよい」といった趣旨を政治家たちに伝えたかったのではない。財政が厳しい状況にあることは紛れもない事実であり、大盤振る舞いの余裕はない。 

 

 筆者が強調したかったのは、180兆円というのは、インフレ率ゼロ%から2%への移行が実現した場合にのみ得られる利得であり、もし移行に失敗すれば“捕らぬたぬき”に終わってしまうということだ。したがって、2%経済への移行を確実にするために必要な財政措置があるのだとすれば、その実行を躊躇すべきでない。これが政治家たちに向けた提言だった。今回のような大規模な関税ショックは筆者にとって想定外であり、この提言も関税ショックを念頭においてのものではなかった。あくまで一般論として、今後万一のことが起きた場合には財政措置が必要になる、という程度の提言だった。 

 

 しかし、提言からわずか1カ月もたたないうちに、残念ながら「万一のこと」が起き、2%経済への移行が危うくなる事態となっている。今こそ、躊躇のない財政措置が必要だ。 

 

 その際に、決して忘れてはいけない要諦がある。それは、日本に必要なのは、賃金と物価の「引き上げ」であるということだ。物価の上昇が先行し、賃上げが追いつかない状況では、物価の上昇を抑え込もうという方向に議論が向かいがちになる。しかし進むべきはそちらではなく、一層の賃上げだ。 

 

 物価は市場メカニズムに委ねる。その一方で政策の力で賃上げを加速させ、物価上昇に負けない経済構造を創出する。これが進むべき方向だ。 

 

 選挙目当ての近視眼的な施策ではなく、中長期の視点に立った、建設的な政策論議を期待したい。 

 

渡辺 努 

 

 

 
 

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