( 297728 )  2025/06/09 05:43:52  
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※写真はイメージです(写真: マハロ / PIXTA) 

 

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか?  自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 

今回は3浪して東京大学理科3類に進んだ後に退学。その後、学習院大学に進学・卒業後、東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻に進み、博士課程を2年で退学。現在は教育者・哲学者・作家として活躍している大竹稽(おおたけ けい)さんにお話を伺いました。 

 

■3浪で合格した東京大学理科3類を退学 

 

 今回お話を伺った大竹さんは、3浪で東京大学理科3類に進まれた方です。 

 

 医師になりたいと考えた大竹さんは、1浪目で名古屋大学医学部に合格、2浪目では慶応義塾大学医学部に合格したものの、諦めきれずに東大の理科3類を受け続けます。 

 

 しかし、3浪の末に合格して進んだ東大の理科3類も退学した彼は、驚きの選択をします。 

 

 なぜ別の大学に入学しても、3浪してまで東京大学理科3類にこだわったのか。 

 

 3浪して入った東京大学理科3類をやめようと思った理由はなんだったのか。詳しくお話を伺いました。 

 

 大竹さんは1970年3月、愛知県の蒲郡市に、公務員の父親と主婦の母親のもとに生まれました。 

 

小さいころの大竹さんは、本を読んだり、山の中に入って遊ぶのが好きな子どもだったそうです。 

 

「父方は農業の家系で、母の血筋はみな教育者の家系でした。私はそれをどちらも受け継いでいて、本を読むのが好きでしたし、山や田んぼでメダカやトンボ、クワガタを捕まえるのも好きでした。友達はそんなにいなかったのですが、自然と本が友達という感じでした」 

 

 

 読みきれないまでも、小学生のときには西洋の文学作品や、『古事記』なども読んでいたと語る大竹さんは、小学校のときのテストは満点以外を取ったことがありませんでした。 

 

 中学校に入ってからも優等生ぶりは変わらず、テストはほぼ満点で成績もずっと1位。成績をキープしたまま高校受験に臨んだ大竹さんは、県有数の進学校、愛知県立旭丘高等学校の普通科に無事進学しました。 

 

■叔父の死をきっかけに医学部目指す 

 

 「高校に入っても1番を取れるだろう」と思っていた大竹さん。 

 

 しかし、ここで初めて1番以外の点数を取るようになり、「350〜400人ほどの同級生の中で3年間、ずっと10位前後だった」と語ります。 

 

「高校に入ってからは満点が取れなくなってきました。中学時代は90点が自分にとっての失敗だという気持ちだったのですが、高校に入ってからは60〜70点も取るようになったのはショックでしたね。もともと、私の勉強法は授業で言われたことを後回しにせず、その場で全部吸収して次に進むスタイルだったのですが、高校で出される課題が多すぎて手に負えず、だんだんできなくなりました」 

 

 最初から理系に進もうと決めていたため、必修の文系科目に力を入れず、0点を意図的に取ったこともある大竹さん。そんな当時の彼の夢は、医者になること。そのきっかけは、叔父が癌で早逝したことが大きかったようです。 

 

「それまでは虫をはじめとする動物の研究職に就こうと思っていましたが、叔父が亡くなってからは、癌を世の中からなくすようなことができればいいと考え、研究医になろうと思いました。そこで東京に行きたかったこともあって、東京大学の理科3類を志望するようになりました」 

 

 現役のときは模試で理科3類のE判定しか取ったことがなかった大竹さん。共通一次試験(現:共通テスト)で800点中720点という結果を見て、この年は理3の受験を断念します。さらには志望学部を変えて受験した東大の理科2類も落ちて、浪人が決定しました。 

 

 大竹さんに浪人を決意した理由を聞いたところ、「医学部に入りたいから」と答えてくれました。 

 

 1浪目は駿台予備学校に在籍し、授業は取らずに自習室だけを使用していた大竹さん。朝起きたら予備校の自習室に行き、自分の体調と相談しつつ、夕方まで勉強をするか、途中で周辺を散策しにいくかを決めていたそうです。 

 

 

「河合塾と代々木ゼミナールにも在籍者として名前だけ置いていたのですが、自習室は駿台ばかり使っていました。なぜなら名古屋城の堀が近くて、そこまで歩いていってアヒルや白鳥と過ごす時間が好きだったからです。喫茶店や雀荘、近くの円頓寺商店街にもよく行きましたね。散策する日は、予備校の自習室に戻ってから1日のまとめをして帰る生活をしていたので、勉強時間は5〜10時間くらいだったと思います」 

 

■成績がぐんぐん上昇した 

 

 自然が好きな大竹さんらしいリフレッシュ方法は、成績にも表れます。 

 

 河合塾・駿台・代々木ゼミナールの受けられる模試をすべて受けていた大竹さんの判定は、この年でグッと上がり、理科3類でもB〜A判定が取れるようになりました。 

 

「これなら、もうこれ以上上げなくてもいいだろうってところまで成績が上がりました」と語る大竹さんは、この年に受けた最後の共通一次試験では国語の小説の1問ミスだけだったそうです。 

 

 この年は800点中790超えという結果を受け、東大理3と後期試験で受けた名古屋大学の医学部、慶応の医学部に出願。しかし、東大理3と慶応医学部には合格できず、唯一合格した名古屋大学の医学部に進学しました。 

 

 名古屋大学医学部に合格した大竹さんは大学に進学こそするものの、理3に合格したかったためにすぐに仮面浪人を決めます。大学に籍だけを置き、同じように籍を置いていた駿台で前年と同じような生活を続けました。 

 

 模試の判定は前年・前々年と変わらず、第1回試行であったセンター試験の結果もまたしても小説の1問ミス止まり。 

 

 それでも理3には届かず、併願していた慶応の医学部に合格し、入学しました。 

 

■慶応に入学も「ここは自分がいる場所じゃない」 

 

 2浪で入った慶応義塾大学の医学部には半年間は通いましたが、「自分がいる場所ではない」と感じていたことで、もう一度だけ理3を受けてみようと思ったそうです。 

 

「あまりにも慶応の同級生と世界観が違ったんです。普通の家庭が買えない車に乗っていますし、行動の1つ1つを見ていて庶民じゃないなと感じました。それでいて、彼らは『マウントを取る』ようなこともせず、何の見返りも求めずにご飯を奢ってくれたりしました。彼らはきっと自分が恵まれていることがわかっているんでしょう。あまりにも人柄がよすぎたんです。それでもう一度だけやってみて、ダメなら慶応に戻ろうと思い、ラストチャレンジのつもりで理3を受験しました」 

 

 

 3浪目の受験生活も2浪目までと同じような生活を続け、成績も判定も安定していました。そしてこの年のセンター試験の結果も、小説の1問ミスのみだった大竹さん。前年・前々年と非常に高い点数を取り続けたにも関わらず、理3に落ち続けた彼は、今まで落ちた理由を「運」と振り返ります。 

 

 「1浪目以降、理3に合格できるかは運次第でした。そのときに出た問題ができるかできないかにかかっていましたね。たとえば私は数学の確率の問題が苦手で、これがセンター試験のレベルでも解けませんでした。センター試験では(確率か、違う分野で選べる)選択問題だったため回避することもできたのですが、東大で出たら1問ミスが確定でした」 

 

 こうして臨んだ3回目の理3受験でしたが、残念ながらこの年も数学で確率が出題されました。しかし、幸いそれ以外の問題はすべて解くことができ、6問中5問を完答することができました。 

 

 こうして、ついに大竹さんは、目標であった東京大学理科3類に合格することができました。 

 

 3浪の末、悲願であった東大理3に合格した大竹さん。 

 

 浪人してよかったことを聞くと「多浪を経験したということで興味を持ってくれる人がいること」「浪人生へのアドバイスができること」と答えてくれました。 

 

 「私は現役で大学に行ったわけではないので、同じことを繰り返す人生を数年間送ったわけです。でも、その後の人生で、『愉快な人生を歩んでいる人だ』と思ってくれる人と会えて、それでご縁が広がったりしているのはありがたいことだと思います。浪人している人の気持ちにも配慮できるようになれたのもよかったですね。今、浪人している方に伝えたいのは、『絶対に早寝早起きをすること』ですね」 

 

 東京大学理科3類に進んでからの大竹さんは、「恋愛と文学にのめり込む生活を送った」という2年の留年を経て、進学振り分けで医学部に進むことが決まります。ようやく夢であった医師への道が見えてきた段階で、大竹さんは大切な人の死に直面し、そのショックから理科3類を退学します。 

 

 

 
 

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